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宮本武蔵と植芝盛平 2004年4月6日更新
師範 樋口隆成

伝宮本武蔵作 「左右海鼠透鍔」 
島田美術館蔵
 宮本武蔵が書き残した「五輪書」からは、武蔵が実践的求道によって得た、その合理性を伺うことができる。
 五輪書は地、水、火、風、空の巻の五巻からなり、地の巻は総論、水の巻は二天一流について、火の巻は勝負論、風の巻は他流のこと、空の巻は結論がそれぞれ述べられている。
 特に、地の巻きの書き出しについては「五輪書の序にあたるくだり“兵法の道二天一流と号し云々から、寅の一天に筆を把りて書き始むる”に至るあたりも文章の格調の高さ、文体のしまって簡潔な表現力はまことに見事である」と著名な小説家も絶賛している。
 植芝盛平は日本古来の武術を遍歴会得し、更に精神的修行を加えて合気道を編み出す。盛平は著書「武道練習」に自ら得た武道奥義を歌に詠んだ。
 武道練習には三十八首の歌が収められ、技法真髄として立業(正面、横面、肩、胸元取り、手頚を掴む事)、後業、後襟の解説と、座り業、半身半立、立業の百六十六技が図説で書かれている。
 その書き出しは「武は神の御姿御心より出で真善美なる我建国の一大精神なり」と武産合気の精神を説く。
  武蔵の「五輪書」と盛平の「道歌」は、私たちに何を語りかけ伝えるのであろうか。その共通性を探ってみたい。

[道歌]
 常々の技の稽古に心せよ一を以て万に当るぞ修業者の道
[五輪書・地の巻]
 かやうの儀今委敷(くわしく)書顕すに及ばず、一をもつて万を知べし。兵法の道おこなひ得ては、一つも見へずと云う事なし。能々(よくよく)吟味あるべき也。

 このようなことは詳しく説明するには及ばない。一事をもって万事を知らなくてはならない。兵法の道を体得すれば、何事にも通じる。よくよく研究すべきである。
 修業者は日々の稽古に心せねばならない。

[道歌]
 すさの男の玉の剣(つるぎ)は世にいでて東(あずま)の空に光放てり
[五輪書・地の巻]
 太刀の徳よりして世を納(おさめ)、身を納める事なれば、太刀は兵法のおこる所也。

 太刀の徳によって世を治め、自身を治めるのであるから、太刀は兵法の創まりである。
 建速須佐男之命(たてはやすさのおのみこと)の天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は東天に輝く陽の光の如く、破邪顕正の働きを放つのである。

[道歌]
 教(おしえ)には打ち突く拍子さとく聞け極意のけいこ表なりけり
[五輪書・地の巻]
 兵法の拍子におゐて様々有事也。先あふ拍子をしつて、ちがふ拍子をわきまへ、大小遅速の拍子の中にも、あたる拍子をしり、間の拍子をしる事、兵法の専也。此そむく拍子わきまへ得ずしては、兵法たしかならざる事也。

 兵法の拍子にはいろいろある。どの拍子が合って、どの拍子が合わないかを知り、大小、遅速の拍子の中に合う拍子を知る。間合いを知ることが兵法の大切なところである。また、逆の拍子を知らなくては、兵法は確たるものにならない。
 武道の教えには拍子というものを知ることが大切である。特に、相手の拍子を知った上で勝ちを得なくてはならない。これが極意である。 



宮本武蔵と植芝盛平(2) 2004年5月4日更新

 五輪書・水の巻は「兵法二天一流の心、水を本として、利方の法をおこなふによつて水の巻として、一流の太刀筋、此書に書き顕すもの也」の書き出しに始まる。
 二天一流の心は、水を手本として、勝利の道を得るものであるから、これを水の巻として、その太刀筋を、ここに書き表すものである。
 水は方円の器に従い、一滴の水が大海となる。その藍い、清く澄んだ心を以て二天一流の心とすると説き、武蔵の生涯にわたる鍛錬と実戦から得た、二天一流の太刀筋が具体的に示される。

[道歌]
 まよひなば悪しき道にも入りぬべし心の駒に手綱ゆるすな
[五輪書・水の巻]
 此道にかぎつて、少なり共、道を見ちがへ、道のまよひありては、悪道へ落るもの也。

 兵法は、少しでも道を見違えたり、道に迷いがあると、大きく踏み外してしまうものである。
 心に迷いが生じると間違った方向に進んでしまう。心は駒(馬)のように駆け回るものだから、道を誤らぬように、よくよく心を引き締めることが肝要である。

[道歌]
 つるぎ技筆や口にはつくされず言(こと)ぶれせずに悟り行へ
[五輪書・水の巻]
 此書付ばかりを見て、兵法の道には及事にあらず。此書にかき付たる我身にとつて、書付を見るとおもわず、ならふとおもはず、にせ物にせずして、則我心より見出したる利にして、常に其身になつて、能々工夫すべし。

 この書物を読んだだけでは、兵法に通じることはできない。この書物に書かれていることを自分自身のものとし、書物をただ読むとか、真似るとか、いい加減な解釈をせず、自分自身が発見した理(ことわり)とするように、常に修業を怠らず、よく研究するように。
 合気の剣(つるぎ)技は、紙に書いたり口に言い表すことは到底できるものではない。言葉にとらわれず、自らの修行により悟りを開かねばならない。

[道歌]
 合気とは解けばむつかし道なれどありのままなる天のめぐりよ
[五輪書・水の巻]
 兵法の道におゐて、心の持やうは、常の心に替る事なかれ。常にも、兵法の時にも、少もかはらずして、心を広く直にして、きつくひつぱらず、少もたるまず、心のかたよらぬやうに、心をまん中におきて、心を静にゆるがせて、其ゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬやうに、能々吟味すべし。

 兵法の道においては、心の持ち方は、平常の時と変わってはならない。平常の時にも、戦いの場においても、少しも変わることなく、心を広く真っ直ぐにして、緊張せず、気を緩めず、心の偏らないようにして、心を真ん中に置いて、心を静かにゆり動かして、一瞬たりとも止まらないように、よくよく気をつけることである。
 合気をやさしく解くのは難しいことなのだが、ありのままを、あるがままに見つめる。神とともにあること、それを惟神(かんながら)の道という。



宮本武蔵と植芝盛平(3) 2004年7月3日更新

 植芝盛平は伝書「秘伝目録」の巻頭に記す。
一、相手に対し心と心を結び速かに和合し右手を以て相手の頭上又顔を打突く事。
一、相手の応じたる右肘を左にて上げ右にて相手の手首を右返しふみ込み倒すこと。
   来る者は迎へ二八十なりの和を忘るべからず。

 盛平は、合気は相手との拍子を合わせ、心と心を結ぶ和合の精神を忘れてはならないと強調する。

[道歌]
 敵下段同じ構への中段に上り下りに移りかむるな
[五輪書・水の巻]
 目の付けやうは、大キに広く付る目也。観見二ツの事、観の目つよく、見の目よはく、遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る事兵法の専也。敵の太刀をしり、聊(いささかも)敵の太刀を見ずと云事、兵法の大事也。工夫有るべし。

 戦いの場においての目付けは、大きく広く目配りするのである。観と見という二つの見方がある。敵の本質を見極めること(観の目)を第一とし、敵の表面的な動きを把握すること(見の目)は二の次とせよ。離れたところの様子を具体的に把握し、近いところに捉われずに、その本質を見極めることが肝心である。敵の太刀筋を知り、敵の表面の動きに惑わされないことが肝要である。よく研究すること。
 敵の太刀が中段、下段と、上り下りしようとも、その動きに心を捉われてはいけない。

[道歌]
 ふりまはす太刀に目付けて何かせむ拳(こぶし)は人の切るところたれ
[五輪書・水の巻]
 敵をきるものなりとおもひて太刀をとるべし。敵をきる時も手のうちにかわりなく、手のすくまざるやうに持べし。もし敵の太刀をはる事、うくる事、おさゆる事ありとも、大ゆびひとさしゆびばかりを、少替る心にして、とにも角にもきるとおもいて、太刀をとるべし。

 太刀をとる時には、敵を斬る心で立ち向かわなくてはいけない。敵を斬る時も、手の内が変わることのないように、手がすくまないように持つこと。もし敵の太刀を打ったり、受けたり、押えたりしても、親指と人差し指の調子を少し変えるくらいで、何よりも敵を斬るつもりで太刀を持たねばならない。
 敵の太刀の動きに捉われてはいけない。人を斬る太刀の働きは手の内にある。

[道歌]
 あるとあれ太刀を習って何かせむ唯一筋に思ひ切るべし
[五輪書・水の巻]
 五方のかまへは、上段、中段、下段、右のわきにかまゆること、左のわきにかまゆること、是五方也。構五ツにわかつといえども、皆人をきらん為也。構五ツより外はなし。いずれのかまへなりとも、かまゆるとおもはず、きる事なりとおもふべし。

 五つの構えとは、上段、中段、下段、右の脇、左の脇に構えることをいう。この五つの構えがあるといえども、総て人を斬るためにある。構えはこの五つより他にはない。どの構えをとっても、構えに捉われることなく、ただ敵を斬ることだけを考えること。
 合気においても天、地、赤、白、空の構えがある。天狐は八相、地狐は脇、赤狐は中段、白狐は下段、空狐は上段の五狐の剣である。構えや太刀筋を修練するのではあるが、ただ斬ることだけを考えること。



宮本武蔵と植芝盛平(4) 2004年9月9日更新

 植芝盛平は伝書「秘伝目録」に記す。
一、身魂に宇宙の真気を呼吸し気海丹田に鎮め相手と合気和して電撃雷飛の光の如く気を以て打突く事。
一、九九の十なる和の勝速の理に依り左にて相手の肘を押へ右手にて相手の右手首を掴み右に引倒す事。

 盛平はここでも和合の精神の大切さを説き、宇宙の気を臍下丹田に納めて呼吸し、肉体と精神の統一を計るよう教える。

[道歌]
 中段は敵の心を其(その)中にうつり調子を同じ拳(こぶし)に
[五輪書・水の巻]
 第一の構、中段、太刀さきを敵の顔へ付て、敵に行相時、敵太刀打かくる時、右へ太刀をはづして乗り、又敵打かくる時、きつさきがへしにて打、うちおとしたる太刀、其儘置、又敵の打かくる時、下より敵の手はる、是第一也。
 
 第一の構えは中段である。太刀の切先を敵の顔につけて、敵と相対する。敵が太刀を打ちかけてくる時は、太刀を右に外して抑える。また敵が打ちかけた時は、切先返しで打ち、打ちおろした太刀をそのままに置き、敵がさらに打ってくれば、下より敵の手を叩く、これが第一である。
 合気の剣においては切先を敵の喉元につける。中段に構え、敵の心をその中に捉え、拍子を合わせて、手の内で斬る。

[道歌]
 上段は敵のこころをふみ定め陰の心を陽にこそ見れ
[五輪書・水の巻]
 第二の太刀。上段に構、敵打かくる所一度に敵を打也。敵をうちはづしたる太刀、其儘おきて、又敵のうつ所を下よりすくひ上てうつ。今一ッ打も同じ事也。
 
 第二の太刀は上段に構える。敵が打ちかけてくるところを一気に打つ。敵を打ち外したときは、太刀をそのままに置き、敵が又打ちかけてくるところを下よりすくい上げて打つ。もう一度打つ場合も同じことである。
 相対する陰と陽の気、この二つの気は互いに消長を繰り返し、万物の新たな発展を生むというのが陰陽の哲理。精神は天の気で陽、肉体は地の気で陰。上段に構え、敵の太刀筋から、その心をよく見定めること。

[道歌]
 下段をば陽の心を陰に見て打突く剣を清眼と知れ
[五輪書・水の巻]
 第三の構。下段に持、ひつさげたる心にして、敵の打かくる所を下より手をはる也。手をはる所を亦敵はる。太刀を打ちおとさんとする所、をこす拍子にて、敵打たるあと、二のうでを横にきる心也。下段にて敵の打所を一度に打ちとむる事也。

 第三の太刀は下段に構える。ひっさげたような気持ちで、敵の打ちかけてきたところを下から手を打つ。手を打つところを敵はまたう打ってくる。敵が太刀を打ち落とそうとするところを、起こすように敵を打ち、二の腕を横に斬るような気持ちで斬ること。敵が打ってくるところを下段から一気に仕留めるのである。
 陰陽の二気を知る。下段に構え、敵の心を太刀筋に見定めること。清眼は中段の構えで、正眼の構えともいう。敵の打ち突く剣を中段に捉え、柄頭を臍と結ぶことが大切である。



宮本武蔵と植芝盛平(5) 2004年11月11日更新

 宮本武蔵の型に捉われることを嫌う、徹底した実用主義の剣の道。この水の巻にある「構え有りて構え無し」の言葉こそ武蔵の真骨頂といえよう。
 一方、植芝盛平は生涯を賭けての修業により愛の武道に目覚め、より精神性を高め「私は後向きに立っていればいいのだ」の境地に至る。

[道歌]
 惟神(かんながら)合気のわざを極むれば如何なる敵も襲ふすべなし
[五輪書・水の巻]
 有構無構と云は、太刀をかまゆると云事あるべき事にあらず。され共五方に置事あればかまへともなるべし。太刀は敵の縁により所により、けいきにしたがい、何れの方に置たりとも、其敵きりよきやうに持心也。上段も時に随ひ少さがる心なれば中段となり、中段を利により少あぐれば上段となる。下段もおりにふれ少あぐれば中段となる。両脇の構もくらいにより少中へ出せば、中段下段共なる心也。然によつて、構はありて構はなきと云う利也。
 
 構え有りて構え無しというのは、太刀を構えるということではない。しかし五方に太刀を置けば構えともなる。太刀は敵との関係により、場所により、状況により、どのような場合にも、敵を斬りやすいように持つのである。
 上段も場合によって少し下げれば中段となり、中段を理合に応じて少し上げれば上段となる。下段も時によって少し上げれは中段となる。両脇の構えも位置によって少し中に出せば、中段、下段となるのである。これを構え有りて構え無しという。
 合気に構えなし。構えは動きの中の一コマであると教える。神とともにある合気道が敵に破れることはない。無抵抗主義こそが合気道の理念である。

[道歌]
 すきもなくたたきつめたる敵の太刀皆打捨てて踏み込て切れ
[五輪書・水の巻]
 先太刀をとつては、いずれにしてなりとも、敵をきると云心也。若敵のきる太刀を受る、はる、あたる、ねばる、さわるなど云事あれども、みな敵をきる縁なり。心得べし。

 まず太刀をとっては、いずれにしても敵を斬るという心が大切である。もし敵が斬りかかってくる太刀を受ける、打つ、当たる、粘る、触るなどのことがあっても、それらは総て敵を斬る手段であると心得ること。
 敵の太刀を打ち落としたとしても、捉われることなく、ただ斬ることだけを考えて、隙なく間を詰め踏み込み斬ること。

[道歌]
 敵の太刀弱くなさむとおもひなばまつふみこみて切るべし
[五輪書・水の巻]
 敵を打拍子に、一拍子といひて、敵我あたるほどのくらいを得て、敵のわきまへぬうちを心に得て、我身もうごかさず、心も付ず、いかにもはやく直に打拍子也。敵の太刀、ひかん、はずさん、うたんと思心のなきうちを打拍子、是一拍子也。

 敵を打つ拍子に、一拍子といって、敵と自分が打ち合える位置に居て、敵が判断を下す前にその心を見抜き、自分の身を動かさず、心もそのままに、すばやく一気に打つ拍子である。敵が太刀を引こう、外そう、打とうと心に思うまでに打つ拍子が、一拍子である。
 敵の太刀を心に捉え一気に斬ること。



宮本武蔵と植芝盛平(6) 2005年1月2日更新

 古文書にみる宮本武蔵。杉木三之丞「渡辺幸庵対話」。
 幸庵曰く、予は柳生但馬守宗矩弟子にて、免許印可も取るなり、竹村武蔵という者あり、自己に剣術を練磨して名人也。
 武蔵事は武芸は申すに及ばず詩歌茶の湯碁将棋都(すべ)て諸芸に達す。然るに第一の疵あり。洗足行水を嫌いて一生沐浴する事なし。外へ跣(はだし)にて出、よごれ候えば是を拭せ置く也。それゆえ衣服よごれ申す故、色目を隠すためにびろうど両面の衣服を着る。夫故歴々に疎して近づかず。

 渡辺幸庵は語る。自分は柳生但馬守宗矩の弟子で、免許印可を得ている。竹村(宮本)武蔵という人物がいる。一人で剣術を練磨して名人である。
 武蔵は武術だけではなく詩歌、茶の湯、碁、将棋などの芸事に通じている。だが癖がある。足を洗うことや行水を嫌って、これまで風呂に入ったことがない。裸足で外出し、汚れれば拭くだけである。だから、衣服の汚れが目立たないようにビロード生地の服を着ている。それ故に、人々は疎んじて近づきたがらない。

[道歌]
 上段は吾も上段このままに打突く槍をくつして勝つべし
[五輪書・水の巻]
 敵も打ださんとし、我も打ださんと思ふ時、身も打身になり、心もうつ心になつて、手はいつとなく空より後ばやにつよく打事。是無念無想とて、一大事の打也。

 敵が打ち掛かかろうとし、自分も打とうと思う時に、打つ体勢をとり、心を集中して、手は極自然に勢いよく強く打つのである。これを無念無想の打ちといって、最も大切な打ちである。
 敵がどのように打ち、また槍で突いて来ようとも、無心にて打ち崩し勝ちを得なくてはならない。

[道歌]
 まが敵に切りつけさせて吾が姿後に立ちて敵を切るべし
[五輪書・水の巻]
 漆膠(しつこう)とは、入身に能付きてはなれぬ心也。敵の身に入時、かしらをもつけ、みをもつけ、足をもつけ、つよくつく所也。人毎に顔足ははやくいれども、身ののくもの也。敵の身へ我身をよくつけ、少も身のあいのなきやうにつくもの也。能々吟味有べし。

 漆(うるし)、膠(にかわ)のように、ぴったりと体を寄せて離れない入身のことである。敵に体を寄せる時には、頭も、体も、足も総てぴったりとくっ付くこと。大抵の人は顔や足は早く入れるけれども、体は退くものである。敵の体に自分の体をよくくっ付けて、少しの隙間もないようにくっ付かなくてはならない。よく研究すること。
 禍つ日の神、禍津日(まがつび)は災難や凶事をひき起こす神。禍(まが)敵が斬り込んで来た時には、入身にて敵を斬る。「喰入り、喰込み、喰止ること」は口伝。

[道歌]
 太刀ふるひ前にあるかと襲ひ来る敵の後に吾は立ちけり
[五輪書・水の巻]
 秋こうの身とは、手を出さぬ心なり。敵へ入身に、少も手を出す心なく、敵打前、身をはやく入心也。手を出さんと思へば、必身の遠のくものになるによつて、惣身をはやくうつり入心也。手にてうけ合するほどの間には、身も入やすきもの也。能々吟味すべし。

 秋こうの身とは、手を出さないという心構えである。敵と対して入身に入ろうとする時、少しも手を出す心を持たず、敵が打ってくる前に、体を早く寄せ間を詰める。手を出そうと思うと、必ず体は遠のいてしまうものだから、全身を早く移し入ること。互いの手が届くほどの距離であれば、体も入りやすいものである。よく研究すること。
 敵が打ち込んで来た時には、既に敵の後ろに立っているのである。針谷夕雲は無住心剣の相抜け。究極の入身である。

 剣聖上泉伊勢守の孫弟子にあたる針谷夕雲(1662年没、享年70歳余)は新陰流を小笠原玄信に学び、真剣試合52度におよぶが敗れたることなし。参禅して50歳で”無住心剣”流を開いたといわれる。剣の極意とされる相打ちをも畜生心、畜生兵法といい「両方立向って平気にて相争うものなき」が相抜けであると伝える。それを”瞬間的行動を通じての和の芸術”の至境と解する禅者もいる。
 そして、門人2800人のうち無住心剣の境地にあった者は僅かに4人に過ぎないと記す。針谷夕雲の跡を継いだ小出切一雲もその一人。
(小出切一雲「 無住心剣術書」/ 川村秀東「無住心剣術三代之伝法辞足為経法」参照)



宮本武蔵と植芝盛平(7) 2005年3月20日更新

 宮本武蔵の自画像がある。
 髪は結わず総髪にし、白羽二重らしい着物にビロウドの袖なし羽織を着て、大小の刀を両の手にさげて右半身に立っている。右手に持つ大刀は、反りが少なく細身で切先が尖っている。左手の小刀も細身で物打ちから僅かに反りがある。いずれも鍔は小さい。やはり、刀を片手で扱うにはこのような姿の刀身になるのであろう。そして、裸足である。眼光鋭く凄まじい面体で、なるほど、武蔵はこんな人物だったろうと思わさせずにはおかれない迫力のある容姿である。

[道歌]
 呼びさます一人の敵も心せよ多勢の敵は前後左右に
[五輪書・水の巻]
 多敵のくらいと云は、一身にして大勢とたたかふ時の事也。我刀わきざしをぬきて、左右へひろく、太刀を横に捨ててかまゆる也。敵は四方よりかかるとも、一方へおいまはす心也。敵かかるくらい前後を見わけて、先へすすむものにはやくゆきあう。

 多敵の位というのは、一人で大勢と戦う時のことをいう。刀と脇差を抜いて、左右へ広く、横に広げて構えるのである。敵が四方より掛かってきても、一方へ追い回す気持ちで戦う。敵が掛かってくるのを、前後をよく見分けて、先に掛かってくるものと戦うこと。
 合気道では多人数掛けという。多人数の敵と対するときは四方八方に気を配り、出てくる一人の敵と戦うこと。  

[道歌]
 左右をば切るも払ふも打捨てて人のこころはすぐに馳せ行け
[五輪書・水の巻]
 大きに目をつけて、敵打出すくらいを得て、右の太刀も左の太刀も一度にふりちがへて、待事悪し。はやく両脇のくらいにかまへ、敵の出たる所をつよくきりこみ、おつくづして、其儘又敵の出たる方へかかり、ふりくづす心也。

 広く目配りして、敵が打ち掛かってくるのを、左右の太刀を一度に振り違える。斬ったあと、間を置くのはよくない。早く両脇の構えに戻り、敵の出てくるところを強く斬り込み、押し崩して、そのまま、又敵の出てくる方に斬り込み、押し崩すのである。
 左右の敵を斬り打ち払ったとしても、その場に居つくことなく、間を置かずに他の敵と対すること。

[道歌]
 敵多勢我をかこみて攻むるとも一人の敵とおもひたたかへ
[五輪書・水の巻]
 いかにもして、敵をひとへにうをつなぎにおいなす心にしかけて、敵のかさなると見へば、其儘間をすかさず強くはらいこむべし。
 
 大切なことは、魚が繋がって泳ぐように、敵を一列に追いまわすように仕掛け、敵が重なったところで、間を置かず勢いよく打ち込むこと。
 敵に囲まれた時にも気力を充実し、一人の敵と戦う状態をつくりだし入身転換法で突破せよ。

[道歌]
 取りまきし槍の林に入るときは小盾は己が心とぞ知れ
[五輪書・水の巻]
 折々あい手を余多よせ、おいこみつけて、其心を得れば、一人の敵も十二十の敵も心安き事也。能稽古して吟味有べき也。

 折にふれて、多勢の相手を寄せ集め、追い込む呼吸を体得すれば、一人の敵も十人、二十人の敵にも安心して戦えるのである。よく稽古して、研究するように。
 多人数掛けは、自分の心が盾となると心得よ。



宮本武蔵と植芝盛平(8) 2005年5月3日更新

 五輪書・火の巻は「二刀一流の兵法、戦の事を、火におもひとつて、戦勝負の事を火の巻として、此巻に書顕す也」の書き出しに始まる。
 二天一流の兵法における戦闘のことを、火になぞらえて、勝負のことを火の巻として、ここに書き表すものである。
 水の巻に続く武蔵の戦闘論が具体的に展開される。

[道歌]
 せん太刀を天に構へて早くつめ打逃しなば横に切るべし
[五輪書・火の巻]
 三ッの先。一ッは我方よりも敵へかかるせん。けんの先と云也。あと一ッは敵より我方へかかる時の先、是はたいの先と云也。又一ッは我もかかり、敵もかかりあふ時の先、体々の先と云。是三ッの先也。いづれの戦初めにも、此三ッの先より外はなし。先の次第を以、はや勝事を得る物なれば、先と云事兵法の第一也。

 第一懸の先。我かからんとおもふとき、静にして居、我にはやくかかる先。うへをつよくはやくし、底を残す心の先。又我心をいかにもつよくして、足は常の足に少はやく、敵のきわへよるとはやく、もみたつる先。あと心をはなつて、初中後、同じ事に敵をひしぐ心にて、底迄つよき心に勝。是いづれも懸の先也。

 三つの先がある。一つは我が方から敵へかかっていく先手のとり方。これを「懸の先」という。あと一つは、敵が我が方へかかってくる時の先手のとり方。これを「待の先」という。また一つは我が方からもかかっていき、敵もかかってくる時の先手のとり方。これを「対々の先」という。これが三つの先手のとり方である。
 どの戦闘の場合にも、この三つの先より他はない。先手のとり方次第で、必ず勝利を得ることができるものだから、「先」というのが兵法の第一である。

 第一は、懸の先。我が方がかかっていこうと思うとき、静かな状態から素早くかかっていくやり方がある。また表面的に強く素早く打ちかかり、心に余裕を残すやり方がある。また心を張り詰め、足取りは常よりも少し早く、敵に近づいた瞬間に一気に攻めるやり方がある。また無心で、最初から最後まで、敵をひしぐ気持ちで、心の底まで強い意志で勝つやり方がある。これらは何れも、懸の先である。
 一の太刀である。先をとって上段の構えから素早く間を詰めて斬りかかり、敵の応じたるところを薙(な)ぎ払うこと。
 上段の剣は天に在り。建速須佐男之命(たてはやすさのおのみこと)の御剣、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は、またの名を草薙剣(くさなぎのつるぎ)という。植芝盛平の魂の世界。

[道歌]
 敵人の走り来たりて打つときは一足よけてすぐに切るべし
[五輪書・火の巻]
 第二待の先。敵我方へかかりくる時、少もかまはず、よわきやうに見せて、敵ちかくなつて、づんとつよくはなれて、飛付くやうに見せて、敵のたるみを見て、直につよく勝事、是一ッの先。又敵かかりくる時、我も猶(なお)つよくなつて出る時、敵のかかる拍子のかはる間をうけ、其儘勝を得る事。是待の先の理也。

 第二は待の先。敵が我が方へかかってくる時、少しもかまわず、弱いように見せかけて、敵が近づいてきたら、ぐんと大きく離れて、飛び退くように見せて、敵が油断したところを、一気に攻めて勝つこと。これが一つの先。また、敵が掛かってくる時、我が方も更に強く出て、敵のかかってくる拍子が狂ったところを、そのまま攻めて勝つこと。これが、待の先の理(ことわり)である。
 一刀法である。双方歩み寄りて相打つ。

[道歌]
 真空と空のむすびのなかりせば合気の道は知るよしもなし
[五輪書・火の巻]
 第三体々の先。敵はやくかかるには。我静につよくかかり、敵近くなつてづんと思ひきる身にして、敵のゆとりのみゆる時、直につよく勝。又敵静にかかる時、我身うきやかに、少はやくかかりて、敵ちかくなりて、ひともみもみ、敵の色に随ひ、つよく勝事。是体々の先也。

 第三は、対々の先。敵が素早くかかってきた時には、我が方は静かに強くかかり、敵が近づいてきたら捨身の態勢をとり、敵が油断したところを、一気に攻めて勝つこと。また、敵が静かにかかってくる時には、我が身を浮かすようにして、少し早くかかって、敵に近づいたところで、一揉みして、敵の状態をよく見て、強く攻めて勝つ事。これが、対々の先である。
 気結びの太刀である。相手の気の動きに合わせて、斬るときも斬らず、突くときも突かない。所謂、音無の剣。「真空の気を以て技となす」は口伝。



宮本武蔵と植芝盛平(9) 2005年7月7日更新

 茨城県岩間の合気神社にて、在りし日の植芝盛平。
 丸に横木瓜五つ紋の羽二重紋付に仙台平の袴。腰に愛刀の月山貞吉を差し、左手は鯉口を握り親指を外切りに鍔に置く。長い白髭を蓄え、強い眼差しは清み、吸い込まれるようである。所謂、哲学者の相と名のある観相家はいう。古武士の風格漂う盛平である。
 因みに、月山貞吉は奥州月山鍛冶の末流で代々備前伝を得意とした。作刀は、反りの浅い、切先の延び心のある豪壮な姿である。盛平の佩刀には「阪府住月山貞吉」の銘が刻まれる。

[道歌]
 己が身にひそめる敵をエイと切りヤアと物皆イエイと導け
[五輪書・火の巻]
 三ッのこゑとは、初中後の声といひて、三ッにかけ分る事也。所によりこゑをかくると云事専也。声はいきをいなるによつて、火事などにもかけ、風波にもかけ、声は勢力を見する也。

 敵をうごかさん為、打と見せてかしらよりゑいと声をかけ、声の跡より太刀を打出すもの也。又敵を打あとに声をかくる事、勝をしらする声也。是を先後の声と云。太刀と一度に大きに声をかくる事なし。若(もしくは)戦の内にかくるは、拍子にのるこゑ、ひきくかくる也。能々吟味あるべし。
 三つの気合とは、初、中、後の気合といって三つにかけ分けることをいう。時によって気合をかけることがよくある。気合は勢いであるから、火事とか、風や波に向かってもかける。気合は勢いを敵に見せるものである。
 敵を動かすには、打つと見せる矢先にエイと気合をかけ、気合の後から太刀を打ち出すのである。また敵を打ち倒した後に気合をかけるのは、勝ちを知らせる気合である。これを先後の気合という。太刀を振るのと同時に大きな気合をかけることはない。また戦闘の最中にかけるのは、拍子にのるためにかける気合で、低くかけるのである。よく研究すること。
 言葉は「言(こと)の刃(は)」といって、言葉によって人を生かすことも殺すこともできる。また自ら発する悪言は天に唾する如く、返す刃(やいば)で自らをも傷つける両刃の剣となるのである。言葉には意思があり魂がある。これを言霊(ことたま)という。



宮本武蔵と植芝盛平(10) 2005年9月6日更新

 五輪書・風の巻は「兵法、他流の道を知事。他の兵法の流々を書付、風の巻として、此巻に顕す所也」の書き出しに始まる。
 わが兵法にとって、他流の道を知ることは大切である。ここに他流の特徴を書き表し、風の巻とする。
 風の巻は、いろいろな角度から他流を批判することにより武蔵の考え方をより明確にしている。
 
 一、他に大なる太刀をこのむ流あり。
 一、太刀につよき太刀よわき太刀と云う事はあるべからず。
 一、短き太刀計にてかたんと思ふところ、実の道にあらず。
 一、太刀のかず余多にして、人に伝ゆる事。
 一、太刀のかまへを専にする所ひがごとなり。
 一、目付といひて、其流により、敵の太刀に目を付るもあり。
 一、足のふみやうに、不足におもふ所也。
 一、兵法のはやきと云所、実の道にあらず。
 
 一、他流において刀身が長く、身幅の広い太刀を好むものがある。
 一、太刀に強い太刀、弱い太刀ということはない。
 一、短い太刀だけで勝とうとするのは本当の道ではない。
 一、数多くの太刀を人に教えること。
 一、太刀の構え方を重視するのは間違いである。
 一、他流において敵の太刀に目付けするところがある。
 一、足の使い方に浮足、飛足の他よくないと思うところがある。
 一、兵法において見た目の早さは本当の道ではない。

[道歌]
 向上は秘事も稽古もあらばこそ極意のぞむな前ぞ見えたり
[五輪書・風の巻]
 兵法のことにおゐて、いづれを表といひ、何を奥といはん。芸によりことにふれて、極意秘伝などといひて、奥口あれども、敵と打合時の理におゐては、表にてたたかい、奥をもつてきると云事にあらず。

 我兵法のおしへやうは、初而道を学人には、其わざのなりよきところをさせならはせ、合点のはやくゆく理を先におしへ、心の及がたき事をば、其人の心をほどくる所を見わけて、次第次第に深き所の理を後におしゆる心也。され共、大形は其ことに対したる事などを、覚へさするによつて、奥、口とゆふ所なき事也。

 此戦の理におゐて、何をかかくし、何をか顕はさん。

 兵法において、何を表といい、何を奥というのであろうか。芸によっては極意や秘伝などと称し、奥義だとか初歩だとかいっているが、敵と打ち合う時の理(ことわり)においては、表で戦ったとか、奥で斬ったなどというものではない。

 わが兵法の教え方は、初めてこの道を学ぶ人には、その技を習いやすいように習わせ、早く理解できる理から教え、理解しがたい時には、その人の進歩に合わせて、次第に深い理を教えるようにしている。しかし、大抵は体験させたうえで、理解させているから、奥義とか初歩だとかいうことはない。

 この戦闘の理において、何を秘伝といい、何を表すということができるであろうか。
 稽古に稽古を重ね、只々鍛錬すること。



宮本武蔵と植芝盛平(11) 2005年11月1日更新

 五輪書・空の巻は「二刀一流の兵法の道、空の巻として書顕す事。空と云心は、物事のなき所、しれざる事を空と見たつる也」の書き出しに始まる。
 二刀一流の兵法の道を、空の巻としてここに書き表す。空とは、何ものもなく、何ものも知らざる心である。
 空の巻は、一切の雑念を去った武蔵の空の境地が語られる。

[道歌]
 古より文武の道は両輪と稽古の徳に身魂悟りぬ
[五輪書・空の巻]
 武士は兵法の道を慥に覚へ、其外武芸を能くつとめ、武士のおこなふ道、少もくらからず、心のまよふ所なく、朝々時々におこたらず、心意二つの心をみがき、観見二ッの眼をとぎ、少もくもりなく、まよひの雲の晴たる所こそ、実の空としるべき也。 

 武士は兵法の道を的確に会得し、いろいろな武芸を身に修め、武士としての道に迷うことなく、朝夕修業を怠らず、精神と智恵を磨き、観察力と見識を養い、少しの迷いもなく、雲の晴れたる心境こそが、空と悟らなくてはならない。
 合気道は気育、知育、徳育、体育と常識の涵養と盛平はいう。

[道歌]
 武とはいえ声もすがたも影もなし神に聞かれて答うすべなし
[五輪書・空の巻]
 空有善無悪。智は有也。利は有也。道は有也。心は空也。

 空には善があって悪はない。智恵と、道理と、兵法を総て修めたところに、一切の雑念を去った空の心がある。
 「書は人なり」との格言がある。武蔵の書からは漲る気迫が溢れ、武蔵が到達した空の境地を感じる。一方、盛平の書からは透みきった世界が感じられる。盛平が到達したのは無の境地であろう。


 開祖の精神的な剣の世界「道歌」を、武蔵の実践的な剣の解説「五輪書」で解き明かしたいと取り組みました。些かでも、開祖の精神世界から実践的な技法を探り出せたものと思います。
 難解な古文書の解読で、原著の本意が歪められることを最も恐れるものであります。私の未熟なところは、読者の賢明なる判断に委ねたいとお願い申し上げます。 合掌

          道端につつじ咲くなり岩間郷    秋水


<参考文献>
宮本武蔵遺跡顕彰会編「宮本武蔵」熊本日日新聞社
渡辺一郎校訂「五輪書」岩波書店
今村嘉雄編者代表「日本武道全集 全五巻」人物往来社
吉川英治著「随筆宮本武蔵」朝日新聞社
神子侃訳「五輪書」徳間書店
鎌田茂雄訳注「五輪書」講談社学術文庫
植芝盛平著「武道」
立山一郎著「合気之術」真実社
望月稔著「入門合気道」国際護身術研究会
有川定輝編集「合気道新聞」合気会
植芝吉祥丸監修「合気真髄」柏樹社
斉藤守弘著「合気道 全五巻」港リサーチ
砂泊兼基著「合気道開祖植芝盛平」講談社
アンドレ・ノケ著「心と剣」合気ニュース 
大森曹玄著「剣と禅」春秋社
山岡鉄舟原著「剣禅話」徳間書店





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