刀剣考 | 2024年6月2日更新 |
植芝盛平翁の愛刀は月山貞吉である。長さは二尺二寸余、反りが浅く、切先の伸び 心のある豪壮な姿である。茎には「阪府住月山貞吉」と銘が刻まれている。月山貞吉 は奥州月山鍛冶の末流で、天保年間に大阪に移住した。松尾芭蕉の「奥の細道」に 「此国の鍛冶、霊水を撰てここに潔斎して剣を打、終に月山と銘を切って世に賞せら れる」とある。月山鍛冶の特徴は刀身全体に波のように流れる綾杉肌である。 日本刀は、折れず、曲がらず、よく切れるという三つの条件を追求したものだが、 切れるためと曲がらないためには鋼は硬くなければならないし、逆に、折れないため には鋼は軟らかくなくてはならない。この矛盾を解決したのが、炭素量が少なくて軟 らかい心鉄を炭素量が高くて硬い皮鉄でくるむという方法である。くるむ方法、つま り組み合わせには、甲伏せ、本三枚(ほんさんまい)、四方詰など多くの種類がある が、時代、流派、刀工によって異なる。 錵(にえ)出来の刀は、焼入れが高温のために深くなり、匂(におい)出来より折 れやすくて実用に向かないというのは古来の定説である。そして、鉄は古いほど鉄性 が精良で新鉄にまさるという。 因みに、寝刃(ねたば)を合わせるとよく斬れるという。寝刃を合わせるとは、す べらかな刀身、特に刃の部分を、砥石又は木賊(とくさ)でこすって、ざらざらにす ることである。すべらかな刃より、ざらざらした刃の方が抵抗が多く、それだけ刃味 を増すことになる。だから真剣勝負の前には、武士は慎重に寝刃を合わせた。 砥石で、脂をとり刃味を整える。人間の脂が濃く附着すると(脂が巻くという)切 れ味はがくっと落ちる。下手をすると全く切れなくなり、鉄棒で殴ったのと同じこと になる。従って戦場に砥石は不可欠の小道具だった。塚原卜伝は「武士のいつも身に 添え持つべきは、刃つくる為の砥石なるべし」と云っている。 これは、隆慶一郎が底本とした「刀剣切味並折口試之次第」である。新々刀期最高 の刀工として知られ四谷正宗と謳われた源清麿(山浦環)の師匠・山浦真雄と、水心 子正秀の高弟で名工と評判であった江戸の刀工・大慶直胤との試刀会「松代藩荒試し」 が書かれている。 刀剣切味並折口試之次第 松代藩武具奉行 金児忠兵衛筆録 嘉永六年(1853) 三月二四日 第一は問題の大慶直胤作二尺三寸八分荒錵(あらにえ)出来の刀。先ず俵菰 (こも)二枚束ねの干藁(ほしわら)を切ると八分切れ。切れ味は「中位」。次いで 厚さ八厘、幅三寸の鍛鉄を切ると、刀は鍔元七、八寸のところから二つに折れた。 第二は同じ直胤作二尺三寸匂出来の刀。干藁を一太刀斬ったら刀身が反り伸びた。 そのまま五太刀、八分は切れた。鉄砂入陣笠(じんがさ)に二太刀。一太刀ごとに刀 身が反り、伸びた。鉄胴に二太刀。刃切れ入り(刃が裂けた状態)刃毀(こぼ)れ る。鹿角(しかづの)に三太刀。鍛鉄に三太刀。鍛鉄を少し切割りひびを入れたが刀 も刃切れが多く出た。次いで兜に一太刀。大いに伸びる。鉄敷(かなじき)棟打ち七 太刀、平打ち返打ち四太刀で折れた。匂出来だけあって、よく耐えたというべきであ ろう。 第三が同じ直胤作の長巻。干藁を二太刀切っただけで、刀身は曲ってしまった。し かも五分しか切れていない。 第四が直胤作の別の長巻。これは干藁への一太刀で曲り強しとある。切れ味も四、 五分。 第五も直胤作の長巻。これは干藁に二太刀。五、六分切れ。鹿角に二太刀、一太刀 で刃毀れの上、大いに伸びる。二太刀目にて伸びて刃切れ入り曲り、強く切る事不 能。鉄敷棟打ち三つ、平打ち二つ、刃切れ口大いに相成り曲りぐだぐだにて其儘に差 置く。 この五振りの大慶直胤は、いずれも城方常備として納められた品である。そのう ち、辛うじて合格といえるものは、たったの一振り、第二の匂出来の刀だけで、あと はすべて腰が弱すぎて実用にはならない。積年の大慶直胤への不信感が、一気に実証 されたようなものだった。 次いで真田家御用鍛冶の二人の作品が試され、いずれも鍛鉄、又は兜の段階で折れ ている。 更に古刀が二振り。一振りは干藁だけですませ、一振りは同じ竹入り干藁に一太刀 あびせただけで大曲りとなった。 十振り目は無銘中代の刀で、四分一鍔(胴と金の混合)厚さ一分三厘大透(おお すか)し刀鍔を切った時、物打から折れて飛んだ。 十一振り目は長さ二尺の胤長作山刀。革包鉄胴三太刀で刃切れが入った。 そして十二振り目に登場したのが、山浦真雄の二尺一寸五分荒錵出来の刀である。 荒錵出来は折れやすいと評判のものであり、真雄が得意でないと断ったものである。 真田藩抱工採用試験だからこそ、敢て注文通り鍛ってみせた刀だ。 試しは俵菰二枚束ねの干藁から始った。 一、干藁 一太刀 但九分切 「切味宜(よろし)」と記帳された。 一、同 十太刀 何れも八、九分切 十回切っても切れ味は変らなかった。 一、竹入藁 六太刀 但七・八分切 十七太刀に及んで尚、僅かに切れ味が鈍っ ただけである。 ここで研師が刃を付け直した。これからは堅物の試しに入るためだ。 一、古鉄厚一分幅七部 一太刀 但左右へ切れて飛ぶ。刃切れ入る。 鉄は古いほど鉄性が精良で新鉄にまさる。それを完全に両断したのである。さすが に初めて刃切れが入ったが、驚くべき切れ味であり、強靭さだった。 一、鹿角 六太刀 一、竹入藁 二太刀 但刃毀れの儘にて六分切 一、鉄砂入張笠 二太刀 一、古鉄胴 二太刀 一、四分一鍔 一太刀 これは既に切れ味試しではなく打折り試しの限界への挑戦に入っている。 一、再び四分一鍔 一太刀 一、鍛鉄 一太刀 一、兜 一太刀 但鉄鎚(てっつい)にて曲りを打直し切る 鍛鉄斬りつけでようやく曲りを生じたのを鉄鎚で打ち直して使用したのである。そ れでもまだ折れない、驚くべき粘着性だった。以上の三十四太刀で、切りつけ試しを 終る。 これ以後は、完全な打折り試しである。長さ五尺五寸、重さ八百三十匁の鉄杖で、 刀の弱点とされる刃部の反対側、つまり棟(背部)や平面(鎬部)を強打して折るの である。 一、鉄杖 棟より七つ充分に棟打を切入る 一、同 平より六つ充分に打つ これは人が手に持った刀を打ったものだ。 一、鉄敷 棟打六つ 一、同 棟打さらに七つ ここで刃切れ、つまり裂けた口が、ようやく広くなったと云う。 一、平打三回して裏返し打つ事二回にして折る。 棟切三つ刃切れ十二入有之。 最後の試しの模様は、この短い記述から充分に察することが出来ると思う。試し手 はほとんど躍起になっている。息を切らせ、これでもか、これでもかと、殴り続け た。それでも頑固に折れてくれない真雄の刀に、試し手は恐怖さえ感じた筈である。 その伝承が『古老証話』にある。 「その折の模様は洵(まこと)に峻烈を極め、見物の諸士も進行につれて真剣その もの。手に汗を握るが如く、肌に粟を生ぜしが如し」 これが刀剣史上に後々まで語り継がれた「松代藩荒試し」の模様である。 |
刀剣考(2) | 2024年9月1日更新 |
幕末の元治元年六月五日(1864年7月8日)、三条木屋町の旅館池田屋に潜伏して いた長州藩、土佐藩などの尊王攘夷派志士20数名を、新選組が襲撃した池田屋事件 は、池田屋騒動などとよばれる。 近藤勇率いる隊士は、沖田総司、永倉新八、藤堂平助、谷万太郎、武田観柳斎、 近藤周平ら9名である。尊王攘夷派志士が集結している池田屋に、近藤勇、沖田総司、 永倉新八、藤堂平助、近藤周平の5人が池田屋に斬り込んだ。 午後10時頃から、2時間にわたる激闘で宮部鼎蔵、吉田稔麿、望月亀弥太ら16 名が死傷し20名以上が捕縛された。近藤勇は養父宛てにしたためた手紙の中に「下 拙の刀は虎徹故に候や、無事に御座候」と書いている。永倉新八は負傷、刀を鉄火鉢 に打ち当てて氏繁の鋩子(ぼうし)が折れて飛んだ。沖田総司は戦闘中に病に倒れ、 短刀を刀で受けて清光の鋩子が折れ飛んだ。藤堂平助は眉間から小鬢あたりを深く斬 られて重傷、兼重は刃切れささらの如くなった。近藤周平は槍を切り折られた。そし て新選組一行が壬生の屯所に戻ったのは翌六日の昼頃であったという。 そして翌日には、隊士の刀を壬生の研師、源龍斎俊永に出している。 この池田屋事件により京都守護職御預「新選組」の名は一躍、京の巷にとどろいた。 会津守護職様御預新選組御一等様御刀改控 元冶元年六月七日 京壬生住研師 源龍斎俊永 近藤勇 長曾称里入道虎徹 二尺二寸五分 刃毀(コボ)レ小サク三ケ所 土方歳三 和泉守兼定十一代兼定 二尺四寸八分 イタミナシ 同 堀川国広 一尺八寸 イタミナシ 沖田総司 加州金沢住長浜兵衛藤原清光 (二尺四寸) 鋩子(ボウシ)折レ 永倉新八 播州住手柄山氏繁 鋩子折レ 元寸二尺四寸余カ 原田佐之助 江府住興友 ニ尺三寸七分 刃毀レハバキ元大二ケ所 物打小七 ケ所 斉藤一 摂州住池田鬼神丸国重 ニ尺三寸一分 刃毀レ小サク無数 藤堂平助 上総介兼重 出来上作ナり ニ尺四寸二分 物打刃毀レ小サク十一 ケ所 谷万太郎 月山弥八郎貞吉 ニ尺三寸八分 刃毀レ七ケ所 刃マクレ四ケ所 武田観柳斎 越前住常陸守兼植 ニ尺二寸五分 刃毀レ小サク六ケ所 井上源三郎 奥州白川住兼常 ニ尺二寸五分 イタミナシ 松原忠司 加州住藤島友重 作中々良 ニ尺三寸五分 刃毀レハバキ元四ケ 所 物打細カク十九ケ所 浅野藤太郎 武州住藤原是一 ニ尺二寸八分 刃身左ヘ曲ル 島田魁 奥州仙台住源兵衛国包 ニ尺四寸 刃身ヤヤ左ニ曲ル 刃毀レ大小十 四ケ所 篠塚岸三 雲州住家貞 ニ尺三寸 四寸 物打ヨリ折レ 蟻通勘吾 播磨住昭重 ニ尺四寸余カ 鋩子折レ 伊木八郎 越後新発田住兼則 ニ尺三寸七分 刃毀レ大小十七ケ所 林信太郎 備前国住横山茂平祐春 ニ尺三寸三分 刃毀レ大六ケ所小四ケ所 川島勝司 越中住兼明 ニ尺二寸八分 イタミナシ 中村金吾 江府住細田直光 ニ尺三寸 イタミ少ナシ 尾崎弥八郎 奥州会津住兼友 ニ尺三寸八分 刃毀レハバキ元大一ケ所 物打 六ケ所 三品仲治 備州長船住藤原祐平 ニ尺三寸余カ 刀身曲リ強シ 刃毀レ大二ケ 所 葛山武八郎 農州関住兼家 ニ尺三寸一分 イタミナシ 酒井兵庫 作州津山住兼光 ニ尺四寸二分 イタミ少ナシ 木内峯太 美作津山住信孝 ニ尺三寸八分 物打刃毀レ大キク二ケ所 佐々木蔵之丞 越中住兼明 ニ尺三寸五分 刃身ヤヤ右ニ曲リ 刃毀レ三ケ所 河合耆三郎 濃州住御勝山永貞 ニ尺三寸八分 イタミナシ 松本喜三郎 摂州尾崎住雲仙子貞秀 ニ尺四寸五分 イタミナシ 竹内元三郎 関善定兼方 ニ尺三寸余カ 刃身左ヘ曲リ刃メクレ四ケ所 ハバ キ元大アリ 奥沢栄助 武州鴻巣住雲子景勝 ニ尺二寸余カ 鋩子折レ 安藤早太郎 南海太郎朝臣朝尊 ニ尺五分余カ 物打アタリ接損 近藤周平 作州津山住城慶子正明 ニ尺二寸五分 イタミナシ 新田革左衛門 勢州住長心子直久 ニ尺三寸五分 細カク刃毀レ無数 近藤勇書簡 近藤周斎宛 元治元年六月八日 その時五時と相触れ候ところ、総方御人数御繰り出し延引、時刻も移り候間、局手勢 の者にて、右 徒党の者三条小橋、縄手二箇所に屯いたしおり候ところへ、二手に 分れ、夜四ツ時頃打ち入り候ところ、一ケ処には一人もおり申うさず、一ケ所には多 勢潜伏いたしおり。かねて覚悟の徒党の族ゆえ、手向い、戦闘一時余の間に御座候。 打取り七人、手疵負わせ候者四人、召し捕え二十三人これあり 折悪しく局中病人多きにて、わずかに三十人二ケ処の屯へ二手に別れ、一ケ処は土方 歳三頭にいたし遣し候ところ、人数多く候ところ、その方には一人も居合わせ申さ ず、下拙わずかの人数引き分け、出口の固めさせ、打ち入り候者は拙者・沖田・長 倉・藤堂・養息周平今年十五歳、五人に御座候、かねて徒党の多勢と合手火花を散 らし、一時余りの間戦闘に及び申し候ところ、永倉の刀は折れ、沖田の刀はぼふし 折れ、藤堂の刀は刃切れささらのごとく、倅周平は槍を切り折られ、下拙の刀は虎徹 故に候や、無事に御座候、藤堂は鉢金を打ち落され候より深手を受け申し候、おいお い土方の勢 馳せ付け候ゆえ、それより召し捕らえ申し候、実にこれまでもたびたび 戦いいたし候えども、二合と戦い候者は稀に覚え候えども、今度の敵多勢とは申しな がら、いずれも万夫の勇者、誠に危急の命助かり申し候、まずは御按じ下されまじく 候 余談ではあるが、人斬り以蔵と恐れられた土佐の岡田以蔵が木屋町で本間清一郎 を襲った際、鋩子(ぼうし)が折れ飛んで以蔵を狂乱させたという。その刀は名刀と して名高い肥前鍛冶忠吉の二代忠広であった。 |