合気剣入門 | 2024年12月1日更新 |
木刀考 ー赤樫と白樫ー 一般に赤樫と呼ばれるイチイ樫は価格も手頃であるが強く打ち合うと折れやすい といわれている。白樫は堅い木材のため繊維が荒く、ささくれやすいのが難点だが、 重量も強度もある。本赤樫は希少価値が高く、樫の中では一番重硬で強靭である。 価格 @本赤樫 A白樫 B赤樫 重量 @本赤樫 A白樫 B赤樫 硬度 @本赤樫 A白樫 B赤樫 粘度 @本赤樫 A白樫 B赤樫 稽古には樫の木刀が最適である。初心者は重量、強度など総合的に判断して手頃な 価格の赤樫(イチイ樫)を選ぶこと。一般に赤樫は強く打ち合うと折れやすいといわ れているが、それは手の内がよくないからで、修練を重ねると決して折れることはな い。また赤樫の軽さは木刀の重さに頼らずに振ることができるので形が崩れることな く型を学ぶことができる。より実戦的な稽古で強く打ち合うことがある場合には、強 度がある本赤樫や白樫を選ぶことである。尚、組太刀の稽古では相手と同じ材質、重 量の木刀を使用することに留意しなければならない。 そして、有段者は岩間流木刀である。万一、相手を突いてしまった場合に大きな怪 我になりにくい、切先が切り落とされた形の岩間流木刀が最適であろう。 木刀は武道具店に足を運んで購入するのがよい。曲がっておらず、節がなく、目の 詰んだ木刀を選ぶこと。それから手に取ってバランスを確かめる。木刀は一本、一本、 バランスが微妙に違うものだから、自分に合った木刀を探すこと。 剣の持ち方 剣の握りは、左手の小指を柄頭にかけ、親指は人差指に接し、右手の小指はやや締 めて、親指は中指に接し、人差指はかるく曲げて、手拭いを絞る時のように両手首を 内にくり込む。 丁度、卵を握る時のようにして、親指を内に向け、両腕に力を入れることなく曲げ て自然に前に出し、左手の柄頭を臍とむすび、右肘はかるく伸ばし、剣尖を相手の喉 元に付ける。所謂、正眼の構えである。 剣は、力を抜き身体の動きに合わせるようにして使わなければならない。身体に力 が入るのは未熟の証である。 無理に力を入れると衝撃が相手に伝わらないのだ。木刀で相手を斬った際に無駄に 力が入っていれば、己が身体で重さや衝撃を支えてしまう。結果、叩き斬れるはずの 木刀が跳ね返され、逆に振った側の腕を痛めてしまうことになる。無駄な力を使わず 身体の動きで木刀を振ってはじめて威力のすべてが伝わり、相手を両断する。 重厚な木刀であればあるほど、熟練の士が使えば破邪顕正の剣となり、また凶暴な 刃ともなる。これを刃筋が立つという。 最初の頃の剣の稽古は大先生がただ「打ってこい」と言うだけ。 私は子供の頃剣道 をやったのでなんとか格好はついたけどね。 そのうち先生が鍛練打ちの台を作れと言うので自然木で Y の形をしているのを二本 地面に立てた。木の枝を束ねて乗せるためだった。 これを見た大先生は「こんな細い の役にたたん」 と言うなり、木剣で Y 形の自然木を真っ二つに割ってしまった。そ こで考えた末、今度は丸太を二本組み合わせて地面に打ち込み針金でしっかり固定し て木の枝を束ねて乗せた。今度はこれを見て「よし」と褒めてくれた。 それでも一週間ももたない、ボロボロになってしまう。だからこっち叩いたりあっ ち叩いたり毎日打ち込む場所を変えてね。一週間経つと新しいのを作った。その頃は 山にいくらでも木はあったので問題はなかった。 稽古が進んでくると、一の太刀を教えてもらった。これだけで三年くらい、ほかに は何も教えない。ふらふらになるまで打っていくだけ。 動けなくなると「よし」と勘 弁してくれた。毎朝の稽古はこれだけ。しまいには、ほとんど先生と二人っきりの稽 古になった。(斉藤守弘著「武産合気道」第一巻) |
合気剣入門(2) | 2025年3月1日更新 |
合気の剣と月之抄 植芝盛平翁は柳生厳周の高弟、下條小三郎から柳生新陰流を学ばれた。また、それ に先立つ大正11年に、武田惣角師から兵法家伝書の「進履橋」一巻を伝授されたとも いう。武田惣角といえば小野派一刀流の免許皆伝のはずだが、柳生新陰流は定かでは ない。ともあれ植芝盛平翁の「武道練習」の記述にある剣の間合いの「水月」という 美しい言葉と、道歌にある火水の結びの「十」の文字は新陰流の手字種利剣か。そし て柳生十兵衛の名に感じるところあり、ここに柳生十兵衛の「月之抄」を紐解く。 『武道練習』 昭和七年版 植芝守高(盛平) 古は狭き畳の上で道によって天地の意気を以って戦闘する呼吸を対照的に錬磨した のである。此の場合適当の距離をとる。これは丁度剣道で言へば「水月の理」即ち敵 との距離を水の位とし(あたらぬ場合)それを彼我の体的霊的の距離を中に於いて相 対す。敵火をもって攻め来たらば水を以って防ぐ。敵を打込ますべく誘った時は水が 始終自分の肉身を囲んで水と共に動く。(中略)天地の呼吸に合し声と心と拍子が一 致して言魂となり一つの武器となって飛び出すことが肝要で、之を更に肉体と統一す る。声と肉体と心の統一が出来て始めて技が成り立つのである。霊体の統一が出来て 偉大な力を猶更に練り固め磨き上げて行くのが武術の稽古である。斯くして行くと剣 で切るべく仕向けることが分り、又世の中の武術の大気魂がその稽古場所及び心身に 及んで練れば練るほど武の気魂が集まりて大きな武術の太柱が出来る。柳生十兵衛も 塚原卜伝もあらゆる古の達人名人の魂が全部集まり来たり、又武術の気も神のめぐみ によって全部集まり来るの理を知り稽古に精魂を尽くすべし。 [道歌] 無明とは誰やの人か夕月の いつるも入るも知る人そなし 無明とは煩悩である。夕方出た月は夜にはもう沈んでしまうので薄暗く、その夕月 がいつ出ていつ沈むのか誰も知らない。自然の中にある真実を深く理解する人は少な く、真実を深く感じとることは難しい。 [道歌] ありがたやいづとみづとの合氣十 雄々敷進め瑞の御聲に 何と有難いことだろう。厳の御魂と瑞の御魂の水火の結びに、合気の道を勇ましく 進めと神産巣日神の聲を聴く。信念を貫く、神とともにある合気魂である。 柳生十兵衛三厳(1607〜1650)は柳生但馬守宗矩の嫡男。十兵衛は10歳で初登城、 13歳で将軍家光の近習となっているが、20歳の時に突然、家光の勘気を受けて職を解 かれる。その後の空白期間を経て、柳生庄に籠もり兵法書の執筆に専心したという。 その後、鷹狩りの途中に44歳で突然死する。また十兵衛は隻眼であったともいわれる が、当時の古文書などの史料に十兵衛が隻眼であったという記述は無く、肖像画も両 眼が描かれている。十兵衛の代表作である「月之抄」は、祖父石舟斎と父宗矩の教え を比較検討し、独自の見解と工夫を著している。 『月之抄』 柳生十兵衛三厳 【原文】 尋行道のあるしやよるの杖 つくこそいらね月のいつれば よって此書を月の抄と名付ル也。ここに至テみれは、老父のいはれし一言、今許尊 感心不レ浅也。如レ此云ハ、我自由自在を得身に似り。サニハあらす。月としらは、 やみにそ月はおもふへし。一首 月よゝしよゝしと人のつけくれと またいてやらぬ山影のいほ 【抄訳】 尋ね行く道のあるしや夜の杖 つくこそいらね月の出れば よって、この書を月之抄と名付ける。ここに至ってみると、父宗矩の言った一言、 今こそ感心浅からずなり。しかし、こんな風に言うのは、自分が自由自在を得たと思っ ているようだからだ。そうではない。月と知ったなら、闇の中にこそ月を思うものだ。 一首 月よゝしよゝしと人のつけくれど まだ出でやらぬ山影の庵 【原文】 十字手利見之事 十字也、古語ニ曰く、心は万鏡に隋て転ず、転ずる処実に能く幽なり(中略)手裏 見は手の内也 【抄訳】 十字手利見の事 十字である。古語に曰く「心随万境転 転処実能幽」。心は万境に随って転変し、 転ずるところは実によく幽玄である。(中略)手裏見は手の内の事である。 更に十兵衛は「種字は、敵の太刀打処を十字になるをゆふ也」と記し、手字種利剣 「シュジシュリケン」を「手字手利剣」「手字手利見」「手裏剣」「手裏見」と書い ている。十字は、敵の太刀が斬って来るところを十字になるのをいうのである。文字 に注意すること。十字という教えの心持ちは、九字の大事「臨、兵、闘、者、皆、陣、 烈、在、前」といって、真言宗の秘法にある。この九字に一つ足して十字なのである。 横五つに、縦五つで十字である。十「とう」は十の字で、十である。それ故、十字な のである。十文字にさえ有れば、敵の攻撃は自分に当たらない。手裏見は手の内の事 である。字の裏にその心が隠されている。 柳生新陰流に十文字勝がある。これは肋「あばら」一寸、転勝「まろばしがち」と 称され、自分の中心線である人中路を斬るように真直に斬る技法である。この転勝の 論理を、伝書に「左右ノ横二打、或ハ左右ハスニ打、或左右下ヨリ弾ルトモ、吾レハ 只中筋ヲ打テバ皆米如ク此十文字二成テ敵ノ拳二勝テル也」と記す。敵が左右横から 払うように斬ってくる。或いは左右斜に袈裟に斬ってくる。または左右下から弾ねて きても、われは斬り出す敵の拳をしっかり観て、敵の太刀の拍子に合わせて、敵と正 対してわが人中路を一拍子に斬り下せば、必ず彼我の太刀が十文字に交わり、わが太 刀が上太刀となり敵の拳を斬り落として勝つことができる。敵が横や斜めから斬れば、 「米」の記号のようにその中心である点に帰結し、技法としてその中心の点にあたる 拳に勝てるというものである。 もし敵が真直ぐに人中路を斬り込んできた場合は、われも人中路をはずさずに僅か の時間差をとり敵の太刀の上に乗って合撃打ちに勝つ。またはわれは少し左、右に身 を替わり、順、逆勢の斜斬りに敵の柄中へ勝てば、十文字勝となる。即ち、合撃打ち は、敵が真直に斬るのに対して、同様に人中路を斬って真直に斬り降ろす技であるが、 この論理の根底に、真直斬りがさらに角度を持ち斜斬りになっても、同様に人中路を 斬れば敵の拳に勝てるという理がある。転「まろばし」である。 |