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鞍馬礼讃 ー 鞍馬寺晋山式 ー 鞍馬山は深い静けさに包まれていた。空は冴え冴えと澄み、谷間を渡る風には冷気が宿る。木々の枝先は紅を含みはじめ、秋の気配はひそやかに色を濃くしていた。 やがて堂内より心経が湧き起こる。低く、深く、幾重にも重なる声は、まるで大地そのものの響きのように胸奥に迫る。心経は天井を伝い、木組みに反響し、音は光と交じりあって空へと溶けていく。 燈火は絶えずゆらぎ、しかし消えることはない。燭台に揺れる炎は風に呼応するように細く震え、その一滴の光が闇を押し返す。人の気配は静まり、ただ炎と心経とが堂内を支配する。 新たなる法燈が掲げられるとき、山はひときわ深く息づく。鞍馬寺の歴史が頁を繰るその瞬間、参列する者の思いを超え、自然と宇宙とがひとつに結ばれて、山は法の器としての姿をあらわす。 |
牛込の咖喱 新宿駅の雑踏を抜け、都電荒川線に揺られて若松町へ向かう。街の喧騒も次第に遠ざかり、静かな住宅地へと電車は入っていった。 目的地は、旧本部道場。そこに、植芝盛平――人々から「大先生(おおせんせい)」と敬われる合気道の創始者がいた。 木造の平屋建ては、外見こそ慎ましくとも、一歩足を踏み入れると空気が変わった。道場は畳八十枚がきれいに敷き詰められ、武道の香気と緊張感が漂っていた。だが、不思議と威圧感はなく、むしろ人を包み込むような静けさがあった。 道場から奥の廊下へと案内される。襖の向こう、座敷の一間に入ると、机の前に座した一人の老人がこちらを見つめていた。 植芝盛平――その眼差しには、年月を超えてきた深さと、子供のような澄んだ輝きが同居していた。 「二条大橋を渡ったところやったな、お父さんには世話になった」 柔らかな声だった。だが、その響きには、道を極めた者の確固たる核が感じられた。 話題は自然と武の本質へと向かった。大先生は「正勝吾勝勝速日(まさかつあかつかつはやひ)」について語り始めた。 「弛まず、怯まず、速きに勝つの心意気じゃ」 その声には、理屈を超えた実感がこもっていた。教えを説くというより、自らの血と肉となったものを分け与えるような言葉だった。 「つまりな、信念を貫けということじゃよ」 その一言が、胸の奥に刺さった。言葉の意味以上に、語る人の気が、鋭くこちらの腹の底まで届いてくるような気がした。まるで、こちらの未熟や迷いを、すべて見透かされているような――。 ふいに、大先生が立ち上がった。 「よし、演武を見せてやろう」 その瞬間、空気が変わった。 道場に立つ大先生は、先ほどまでとまるで別人のようだった。枯れ木のように細い身体に、武の気が満ちてゆく。 その背中には、幾千の技と修練の歳月が、静かに、そして凛と張り詰めていた。 |
安倍川餅 嘉納治五郎師範の命を受け、若き日に植芝道場へ入門し、塾頭を務めた男。植芝盛平師より大東流合気柔術奥伝の巻物を授かり、八段の最高位を允可された達人。その名を望月稔という。 静岡市大工町。冬の光が町を淡く包み、通りの先に木造の古い建物が姿を現した。そこが自宅だった。 戸を開けるや否や、先生は低く響く声で言った。 「合気道はあんなものではないのですよ」 その眼差しは鋭く、しかし温かみを帯びていた。 「合気道とはね、敵が素手で来たときも、それを素手と思ってはいけない。剣を構えて迫ってくると想え。まずは合理的な体捌きで力の衝突を避け、敵の急所へ、こちらも剣で切り込む心で反撃し、制するのです。そして、それを繰り返し稽古することで、合気先々の『感』を自得せねばならない。要するに、合気の本質は感の働きなのです」 先生は言葉を区切り、静かに息を吐いた。 「その感が鋭くなることが、技術上の最高目標。そして技術を超えたところで、感の扉が開く。その境地こそが合気なのです」 安倍川のほとり、養正館道場。かつて数多の弟子たちが、畳の上で汗を落とし、気と気をぶつけ合った場所。その中心には、いつも望月先生の静かで確かな立ち姿があった。 |