むかし、むかし、あるところに、
吾作、という一人の百姓が住んでおった。
吾作は、毎日毎日遅くまで一生懸命
真面目に働く、加勢大周似のいい男であった。
しかし、働いても働いても領主の脇坂家の年貢は重く、
その上勘定奉行の村下頼母は年貢の収量をごまかし、
私腹を肥やしていた。このようなことではいくら働いても
吾作の暮らしは楽にならなかった。江戸期も中期以降は
農村から江戸や大阪への都市に農民が流出していくことが
多くなった。これは単純に年貢が重くなっただけではなく、
農村においても貨幣経済が浸透し、通常の耕作だけでは
田地を維持することが小農民には困難になってきたことの現れである。
領主側も経済の大半を米に依存していたが、
全国的な米の収量増加にともない米価は時代とともに下落していった。
その半面で武士階級にも貨幣経済の波は押し寄せていたため、
米を売却して貨幣にかえる武士の生活は徐々に苦しくなっていった。
そのため幕府や藩はたびたびの倹約令を出して経済活動を抑えようとする一方、
さらに年貢を徴収し、収入の増加を図ったのである。
これが更なる幕藩体制の矛盾を生み出したのはまさに
時代の皮肉と言ってよいだろう。
吾作はこんな辛気臭い現実から逃れたく思っておった。

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