人生至る所に中島みゆきを見るという
「カバコフ」さんの質問。
「私は先のとがったものが嫌いで、
食事中でも対面で座っている人の箸やフォークが気になって仕方がありません。
どうやったら先端恐怖症は治りますか?」

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「どうもこうもありませんよまったくもうとおっしゃる
「牛」さんの質問

「フィッティングパラメータとしての実験値を欠く多元系合金のEAM原子間ポテンシヤルの計算ってどうやるんですか 」

そのへんは金沢工業大学の島崎吉朗さん、西屋秀昭さん、吉川明靜さんに聞いていただければよくわかると思いますが
わかる範囲でお伝えいたしましょう。
日本における計算と言うのは和算の発達を抜きにしては語ることができません。
和算というのは中国の算術の系譜を引くものですが、江戸時代には独特の発達を見せ、関孝和などの天才などを
数多く生み出した独特の数学です。そのほかにも在野の算学者は多数いました。
そのような数学者は各地の神社に「算額」と呼ばれるものを奉納していました。
これは自分の作った難しい算術の問題を額に書いて納めるもので、自らの研鑚の結果を神に感謝するとともに、
「この問題を解いてみろ」という、全国の算学者への挑戦状でもあったのです。
江戸時代は、そういった算学者の激しい戦いが人知れず行われていたのです。
明治時代になって、西洋数学の伝来により和算は姿を消しました。しかし、飛騨や能登の山奥に人知れず和算者が
隠れ住んだのです。 20世紀、数学・科学・化学などの各分野は激しい発達をとげました。
しかしそのような先端技術に必要な値を計測する際、西洋数学は大きな壁に衝突したのです。
すべての値が西洋数学によって計算できるわけではないのです。いくつかの重要な証明が
数多くの数学者の努力によっても解明されつくしていない現状を見てもそれはわかるでしょう。
しかし、化学・科学の分野は、数学のデータを必要としています。
フィッティングパラメータとしての実験値を欠く多元系合金のEAM原子間ポテンシヤルの計算を要求されることもあるのです。
そんな際に、日本の山奥に隠れ住み、和算の秘伝を受け継ぐ和算者の力が必要とされるのです。
優れた和算者は、西洋数学では時間がかかりすぎて証明できない、完全に正確な値を瞬時にはじき出すことができるのです。
いわばこうした計算は彼ら和算者を探し出し、協力を要請することがすべてだと、いえるでしょう。
「いったいどうしたら、瞬時にそんな値を出すことができるんですか?」
私は、和算者に一度そう聞いたことがあります。
「算術、即ち心…。正しい心がなければ、正しい値を出すことなどできぬ…。」
次の瞬間、あたりは真っ暗になり、和算者の姿は掻き消えていました。
今も日本のどこかで、和算者たちは計算をしつづけているという…。

「まずはデッサンから(謎」と言うことが言いたくて仕方なかった
「なばばふぃっしゅ」さんの質問。

「我が家にもやっとADSLが開通したので家庭内LANを構築したのですがカテゴリ5のケーブルが太くて邪魔です。
このケーブルの中には何が詰まってて、何が流れているのですか?」

以前、ケーブルの中に飯粒を詰める仕事をしている人と話をしたことがあります。
その人が作っていたのはケーブル寿司でしたが、ケーブルの中に物を詰めるというのはなかなか
たいへんなことです。 ケーブルというのはビニールなどでつつまれているので中に物を詰めるには
端っこの切り口から詰めなくてはなならないからです。飯粒を崩さないように詰めるのには
なかなかの技術が必要です。細長い棒を使います。
さて、ケーブルに流れているのが何かといいますと、まず時間が流れています。
悠久の時間はわたしにもあなたにも、そしてケーブルの中にも流れています。
そして耳を澄ましてみてください。 心ゆさぶるメロディが流れているのが聞こえてきませんか?
カテゴリ5なんだからジャクソン5かフォルダー5かなんかじゃないでしょうか。
聞こえてこない場合はあなたの耳に何か詰まっている場合があります。お近くの耳鼻科に相談を。

ウッヒャッヒャ。というメッセージをくださった
「IKUO」さんの質問

「のび太の先生はどうしていつも裏山をうろついているのですか?」

のび太というのは藤子不二雄Fさんの描かれた漫画作品「ドラえもん」の作中に登場する少年の名です。
のび太という少年は、自らの子孫によって派遣されてきた機械人形「ドラえもん」のポケットから出されるさまざまな道具により。
日々のさまざまな欲求を満たし、また満たそうとして剛田武少年と骨川スネ夫少年によって凄惨な事態に陥ることもあります。
「ドラえもん」という漫画作品は小学館の教育雑誌「小学一年生」などに連載され、ここ20年ほどの少年の情操教育に
重要な位置を占めています。教育評論家の原田慶治氏の指摘によると、
「(前段略)のび太という少年は一見成長しないようで、実はさまざまな成長をしている。
作品、特に映画のなかで見られる、さまざまな人と出会い、別れる事象は人間の成長において重要な要素である。
視聴者である子供はのび太に感情移入し、同化する事によって、成長を体験する。
ドラえもんという作品には、成長への準備としての教育効果がたいへんに強いものである。
いわばドラえもんの作品に出てくるすべてが教育といえる。 」
とのことです。
ということは、ドラえもんの作品に出てくるすべてが、のび太の、いえ、視聴者である我々の先生であるといえるでしょう。
裏山もうろつくでしょう。町も歩くでしょう。空も自由に飛びたいでしょう。おもいっきりテレビにも出るでしょう。
問題はその先生から何を学び取るかです。それはあなたに課せられたことといえるのではないでしょうか。

 

「渡る世間は鬼ばかり…って鬼いないじゃないか!!
二月の節分の時に探してもいなかったので、仕方なく見えない鬼との仮想バトルシュミレーション。」と、
泉ピン子にやさしい

「菊地和磨」さんの質問

「おやじギャグは寒いのですか?」

最近の風潮にも困ったものです。最近では何かギャグを言ってはずしたりすると半笑いで「さむーい」とか言う若い一般大衆が増加しています。
本来は芸人内の業界用語であったはずの言葉が流出しているのですが、意味がよくわかっていない方が多すぎます。
本当の寒い状況というのは寒いなどと口が裂けてもいえないのです。
それこそ天が裂け地もさけるほどの強い衝撃をあたりにいる人間すべてに与え、八寒地獄の底に突き落とすようなものです。
半笑いで言えるような生やさしい状況ではないのです。
それほどの「おやじギャグ」 など数えるほどしか存在しないはずです。
おやじギャグ一般が寒いというのは早計といえるでしょう。

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