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リュナの話


 村はずれのディクス神のほこらに馬車が止まっているときいて、リュナは水くみのついでに、ほこらによってみた。
 白い石作りのほこらの横には、黒い古い馬車と、二頭の栗毛の馬がつながれている。
 リュナはこどもの話し声が聞こえてくるほこらには近づかず、そっと馬車の中をのぞいてみた。
 食料が入っている麻袋。衣類が入っている包み。金目のものは見当たらない。
(商人の馬車じゃないのかい。しみったれてるね)
 リュナは肩をすくめて、行こうとした。
「なにか、用か」
 背後から声をかけられて、びっくりした。ここまで気配を消せる人間を、リュナは他に一人しか知らない。
 黒マント、黒ずくめの服に、黒い帽子。年は自分と同じくらいか。鋭い目がリュナを値踏みするように見ている。
 リュナは鼻をつんとあげ、茶色の巻き毛をさらりとなでた。
「なに、カプティアの商人さんなら、めずらしいものでも持ってるかと思ってね」
「あいにくだな。商人ではない」
 男は、再びリュナの上下を見た。
 薄汚れた麻のシャツに、すすけた赤のスカート。
 貧しい農婦の姿ではあったが、頭に巻いたあざやかな水色のスカーフが目を引いた。
「おまえ……トルティアに行ってみたいと思わないか? 大宮殿で、きれいな服を着て働いてみる気はないか?」
 フッ。
 リュナは鼻で笑った。
「あんた、その格好、そのマントの下の剣……悪名高い『皇帝の手』だね。女を誘惑するときには、もっと甘い言葉で誘いなよ」
 「皇帝の手」は暗い目を細める。
「……だけど、トルティアね。さぞかしきれいで豪勢なところなんだろうさ。行ってみたいもんだね。ぜひとも」
 リュナはきらりと光る目で、「皇帝の手」を見た。
「……おまえ、年は?」
「二十一」
「家族は?」
「天涯孤独さ」
 「皇帝の手」はあやしむような目で、リュナを見た。
 皇帝好みの女と見れば、無理やりにでも略奪するという噂のある「皇帝の手」にしては、ずいぶん慎重だ、とリュナは思った。
「どうするよ?」
「……よし、来い」
 突然慎重さをかなぐり捨てたかのように、「皇帝の手」はリュナの手を乱暴に取った。
 そのとき、二人の前に、影がすべるようにして現れた。
「なに?」
 リュナは驚きの声をあげる。車輪の足のついた黒い体の上に、赤い目の丸い頭。
(デイゴン)
 リュナの、封じていた記憶が呼び覚まされた。あのときも討伐の兵士たちに混じって、デイゴンがいた……。
「ギギ……なにをしている、ザハン。そのおんなはなんだ」
 デイゴンのぎくしゃくした声に、「皇帝の手」ザハンの手が汗ばむ。
「……ギー、おれはこの人をトルティアに連れていく。エルはここに置いていく」
「……なんだと? それはめいれいいはんではないか。こうていへいかはカプティアからうたひめをつれてこいと、おまえにいった」
 リュナはザハンの手をはなした。なんの話をしているのか、よくわからない。
「一昨日わかったじゃないか。エルは、本物の歌姫ではないんだ。しかも、歌が尋常ではなくへただ。それなら、この人を連れていった方が……」
 デイゴンのギーは目をチカチカさせた。
「??……りかいふのう。エルがほんものでないなら、このおんながほんもの……?」
「……まあ、そんなようなところだ。どう考えても、エルよりこの人の方が歌がうまいはずだからな」
「……うまいとはなんだ。にんげんのうたのことはよくわからない」
「聞いて心地よい……そうだな、その、なんだ、音転移が調和してることを言うんだよ。歌を比べてもらえればわかるはず」
 ザハンはリュナを振り返ったが、そこにリュナはいなかった。リュナは十メートルほど離れて、一抱えほどあるみずがめを頭に乗せて行こうとしている。
「おい……トルティアに行くんじゃないのか?」
「ばーか。待たせる男は嫌いだよ」
「なに? 待て、悪かった。あなたが必要だ」
「もう遅いよ。行っちまいな!」
 吐き捨てて、リュナは背を向けた。
 なおも呼び止めようとするザハンの腕を、ギーが銀色の手でつかんだ。
「しゅっぱつだ」
「しかし……」
 リュナは振り向かずにぐんぐん歩いて、川への道を下った。
 トルティアに行く。貴族や皇帝と結婚する。小さいころは、カプティアの歌姫とならんで、だれもがあこがれる夢だった。
 貴族や皇帝の醜い権力争いや後継者争いにまつわる悲劇を聞き、それが決して幸せなことではないと理解した今でも、トルティアに行くことがこの貧しく夢のない生活から抜け出す唯一の方策だと、リュナは思うのだった。
(ミリア……あたしだったら、きっとあんたよりはうまくやると思うよ)
 友の名前を思ったとたん、封じこめていた記憶が一気によみがえってきて、リュナは思わず足を止めた。
(ミリアは死んだ。カンもルウもサウスも、父さんも母さんも。そして、もうメリドゥスも死んでいる……)
 リュナは、最後に一人の男の顔を思い浮かべて、すべての思い出を追い払った。
「ケヴィンのやつ……。それでもジンといっしょに皇帝をたおすっていうの? そんなことできっこないのに、まだあたしを待たせるのかよ……」

*ルナ郡の南東部に位置するラナ村が、時の皇帝メリドゥスに対して反乱を起こしたのはこれより二年あまり前のこと。ルナ郡総督軍を破り、一時ルナ郡全域に広がるかと思われた反乱だったが、やがてトルティアから到着した討伐軍に敗れて村は完全に破壊され、生存者はちりぢりになった。しかし、頭目のジンとその仲間は、いまだに税金強奪などの反帝国活動を行っている。

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