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                    自己変革の極意

 覚醒、悟り、解脱、霊的成長といった「自己変革」を実現するために、私がもっとも大切である思うことを紹介させていただきます。これは、私が主催する哲学&瞑想の教室「イデア ライフ アカデミー」の基本理念でもあります。


 私たちは「操り人形」であり「夢遊病者」のようなもの
 覚醒や悟りとは、エゴという「偽りの自己」を破壊し、魂という「真の自己」を目覚めさせることです。つまり、覚醒していない私たちは、偽りの自己で生きており、偽りの自己というものは、実体のない機械的な衝動や空想に過ぎませんから、私たちは衝動に操られて生きている不自由な「操り人形」のようなものであり、あるいは空想世界に生きている「夢遊病者」のようなものだということができます。そのために、自分の本意ではないことをして、自ら苦しみを招いたり、本来の生き方をしていないという虚しさを感じたりするのです。世俗の喜びがあるときには、こうしたことも一時的に忘れることもできますが、この世界は無常ですから、いずれその喜びも失われます。そのときあらためて、人間という存在が置かれている、不安定で、はかない、苦悩に満ちた実体が自覚されるのです。
 こうした事実を、はっきりと、あるいは薄々ながらでも気づいた人が、世俗の快楽でごまかすのではなく、何が起きても揺らぐことのない、絶対的な自由と幸せの境地を求めて、覚醒、悟り、解脱といった宗教的な道を歩み始めていくわけです。それがいわゆる本当の「自己変革」です。

 霊的修行に待ち受ける「落とし穴」
 ところが、覚醒や悟り、解脱をめざして霊的な修行をしていくとき、大きな落とし穴が待っているのです。
 すなわち、覚醒していない私たちの意識を支配しているのは、基本的にエゴですから、覚醒したい、悟りを開きたい、解脱をしたい、という動機も、エゴの動機に基づいている、ということです。
 エゴというものは、快楽志向であり、自己中心的で、人よりもすぐれた存在として認められたいという「優越感」のかたまりです。エゴは、快楽を得るために、自分の利益のために、人よりもすぐれた存在として認められ、優越感に浸るために、行動を起こすのです。それがエゴの行動の動機となっています。それ以外の動機はありません。エゴとは、そういう生き方を衝動的にさせようとする、ある種の機械なのです。ですから、エゴに支配されている私たちは、パターン化された思考や行動をするだけの、いわばロボットのようなものなのです。

 覚醒(悟り、解脱)を求めて修行しても、覚醒は得られない
 したがって、覚醒とか悟りとか解脱を目的として、つまりは「エゴの破壊」を目的として修行しているつもりでも、実は、エゴの欲望を満たそうという動機が働いているのです。自分ではそのことに気づいていません。自分はあくまでも、エゴを破壊する「聖なる目的」のために修行しているつもりでも、実はまったく逆のことをしてしまうのです。
 たとえば、瞑想に少し熟達すると、脳内の麻薬物質が分泌されて、とても気持ちがいい状態になるのですが、エゴは快楽志向ですから、そういう独りよがりな快楽を、あたかも高い境地に達したかのように錯覚し、脳内麻薬の依存症になってしまったりします。
 また、私が過去にいろいろな修行道場に行っていた頃の話ですが、尋ねてもいないのに、「自分はこんなにすごい修行をした、あんなにすごい修行をした」などと、自慢気に話す人がいたりしました。エゴの破壊が覚醒であり悟りであって、そのための修行であるはずなのに、逆に修行が、エゴを強化してしまっているように感じられました。確かに、荒行や苦行のような厳しい修行をすると、「自分はこんな修行ができるんだ」という自信のようなものがつくのですが、それはエゴの自信であり、エゴの優越感にすぎないのです。

 エゴの落とし穴にはまってしまった人たち
 エゴは優越感のかたまりですから、結局は「覚醒して、悟りを開いて、人から認められたい」という動機で修行することになります。さらにエゴは空想を創り出す働きがありますから、修行を続けていくと、「自分は覚醒した」、「自分は悟りを開いた」といった空想(というより妄想)に埋没してしまいます。そうして、自分はグルであるとか、偉大なる救世主だなどと口走り、人を見下して自己優越感に浸り、さらには支配欲が強くなって、弟子や信者を集めて自分への服従や崇拝を強要したりします。
 エゴの自己優越感、それはある種のプライドということにもなりますが、そのために、そのプライドを損ねる言動を少しでもすると、すぐに怒りの衝動が湧き上がるという特徴があります。実際、修行を熱心に行っていた人だとか、教祖だとか、グルだとか言う人の多くが、「怒りっぽい」という特徴があるのを知り、びっくりしたことがあります。また、そのプライドの高さゆえに、自分より目立つ人に嫉妬し、他の精神的指導者や宗教組織などに対して攻撃的になったりします。自分のもとから去っていった弟子や信者を攻撃したり、ののしったりすることもあります。
 エゴというものは、私たちを「偽り」、「悪」、「醜さ」に駆り立ててしまうものだと、つくづく思ってしまうのです。
 エゴが動機の根底にあるために、熱心に修行すればするほど、エゴが強化されていってしまうという、本末転倒の事態が生じてしまうことは、深く肝に銘じなければなりません。繰り返しますが、エゴの破壊こそが覚醒への道なのに、逆にエゴを強化させてしまうのです。これではまったく「自己変革」にはなっていません。あいかわらずエゴの意識のままなのですから。
 
 人を覚醒に至らせる真の「目的」とは?
 このような例が、宗教やスピリチュアルの世界には、あまりにも多いのです。
 このことは、私自身にも当てはまることがあったことにも気づき、おおいに反省し、考えさせられました。
 では、いったいどうしたらいいのか?
 覚醒、悟り、解脱を得たいと願うのですが、それを目的にしたら、邪道にそれてしまうのです。覚醒しない限り、その行動のすべての動機は、エゴを土台にしているからです。
 そのために、いろいろと試行錯誤しましたが、しだいに、あるひとつの結論へと収束していきました。
 それは、古代ギリシアの哲人プラトンの言うイデア、すなわち、<真善美>の生き方をすること、自分という存在を<真善美>に近づけていくこと、平たく言えば、自分を立派な人間に成長させていくこと、これを目的とするべきではないか、ということです。
 そして、その結果として、ある意味で副産物的に、覚醒や悟り、解脱が得られるのではないかと考えたのです。いえ、というよりは、<真善美>に生きること自体が、覚醒であり、悟りであり、解脱であると言った方が正解かもしれません。
 なぜなら、私たちの魂の属性は、<真善美>であると思われるからです。つまり、<真善美>の生き方をするというのは、魂の生き方をするということであり、覚醒とは、魂の意識に目覚めることであるから、<真善美>の生き方をすることが、すなわち覚醒への道であり、悟りや解脱への道ではないかと、そう気づいたのです。
 ですから、覚醒や悟りや解脱を目的にするのではなく、<真善美>の生き方ができる人間になること、このことを、修行の目的にするべきなのだという結論に達したわけです。

 <真善美>を修行の目的にする
 もちろん、覚醒していない私たちにとって、あらゆる行動の動機はエゴですから、<真善美>の生き方をしようとするときにも、エゴが動機になっていることになります。
 しかし、本当に<真善美>についての理解を深めていくならば、先ほど述べたような、エゴがもたらす<真>とは反対の「偽り」、<善>とは反対の「悪」、<美>とは反対の「醜さ」を自分自身に見つけたとき、必ず違和感が生じ、反省の念が生じるはずです。それは私たちの本質である魂の属性に反するものだからです。だから、<真善美>を修行の目的にするべきだと私は思ったのです。
 ただしその際、気を付けなければいけないのは、自分は<真善美>とはまったく反対であるのに、あたかも<真善美>であるかのように空想してしまうことです。エゴは非常に狡猾で姑息ですから、適当な言い訳や屁理屈をこねて、そのような空想に私たちを埋没させてしまいます。そして、「自分は<真善美>を体得した偉い人間なんだ、だから、私を認め、敬わなければならない」といったように、エゴを増強させかねません。そうして自己優越感に浸り、露骨ではないにしても、秘かに人を見下すようになってしまう危険が残っています。

 エゴと闘うための二つの「武器」
 では、いったいどうすればいいのでしょうか?
 そのためには、「自己観察」と「他者への敬愛」の二つが必要不可欠であると、私は考えました。
 自己観察とは、自分の思考や行動を、ありのままに認識することです。決してごまかすことなく、醜い点もしっかりと見つめることです。これは訓練によって少しずつ強化されていきます。自分の醜い面を見ることは愉快ではありませんが、それはエゴが不愉快に思っているのです。エゴが不愉快に感じる状況こそが、エゴを弱体化させ、ついには破壊へと至らせることができるのです。
 そしてもうひとつは「他者への敬愛」です。いかなる相手に対しても、敬意と愛の念を向ける姿勢です。つまり、人を見下すエゴとは反対の姿勢を貫くのです。別の側面から見れば、「謙虚さ」ということになります。これも、優越感に浸りたいエゴにとっては愉快ではないことが多いのですが、忍耐強く続けていけば、しだいに堅固なものになっていきます。
 以上の二つは、エゴと闘うための「武器」です。他にも武器はあるのですが、主要なものはこの二つです。この武器をもって、<真善美>の生き方をする、自分を<真善美>に近づけていく、という目的で修行していくこと、これが「自己変革の極意」であると考えているのです。

 イデア ライフ アカデミーで学んでも何もよいことはない?
 以上のような理念に基づいて、私はイデア ライフ アカデミーという教室を開催しています。(→イデア ライフ アカデミー
 つまり、イデア ライフ アカデミーの目的は、「<真善美>の生き方を学ぶ」、「自分を<真善美>に近づける」ことです。覚醒とか悟り、解脱といったものは、あくまでもその結果として生じると考えるので、覚醒や悟りや解脱そのものを目的には掲げていません。もちろん、世俗的な恩恵といったことも掲げていません。何よりも人間性が立派になることが重要だからです。
 最初は、いきなりそのようなことを言うと敬遠されてしまうと思い、いくぶん控えめながら世俗的な恩恵についても言及していたりしたのですが、それは不誠実な対応だと反省して、今はいっさい、そうしたことは口にしていません。今では、「イデア ライフ アカデミーに学びに来ても、幸運が引きよせられることはありませんし、お金が入ったり、仕事で成功したりといったこともありません。悩みや苦しみが解決されることもありません」と言っています。
 すると、たいていの人はきょとんとして来なくなるか、あるいは、「では、どんなよいことがあるのですか?」と尋ねます。私は「何もよいことはありません」と答えます。覚醒していない私たちにとって「よいこと」とは、エゴを喜ばせることだからです。エゴを喜ばせたら、エゴはますます強化されていき、最終的には人を不自由にし、不幸にするでしょう。エゴの喜びは飲酒と同じようなもので、飲んでいるときは気分がいいですが、酔いが醒めると禁断症状に苦しむことになります。
 いずれにしろエゴは、何らかの報酬を求めないではいられないのです。つまり、報酬を求めない道こそが覚醒への道なのです。だから私は、「イデア ライフ アカデミーで学んでも、何もよいことはありません」と答えるしかないのです。
 実際には、<真善美>の生き方をすることで、世俗的な恩恵が得られたり、悩みや苦しみが解決する可能性は高くなるのですが、そのことは言わないようにしています。それを言うと、自分をだまして、本気で<真善美>の生き方をするのが目的ではなく、世俗的な恩恵を得ることを秘かな目的にしてしまうからです。

 自分を成長させるという「魂の喜び」
 イデア ライフ アカデミーで学ぶ恩恵があるとすれば、エゴの喜びではなく、魂の喜びです。
 魂の喜びとは、<真善美>の生き方をすること、そのこと自体です。<真善美>の生き方をしたから、その報酬として何かよいことが手に入る、というのではなく、<真善美>の生き方をすること自体が、喜びであり、あえて「報酬」という言葉を使うなら、それこそが報酬です。
 その喜びは、エゴの喜びのように苦しみに変わることはありません。なぜなら、もともと私たち本来の姿である魂から来る喜びだからです。他者と比較することもしません。比較するのは「過去の自分」です。すなわち、「過去の自分と比較して、こんなに立派になった、こんなに成長したぞ」という喜びです。自己優越感とか自慢などとはまったく無縁の喜びです。
 こうした考えを持っている私に、ある人が言いました。
 「斉藤さん、そんなに正直すぎると、人は来ませんよ。とりあえず、幸運を引きよせるとか、悟りが開けるとか言って宣伝して人を集め、後から本当のことを教えていけばいいではないですか」
 確かに、何の報酬もなく、ただ自分を立派にすること自体に喜びを見出し、そのためにわざわざ、時間とお金をかけて学びに来るなどという人は、本当に少数なのだと思います。「自分を立派にすることはよいことだろうけど、そんなことをしてもあまり得にはならないし、面白くもないし、情熱も湧かない。そんな時間とお金があるなら、仕事の疲れを癒したり、ゲームや趣味に費やした方がいい」という人がほとんどなのかもしれません。おそらくこの世の99%の人は、即席の世俗的なエゴの喜び、あるいは、覚醒や悟りといった、一見すると神聖に見えるが実はエゴの喜びを求めているのでしょう。
 だからといって、人や自分をだますようなことをしてまで人を集めたいとは思いません。たとえどんなにわずかでも、以上のべてきた考えに共感してくれる人が、きっといると信じています。そういう人が学びに来てくれることを、切に期待しています。

 エゴについてさらに詳しく知りたい方は、「エゴからの脱却」をお読みください。

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