蝶蝶
・壱・
紅い色。
黄色の光。
紫陽花色の霧。
黒い土の上。散っていく、赤いもの。
それは、自分の血。
耳に届く、仲間たちの声。まるで他人事のように。
ゆっくりと倒れていく体が重くて。
感覚さえも麻痺していく。
その中で、彼の声だけがやけにはっきりと聞こえた気がした。
・弐・
何も――できなかった。
自分は無力な傍観者でしかなく。
現実を把握することすらできずに、ただ立ち尽くしていた。
後に続く、狂いそうな焦燥を抑えるのが精一杯で。
自分がどうしてここにいるのか。
自分が何をするべきなのか。
それすらわからないまま、動けなかった体が震えていた。
――僕は――君を護るために存在しているのに。
・参・
夢を見ている。
昔の夢だ。
夢の中の自分は、何もなく、ありきたりの日々の中に埋もれていて。
俺は、いつものように笑っていた。
それが「真神」に来る前のことだとわかるまでに時間がかかったのは。
たぶん、それがあまりに幸せすぎたせいだろう。
――でも、本当にこんな日々だったのだろうか?
思い出せない。
俺はきっと――。
・肆・
意識は戻らない。
どこか――彼の体に何かあったのか。
他の仲間たちが何か話している声がした。
――駄目だ。
体がいうことをきかない。
震えが、あの時の震えが止まらない。
僕の中で何かが暴れている。
数ヶ月の間に彼がうえこんだ感情が、今更になって。
このままではいけない。このままではいけない。
このままではいけない。このままではいけない。
このままではいけない。このままではいけない。
このままではいけない。このままではいけない。
仲間たちの声が、やけに――遠かった。
・伍・
俺はきっと、元の生活には戻れないのだろう。
あの「平和」な、「真神」に来る前の生活には。
だから昔の自分の幸せが、こんなに遠く感じるのだ。
たとえ自分の血が流れても。
どれだけ自分が傷ついても。
俺はきっと、今の「真神」のある日々を選ぶ。
宿命も何も関係ない。
それが――俺の戦う理由。
・陸・
涙すら出ない。
いや、まだそれには早いのか。
いっそ泣くことができたなら、どれだけ楽だったことか。
うなだれた顔を支える手。その指も震えたままで。
彼の存在が、自分の中でこれほど大きくなっていることを。
他ならぬ自分が気づかなかった。
気づかぬフリをして――それに甘えていたかったのか。
抑えようとする意志と暴れようとする感情。
気が――狂いそうになる。
助けてくれ。
――龍麻。
・漆・
夢は――まだ続いている。
避けることもできた。
逃げることもできた。
それでもあのとき、俺は動けなかった。
萎縮していたわけでも、恐怖していたわけでもない。
俺が避ければ、後ろの仲間が傷を負う。
――それだけは嫌だった。
自分が傷つくのは耐えられる。
だが、仲間が血を流すのも、涙を流すのも御免だ。
俺の戦う理由は、仲間たちにあるのだから。
これ以上――俺の仲間が傷つくのは嫌だ。
もう誰も傷つく必要なんてないから。
だから俺は動けなかった。
でも――。
・撥・
僕は…何をしている?
たった一人にこれほど振りまわされて。
僕は何をしたい?
僕は何を望んでいる?
コノママデハイケナイ。コノママデハイケナイ。
コノママデハイケナイ。コノママデハイケナイ。
それはわかりきっているのに。
僕はどうしていいかわからない。
壊れていくのだろうか。
ゆっくりと、このまま。
それでもいい――ふと、そう思った。
・玖・
本当をいえば、俺も戦いたくなんてない。
戦えば、誰かが傷つく。誰かの血が流れる。
それが誰のであれ、嫌だ。
でも、ここで俺が死ねば逃げられる。
目覚めなければいい。
このまま眠り続けたら。
誰かが悲しんでくれるだろうか。怒ってくれるだろうか。
他の誰でもない俺のために。
苦しいんだ。本当は。
助けが欲しくなることもある。だから皆一緒にいるのだろう。
それでも、結局のところ、人間はそれぞれ一人でしかなくて。
俺の背負うものを代われる人間などいなくて、俺も他人を背負えなくて。
それがつらくて――逃げ出したくなる。
・拾・
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――龍麻。
・拾壱・
逃げたなら――俺は何処へ行く!?
何処へ逃げられるというのだろう。
俺が背負っているものは誰にも譲れないというのに。
自分がどうしたいのかわかりきっているくせに。
俺と言う人間はここにしかいなくて。
ここにいる俺を待っている人間がいて。
――龍麻。
そして、俺を呼んでいる人間がいて。
・拾弐・
もしこの声が君に届くなら。
答えてくれ、龍麻。
僕はどうしたらいい?
僕はどうなればいい?
もう一度――僕の名を呼んでくれ。いつものように。
他の誰でもない、君の声で。
・拾参・
俺には、守りたいものがある。譲れないものがある。
誰にも渡せない、俺だけのものが。
どうしてもあのとき、俺を動かせなかったものが。
呼んでいる。何度も何度も俺の名を。
まるで泣きそうな声で。
幸せなままの夢。所詮それは幻でしかない。
俺の迷いが生み出した、偽りの理想。
そんなものは、もういらない。
――消えろ。俺の逡巡、俺の幻想。
すべての弱さごと、そのまま砕けてしまえ。
蝶の羽のようにもろい夢よりも、苦しくていい。
血で贖うだけの現実でもいい。
俺には帰る場所がある。逃げ出すには――まだ早い。
・拾肆・
「――如月さん」
誰かが、自分を呼んでいるらしかった。
力なく上げた顔に表情はない。
「龍麻の――意識が戻ったそうです」
――震えが…止まった。
・拾伍・
お前はやっぱりそんな顔をしている。
目をあけて、手が触れる。
冷たい、ずっと震えていたような指に触れて、笑った。
お前のいるこの世界で――よかった。
・拾陸・
「ただいま」