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「ヤりたい欲求」と「抱きたい欲求」
俗に「性欲」と呼ばれるものが、私の中ではまったく違う2つの欲求として存在します。それが、「ヤりたい欲求」と「抱きたい欲求」なのです。(私の命名なので、一般的な呼称ではありません)前回の「抱き枕」において、ちょっと説明不足だったので、あらためて説明します。
「ヤりたい欲求」
これは,もう,とにかく「セックスしたいっっ」という欲求です。もう、誰でもいいからしたいっっというタイプの欲求ですが、求めるものは現実のセックスではなく、幻想(妄想)の中のセックスです。ポルノの中にしかないセックス、と言いかえてもいいかもしれません。この「ヤりたい欲求」で私が求めるものは、アブノーマルセックスの中でも,「鬼畜」「猟奇」などと言われる類のものです。縛ったり、たたいたり、切り裂いたり。しかも、「もっとぶって」というのはダメで、無理やりじゃないと燃えません。「強姦したい/されたい願望」でもあるわけですね。現実においては傍迷惑なものなのです。そう、「現実においては」ね。
とても誤解されやすい事なのですが、私はこれを「現実に」もとめたりはしていません。私はよく「銃撃戦」に例えるのですが、映画や漫画の中の銃撃戦は、とってもカッコイイものですが、じゃあ、実際に銃を持って撃ち合いたいかというと、そんな怖いことはごめんです。それと同じで、縛ったり、たたかれたりというものを「気持ちよさそう」と感じるのはあくまでも妄想の中でのこと。実際に嫌がる相手にそんな事をして苦しみもがく姿を見ても楽しいとは思えません。まして、自分がされたら、痛いに決まってるじゃないですか。(私は、妄想の中では、するのもされるのも好き)
でも、「妄想の中での欲求」なわけですから、この欲求は妄想の中で満たされます。アダルトビデオ、18禁ゲーム、成年コミック・小説、イラスト、写真などで、この欲求は満たされます。逆に、これらのもの(私はまとめて「ポルノ」と呼んでいます)に,私は「現実性」を求めてはいません。よく「リアルな」強姦シーンと称して、泣き叫ぶ女の子を殴りつけながら犯して、女の子は最後にはアザだらけ、などというものがありますが、そんなリアリティは私の望むものではありません。見ず知らずの人間に痴漢されて、あるいは、直径10cmもあるトゲ付きバイブを突っ込まれて、それを気持ちいいと感じる。そういう「うそ」を上手にそれらしく見せてくれるのが私にとっての「良いポルノ」なのです。そして、そういう妄想で、この「ヤりたい欲求」は満たされます。
「抱きたい欲求」
「抱きたい欲求」と呼んでいますが、同時に「抱かれたい欲求」でもありますが(前述の「ヤりたい欲求」も同時に「ヤられたい欲求」でもあるのですが)シンプルに「抱きたい欲求」と呼んでいます。
これはスキンシップへの欲求とも言えます。したがって、この欲求が求めるものは、接触であり、ペッティングや成功などといったものは、そのバリエーションにしか過ぎません。要らないとは言いませんが、どうでもよいことでもあります。
これは,現実の「接触」を求めるものであるので、妄想では片付けられません。同時に、ポルノ的な激しさは必要ありません。古い言いまわしに「肌を合わせる」というものがありますが、この欲求が求めるものは、きっとそれなのだと思います。そして、前回触れた、抱き枕で解消している欲求とはこの欲求なのです。この欲求が求める相手は、「どこの誰でもいい」というものではありません。身体の接触と同時に精神の、心の接触を求めているからです。いや、同時にではなく、心の接触をこそ求めているのでしょう。体の接触はいわばオマケなのかもしれません。
この2つの欲求が、ほとんど同じものを求めている人も多いでしよう。もしかしたら不可分である人も多いのかもしれません。ポルノに、ラブラブな内容を求めている人などは、きっとそうなのでしょう。しかし、妄想世界で私が求めるものは、実現不可能な荒唐無稽とも言えるものです。そこに「心」はありません。私の「性欲」は完全に2つに分かれているのです。
蛇足……かも
この2つの欲求とは別に、私には女性の乳房と膣、特に乳房への欲求があります。しかし、これは性欲とは似て異なるものです。
前にも書きましたが、私は自分の体に乳房がないことに、欠損感を感じています。この欠損感は上記2つの欲求に身と心を焦がされているときも、そしてそれ以外のときも私の心の中に湧き上がります。そんなとき、私は自分の胸に付けられないものならせめて触りたいと思うのです。スタイルのいい女性を見かけたときに、つい目で追ってしまうのは、たいていこれが理由だったりするのだけれど、どう考えても痴漢の視線なんだろうなぁ、端から見れば。
以上、前回の補足(?)でした。
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