孤高の天
Garako Inagaki Presents.



Dedicated to Ms.Kanoko Moegi.






 水音が聞こえたような気がして、クルガンはふと耳を欹てた。時刻は黎明前───つい、懸案だった同盟軍攻略のアイデアに熱中し、らしくもない夜明かしをしてしまった。一日くらいの徹夜で弱るような鍛えかたはしていないが、さすがに明日失態をしないとは言い切れない。また、その慎重さが知将の売りでもある。
 軍略のたすけになる古今の文書が揃っている書庫は、もはや何の気配があるはずもない。彼の手許のちいさな灯りと、窓から差しこむ色を薄くした星の光、それから明るみはじめている空が層をなし影をつくりあげていた。
 同じ翳りがクルガンの頬にも。
「……ふむ」
 気のせいではない。微かな水の跳ねる音、それがしんとした静けさを保つ回廊の向こうから響いてくる。
 ひろげられた書類の束や資料の本を丁寧に元の位置に戻すと、クルガンはそちらへ足を向けるべく書庫を後にした。


 普段ならば、その程度のことで興味を惹かれるような彼ではない。単に、自室に戻るためにそこを通る必要があったから、また、是非はともかく一旦途切れた集中力を今更回復するのには意味がないと判断したから、とも言える。ともあれ彼は、皇宮の騎士や士官たちが普段鍛練の後などに使う大浴場までやって来た。やはり源はそこだ。



 刹那。
 激しい、啜り泣きの声が洩れた。
 哀惜の。慟哭の。
 聞き覚えのある声だ。どころか、その声は───



「失礼」
 がらんとして寒々しい脱衣場を大股で横切り、誰にともなくそんな言葉を呟き、クルガンは浴室の扉を躊躇わず押し開けた。
 予想は違わず、そこには彼と彼の信頼する猛将が、ただひとり王と戴いた───
「陛下」
「……何。どうしたのクルガン」
 しかしその睛は何の感情も宿していない。浴槽の縁にうつぶせていたこうべをゆっくりとあげ、クルガンのほうをゆっくりと見遣った、その睛は。
 白い湯煙にも歪まされず蒼く冷たく澄んで、平時の彼とまるで変わりない。
 しかし、さきほどの慟哭は、たしかに彼のものだった。まごう筈はない。
 クルガンの眸にわずかに揺曳した動揺を、彼───ジョウイは見逃さなかったようだった。
「こんな時間だよ。寝てなかったのかい」
「陛下」
「見つかっちゃったか。カンがいいね。さすが我がハイランド軍の誇る知将だ。単に謀略に長けているだけじゃ、つとまらないよね。シードの動物的勘と、物事を総合判断してなお勘に頼れるあなたとのコンビは本当に」
 少しだけ、微笑を浮かべて。普段よりも心持ち饒舌になっているその言葉にもまったく皮肉は感じられなくて、彼が真実そう思っていることがはっきりとわかる。
「本当に頼もしいよ。───僕が傀儡になってもいい、って思うくらいには」
「何を───?」
「いや……」
 クルガンの言葉を右手を振って遮り、彼はそのまま白い細い裸身を、ゆっくりと湯の中に沈めた。
「濡れるよ。クルガン、あなたも入ってきたらどうですか?」
「いえ、陛下」
「陛下はやめてほしいな」
「では、ジョウイ様。そろそろお身体に影響があるのではないかと拝察いたしますが」
「うん、少しのぼせ加減かも」
「では私は」
「待って」
 踵を返そうとしたところで引き止められ、クルガンはまた振り向いた。独りの思考思索は独りであるからこそ意味がある、そこに闖入した自分こそが無粋であると判断したから、立ち去るべきだと考えたことを読まれたようだった。
「待ってよ。クルガン。お願いがあるんだ」



†      †      †




 酒卓をととのえて、クルガンはジョウイの到着を待った。暁がゆるりと闇を払拭していく。お願いがあるんだ、と言った彼の眸は、本当のことを言ってはいなかった。その奥処にある、彼の感情(こころ)は。
 甘目の弱い酒がよかろうか、とクルガンは暫し逡巡した。自分のための寝酒にはきつめの蒸留酒しかない。シードならば……いや、彼がそんなものを所持しているはずがないとクルガンは思い直した。
 寝室に隣接した形ばかりの、書斎兼用応接室の窓の向こうは、既に朝焼けに埋め尽くされている。眠ることが出来ても、きっとほんの短い間になるだろう。
 その傍の小卓に小さな椅子を二つしつらえ、浅く腰掛けてクルガンは訪問者を待った。その時───
「おい、クルガン。起きてるか?」
 騒々しい足音が近づいたと思ったらノックもなしにドアが勢い良くあけられ、そこからひょっこりと顔を覗かせたのは見慣れた赤毛の───猛将、シードだった。まさに、心を読んだかのようなタイミングだったので、クルガンは渋面をつくる。それをしていい相手だと解っているからだ。
「おまえか。今何時だと思ってる」
「あ、やっぱ起きてた? 不意に目え覚めちゃって、寝つかれなくてさ。オレにしちゃ珍しいことだから」
「だからなんだ。私がそれに関係あるのか」
 にやにや笑うとシードはクルガンの表情になど頓着せずに、二つしかない椅子の向かいがわに、断りもなくどっかりと腰をおろした。
「あ、酒? 客?」
「そうだ」
「じゃ、オレも」
「ダメだ」
「ケチ。いいじゃん、どうせおまえがこんな時間に、こんなに丁重に迎える客っていったら、オレの他には一人しか思い当たらない」
 シードが呑気な笑顔に鋭い眼差しを隠さず、ずばりと言う。なんという勘のよさだ。目を醒ましたというのも、彼はきっと本気で、それ以外の真実はないのだろう。
「貴様をこんな時間に迎えたくはない。とっとと戻れ。そして休め」
「やーなこった」
「……シード」
 語調を強めたクルガンにも、シードは無論怯まない。喧嘩は買ってでも受けてたつ、それが彼の行動理念に深く根差している。溜め息をつかないようにクルガンは自制した。それをしてしまえば、シードの勝ちだとわかっているからだ。
 不穏な空気が二人の間に垂れこめて、しかしそれは礼儀正しいノックの音で破られた。クルガンは間に合わなかったことを察知し、今度こそ深い深い吐息をついた。
「どうぞ。お入りください」
「失礼───」
 扉の影の暗がりから現れた湯上がりの、シンプルな夜着に身を包んだ、まだ髪にも肌にも滴を含んだままの、少年のほっそりとした姿をみとめてシードが今度こそ満面の笑顔を作った。
「ああ、やっぱり。ジョウイ様、お邪魔してます」
「───」
 クルガンは諦めて、もうひとつの椅子を探すことにした。またシード(こいつ)にしてやられてしまった。
 だが、それもそれほど悪くない、と考えていることにも気づき、二人には悟られないようにそっと、らしくもない苦笑を浮かべた。




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18thDecember.2000