―――何か、忘れている気がする。 ふら、と足許が揺れた。耳朶をうつのは、高い波の音。 あれ。 僕はぐるりと頭(こうべ)を巡らし、目に映るものをひとつひとつ確認する。 甲板。舳先。マスト。 見たことのない型式の中型帆船の甲板だ。きつい潮の匂いが―――ということは、ここはデュナン湖でも、トラン湖でもない。海だ。ハイランドの山育ちの僕は、物語でしか知らなかった“海”。 デッキの下部にある娯楽ホールから、人々の話し声が微かに立ちのぼってくる。僕の周囲に人影はない。一際高い笑い声がくぐもって夜の闇に吸われた。 どうしてこんなところにいるのかな。 何も思い出せない。 だけど不安はなかった。在るべき場所にいる安心感があった。 ゆっくりと足を踏み出す。その時、僕の後ろから、何気ない調子で声がかけられた。懐かしい声。だけど、耳に馴染む声。 「やあ。どうしたんだい?」 「ジョウイ―――」 「この船に君も乗ってると思わなかったな。でも、嬉しいよ。僕の目指す場所に君も一緒に行けるかもしれないから」 「え」 「……何も知らされていないの? そう。じゃあ、僕も言わないことにするね」 ジョウイは船上に吹く風に流されたようにふわりと微笑んだ。心底嬉しそうに。寂しさの翳りをその眸に少しだけ浮かべて。 「なんだよ、それ。ジョウイ、何か知っているの?」 「いや、僕が知っていることはほんのすこし……。だから、この船が行きつくところを一緒に見届けることが出来るのか、僕にはわからない。でもまあ、せっかくだからこの船旅を楽しもうよ。いやかい?」 「いやってことはないけど」 「だって、君と一緒なら僕は何も怖くない。君もそうだと思うんだけど」 何のてらいもない物言いに、僕は呆れて口が塞がらなかった。 「しょってるなあ」 「まあいいよ、僕お腹が減ってきたな。下に降りよう」 ジョウイはとても嬉しそうで、キャロの街にいた頃のように僕の手をさりげなく引いて、こちらを向いて笑った。その笑顔だけで、僕は不条理さを全て忘れ、何もかもを信じることが出来た。 茜色に染まる視界。 ジョウイの乾いた金髪。ぱさぱさと、僕の腕を打つ。 絡めた、つめたい指先。 触れ合った想い…… たんたん、と慣れた調子でジョウイは細い階段を降りて、僕はその後に従った。ホールに通じる重い鉄の扉を肩で開けると、そこからアルコール分を含んだ熱気が一気に僕らを取り巻いた。人いきれが凄い。がやがやと高い音でそこここから談笑の声がする。 ホールの中央から何の規則性もなく、テーブルがいくつか投げ出されるように据えられ、僕らはその隅のほうの空席を選んで腰をおろした。 向こうのほうでダーツに興じる歓声があがる。誰もが笑顔で、楽しそうにしている。 「ここはセルフサービスかな。僕、適当に見繕ってくるよ、ちょっと待ってて」 足取りも軽く、ジョウイはカウンターの向こうのキッチンに向かって消えた。僕は手持ち無沙汰になって、ぼんやりと辺りを見回していた。 「……あ、ごめんなさい」 「あ」 僕と同年代の少年が、笑顔で頭を下げた。彼はこのホールから抜けようとしていて、その時に誰かとぶつかり、その反動で僕の肘にちょっとだけ触れてしまっただけなのだけど。 律儀な人だな。 「あれ。きみ……」 くるくるとよく動く、ダークブラウンの大きな瞳がしばたたいて僕を瞶める。僕のほうは、彼に全く見覚えはなかった。 遠慮がちに訊かれる。 「違ってたらごめんね。もしかして、ジョウストン新同盟軍の……」 そんなに個性的な人相じゃないと思うんだけど。ちょっと照れくさくなる。 「えっと―――一応、そうです……けど」 「ああ、やっぱり。僕はテッドと言います。君の軍に僕の親友がいたはずなんだけど。知ってるかな」 「あ!」 覚えがある、僕がとてもとてもお世話になったトランの英雄、マクドールさんが話してくれた。ちょっとだけ、あまりにも彼は辛そうだったので、ほんのちょっとだけ、だけど。 ―――何か、忘れている、大事なことを。 愛嬌のある目が全開で笑った。 「あー、知ってるのかー。嬉しいなあ。えっと、どうしてこの船にあなたがいるんですか? ちょっと驚いたな」 僕は逡巡した。だってその答えは僕にもわからなかったから。 「もしかして、わからないんですか」 「―――はい。テッドさん」 「テッドでいいよ。そうか……そういうこともあるんだね」 彼はそのまま顎に手をやり、少し考えこんだ。僕はどう言葉を使えばいいのか迷っていた。 「隣、いいかな?」 「あ、どうぞ。連れがいるんですけど」 「もしかして、ジョウイ・ブライトさん?」 「はい。そうです」 「彼も……いや……」 テッドはそのまま、しばらく口の中で呟くようにして言葉を切った。 背後に急いで近づく気配がした。振り返ると、両手にいっぱい皿を捧げたジョウイが僕の視界に入る。 「ああ、ごめんごめん。遅くなったね。……こちらの方はどなたかい?」 「僕テッドといいます。はじめましてジョウイさん」 「テッド―――もしかして?」 ジョウイが顔色を変えたのを見て、あちゃちゃ、とテッドは頭をかき、悪戯めいた苦笑を浮かべた。 「さすが博学・勉強家で知られるハイランド皇王陛下ですね。バレちゃったか」 「そりゃ―――前代のソウルイーターの所有者の名は、ハルモニア神聖国と繋がり深いハイランドの資料には当然記載されていましたよ」 「えっ」 「あはは、そうなんだよ。実はね。まあ今はあいつが持ってるけどね……あの紋章を。僕の右手は綺麗なものさ」 しばらく沈黙が僕らの間に落ちた。周囲の喧噪のせいで、それほど気まずくはならなかったけど。 僕はとりあえず、聞きたいことを頭に浮かべた。 「テッドは、どうしてこの船に? この船がどこへ行くのか知っていますか?」 「うーん……」 それは意外に答えにくい質問なのかもしれなかった。僕がその答えを持っていないように。ジョウイが警戒心を失わない目で、テッドを見ている。 ジョウイはどうして、そんなふうに彼を見るのだろう。 「そうだな……」 「いえ、答えにくかったらいいです」 「簡単に言えば……楽になったから、かな。今はね。ずっとずっと気になることがあって。だけど、僕はもうその役目を終えたから、この船に乗ることにしたんだ……ていうのが近い、かな」 ジョウイが険しいまなざしをして口を挟んだ。 「あなたは、何者ですか?」 「僕? 僕は馘になった死神さ……なんてね」 彼はもう船を降りる時間が近づいているから、とそのまま去った。少しだけでも話せて楽しかったと。あいつによろしく、と。穏やかな目をしていた。哀しみも汚れも全部洗い流したような。僕はこの船を降りたら、彼のことを聞いてみよう、と少し思った。 ジョウイは無言でいる。 「ジョウイ。せっかく持ってきてくれた食事が冷めるよ。食べない?」 「そうだね」 簡単な前菜が並んでいる。温かいキノコのコンソメスープ(食べたことないキノコだった)、白身魚のコボルト特製甘酢あえ、鶏の変わり揚げ、ただ塩で焼いただけのビーフサイコロステーキ、それとちょっとだけアルコールの入った甘い炭酸水。 「国籍不明な感じ〜。クルージングにはお似合いだね」 「うん、一応君の好きそうなもの選んでみたよ」 ジョウイが少しだけ笑ってくれた。僕はなぜだか、とても安心する。 やっぱりジョウイには笑っていて欲しい。 僕の親友。何も言わなくても理解りあえる親友。 テッドも……たぶん……。 僕らはその食事(ディナー)をあっという間にたいらげ、満足してホールを出た。 |
14thOctober.2000