更に下の階は、客室層になっていた。小さいながらも案内人のいるフロントがあって、ジョウイが乗船券をチェックさせると部屋の番号を愛想なく告げてくれる。僕はジョウイの背に隠れるようにしていた。もしかしたら、僕は無賃乗船になるのかもと思って、どう言い訳しようと考えていたから。 「君はチケット、持ってないの?」 「……ないよ」 「そんなはずないよ。探してみてごらんよ」 「だって、買った覚えないもの」 「いいから」 どうしてジョウイはそんなに確信を持って言うのだろう。 僕はごそごそと服の隅を探った。無駄だと思ったのに、その指先に乾いた紙片が触れた。引っぱり出してみると、四つ折りの薄い緑色のそれにはしっかりと、だけど僕には読めない異国の文字で何ごとか書きつけてあった。 「それだよ、それ。ほら」 ジョウイに促され、カウンターの上にその紙片を押しやると、顔色の悪い男が一言だけ、ジョウイと同じ番号を言った。 「同じ部屋なんだね。でも、僕と君……違うチケットみたいだ」 ジョウイが取り出したものは、僕とは違う目に痛いほど真白い、掌半分サイズの小さな厚紙だった。やっぱり、僕には読めない字で何か書いてある。たぶん、来し方と行く末だろう。だけど僕のとは違うように見える。 来し方と、行く末…… ふと浮かんだ言葉に、なんだか胸の中がもやもやする。 「行こう。どんなキャビンかな? 二人で旅なんて、陸の上でしかなかったからわくわくするね」 ジョウイに背中を抱かれるようにして、僕は薄暗い廊下を歩きだした。胸のしこりは不思議と消えていた。 整然と区切られた、でも迷路のようにも思えるほの暗い廊下で、僕らは二人連れの男とすれ違った。ちょうど壁に長い間隔でしつらえられたランプとランプの中間で、お互いの顔さえも注意しないとよく見えないほどの照明だったから、僕は何も思わずに道を譲り、そのまま行き過ぎようとした。だけど、ふとジョウイが振り返り、叫ぶようにした。 「……クルガン! シード?」 その男達も振り返り、揺らめく炎の翳に驚きの表情を浮かべたように見えた。赤毛の男―――シードがぱあっと暗がりでもわかるほどの笑顔になった。そのままジョウイに駆け寄る。後ろの銀髪、クルガンもゆっくりと歩み寄って来た。 「ジョウイ様!」 「やっぱり! どうして君たちがここに?」 「ジョウイ様こそ。しかもそこの……ああ、新同盟軍のリーダーさんだ。いやーその節はお世話になったな〜」 僕はちょっぴり奇妙な気持ちになる。シードの言葉には全然悪意というものが感じられなかったから。あの、僕が彼らをうち斃した後、彼らはあのルルノイエ城から落ち延び、傷を癒し、どうやってかこの船に乗って……そして何かが変わった、ように見える。 ―――また、何か忘れている気がする。大事な、大事なこと。 「これはこれは陛下。なぜこのようなところに? しかし、貴方がここに居てくださることを私はとても嬉しく思います」 額づかんばかりのクルガンをジョウイは照れたように制止した。 「やめてよ、クルガン。もう会えないかと思ってたのに……嬉しいのは僕のほうだよ。君たちには詫びなければいけないことばかりで」 「それこそ、言いっこなしだぜ、ジョウイ様」 「すまなかった」 ジョウイが深々と頭を下げた。僕はその、ジョウイの真摯な姿にうたれ、口も利けないでいた。 クルガンが彼らの客室に僕らを招きいれ、備え付けてあったのか、それとも持ち込んだのかわからない、いい香りのするお茶を淹れてくれた。彼らの部屋は、船室としては大きめの、シングルベッドが二台壁際に据え付けられた、ちょっとしたホテルクラスのものだった(大柄な二人には狭いだろうけど)。僕らは小さなテーブルを囲んで座り、丸い窓から見える海と空の境目や、不規則に揺れる室内灯、たちのぼる湯気の白さなんかを見ていた。 そんなに居心地は悪くない。僕の知らないジョウイを知っている、ふたり。僕と本気の命のやりとりをしたふたり。 でも、僕はちょっと気を遣ってみることにした。 「僕、先に部屋に行ってようか? つもる話もあるだろうし」 「いや、それには及びません。どうぞそのままで」 クルガンに機先を制されてしまったので、僕は浮かしかけた腰をしょうがなくそのままおろした。 波の音が高い。うねりに併せて打ちつけるいっそ鈍い音。耳の中に残る残響。共鳴しあって、いつしかその音以外は聞こえなくなる――― 「ジョウイ様、どこまで行かれますか。我々は、次の次の港で降りる予定ですが」 「……僕の行き先はまだ、もっと先のはず。じゃあ、同じところを目指しているわけじゃあないんだね……そうか」 ジョウイの淋しそうな眸。しばたたかれる、淡い光を宿した睫。クルガンとシードがふ、と眥を細めた。 「まさか、ここでジョウイ様に会えるなんてオレは思ってなかったから、それだけでとても嬉しいですよ。もう、オレらのことなんて忘れてしまったかと、オレらのことなんてどうでもよくなってるのかと思ってたから。あ、ちっとだけ、だけど。だから」 「私の信じたものと貴方の信じたものが同一であるという確固たる証拠(あかし)を得たような気持ちです。たとえ、目指すものが違ったとしても」 「ジョウイ様、オレは貴方を信じています。今でもね。クルガンと一緒にこの船に乗ることが出来て、オレはとても幸せです。これで思い切り剣を振るう機会があったら……と思わないでもないけど、逆にオレがオレでいるためにはそれが必要なら、やっぱりそういうことになるんだろうな」 「オマエの言葉はいつも意味不明だな。まあ、オマエの相手くらい、私がいつでもしてやる」 「うるせえ上等だ。不足はないぜ」 全幅の信頼を内に漲らせた不敵な目をして、二人は視線を交差させた。 「……貴方たちのことが、大好きでした」 ジョウイは一言ずつ、ゆっくりと区切るようにして言葉を継ぐ。 「ごめんね。いろいろ辛い目に遭わせたね。僕のために、僕が全ての幸福への道を導くことが出来なかったために、君たちには本当に辛い思いをさせたね」 「陛下」 「僕はもう、皇王じゃない。でも君たちが僕のことを今でもそう呼んでくれるのならば、それを否定したくはない。だけど、だけど―――胸が痛む、よ」 「―――貴方にそのような表情(かお)をさせるために、我々はこの船に乗ったのではありません」 クルガンがそっと、ジョウイの髪に触れた。それが当然のように。シードがぽんぽん、とジョウイの背を軽く叩く。それは、絶対の立場への敬意を払う仕草では決してなかったはずなのに、不思議と彼らのジョウイに対する想いにはとても似つかわしいように思えた。 「私の生涯において、貴方は唯一の王でした。それは今でも変わりません。この手にはもう剣を握ることなく、また人の命をチェスの駒のように扱う必要もありません。ですが、心はいつまでも貴方の騎士のままです、陛下」 「そんなに優しくしないでください。僕にはそんな価値はないんです。この身がながらえていることさえも恥と思い、また―――」 十七歳のただの少年のように、ジョウイは顔を覆った。だけど、やおらその指がはずされたときにはもう、僕の知らない“王”の顔をしていた。冷厳なまなざし。惹かれて惹かれてやまない、その睛。決意を流星のように疾らせた。 その時、外から小さなざわめきが聞こえてきた。知らぬうちに船は速度を落とし、波止場に停泊しようとしていた。水夫達が走り回る靴音。だけど、下船する人の気配は全然なかった。テッドは、次の港で降りると言っていたけど、どうしたんだろう。 僕は、椅子から立ち上がった。テッドを見送ろうと思い、そしてこの場にいてはいけないと強く感じたから。 「ごめんなさい、僕、見送る人がいるので行ってきます」 ジョウイが優しいまなざしで僕を見た。 「テッドさんだね。僕からもよろしく言っておいてくれるかい?」 僕は頷いて、その部屋を後にしようとした。真鍮の取っ手に手をかけ、回したその時に、少しだけ聞こえた言葉。 「クルガン、シード」 「はい」 「僕は、君たちへの想いを全うしようと思います―――」 僕は静かに、廊下へと出た。言葉に出来ない想いで胸はいっぱいになってい、そして少しだけ軋んでいた。 |
14thOctober.2000