小さく揺れる甲板から下船口に急いであがると、帆は全て下ろされ、船は小さな島の小さな港に停まっていた。街の姿はない。ただ掘っ建て小屋みたいなものが数軒並んでいるだけの、小さな波止場。島の奥のほうに、くろぐろとした樹々に隠されて高い建物の尖塔の、月の姿をあしらった装飾が少しだけ見える。蒼い星明かりを反射して、きらきらと、うち寄せて飛沫をあげる水面。 タラップを踏みしめてゆく、一人の少年の姿が映った。降りるのは彼だけのようだった。孤独な影だった。 「テッド!」 その影が振り向き、こちらを向いて笑った。 「見送りに来てくれたの? ありがとう」 僕は彼に聞きたいことが、たくさんあったのを思い出した。でも、時間がもうないようだった。彼は先を急いでいるようだし、僕は言葉を紡ぐのがそんなに上手ではないから――― だから、ひとことだけ。 「あなたのことは、きっと伝えます」 この船がどこへ行くのか、どうして僕が乗っているのかもわからないのに。僕は知らずそんなふうに口にしていた。 それでも、テッドは全てを理解したように、頷いてくれた。 「ありがとう。君の旅が有意義なものであるように、僕も祈っているよ。君の上に、常の幸福が降るように、哀しみさえも君を傷つけないように。あいつによろしくな!」 テッドは大きく手を振って、そのまま振り返らずに行った。僕の乗る船は、もう動き出そうとしていた。 この悲しみには果てがないようだ。 どこまで行っても、どんなに探しても、幸福の種さえも見つけられない。 君と一緒ならば手に入るはずだった全てのものは、その姿を僕の眸から隠してしまったかのように。こぼれ落ちてしまったかのように。 ありうべからざる奇蹟。 僕の力でそれをおこせるなら。 口の中で教えられた番号を呟き呟き自分のキャビンを探し出すと、そこにはもうジョウイが戻っていた。僕が入るまで、ぼんやりと何事かを思索していたようで、僕を見た瞬間に眸の色をふっと変えた。 「やあ、おかえり」 客室は、二段ベッドと床に固定された小さなテーブルと二脚の木の丸椅子、それに小さなクローゼットと洗面台つきの気持ち程度の浴室と鏡があるだけの、クルガンとシードの部屋に比べるとかなりこぢんまりした作りだった。船の中心に近いからか、僕とジョウイの部屋には窓がない。でも、不思議と居心地の良い室だった。僕はベッドの下の段に腰をかける。 「……もういいの?」 「うん。ありがとう」 「少しここでゆっくりしたら、船の中を探検しよう。わくわくするね」 そう、真面目な顔で言ったジョウイは、もう僕の知ってる“ジョウイ”だった。―――安心する。 僕は室内を検分した。 「二段ベッドかー。僕、上のベッドがいいな」 「ずるい。上は僕だよ」 「先に僕が言ったんだから、僕だよ」 「よし、公平に決めよう。勝負だ!」 あっ、と思った刹那にジョウイが僕に覆い被さっていた。 「ずるいぞ!」 「先手必勝! ここで武器を振り回すわけにはいかないだろ?」 「くっそ〜〜〜」 先に僕の下半身を押さえあげようとしたジョウイの膝を僕は横から払う。自由になった右足を軸にして、ベッドを蹴り上げるようにしてぐるりと反転。体重差がそれほどないから、今度はジョウイが僕の下になった。馬乗りになった僕は精一杯不敵な笑みを作る。黙って抑えられているジョウイでもないから、油断は出来ない。僕の右手とジョウイの左手が、互いをつかみ取ろうと激しく争う。知らないうちにげらげらと、息を切らして笑って。 昔から僕らはこんなふうに子犬のようにじゃれあっていた。ナナミが止めるまで。絶妙の手加減をしながら。 「頭打つなよ!」 「うるさい!」 ジョウイの指が僕の手をついにとらえた。ぐいと強い力で引っ張り、僕は斜めにバランスを崩してジョウイの上に倒れかかる。あっ、と思った時にそのままジョウイは――― 僕を抱き留めた。 波の音が遠い。ゆらゆらと揺れる視界。船が加速する。帆が全て張られたに違いない。きっと風をいっぱいにはらみ、滑るように見知らぬ夜海をゆくこの船。 僕はあおのいたジョウイの胸の、その鼓動を聞いていた。僕の右手はしっかりとジョウイの掌とつながれ、ジョウイはその片手で僕の身体を抱いていた。 「ねえ……」 「何」 「後悔することばっかりだ」 僕はちょっと驚いて、顔をあげた。ジョウイの綺麗な顎ごしに澄んだ睛が覗く。クルガンとシードと、何を話したのだろう。僕にはもう聞けない。 ジョウイの声はだんだん呟きに近くなってゆく。 「この船……どこへ行くんだろう。誰を乗せて、何のために。僕の逢いたいひと、君の逢いたいひと、みんなみんなどこへ往くのだろう。どこかへゆくのに、きっとみんな僕とは違う場所を目指している。僕の辿り着くべき場所は、孤独で淋しい―――」 「……ジョウイ?」 「―――ごめん。変なこと言ったね。忘れて」 「ジョウイは、ずっと僕と一緒だよ」 僕はジョウイの眸がどこを見ているのか知りたかった。僕をちゃんと見てほしかった。言葉で親友なんて言うのは簡単で、心の繋がりは逆説でしか証明出来ないなんて信じたくない。 「そう誓ったじゃないか。ずっとずっと、一緒にいようって。ジョウイが何を不安に思って、何を心配しているのか僕はわからない。わからないことがとても淋しい―――哀しい。ジョウイ、僕たち“親友”だよね」 「うん。僕の親友は君だけ、だよ」 何の躊躇もなくジョウイは答えてくれた。僕を抱く腕に、繋いだ指に力をこめて。その力で、何かを振り切るように。 だいじなことが思い出せないんだ。 とてもとても、大事なこと。 忘れている、ということだけ憶えていて―――中途半端な記憶が僕を焦らし、また不安に苛む。 それを思い出さずには、僕は前に進めない。 絶対的なキーワード。 ―――何だったっけ…… そんなふうに僕らがみじろぎも出来ないでいるうちに、どれだけの時間が過ぎたのだろう。いつしかまた船は停まり、どこかの港に着いたようだった。僕は少しだけ、クルガンとシードのことを考えていた。彼らはこの港で降りるはずだ。ジョウイの所に挨拶くらいしに来ても良かったはずなのに、そんな様子はなかった。 前の港とは違って、かなりの客が下船の支度をし、部屋から出てゆく気配がする。 「ジョウイ。クルガンとシードが降りるよ」 いつしかジョウイは眠りに落ちていた。やさしい寝顔が、変わらないそのかんばせが、僕の胸を痛ませる。 「……ジョウイ」 そっと呼んでも、小さく揺すぶっても、ジョウイが覚醒することはなかった。ひどく深い眠りについているようだった。結局僕は独りで起きあがり、毛布をかけてやり、そして静かに室を出た。 彼らに会って何を言い、また何をするかも考えていなかったけれど。 |
18thOctober.2000