彼らの客室の前で逡巡していると、怒鳴り声に近い話し声と共にその扉が開けられ、二人が慌てたように出てきた。 「だから支度は早くしろと言っただろう、シード。ここで降りることが出来なかったらまったく大儀なことになる」 「うるせ〜、わかってる! 急ぐぞ、クルガン」 「何が急ぐだ。お前が暢気に酒など飲み、賭け試合などしていたからだろう」 「いいじゃねーか、あんな機会逃したらせっかくこの腰にはいた剣がもったいな……あっ」 僕の姿を認めた二人は、別人のように姿勢を正した。僕も逆に慌ててしまう。 「あ……あの、ここでお別れですよね。僕、ご挨拶に来ました」 「これはこれは。わざわざご丁寧にいたみいります」 「ジョウイは……ジョウイは、ちょっと具合が悪いので、来られなかったんですけど」 「いえ、それには及びません。先程、お気遣い戴きましたから」 「そうそう。もう大丈夫だよ、話は全部済んでるからな」 「―――そうですか」 「では、我々はこれで」 彼らは折り目正しく一揖し、踵を返そうとした。 「あ―――あのっ」 二人がとても急いでいる、というのはわかっていたのだけど、僕は思わず、そんなふうに言葉をかけてしまっていた。 「ジョウイは……ジョウイは、あなた方を裏切ったのでは、ありませんよね?」 僕らの間に沈黙が落ちた。 ふっと二人の目が和らいだ。 「これは異な事を。そのような……」 「ジョウイ様がオレらを裏切る? そんなことがあるはずない」 同時に口にして、彼らは顔を見合わせた。嘘のない言葉。それは理解る。 だったら、今の“間”はいったい、何だったんだろう――― ―――また、何か忘れている。強くそう思う。だけど思い出せない。 「ジョウイは―――ジョウイは」 「時間です、申し訳ありませんが」 なおも言葉を継ごうとした僕を遮って、クルガンが丁寧に言う。シードが少しだけ、語ってくれた。 「なあ、オレらはここで降りるけど、お前さんとジョウイ様はまだ先へ行くんだな。その先に何があったとしても、ジョウイ様を信じてやってくれないか? あの方はとても淋しがりで、淋しがりのくせに強い方だから、お前さんが傍にいなくても大丈夫だけど、そのかわり永遠に淋しいままで耐えてしまう」 「シード、行くぞ」 「そんな思いをもうさせたかないんだ、頼むぜ」 「では、これで」 今度こそ二人は殆ど走るような足取りで、僕の前を去ってしまった。 僕はその場に取り残され、―――船が出航(で)るまで、足下の揺れが僕を覚醒させるまで、ただ立ち竦んでいた。 ねえ、どうして忘れているの。 こんなにも大事なことなのに。 君が大事に想うもの全て、護りきれるように……祈っていたね。 祈りは届かなかったのだね。 ひとりになって考えたかった。 いくつもの事象は、きっと定められた結末に向けて動いている。僕と君の宿命はまだその鼓動をやめてはいない。 この船に乗る君と僕。どこかへ往く僕と君。 どこへ―――? 僕は夜半過ぎて尚人の姿がまだ絶えないホール(だけどかなり数は減っているようだった)をぬけ、甲板へと出た。 湿った潮気を含んだ夜風が僕の髪を嬲り、びゅうびゅうと吹きつける。僕がこの船に“乗りこんだ”時のように、水夫の姿さえもないひろい、雑然と括られた箱とかロープとかが放置された、見晴らしの良い場所。ぎしぎしと、波の音にあわせて足の下の板が鳴る。 そのとき、上のほうから声が投げおろされた。 「……おや」 その声はあまりにも高いところから降ってきたので、僕は思わずあおのく。その目に、背後に銀河を従えてマストの横木に腰掛ける少年の姿が映った。はたはたと、その服の裾が上空の風に煽られている。 「ルック―――」 「なんだ、こんなところにいたのかい。無粋な話だ」 自分から声をかけておいて、ルックはそんな憎まれ口を叩く。 「船の揺れがひどくなってきたな。小さな時化が来るのかもしれない」 ルックは姿勢を変えぬまま浮き上がり、ふいと僕の横まで、かなりの距離をものともせずにふわりと降り立った。 「ルック、君こそ。何をしてたの?」 「僕? 知りたい?」 「この船に乗ってるってことは、“どこか”へ行くんでしょう」 「いや、僕は違うよ」 予想もしない答えだった。 ルックはいつものように嘲るような目をした。彼がそんな目をする時は、本当は面白がっているということを、いい加減僕は知ってるので不愉快にはならない。ルックはそのへんの古びた木箱に腰掛け、自分の膝に頬杖をついた。 「じゃあ……」 「だいたい、君がどうしてここにいるのさ。そのほうがおかしいよ。そんな筈無いんだから」 「意味がよく」 「わからないように言ってる。僕はそこまで親切じゃない」 「ルックらしいね」 「ふん。でも今日はまあ、不思議な邂逅に感謝してもいい気分だ……あまり成果は出なかったけれど。少しだけなら話してあげるよ。何が聞きたい?」 星が瞬いている。風がますます強くなる。向かい風になっているから、帆はいつのまにか全て下ろされていた。ルックの仕業かもしれない。作業者の姿なんか無かったから。 ―――もしかしたら、形ばかりの帆船なのかもしれない。 「僕……」 「なんだい」 「この船は、どこへ行くのか知りたい」 「それは言えない」 にべもない。ルックだからしょうがない。僕はめげずに次の疑問に切り替えた。 「どうして僕がこの船に乗ってるのか、知りたい」 「それは……僕もわからない。想像する事は出来るけど、確信持てない状態で話すのは悪い影響が出そうだから」 「何に?」 「この船の行く先に、さ。質問はそれだけ? あとひとつくらいなら答えてもいい」 ひとつ。 悩んでいれば、ルックはさっさと愛想を尽かしてしまうだろう。 僕はちょっとだけ焦った、焦った口からその言葉が出た。 「僕が、何か忘れているものを知っている?」 「―――」 「何か、とても、とても大事なもの……ことを忘れているような気がするんだ。この船に乗った理由とか、そういうのよりももっともっと大事なこと。ジョウイにも、テッドにも、クルガンとシードにも、会って話すと不意にそんな気持ちに胸を掴まれる―――それが何だかわからないのに、忘れているということだけが僕にははっきりわかっているんだ……なのに、何を忘れているのか、全然わからないままで、ちょっと放っておけば、そのことさえも忘れてしまう」 「そうか」 ルックは睫を伏せた。翡翠の眸に闇が過った。 「そうか……紋章が……」 ルックが劬るようなまなざしを一瞬だけ投げて寄越した。 もしかしたら、気のせいだったのかもしれない。次に見かえした時にはルックはいつもの通りの冷たい目に戻っていた。 「君の忘れていることが、大事なそのことが、確かにある。きっと君以外の全員は、そのこと―――君が忘れているという事実のほう―――を知っている」 「じゃあ、」 「でも、僕の口からそれを言うわけにはいかない。それはダメだ……君が、自分で思い出さねばならないことだ。君が“忘れている”ということには、ちゃんと“意味”があるはずだから。たとえ無意味に見えても」 「わからないよ、ルック」 「こんなふうにしか言えない。謝罪はしないけどね」 「―――」 「さあ、ますます風が強くなって来た。厭な雲も流れてる。僕は帰ることにするよ」 「ルック!」 「なんだい? 僕がここにいる理由、そんなに気になる? じゃあ教えてあげよう。僕の仕事は、レックナート様の命に応じて星を集める手伝い。だから、あの星に向かって網を打ち、吟味するんだ。この船には時々乗るよ。この船はとても、星に近いからね」 |
21stOctober.2000