僕が死んだら――― 船の甲板に上がるために、薄暗い常夜灯の照明しか残っていない娯楽ホールを抜けようとしたら、一番隅のテーブルランプだけがともされ、一人の男が、こちらに背を向けてエールのジョッキを傾けていた。彼以外は誰もいない。激しく揺れ続ける船内で、酔狂なことだ。酔狂さでは僕らもいい勝負だけど。 だけど、ジョウイが彼の姿を目にして凍りついた。 「……義兄上―――」 ルカ・ブライト。彼の周囲だけ、嵐が避けたかのような存在感。 何故―――? ―――忘れていたことが。 ルカが不意に振り返った。その凶暴な眼差しに射すくめられたようになる。変わらない、彼は全然変わっていない。もしかしたら、船内から人が消えたのは嵐ではなく、彼のせいかもしれない。 「ふん。貴様か」 「まさか」 「まったく不愉快なことだ。まさかこのオレがこんなものに乗る気になるとはな」 「―――」 「否、もう済んだことだ。ブタどもは皆蹴散らしてやったし、オレの望みは叶うことなかったが」 「義兄上」 その後、ルカは予想もしなかった科白を言った。 「ふん……くだらん。このオレが安らぐなどと。殺戮と悲鳴、怒号の中でのみ癒され、憎悪を糧としこの世界の消滅を望んだオレがだ。 だがこの安らいだ気持ちは否定できん。ジルもじきに来るだろう。次の係留地で、待ってみるがいい」 「そうですか……ジルはもう」 「そうだ。残念だったな。この世の果てまでなど―――おい、小僧」 僕は茫然としていた。だって、だって、ルカ・ブライトは。 だってルカは。 僕が。 ―――思い出せる 「よくもやってくれたものだ、だがあの死はオレには相応しいものだ。オレの思っていた死と形は違うがな。だが平和、などクソほどの役にも立たんと知っておけ。永遠の平和などあり得ぬ。この男が望んだような、ものはな」 ジョウイが唇を噛み締めた。ぎり、と音がしそうなほど、強く。 ―――思 僕は、遂に身を翻し駈けだした。 土砂降りの雨だ。烈しい雨。篠突く雨。吹きつける風に重みを増した扉を強引に開け、飛び出した僕は瞬時に全身水を被ったようになった。ジョウイが追ってくる気配。 僕は水が斜めに走っている不安定な足許をものともせずに舳先まで一気に駆けた。あおのくと、手が届きそうなほど低い黒い邪悪な雲から降り注ぐ水、痛いほどの勢いでうたれる。 冷える。血の一滴まで冷える。 痛い。胸まで痛い。 僕の全身を滴る痛み。 雷鳴が空を劈いた。大きな揺れに足をすくわれそうになり、僕はだらりと下がったロープにしがみつく。ジョウイが僕の名を叫んでいるのが微かに聞こえる。 僕は振り向いた。 僕が死んだら、この川に、この川の流れに僕の身体を投じて欲しい――― 稲光に船橋が刹那、青白く浮かび上がった。僕の前で、マストに頼ったジョウイは蒼い、蒼い、蒼い睛をこちらに向けていた。 「思い出したんだね」 「―――」 「思い出してしまったんだね」 「―――」 「この船は」 視界でフラッシュバックする。――グレッグミンスターでの彼の言葉――ノースウィンドウの闇――ルルノイエの戦い――そして―――。 美しい茜色に染まる、天山の峠。 対峙する僕と君。 この大地の戦いを終わらせるために、と言った君。 僕に打ちかかって来た君。 僕の腕の中で、嬉しそうに微笑んだ君。 僕のために生命を捨てた君。 やさしい君―――。 「もうわかってしまった……ね」 「ジョウイ―――」 轟々と嵐が僕たちを取り巻く。時折稲妻が斜めに空を切り裂いた。そのたびにジョウイはどんどん杳い眸になり、いつしか漆黒を流したように。 痛い、痛い、痛い――― 「報いをうけた」 「―――」 「黎明までの、時間限定の奇蹟だよ。 神聖な戦いにおいて、君を想い続け、全力で戦わねばならない時に何度も躊躇った罰を受けたんだ。冷酷になりきれなかった罪を償うんだ。だけど神様もそれほど残酷じゃない。僕と君の過酷な運命を定めた代償の慈悲をくれたんだ」 ジョウイ。ジョウイ。ジョウイ。 「今は酷い雨だけど、もうすぐ朝が来る。そうしたら―――」 「ずっと一緒って言ったじゃないか!」 渦巻く風雨に負けじと僕は叫んだ。 「ずっと、ずっと、ずっと一緒にいようって! ジョウイとならどこまでだって行ける。どこだって構わない。もう別れるのは、悲しいのは、泣くのは厭だ! ジョウイがいなければ、ジョウイが―――」 ジョウイは静謐なまなざしをしていた。雨にも、風にも負けない、想いをいっぱいに満たして澄み切った真摯な睛。 「君のことが、ずっとずっと好きだよ。好きでいるよ。いつでも―――いつまでも。誓うよ」 その睛で僕はまっすぐ射抜かれる。 僕は刹那、目を閉じた。 不意に、目蓋の向こうが明るんだ。さっきまで身を打ちつけていた豪雨も、暴風も、ぴたりと止んだ。涼しい微風が通り過ぎる。 ゆっくりと瞼をあげる。 そこには、誰の姿も無かった。 僕の足許から長く長くのびる影。 僕は黎明の息づかいを含んだ深い紫藍色の大気に包まれ、穏やかに揺れる船の舳先に、ただ一人佇んでいた。 |
21stOctober.2000