彼と一緒にいることは、とても僕にとっては暖かいことなんです。だけど、それに縋りきってはいけない、それは彼を苦しめる。僕の心の大きな部分は、何年たってもジョウイに占められたまんまで、この右手の紋章がある限りは変わることないと思えてしまうから。 水辺のちいさなオアシスの町。そこに僕らは同じ宿を折半しました。どちらが言い出したわけでもなく、なんとなく傍にいたくて。きっと彼もそう思ってくれていたから。 彼に会うと、自分の疲れを自覚してしまう。そしてそれを癒したくなってしまう。完全なそれは望めないけど、ほんのすこしだけ。一緒に旅路を往くことは出来ないから、あの戦いのことを嫌でも思い出すから。 二人で静かに夕食をとって、部屋に戻るという彼とは一旦別れて、僕は町に出ました。遅い日暮れが街のむこうの砂漠を染めて、とても綺麗で―――ぼんやりとそれを眺めていると、やっぱり思い出してしまう。もう忘れたようにも思っていたのに。 あの、峠での最後の戦い。 ジョウイ、君が望んだように、この大地での大きな戦いは、あれが最後になりました。 僕はそれを、この肉体が滅びるまで、それがいつだかわからないけれど、それまでは守ろうと誓ったから。僕以外にはそれを守れる人はいないから。 誓いを守ることで、僕は生きていけるのかもしれないから。 でなければ、この世界でほんの何人かのみが享受する、こんな運命を共にしようなんて思えない。 でも、懐かしいと思うにはまだ、時間が足りない。 もっと、もっと、ずっと未来には、そんなときが来るのでしょうか。 バザールをゆっくり歩いていても、この街では僕を見咎める人はいなかったから、僕はあてもなく広くもない街を散策していました。どこにでもあるような、どこにもないような、何度も見たような初めて見るような風景。 この街を出た後はどこへ行こうかな。 まだ決めてなかったので、それを考え考え、もうすっかり陽が落ちて東からやってくる夜に抱かれるように僕は、町外れの岩場に出ていました。 きっと昔はもっと豊かで大きな街だったのだろうと思わせる、廃墟となった遺跡が不意に姿を現して、僕は思わず息を呑みました。崩れかけた石の太い柱。美しい絵が以前は象嵌してあったのでしょう。半分に折れ、またいつしか砂に埋もれ、時の流れを象徴して今は無言でまどろむオブジェ。かつては多分、神殿だったに違いない、そのむこうの大きな礎の列。 そのひとつに僕は指をそっと沿わせました。 つめたい感触。 手袋ごしにもつたわる、時間に置き去りにされた冷たさ。 いつか、この風景が全て砂に還るまで、僕はジョウイを想うのでしょうか。 それならそれでいい。 永遠に残るものなんて有り得ないのならば、せめてそのうつろいだけでも目に留めておきたい。 夜の帳とともに、酷く冷えてきて。昼間は薄物一枚でも暑いくらいだったのに、寒気(かんき)が僕の肌をあっというまにあわ立たせて、僕はふとふりかえりました。 宿に帰らないと、いけないな。彼が待ってる。 どんどん寒くなって、僕は身を震わせながら小走りに道を戻りました。その時、誰かの声が聞こえたような気がちょっとだけして、足を止めてみたけど、それはやっぱり空耳のようでした。 街に出ていった彼を待つでもなく、僕はぼんやりとまた夜の訪れを待っていた。今日の邂逅は幸運だったのだろうかとふと考える。すれ違う僕ら。交差する僕ら。その一瞬の接点を、どうすごすのが一番最良なんだろうかと。 あの、最高権力者の地位について、なおそれを結局捨てざるを得なかった彼。老いない、ということで皆から特別に扱われ、いつか神格化していく必然、その重荷を最初に捨てて逃げてしまった僕より、彼は強いのだ。 そう、最初から。 思慮が足りなかったわけじゃない。権力がほしかったわけじゃない。結局、あの地に戻ることが出来なくなった彼は、つまり平和をまっとうするために、彼の親友の願いを揺るぎ無く叶えるために、そのために残り、そして去ったのだから。 僕と彼の当時の仲間はほぼ全員この世を去った。星はいくつも流れた。新たな一〇八星がきっと遠いどこかの地で生まれ、そして争いはきっと起きている。だけど、少なくともこの地では起きない。彼の右手に、あの紋章がある限りは。 比較することは出来ない。 受け入れるだけだ。お互いの運命ってやつを。 そう、いくら言い聞かせていたって、なかなか往生際が悪いね。人間ってやつは。 ―――人間なのか。まだ、僕は。 街の明かりがすこしずつ燈って、すっかり闇に沈んだ窓の外。昼はあれほどの気温だったのに、今は少し肌寒い。まだ彼は戻ってこない。薄い暗い雲が夜の空にひろくかぶっている。きっと晴れていれば星の光が湖のむこうの荒涼とした砂漠を埋め尽くすのだろう。 それにしても寒い。下に行って火を借りて来ないといけないかもしれない。夜具も増やしてもらおう。 その瞬間、気配に僕は振り返った。 あの戦いの頃から彼は寡黙で、彼にだって何の蹉跌もなく笑顔になれた時があったはずなのに、何が彼をそうさせていたのかあの時の僕には漠然としかわからなかったのだけど、今ならもうわかるんです。僕も、そうなっていったから。あの戦いの時だって流されるまま、選ばされたまま、僕だって同じ。特別な存在であることで、ひとつひとつの言葉の意味がどんどん重くなれば、いきおい言葉は必要最小限に抑えざるを得なくなるわけで。 彼は無口ではあったけれど、その哀しみのほんの一端でも理解できたと思う今では、それさえも彼の背負っているものの大きさの片鱗にすぎないと。 そのぶん、彼の寡黙さの向こう側にある思考は、きっと深くて底は知れない。外見は少年のまま、瞳だけがその顕(しる)しになって。 ―――僕も、いつしかそうなるのでしょうか。それとも既に? 宿の前にたどりつくと、明かりを背にして彼が迎えに出ていてくれました。 僕はなんだかとても嬉しくなる。ほっとする。その彼の、翳りのある表情だけが少しだけ気になったけれど。 「おかえり。ずいぶん遅かったね」 「かなり、冷えますね」 「そうだね。中に入ろう」 促されて僕が肯いたその時─── ちらり、ほらりと。 僕は、眼前に舞い落ちてきたものに一瞬目を奪われた。 白い、小さな─── 「……雪!?」 驚いて二人であおのくと、薄い灰色の空からゆっくりと、ひらひらと、数はけして多くはないけれど、つめたい雲の破片が視界を埋め尽くしていて。 掌に受けてみると、そのかけらは儚く消えて、確かに雪でした。 暫く口もきけないでいた僕らは不意にぶるっと同時にからだを震わせて覚め、そのまま自室へと戻りました。 |
4thNovember.2000