「真夏の雪の奇跡───」 僕は思い出していた。遠い、遠い、遠い昔の記憶。たぶん、僕にいくつもの寝物語をきかせてくれた、あの優しい微笑みを持つ彼の教えてくれた言葉。 「なんですか、それ?」 「……いや、御伽噺だよ」 窓辺にあるテーブルにランプをおき、フロントに借りた火桶を横に、僕らは向かい合って座っていた。他の宿泊客も突然の降雪に興奮し、町は妙に騒がしい。僕らは巻き込まれぬように、部屋にひきこもり、窓枠のむこうにゆっくりと間断なく落ちる白さを見ていた。 部屋のあかりをおとして。 火屋からのゆれる炎が、僕らの相貌を照らしいくつもの影を織成して。 窓のむこうの雪。 目のなかまで降るような雪。その真白い…… 「奇跡がおきるかも、しれないね」 「え」 「強く願おう。僕たちの一番の望みを。祈ろう」 「───」 「叶うかも、しれないよ」 「───」 「……なんてね」 彼の双眸に揺曳した真摯な光に臆したように、僕は微笑んでみせた。 「願ってもいいんでしょうか」 「何を?」 「僕の都合のいい望みをです。人生の分岐点はいくつもあるというけれど、僕の後悔はたったひとつの分岐によって生まれている。だから、その過去───に戻れはしないけれど、せめて」 「君は」 「そんなふうに言われてしまったら、思い出さずにはいられない。何年経っても、いつまで時を過ごしても、変わらない想いがあることを、この身の内側に浅く眠らせていることを。自覚せずにはいられないんです」 彼は指を組み、その上の深い色のひとみでまっすぐに僕を見つめた。 「あなたもそうでしょう。だってそんな目をしてる」 雪が降る。降る降る降る─── 真夏に。あるべきはずのないことが、あるべきはずのない時に。 僕は目を閉じた。すべての音、すべての闇、すべては僕の周囲から消え失せた。 顔を覆ってしまった彼の姿を見ていたくなくて、僕はそっと腰を上げ、窓枠に手をかけてぼんやりと外を見やりました。 酷いことを言ってしまったかもしれない。 この雪のせいで、想わなくていいことを想い、言わなくてもいいことまでつい言ってしまった。 強い想いに少しだけ胸が痛んで───つきん、つきんと間断なく。もう忘れていたはずだった痛み。刺すようではないけれど、鈍くて、つめたい痛み。思わず左手で胸のあたりを掴み取り、僕はその痛みに身を任せました。 その目に、ふと映ったもの。道をゆく人込みに紛れて。まっすぐにこちらを見上げる─── 褪せた金髪。長い、細い、束ねられたその髪。 それにふちどられた面。 忘れようがない、青い蒼い双眸。 銀の雪がその姿を隠そうとして─── 僕ははじかれたように駆け出し、階段を一気に降り、表へ飛び出しました。 急に彼が部屋を飛び出した気配に僕は驚いて顔をあげた。彼が閉め忘れた扉がゆらゆらとゆれて、ちょっと困惑する。何があったんだろう。それほど、彼を驚かすようなことがあったんだろうか。 後を追おうかどうしようか逡巡し、ふと暗い室内を見回した。 気配がする。 あの時、感じた気配と同じ。 体をひねり、背後を確認し───また戻った時に僕は。 息を呑んだ。 呑み込んだ息は、容易には吐き出されなかった。 それほど─── 「よお」 「───」 「何そんな顔してんだよ。参っちゃうな。俺のこと、もう忘れてた?」 「───」 音もなく降る雪。足許から這い上がってくる冷気。僕の目の前、さっきまで彼が座っていた椅子に斜めに腰掛け、無防備に笑っているそのひと─── 僕の舌は、ようやく動いた。 「テッ……ド……」 「あ、忘れてたわけじゃないんだ、よかった。久しぶり───っていうには、あまりにも長いかな」 まさか。 「お礼をたくさん言わなくちゃならないね。まさか、こんなふうに───俺の遺言を、それほどまでにまっすぐ守ってくれるなんて、思いもしなかったから。だから、ごめん。それから」 「テッド!」 僕は椅子を蹴倒して立ち上がり、テッドの手をぐいと引いた。暖かい。幻じゃない。驚きに目を瞠ったテッドが、すぐに柔らかい目をして微笑んだ。 「なんだよ、そんな顔して。───泣くなよ」 これは夢か。幾度も見た、あの夢か。 夢でもいい。 僕にはわかる。これはけっして偽者(フェイク)じゃない、彼は本当にテッドだ。本物の、テッドだ。 「……そんなに、つらかった?」 彼に右手をそっととられて、僕はかぶりをふる。彼がどれだけの孤独を経て、僕にこの紋章を託したかを、あれから何度も何度も考えていたから。溢れそうになる涙を堪える。 痛ましげな目をしたテッドが僕の肩をそっと抱いた。 「ごめんな」 「違う───」 「───」 「違う、違う、違う」 「───」 テッドが抱いている僕の肩で、途惑いを浮かべたように思った。 「うれしい、んだ」 「───」 「うれしい。もう、二度と逢えないと思ってた。この紋章を、テッドのかわりに守ること、誰にも奪われないようにすること、そしていつか、いつか、誰かに継承する日、その日まで───」 「ごめんよ」 「そうすることで、テッドを理解できると思っていたんだ。テッドが僕とともにいながら黙って抱えていた苦しみ、それを真実理解できると思っていたんだ」 「ごめんな」 「逢えなくても、傍にいなくても、理解することで、僕は想いをまっとうしたかった───」 「いつも、想っていたよ。おまえを。寒い冷たい空のむこうで、おまえの苦しみを感じていたよ。僕を想うおまえの気持ちを、それだけを暖かく想っていたよ」 僕は、テッドのまなざしをまっすぐに受け止めた。それは透明に澄んで、冷たい水のように綺麗で、僕の眦からはついに涙が滑り落ちた。 もう何年も何年も、とても長い間、流すことを忘れていた涙が。 |
4thNovember.2000