確かにジョウイだと思ったんです。忘れるはずがない。見間違えるはずがない。既に人の流れに巻かれかけていたその姿を僕は懸命に追いました。軽い雪が僕の髪に、肩に、目の奥まで降りしきっていて、すぐに彼の背中を見失いかけて。僕は必死になりました。人違いかもしれない、そんなことはちらとも思いませんでした。 ───昼間、彼と邂逅したあの水の端で僕はついにジョウイの金の髪が闇に浮かぶのを見た、とたしかに思ったのです、だけどそれは幻だったようで、結局僕はジョウイだと確かめる術を持ちませんでした。くらい水面に、音もなく落ち、瞬時に水と同化して消え続ける雪片。それを僕はぼんやりと眺めました。 とぼとぼと同じ道を引き返し、宿の前まで来たとき、僕はふと“戻ってはいけない”と強く感じて、足を止めました。今、あの部屋に帰ってはいけない。禁忌に引き留められ、僕はその場にとどまることもできず、またふらりと町をさまよいだしました。 どこかでジョウイに会えるかも、というはかない望みを抱きながら。 いくつかの道を折れ、曲がり、時折寒さに身を震わせながら、僕はあてどもなく町の隅から隅まで歩き回りました。雪に飽いたのか、人々の姿は次第に減り、いつしか僕はたった一人で雪の降る幻想的な砂漠の街に佇んでいました。 雪は強くもなく、弱くもなく、また風もなく、しんしんと降り続けています。 吐く息の白さに気づいて、僕はとても淋しくなりました。 あの目はたしかにジョウイだった。 僕を見上げて、少しだけ口の端に笑みを浮かべて。 あまりにも鮮やかな印象。 「ジョウイ」 僕は呟いてみました。どこからか返事が返って来そうな気がして。 だけどやっぱりそれは単なる希望にすぎなくて、ただ白い沈黙がそれに答えただけでした。 これは奇蹟だと僕ははっきり自覚していた。何のちからによるものかはわからないけれども、それは幾千年幾万年にひとつあるかどうかの確かな奇蹟なのだと。僕の眼前に居る彼。それは僕の願いが叶えられ、想いを全うするために、ただそのためだけに現れたのだと。 僕らはいつか言葉を失い、ただそっと長い長い別れ、永遠だと思っていた別れの間の絆を確かめあうように、遠い昔のように手を握り合って傍にいた。 理解りあえる。 こんなにも、僕はテッドを理解している。 テッドが僕を、この長い間想っていてくれたこと。 僕の想いは、消えなかったこと。 孤独が癒される。 だけど─── だけど。 「……いつまでも、一緒にいられたらいいのに」 「───それは」 「わかってるよ」 「うん……ごめん」 「逢えただけで嬉しい、って思わなくちゃいけないのにね。人間って贅沢だ」 「そうだな」 「テッド。理由を、聞かせてほしい」 「───」 「もしかして、ずっと……?」 「───」 「ずっと、僕の願いを───知っていた?」 テッドは寂しげな、はにかむような微笑みをゆっくりと浮かべた。胸がいたくなるような笑み。 「秘密にさせてくれよ。それは言えないな。俺とおまえがふたたび逢えた、それだけじゃ駄目かい?」 「───」 テッドの指に力がこめられた。 「奇蹟を享受しよう。この掌のぬくもりを、ずっとずっと憶えていよう。俺はそう誓える」 「僕は」 「ごめんよ。何度謝っても、謝り足りないよ。───俺の最期の言葉、憶えている?」 忘れるわけない。忘れられるわけない。 僕のこの運命が真に始まった瞬間(とき)のことだもの。 「───恨んでる、かな。一人で勝手に死を……永遠の平穏を、辛いこと全部、全部おまえに押しつけたまま選んでしまったこと」 沈黙に離れそうになった指先を、僕は引き止めるように握りかえした。 「いいんだ。テッドはもう、十分頑張ったよ。もう一度逢えた、そのことだけに感謝する」 「ごめん、ごめん───」 「もういいよ、テッド」 「赦して。赦してほしい、身勝手な俺を」 「もういいから、僕は」 僕は完全に俯いてしまったテッドの頬に、素の両手を添えた。右手の甲に浮かぶ、生と死を司る紋章(ソウルイーター)。 「僕は大丈夫。まだ大丈夫だから───」 雪は降り続けている。けして積もりはしない雪。淡く儚く、溶けるためだけに降る、その奇蹟。 夕刻に訪れた遺跡の、具合のいい礎石のひとつに僕は腰掛け、あおのいてぼんやりと孤独感に身を預けていました。 こんなに孤独(ひとり)を感じたことは、絶えてなかったので。 目のなかにまで降るような雪。冷えた身体。 あのころの痛みを蘇らせるように。 「ジョウイ」 幾度めかの呟きを、口の中でまた繰り返してみて、僕は長い長い吐息をつきました。 どうしてなんだろう。 どうしてこんなにも、強い想いはいつまでも、僕を放さないのだろう。放したくないのだろう。 真夏の奇蹟───。 その単語は僕の胸をしっかりと掴みました。 奇蹟がおきるなら。あの全てを後悔なく、思い切れるなら。 僕はいっそ、ジョウイのことを全て忘れてしまいたい。いつまでも、いつまで経っても褪せない想いだけで生きていける、その確信はあるけれど─── だけど、こんなのは辛すぎるんです。ジョウイが僕の前に姿を現すかもしれない、そんな望みのないことを信じたくなってしまうようなことは。 もう、涙も出ない。その源である心の泉はとうに涸れてしまい、二度と僕を潤すことはないのです。 ……ないのです。 ふと、何かが暗闇の中、目の端をかすめたように思い、僕はそちらを見遣りました。そして誰何の声を投げました。まだ思い切れてなかった、かすかな希望をこめて。 「……誰」 いらえはなく、僕はやっぱり期待なんかするものじゃなかった、と膝に積もりかけていた雪を払うために立ち上がろうとしました。だけど、その刹那─── 僕は背後からふわりと抱きしめられました。細い腕が、僕の頚筋にそっとまわされ、誰かの体温が僕を暖めようとしていました。 「こんなに、冷えて」 耳許で囁かれた声。 その声─── 「どうしてそこまで、僕を想ってくれるんだい?」 「───」 「どうして僕を、そんなに忘れたいほどに想ってくれるのかい」 眩暈。 そのぬくもりにくらくらと。 「……ジョウイ……」 あまりにも信じがたくて、容易には理解できなくて、僕は身をかたくし、指先の一本も動かせないでいました。 僕を雪からかばうように。 僕を雪から隠すように。 そのやさしい腕も、声も、ぬくみも、鮮やかなままの記憶と一点の違いもなくて。 「君は僕の、そうしようと思うこと全てをさせてはくれない」 「───」 「君に悲しい顔をさせたくはないのに、笑っていて欲しいのに、僕がそんな顔をさせてしまうんだね」 「嘘」 「───」 「嘘だ」 本当にジョウイだとわかっていたのに、あれほどまでに逢いたいと想っていたはずなのに、僕の唇からはそんな言葉が洩れました。だって、だって───認めてしまえば。理解してしまえば。また。 強引に腕を振り払い、僕は向き直って初めて、そう初めてジョウイの姿をこの目に捉えました。 一歩後ずさって。 ジョウイは。ジョウイは。 その変わらない涼しい瞳で僕を悲しげに瞶めていて、いっそ後悔しているようにも見えて。 僕は結局言葉を失いました。 |
13thNovember.2000