ふと、部屋の扉が軋んで、その影から彼が姿を現した。僕はその睛を見て、全てを了解した。きっと彼も。その彼の唇から、先に言葉が零れ落ちた。
 抑揚のない声。
「会えたんですね」
「ああ───君も?」
「はい……」
「そうか」
 邂逅の余韻が漂う室内。彼が切なげな瞳をしたのを、僕は見逃さなかった。
「きみは」
「……はい。でも」
 僕はそれ以上、尋くのを避けた。
 彼は窓辺までそっと歩み寄り、そのまま長い間視線を遠くにやり、かなたに降るような、もうその残滓しか残っていない、遠いかなたに降るような、奇蹟の骸に祈るようにしていた。



 ただの希望ではなく、確信に変わった。
 そのことが本当の奇蹟。
 ひとりじゃないこと。
 いつか、また逢えること。

 彼もそれを信じられるのだろうか。
 想いは伝わったのだろうか。

 たった一度。
 一度だけで、それが叶っただけで。
 僕は、癒えた。願いが叶うことで、さらなる悲しみが降ったとしても、だからこそ、この先の永劫さえも耐えていけると思った。また、こんな奇蹟が起きるかも、と虫のいいことを考えたわけじゃない。いつでも彼らは僕らの傍にいて、僕らがそれに気づかなかっただけだったから。だから。

 ねえ、そんなに悲しい瞳をすることはないんだよ───




†      †      †




 僕も彼も、眠れぬまま夜をあかしました。いつか涼しい朝が、変わらぬように訪れて。気の早い蝉が鳴き出し、黎明を連れて。
 窓をあけはなつと、まごうかたなき夏の蒼い風が強く吹き込みました。
 あの雪の姿も、名残さえもとうに消えて。
 でも、夢じゃない。
 あれは奇蹟。
 きっと、季節がめぐるたび、思い出す。
 胸の痛みと一緒に。鮮やかに。記憶と願いは、いつまでも。儚いのに、確かな幻のように。



 早めの朝食をとり、陽が高くならないうちに僕らは宿を後にしました。今日も暑くなる、と宿の主が言っていたので。また、昨晩の雪のことを、今までこの街では一度もなかったことだと、興奮して話してくれました。寒い思いをした客から苦情でも出たのかもしれないな、と思って僕はすこしおかしくなりました。
 宿の前で、僕らはいままでの邂逅の時と同じように、向かい合いました。
 もうかなり気温があがりかけていて、汗ばむような陽は、昨日までとまるで変わらなくて。
「これから、どうするの?」
「僕は、北へ行こうと思います」
「そうか。僕は西へ向かうつもりだったから、ここでお別れだね」
「そうですね」
「でも、また逢えるね」
 僕はちょっと驚いて目を瞠りました。彼がそんなことを言うのは、初めてだったから。
「そう───ですね。きっと、また」
「じゃあ、元気で」
 彼は微笑みました。僕は陽光に負けないその笑顔の眩しさに吐胸をつかれ、少し泣きたいような気分になりました。
 彼は振り返らずに去りました。
 僕も、青空に抱かれてなお茫漠とした砂の海に向かって歩き出しました。あてもなく、また果てのない旅路を続けるために。

 この宿夕の記憶を、けして忘れまいと。───








*ending*

16thNovember.2000