昨日の手紙は完全に私信なので、特に感想は必要ないですが(笑)、ついでなので続きを書いて置こうと思います。これはもう手紙ですらないけれど。
形式的でない「さよなら」を言うことってそんなに多くないなと(ビジネスではまた別)。恋人との別れ、くらいかなぁ。あとは誰かが死んだとき。これは一方的にさよならを言われてしまうわけで、とても悲しい。もう会えない、という通告をいきなりくだされた気持ちになるわけです。
レイ・ブラッドベリが「世界にさよならを言う」作家だというのをだいぶ前の書棚コンテンツで書いたのですが、私も「さよなら」を言いたい種類の人間です。ここではないどこかへ、どこに居てもいつも微かな違和感を感じ続け、どこか、私の本当の居場所を探して、そこが見つかったならば「さよなら」とだけ告げてそこへ行きたいのです。でも、そんなものはどこにもない。まだ十代の頃に、電車やバスに乗ることが妙に好きで、それは「どこかに帰れるような気がする」からだったというのもあります。
絶望を感じるほど既に若くはないので、今は今なりに楽しく毎日生きていて、だけど「帰れるはずのない、帰るべき場所」のことは忘れてしまったわけではなく、ただそういう場所がないことを受容しつつ、憧憬に似たものを大事に抱いています。
思春期と呼ばれる頃に、誰もが通る道だというのは知っています。そのもどかしさをただ「あの頃は若かったから」と投げやりに諦めたくはないのです。何者でもない、何者になれるのかもわからない、そんな衝動や怒りや懊悩焦燥、そういうものを喪うのが年齢を重ねるということならば、私はそういう歳のとりかたはしたくはない。我が儘ですか。
私の(プライベートで)書くものはとてもナルシスティックでセンチメンタルで希薄で、そして淋しい。淋しいから「さよなら」を言う。それは、ばっさりと糸を切ってしまうようなさよならではなく、ただうっすらと、霧が晴れるように消えてしまいたいのです。現実では不可能なので、私はそういうものを書く。書くことしか出来ない。それに気づいたので、今は「さよなら」を現実で言うことはないでしょう。書きさえすればいい。唇で語るよりも、そのほうがずっといい。若い頃にそういう機会に恵まれたので、私はずっと「さよなら」を言わずにすんでいます。
晴れた空を斜めに切り取る電線の狭間を見た瞬間、金木犀の枝に降る雨の雫に目を奪われた瞬間、夏の入道雲のてっぺんに気づいた瞬間、車窓を流れる風景がふと停止した瞬間、そういう時に、ただ今日の天気を語るように「さよなら」を言いたくなる、それは今でもある。だけど、もう言うことはないと思います。
ところでツキイチが昨日降臨しています。お腹いたいよぅ〜頭痛もするよぅ〜だるいよぅ〜でもねとげはする。アホです。レアのためにノーマルアイテムを既に157個も収集したんですがまだ出ません。くそうマンドラゴラめ〜〜〜〜〜!!!! 競争率高いよー!
β版故のバグのために、全鯖データが一週間ほど巻き戻ってしまい、例のレア杖はもとの人のとこに戻ってしまいました(泣)でも、その方優しくて、もう一回くださいました。ありがとうございます……マジで大事にします。さあ今日も強くなった私で狩りだ!!!! 戻ってきたぜマイキャラ!(笑)
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