HOME > コラム > 海外のフェリー事情を見てみよう (II)

海外のフェリー事情を見てみよう (II)

石山 剛

1、「打ちのめされたフェリーが引き返しを余儀なくされる」(オーストラリア)

 「ローグ・ウェーブ」という言葉をご存知だろうか。1972年のパニック映画の傑作『ポセイドン・アドベンチャー』の再映画化作品 『ポセイドン』(2006年)では、このローグ・ウェーブ(狂暴な波)で大型クルーズ船が転覆する……。ま、これは映画の中の荒唐無稽な お話で現実にはあり得ない、と言いたいところだけど、実は転覆には至らないまでも、巨大な波による事故が相次いでいるから、ご用心。

 2005年1月、洋上セミナー船として使われていたクルーズ船のエクスプローラーが、50フィートの波の直撃を受けて、船橋にいた船 員3人が怪我。その2週間後には、姉妹船のボイジャーが地中海で同様の事故を起こしている。同年4月には、バハマからニューヨークに向っ ていたノルウェージャン・ドーンを、高さ70フィートの波が襲い、62室の船室が浸水、乗客4人が軽傷を負っている。更に2006年1月 には、ノルウェージャン・スピリットでも同様の事故が発生。70フィートの波と言うと、21メートル程になるから凄まじい。

 フェリーの場合はクルーズ船と違って、比較的短距離の航路に就航していることから、ローグ・ウェーブに遭遇する確率はかなり低い。し かし不幸にして遭遇してしまったのが、オーストラリア本土のメルボルンとタスマニア島デボンポートを結んでいるTTラインの「スピリッ ト・オブ・タスマニアⅠ」。2005年2月2日深夜、バス海峡で波高20メートルの波がこの船を直撃し、船首の船室の窓を突き破って、海 水が船内になだれ込んだのだった。乗客の1人に聞いてみよう。

 「上から2番目の高さにある第七甲板にいたのですが、波は窓よりも高くて、一晩中、窓を波が打ちつけていて、二つの船室の船首の窓を 突き破ったのです。絨毯は全部、びしょ濡れで、皆さん悲鳴を上げていて(中略)、ドアを開けると、水が全部廊下を流れて行きました。それ に水が膝まであったので、船は沈没するのではないかと思いました。」

 まるで映画の世界。しかしこれは現実のお話。海洋学者によると、こうした山のような波は、「我々が考えている以上によくあるもの」だ という。海流と反対方向に強風が吹いている場合や波が交錯する場合、あるいは海底の地形によって生じたうねりから、ローグ・ウェーブは発 生するらしい。滅多には起きない事故だとしても、大自然はやっぱり甘くはない。技術の過信は禁物だ。

2、「2月のフェリー事故の報告書は海運会社と政府を糾弾」(エジプト)

 シリアスなタッチで始まった今回の海外フェリー情報。次の話題も、とってもシリアス。2006年2月3日に1000人以上が犠牲に なったこの事故は、やはり取り上げないわけにはいかないだろう。

 エジプトの海運会社、エル・サラーム・マリタイム・トランスポートが運航していた「アル・サラーム(ボカッチオ)98」は、約 1400人の乗客を乗せてサウジアラビアのドゥーバからエジプトのサファガに向う途中で火災を起こし、紅海に沈没した。乗客の大半はサウ ジアラビアで働いていたエジプト人。しかし救助されたのは387人程で、400体以上の遺体が収容されたものの、他は行方不明という大惨 事となった。

 この海難はエジプトで大きな社会問題となり、日本でも大きく報じられたが、事故原因の究明がなされる中で、エジプト海運業界の驚くべ き実態が明らかになったのだった。2006年4月に事故調査委員会がエジプト議会に提出した報告書によると、この船の法定最大搭載人員は 1200人とされていたにも拘らず、常時、何と2000人以上も乗船させていたという。しかもイタリアから購入した船齢35年にもなるこ の船には、満足な救命設備もなく、運航していたフェリー会社経営者が政府と密接な関係にあったことから、この地位を利用して船舶安全法令 の適用を回避し、紅海で独占的に経営してきたことも明らかになった。こうした事態を放置してきたエジプト政府の責任問題にまで発展してい る。

 不幸な事件ではあるものの、これを機会にエジプトのフェリーの安全性が強化されることを祈りたい。紅海に橋を架けるという計画も浮上 しているらしい。

 それにしても最近、事故があまりにも多い。今年に入ってからの主な沈没事故だけでも、インドネシア、カメルーン、バーレーン、ジブ チ、ガーナ、タンザニアでもあり、3月にはカナダのBCフェリーズの「クィーン・オフ・ザ・ノース」がクィーン・シャーロット諸島沖で沈 没し、乗客が2人が行方不明になっている。

3、「シー・コンテナーズはフェリー事業から撤退」(ヨーロッパ)

 フィンランドとスウェーデンを結ぶ豪華クルーズフェリーで有名な「シリヤ・ライン」、英国とフランスを高速船で結ぶ「ホバースピー ド」、米国ニューヨーク市のフェリー「シー・ストレーク」、ギリシャで高速船を運航する新設会社「エーゲアン・スピード・ライン ズ」……。

 共通点はな~んだ。直ぐに分かった貴方は、かなりの旅客船通(笑)。実は、いずれもバミューダに登記されてニューヨークで上場してい るものの、ロンドンに本拠を置くという複雑な多国籍企業、「シー・コンテナーズ」が経営しているフェリー会社だ。このシー・コンテナーズ が、フェリー事業から完全に足を洗うというので、ヨーロッパに衝撃が走っている。

 最近の異常なまでの原油価格の高騰で、日本でも旅客船業界は厳しい現実に直面しているが、地球の裏側のヨーロッパに行っても、厳しさ に変わりはない。バルト海の旅客フェリーは、シリヤの他、バイキング・ラインも大幅な赤字に陥っている。これは2004年5月にバルト諸 国がEUに加盟したこと、フィンランドの酒税の引上げで、船上での酒類販売の利益が落ちたこと、人件費の安いエストニアのタリンクとの競 争に敗れつつあること等が原因だと言われている。

 2005年9月、シリヤは1977年建造の高速フェリー、「フィンジェット」等を引退させ、クルーズ船の「シリヤ・オペラ(旧スー パースター・トーラス)」を売りに出した。そして親会社のシー・コンテナーズは、シリヤ・ラインを売却すると発表した。多くの企業がこの フィンランドの国民的フェリー会社に関心を示しており、その中にはライバルのタリンクの名前も挙がっている。

 一方、英国のドーバーとフランスのカレーを結んでいたホバースピードは、2004年に夏季のみの季節運航に切り替え、大幅な値引きを して生き残りを図ったものの(例、乗用車1台に5人で往復29ポンドぽっきり)、2005年11月、遂に航路を閉鎖し、今年の1月には清 算してしまった。燃料費の高騰、小売販売の減少、格安航空会社や海峡トンネルとの競争激化等が原因。現在、ここの関係者が、英国のフォー クストンに「ネイムド・リミテッド」という新会社を設立し、運航の再開を模索している。

 シー・コンテナーズは、1965年の設立。やり手の米国人実業家ジェームズ・シャーウッドが始めたコンテナ賃貸事業は、世界的なコン テナリゼーション(コンテナ化)の進展と共に大成功を収め、1970年代にはベニスのホテル等を買収して多角経営に乗り出した。ベニス・ シンプロン・オリエント・エクスプレス(オリエント急行)を復活させたことでも知られている。しかし一代で築き上げたこの大企業帝国は崩 壊し、今や英国のまとめ役ボブ・マッケンジーの下で、グループの見直し、リストラが行われている。最終的には、本来のコンテナ賃貸事業、 鉄道事業(GNER)等の3事業に縮小される見込みだという。

 こうした話は、昨今の日本では珍しくないけれど、ヨーロッパでも同じようなドラマが展開している。何処も同じ、人類みな兄弟というわ けだろうか。

4、「DPワールドはP&Oを買収」(英国、UAE)

 大企業帝国の崩壊といえば、P&Oも負けていない。こちらの方は単なる一企業の崩壊というよりは、大英帝国崩壊の象徴と言っ ても良いような海事史に残る大事件。アラブ首長国連邦(UAE)の国営企業、ドバイ・ポーツ・ワールドが、あの群青色の煙突で親しまれて いるP&Oを買収したのだ。

 P&Oは1837年にまで遡ることのできる老舗の海運会社で、その最盛期には大英帝国からシドニー、カルカッタ、シンガポー ル、香港等の植民地に伸びる「オール・レッド・ライン(全英航路、英国領が地図で赤色だったことから)」を経営する世界最大の海運会社 だった。正に「帝国の一部」だったと言っても過言ではない。

 植民地の相次ぐ独立と共に、植民地航路の経営からは手を引いて行ったものの、1980年代は会長のスターリング卿の下で、港湾、コン テナ、フェリー事業の他、クルーズ事業、住宅建設等に及ぶ時価75億ポンドの大企業帝国を形成し、84,000人を雇用していた。

 ところが90年代に入って経営がおかしくなる。結局、黄色い煙突のクルーズ部門は売却されて、今や米国のカーニバル・コープの下にあ り、残る港湾、コンテナ、フェリー部門も、とりわけフェリー部門の赤字が目に余るものとなっていた。

 大リストラが始まり、2005年1月にはポーツマス―シェルブール航路を廃止。9月にはル・アーブル航路が廃止され(この航路はフラ ンスのLDラインズが引き継いだ)、大幅な人員削減を図って、生き残りに懸命になっていた。

 こうした動きを冷静に見ていたのが、中東のUAEのDPワールドだった。原油価格の高騰は産油国にとってはウハウハな出来事で、そう した石油で得た莫大なオイル・マネーをつぎ込んで、P&Oが世界各地に持つ港湾経営権を獲得しようと動き出していたのだった。

 2005年10月30日、DPワールドは買収に名乗りを上げ、11月には33億ポンドで買収することで合意に達し、ここに P&Oの英国人による168年間に及ぶ所有は終焉を迎えたのだった……、で終わると話が単純すぎて面白くないと脚本家は考えたの か、ここからこの買収劇は二転三転する。

 まずシンガポールのテマスク・ホールディングズがこの買収に名乗りを上げ、ここが所有するPSAインターナショナルとの間でセリが始 まったのが第二幕。英国人はそっちのけでシンガポール人とアラブ人が激しく争い、P&Oの値はあれよあれよという間につり上がっ て、何とかDPワールド側が39億ポンドで落札。おまけに愛国的なP&Oの株主達を説得するために、英国での雇用と成長を約束す る羽目となり、かなり高い買い物となってしまった。

 ところがこれで話は終わらず、舞台は突然、米国に飛ぶ。第三幕はブッシュ政権と米国議会との間の戦い。実はP&Oはニュー ヨーク、マイアミ等の米国の6つの主要港も経営しており、これが中東の会社の手に渡るのは、「安全保障上問題がある」と議員達が党派を超 えて難癖をつけて来たのだった。政府は親米国家UAEとの友好を重視して、この買収を承認していたものの、議会の説得に失敗し、結局は DPワールド側が米国内の港湾経営権を手放すという「大人の対応」で決着した。もっとも、ブッシュ政権の威信や面子は丸潰れとなるという お土産付きだったが。

 かくして2006年3月、あの光り輝く英国名門海運会社のP&Oは上場廃止となり、アラブのものとなった。何とも感動的な大 河ドラマ、だったかも知れない。

Information

 本稿は、「海外のフェリー事情を見てみよう」、フェリーズvol. 6(海事プレス社、2006年)に加筆・訂正したものです。古くなっている情報もありますが、記録として掲載することにしました。