HOME > コラム > ミスター・オーシャン・ライナーの本 > 遠洋定期船90年史(1897-1927)

ウイリアム H.ミラー, Jr.「写真に見る最初の偉大な遠洋定期船:写真193枚 1897年―1927年」

1、初期の4本煙突の船

 本章は単なる船舶や海運の競争ではなく、政治的な闘争に関する1章であるといえる。1889年、ドイツのKaiser Wilhelm 2世はSpitheadで行われた観艦式の間、英国のWhite Star LineのTeutonicを訪船された。そこで皇帝は深い感銘を受けたのである。その後、25年かそこらに亘って、大西洋横断旅客海運は変わることとなるのであった。そ れまでは英国が大洋横断の栄光を独占し、最大、最速、最高の旅客船を保有していた。Kaiserは嫉妬したのである。ドイツに戻るや帝国 の海運の栄光を確立し、増強し、復興するよう命ぜられた。結局、単なる英国の勝利には終わらずに、明らかにヨーロッパとその他の世界は、 ドイツ帝国が産業、技術の新しい頂点に達することを見ることとなったのである。

 この計画が始まって新しいドイツの快速船が実現するまでに、8年かかった。14,300トンのKaiser Wilhelm der Grosseは1897年9月に就航して、偉大なる遠洋定期船の時代が始まったのである。成功もして、全く幸せなことに二つの目的を達成 した。4本煙突の外観を誇る最大の定期船であったばかりではなく、その速力で英国からBlue Ribbandの評価を奪ったのである。これは他面において、英国のビクトリア時代の誇りを挫く深刻な打撃でもあった。Kaiser(=皇帝)は歓喜した。

 競合他社も発展した。Wilhelm der GrosseはブレーメンのNorth German Lloydの所有であったが、ハンブルグの競争相手、Hamburg-America Lineはその分け前、少なくともつかの間の栄光を欲していた。こうして1900年、Deutschlandが就航し、代わる代わるBlue Ribbandを獲得したのである。世界最速の船を持つことよりも重要なものはないように思われた。ドイツの栄光のために、本船は今日に おいてさえも、ドイツの産業の進歩の驚異なのである。

 North German Lloydは3隻もの一連の大型定期船で対抗した。すべて4本煙突の船で、北大西洋での週1回の急行運航に最適な4隻であった。3隻の新船はKaiserの関心を惹き、適 切な王族の名を戴くこととなった。すなわち、Kronprinz Wilhelm、Kaiser Wilhelm II、そしてKrouprinzessin Cecilieである。ドイツ人は無敵であるかのように思われた。

 1905年、英国政府は大西洋における海運力を大変に心配して、Cunard Lineに接近して少なくとも2隻の超定期船を検討するよう求め、とりわけ「ドイツの化け物」より大型で高速の船を持つことを求めたのである。3本煙突としての英国定期船 建造の初期の計画は変更され、新船はドイツ船のように4本煙突とされた。1907年、この姉妹船がLusitaniaと Mauretaniaとして就航したとき、「最大」かつ「最速」の最上級のものが英国に戻ってきたのである(「最大」であることはドイツ のImperatorがハンブルグから最初の航海を行った1913年までであったが、Mauretaniaの速力はずば抜けており、 1929年まで大西洋上の記録を保持していた。)。

 これに対して、ドイツ人は、少なくともしばらくの間、速力の魅力には興味を失って、代わりに巨大な大きさやずば抜けた豪華さに専念し たのだった。国家間の競争は、所謂「ships of state(=国家の船)」を巡って続いたのだった。

 これら初期の4本煙突の船のうち、Mauretaniaだけが第一次世界大戦を無傷で生き残り、結果として大成功を収めたのである。 Kaiser Wilhelm der GrosseとLusitaniaはいずれも戦争の犠牲となり、ドイツ船は西アフリカの沖で沈められ、Cunarderはアイルランド沖で魚雷により不運にも沈没したので ある。残ったドイツ船のうち3隻は、戦時中にアメリカの手中に落ち、皮肉にも建造に大変熱心だったKaiserに対抗することとなったの である。戦闘行為が終了した後、それをどう扱うべきか、誰も全く見当がつかなかった。星条旗の下で定期船運航に復帰させたらどうかという 提案はあったが、実現はしなかった。全てはアメリカの船舶解体工場に送られて終わったのである。Deutschland(=ドイツ)は失 望だけを残したように思われる。Blue Ribbandは獲得したものの、そうした賞を獲得するには運航経費が嵩んだのである。その生涯の大半において、高出力の機関のため騒音と振動に悩まされた。 Hamburg-Americaは、旅客にとりわけ快適さを提供してきたのであるが、それを不快なものとすることはなかった。 Deutschlandは、最終的には高速を必要としない白塗りのクルーズ船に改造されたのである。戦後、遂には移民を輸送するための2 本煙突の船に格下げとなったのである。


KAISER WILHELM DER GROSSE
 1890年代初期、北大西洋上のあらゆる記録を破った旅客船は、英国建造船であった。政治力と技術力を伸張させていたドイツ帝国は、こ れを嫉妬した。加えて主要なドイツの大西洋旅客船会社であるブレーメンのNorth German LloydとハンブルグのHamburg America Lineは、絶え間なく競争をしていたのである。こうした中で、十分な財政的余裕があり、そうした計画を本国において実行できるNorth German Lloydが、世界最大の旅客船であるばかりではなく速力も記録破りの定期船を発注したのである。
 Kaiser Wilhelm 2世の面前で、新船は、Kaiserの祖父であるKaiser Wilhelm 1世を称えてKaiser Wilhelm der Grosseとして1897年5月3日に就航した。最初の4本煙突の船として、本船は超定期船の最初のものとも考えられるかもしれない。
 その年の秋のニューヨークへの処女航海中、大勢の人々が埠頭に押しかけ、ブレマーハーフェン、サウサンプトン、ニューヨークの波止場で このドイツの「驚異の船」を一瞥したのだった。記録はたったの6日間というものであり、英国のCunard LineのLucaniaの記録よりも上回っていた。意図していた通り、ドイツの定期船が栄誉を確実なものとして全世界の注目を集めたのである。
 修理のため乾船渠に入渠中のKaiser Wilhelm der Grosseの船首の先にいる作業員(次頁)を見ると、この定期船の大きさが判る。本船、そして後の大型の定期船により、大西洋の両岸において新しい大型の埠頭と乾船渠の 設備が必要となったのである。1899年、ブレマーハーフェンに722フィートのKaiser Dry Dockが開設され、英国外における最大の船渠となった。
[1897年、ドイツ、ステッチン、Vulkan Shipyards建造。14,349総トン、全長655フィート、全幅66フィート。3段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力22ノット。旅客定員1,970人(1等 558人、2等338人、最下級船室1,074人)]

Kaiser Wilhelm der Grosse
 Kaiser Wilhelm der Grosseのような旅客船は、燃料に石炭を使っていた。航海ごとの積み込み作業はしばしば煩らしいもので、汚くて時間がかかったものだった。上の写真は次の航海にために ブレマーハーフェンで石炭をこの定期船に積み込んでいるところ。右に停泊しているのは、別のNorth German Lloydの定期船、1900年のBremenである。
 他の4隻の4本煙突の船のように、Kaiser Wilhelm der Grosseの煙突は、2つづつ組みになっており、直ぐにドイツの定期船だと判る独特のデザイン概念である。この構造には実際的な理由があった。組みにしていることで1等 の食堂に煙突軸を設ける必要がなく、下層甲板のボイラーの排気も上手く出来たのである。本船の大きさと速力が知れ渡ったことから、 Wilhelm der Grosseの煙突の数で、その偉大な大きさ(つまり偉大なる安全性)と偉大なる速力を象徴するものだと旅行者は考えたのだった。簡単に言えば、当時の考えというのは「煙 突の数が多ければ多いほど良い船だ」というものだった。アメリカへの片道航海をする移民輸送で収益を上げるべく大変な努力がなされてお り、こうした大量の移民達は「生涯の航海」のために船を選んでいた。汽船会社が、煙突の数が多いと航海中に暴動が起きるとウソを伝えたこ とがあった。そこで乗客の中には3本煙突の定期船に再予約するまで航海に出ることを拒絶した者がいたが、実は4本煙突が好まれていたの だった。
 Kaiser Wilhelm der Grosseの(注、米国南北戦争後の)大好況時代の優雅さ。1等の食堂(次頁、上)は、558人の1等船客の全員が1回制で着席できた。部屋それ自体は、続き戸を開くこ とで広い空間にすることができた。居間のふかふかした皮張りのソファ(次頁、下)は、ドイツの速力女王の1等の魅力的な雰囲気を作り出し ている。

DEUTSCHLAND (1900年、上)
 North German Lloydのドイツの好敵手は、Hamburg-America Lineであった。実際、2つの偉大なる海港で争っていたのである。ブレーメンのLloydとハンブルグのHapag(Hamburg-Americaの略語)である。
 HapagはLloydのKaiser Wilhelm der Grosseに感心し嫉妬をしていた。そこで自社の大型の記録破りの船の建造に取り掛かったのである。この船は1900年の夏にDeutschlandとして就航し、直ぐ に誰もが欲しがるBlue Ribbandを獲得し、その後6年間に亘って栄誉を保持した。しかし本船は、Hamburg-Americaの船隊における唯一の速力女王であったのである。North German Lloydの重役会や他のいくつかの大西洋横断会社が、横断記録に取り付いていたのに対して、Hamburg-Americaの経営は、2つの違う要素を定期船の建造に将 来取り入れていくことにした。すなわち、大変な豪華さと大きさである。運航上満足の行かないものとなることが判っていたので、 Deutschlandはこの決定をある程度まで取り込んだ。本船は高速機関による振動に悩まされており、その振動と騒音で乗客はイライ ラしたものだった。1910年から11年に機関の出力をかなり下げるために完全に刷新された。その後、クルーズ船として使用された。
 Deutschlandの1等のカフェ(左)は、人の集まる人気の場所であった。Hamburg-Amarica Lineはいつも乗客が3等や最下級船室でさえも快適に過ごすことを強調していた。会社幹部はしばしば旅客船に乗船し、メモ帳と鉛筆を持って改善可能な点をメモしていた。
 当時最大の船として、Deutshlandはアパートや工場やホボケンの埠頭の上屋よりも高くそびえていた。Second Street Pierに停泊中の姿(次頁、上)。この写真の埠頭は、ほんの短期間しか続かなかった。1910年までに新しい1,000フィート埠頭が完成し、そこは特に Hamburg-Americaの新しい巨大な大西洋定期船である全長900フィート超のImperator、 Vaterland、そしてBismarck向けに建設されたものであった。
[1900年、ドイツ、ステッチン、Vulkan Shipyards建造。16,502総トン、全長684フィート、全幅67フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力22ノット。旅客定員2,050人(1等 450人、2等300人、3等300人、最下級船室1,000人)]

VICTORIA LUISE (上)
 6年間に亘ってHamburg-America LineにBlue Ribbandをもたらすことに成功したにも拘らず、Deutshlandは既に説明したように満足できない定期船であった。1905年から06年にかけて、この会社は問 題を抱えていた大きくて豪華なDeuschlandの引退を決定した。しかし機関を取替えクルーズ船に改造するまでに、ニューヨークへの 北大西洋横断に4年間留まっていた。
 Deutschlandだった船は、1911年の終わりにVictoria Luiseとして再登場した。船体を白く塗り、最高のクルーズ定期船としての名声を博したものだった。熟慮した16,700トン、全長684フィートの船であり、ほんの 487人の客しか取らず、すべて1等設備の大変に豪華なものであった。この豪華な設備で、西インド諸島や地中海、スカンジナビアを旅を し、時にはドイツ帝国の貴族が、観艦式や公式のボートレースに出席する際の「host ship(=宿舎)」となったのである。
 第一次世界大戦中、Victoria Luiseは主として運航上の問題から利用されずにいた。1919年に降伏後、本船は機関の不調から、勝った連合国に接収されなかった唯一の国を代表する大型汽船となっ た。1921年に移民船Hansaとして再建され、1925年まで生き残ったが、ハンブルグでスクラップになった。

KRONPRINZ WILHELM (前頁、上)
 競争相手のHamburg-America LineのKaiser Wilhelm der Grosseとその後のDeutschlandの華々しい成功に対抗して、North German Lloydは1901年に2隻目の4本煙突の船を就航させた。ドイツの皇太子に因んで、この新しい定期船はKronprinz Wilhelmと命名された。ブレマーハーフェンとニューヨーク間を結ぶ急行定期船として、この船はDeutschlandから有名なBlue Ribbandを奪回する意図を持っていた。本船は全く成功しなかった。本船の機関は、Deutschlandの記録を上回るだけの追加 出力を出すことができなかった。しかし別の点では船主には良い船だったのだった。最大かつ最高に豪華な定期船の1隻だったのであり、4本 煙突の4隻のNorth Germanの急行チームの重要な部分を占めていた。すなわち、1897年のKaiser Wilhelm der Grosse、1901年のKronprinz Wilhelm、1903年のKaiser Wilhelm II、そして1906年のKronprinzessin Cecilieである。
 Kronprinz Wilhelmの旅客設備は3つの等級に分かれていた。1等、2等、そして儲かる最下級船室であった。1等は最も広く、彫刻を施した木製のサロン、素晴らしい絵画がかか り、スィートと専用室には大理石の浴室が付いており、特別の居間があった。1901年のKronprinz Wilhelmの豪華なスィートは、1週間の横断費用が2,000ドルもした。2等は1等の修正版であったが、狭くて質素であった。最下級船室は、この会社に最も富をもた らしたが、最も狭く、そして確かに最も快適ではなかった。こうした最下級船室で行くアメリカへの航海は、僅かに10ドルであった。
 船員がKronprinz Wilhelmに乗船して必要な保守を行っている(前頁)。ホボケンのNorth German Lloyd埠頭に、当時世界最大の定期船が停泊している。
[1901年、ドイツ、ステッチン、Vulkan Shipyards建造。14,908総トン、全長664フィート、全幅66フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力22ノット。旅客定員1,761人(1等 367人、2等340人、最下級船室1,054人)]

KAISER WILHELM II (上、右)
 North German Lloydの4本煙突の3隻目はKaiser Wilhelm IIであり、1903年春に竣工した。以前の急行定期船に比べて長く、恐らくは大型であった。本船もまた速力記録を破る意図を持っていたが、1906年6月に Hamburg-AmericaのDeutschlandからBlue Ribbandを奪ったのだった。翌年英国のCunardの姉妹船LusitaniaとMauretaniaによって栄冠を奪還されるまで、(旅客船あるいはその他の船の 中で)世界最速船の地位を誇っていた。
 他のすべてのドイツの4本煙突の船のように、Kaiser Wilhelm IIの成功は、大部分はマスコミ関係者によって作られたものだった。処女航海でニューヨーク港にやって来た時に大新聞がその大きさ、速力、壮大な内装について書き立て、寄 港中4万人余りが見物に訪れたのだった。これは、この定期船が停泊したホボケン市の全人口よりも多い人数だったのである。
 このドイツの快速船で有名人がしばしば横断をした(右)。Metropolitan Operaのスター、Johanna Gadski(左に着席)とEnrico Caruso(カメラを持って着席)が1903年に家族や友人らとKaiser Wilhelm IIに乗船した時のもの。
[1903年、ドイツ、ステッチン、Vulkan Shipyards建造。19,361総トン、全長707フィート、全幅72フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力23ノット。旅客定員1,888人(1等 775人、2等343人、最下級船室770人)]

KRONPRINZWSSIN CECILIE (前頁)
 ドイツ船籍の最後の4本煙突の船は、North Garman LloydのKronprirozessin Cecilieである。世界で最高のものであったこの会社の4本煙突の急行定期船運航は、週1回、ニューヨークかブレマーハーフェンから出ていた。何千人もの乗客を几帳面 にもてなす人気のあるものであった。Kronprinzessin Cecilieは取りたてて特色のある船ではなかったが(世界最大でも最高速でもなかった。)、当時最高の、最も豪華な定期船であった。本船の1等の宿泊設備は大変に豪華 なもので、スィートには人目を避けたい旅行者向けの特別食堂が付いていた。アメリカの億万長者がしばしば本船を利用した。1等の食堂には 正餐に出される魚を選択できるよう、魚の入った水槽があった。
 もちろん、以前のドイツの船や同時代の船のように、Kronprinzgssin Cacilieは最下級船客も輸送していた。その設備は上甲板の1等とは対照的なものであった。1910年までに、違いはアメリカへの1週間の横断費用に最も良く現れてい た。1等の最高のスィートが2,500ドル、これに対して最下級船室が25ドルであった。
 4本の偉大な辛子色(=黄色)のKronprinzessin Cecilieの煙突(下、左)は、ホボケンのThird Street Pierにこの定期船が停泊中に撮影されたものである。煙突が多ければそれだけ安全で大きいという初期の論理が、長年の間、北大西洋を走る定期船に取り付いていた。その結 果、3本と4本の煙突を持つ定期船が殆どいつも大人気であり、特に移民の間ではそうだった。
 1等のサロン(下、右)は、当時の職人の質の高さを反映している。
[1906年、ドイツ、ステッチン、Vulkan Shipyards建造。19,360総トン、全長707フィート、全幅72フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力23ノット。旅客定員1,900人(1等 558人、2等338人、最下級船室1,074人)]

LUSITANIA(上)とMAURETANIA(次頁)
 世評の高い北大西洋を運航するドイツの4本煙突の船が優勢になって来たことから、20世紀を迎えた時、英国政府は面白くなかった。国内 第2位の定期船会社White Star CompanyがアメリカのJ. P. Morganの権益に売却されて、状況は更に悪化した。たとえWhite Starの船舶が英国国旗を掲揚し続けたとしても、もはやアメリカ所有の会社だったのである。国家の威信を取り戻すべく、政府は当時大西洋最大の運航社であった Cunard Lineの方を向き、1隻ではなく2隻の大型急行定期船を建造するよう、気前の良い建造貸付金と郵便運航助成金を申し出た。この2隻が最大かつ最高速の船となったのであ る。また英国の技術を代表し、海事工学と設計の優位性を示すものとも考えられた。新しい極上Cunardersの機関の取り合わせには全 くびっくりさせられたものだった。1905年にCunarderのCarmaniaに搭載された当時最新の蒸気タービン推進機関の大成功 に続くものであった。それは、事実、効率が良くて出力の高い蒸気タービン推進の定期船の時代の幕開けであった。
 新しい姉妹船は、Cunardの古代ローマの地名に因む命名法に従った。姉妹船の第1船はLusitaniaであり、これは古代ローマ のポルトガル(ルシタニア)に因んだものである。一方、Mauretaniaは古代ローマのモロッコ(モーレタニア)から取ったものだっ た。両船ともドイツの4本煙突の船よりは遥かに大型で、1万トン以上も大型であった。2本のマストと4本の均等に並らんだCunardの オレンジ・レッドと黒に塗装された煙突が、上手く釣合のとれた輪郭を作り出していた。その数値は当時、肝を潰すようなものであった。例え ばボイラー25基、暖房炉192基が両船に搭載されていた。貯蔵庫の容量は石炭6,000トンであり、24ノットから25ノットの巡航速 力で、1日当たり1,000トンの石炭を消費した。
 ここに見えるLusitaniaは、建設中のSinger Towerを背景にニューヨークを出発したところで、本船は1907年9月に就航した。Mauretaniaは11月であった。
[Lusitania:スコットランド、クライドバンク、John Brown & Company Limited建造、1907年。31,550総トン、全長787フィート、全幅87フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力25ノット。旅客定員2,165人(1等 563人、2等464人、3等1,138人)]

 Lusitaniaは1915年にアイルランド沖で悲劇的な沈没の犠牲となったので、Mauretaniaがこれまでに建造された最 も成功した定期船の一つとなった。Lusitaniaが1907年の就航年に25ノット以上の平均速力を出してBlue Ribbandを奪い、英国は20年以上に亘って速力の名誉を保ち続けることとなった。Lusitaniaの勝利の後、Mauretaniaは26ノット以上を出して走 り、遂に姉妹船よりも速い速力を出してBlue Ribbandの保持者となった。この優秀さ(1929年まで続いた)故に、多くの旅行者がMauretaniaを好んだのである。英国政府とCunardは、この速い姉 妹船、とりわけMauretaniaを誇ったのだった。ドイツ人を激怒させたのである。

[Mauretania:イングランド、ニューカッスル、 Swan, Hunter & Wigham Richardson Limited建造、1907年。31,938総トン、全長790フィート、全幅88フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力25ノット。旅客定員2,335人(1等 560人、2等475人、3等1,300人)]

 乗船客の一行(裏面)は、マンハッタンの西14丁目のふもとに停泊した1908年、巨大なLusitaniaの上甲板で撮影されたも の。

LusitaniaとMauretania
 内装は英国とヨーロッパの意匠の栄光を代表するものであった。イングランドとフランスの森林を、最も完璧な木材を求めて探し回ったもの で、その幾つかにかなり詳細に優雅な彫刻が施されている。装飾の主題はフランスのルネサンスから英国の田舎に及ぶもので、広いラウンジ、 喫煙室(前頁はLnsitaniaのそうしたものの一つ)、図書室、大広間、談話室、例外的に優れた椰子庭園に施されていた。
 船の1等に備え付けられた浴室には、銀メッキが施され、2等と3等には、当時新しかった白金が使用されていた。Lusitaniaのエ レベータの籠を取り巻く華麗な手摺とブロンズの作品(上)、一方、Mauretaniaには初の水圧式の床屋の椅子が備え付けられていた が、その特徴はあいまいであった。

LusitaniaとMauretania
 Mauretaniaの1等の木製パネルには、パレスチナからイングランドの造船所にやってきた300人の職人により彫刻が完成した。 日中、この定期船の喫煙室はいつも完璧に磨かれており、明かり窓からは日光が溢れていた。

2、スィート、サロン、そして最下級船室

 まず第一に言えることは、旅客船の所有者は実業家であったということである。その船舶は顧客の状況に応じて、費用に報いるものとし て、そして船主の利益になるべく建造されたのである。概して「世界最大」とか「世界最速」といった世評は、大会社にとってのみ興味を引い たものであり、そうした大会社は巨大なしばしば政府の援助を受けていた船隊を維持していた4社か5社に過ぎなかった。確かに、所謂最大か つ最速の定期船は、そうした特色が禍となることは決してなかったのだった。いつも、「洋上の最大の(あるいは最速の)船より」という内容 の絵葉書を送る機会を探している旅行者で、切れ目なく溢れていたのである。

 しかし、多くの他の船舶や船主にとって運航は、より普通の1等と2等の観光客、そして北米海岸に脱出してきた大量の移民によって刺激 を受けてきたものであった。所謂最上級の特色は欠いていたのであるが、英国やドイツの会社が、ベルギーのRed Star Line、デンマークのScandinavian-American Line、そしてHolland-America Lineの船主であった。この章の頁には、そうしたあまり有名ではない船が掲載されている。Lapland、Frederik VIII、初代Nieuw Amsterdamである。こうした船舶は、船籍、船主、営業によって分別されてきた。いつものように大西洋横断定期船が最も目立っていた。

 1等と2等では、様々な水準の船室を用意していた。部屋の広さ、利便性、船内の位置によって船室の料金が異なっており、一連の公室 (喫煙室、ラウンジ、サロン、食堂)と繋がり、そこで1週間か2週間の横断航海をしたのである。しかし大部分の旅客船会社にとって、最も 関心を寄せていたのは3等や最下級船室であった。ここでの関心は、快適さではなく、新世界への横断を望んでいた「塊」から多大の利益を確 保することにあった。最低運賃(25ドルかそれ以下)を支払った乗客で儲けていた汽船会社が、旅客設備を殆ど設けずに食料やサービスを最 小限にしていたのは、極めて自然なことであった。汽船会社は利益を上げていた。MauretaniaやTitanicのような大型の豪華 船から、数え切れないほどの小型船に至るまで、どの船も最下級船室の乗客を輸送していたのである。例えば、1907年には120万人以上 の移民がニューヨーク港に到着した。その誰もが船に乗って来たのである。


CAMPANIA(前頁、上)
 20世紀に入る頃のCanardの北大西洋定期船隊は、急速に近代化し拡張していた。1893年に竣工した時、Campania(ここ に見える)と姉妹船のLucaniaは、ぞれぞれ12,900トンで最大の旅客船であった。21ノット以上の記録的な速力を出す最速の船 でもあった。14年後の1907年、Cunardは31,000トンで25ノット以上の記録的な速力を出したLusitaniaと Muretania姉妹で突出した。Campaniaのような初期の注目すべき船は、業界の急速かつ極端な発展、技術の進歩により、直ぐ に2番手の地位に追いやられたのである。
[1893年、スコットランド、グラスゴー、Fairfield Shipbuilding & Engineering Company建造、12,950総トン、全長622フィート、全幅65フィート。2軸、3段膨張式往復蒸気機関。巡航速力21ノット。旅客定員2,000人(1等600 人、2等400人、最下級船室1,000人)]

IVERNIA(前頁、下)
 殆どの北大西洋の会社がやっていたように、Cunardは大量の移民輸送を賄う補助的な旅客船隊を別に有していた。これらの船は機能に 特化して設計され、概して魅力や大型船の評判のようなものに欠けるものであった。Iverniaは、そうした船であった。Cunardの リバプールとボストン間航路に就航し、後にトリエステからニューヨークへの移民輸送に従事した。1つの特徴を有していた。すなわち最上甲 板に高さ60フィートもある、船に備え付けられた史上最大の1本煙突である。
[1900年、イングランド、ニューカッスル、Hunter & Wigham Richardson Limited建造。13,799総トン、全長600フィート、全幅64フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力15ノット。旅客定員1,964人(1等164 人、2等200人、最下級船室1,600人)]

CARMANIA(上)とCARONIA
 Cunardの姉妹船CaroniaとCarmaniaは、20世紀初期における最も重要な旅客船である。しかしその大きさや豪華さよ りは、機能の点で有名である。大西洋横断旅客運航における最大の会社であるCunardは、新しい蒸気タービンの概念に興味をそそられて いた。初期の蒸気レシプロ機関は効率的ではなく、しばしば汚いものであった。会社の取締役は、この新船を実験台に選んだのだった。 Caroniaには旧式の機関が搭載され、ここに見えるCarmaniaには新しいタービンが搭載された。後者は遥かに優れていることが 証明され、高速かつ清潔な運航ができたのである。直ぐに遥かに大型のCunardのLusitaniaとMauretaniaの設計者 は、新しい蒸気タービンを選択することとなった。この決定により、英国は再び設計、工学において最前線に立つこととなった。その後、殆ど の大型大西洋定期船が、蒸気タービン推進機関を搭載して建造された。
[Carmania:1905年、スコットランド、クライドバン ク、John Brown & Company Limited建造。19,524総トン、全長675フィート、全幅72フィート。蒸気タービン、3軸。巡航速力18ノット。旅客定員2,650人(1等300人、2等 350人、3等900人、最下級船室1,100人)]

CarmaniaとCaronia
 Caronia(上)とCarmoniaは、外観が良いので「pretty sisters(=可愛い姉妹)」として知られている。Cunardの主要航路であるリバプールとニューヨーク間の大西洋横断航路に就航した。この写真では、 Caroniaがローアー・マンハッタンの埠頭から出発する土曜日の朝の航海の準備をしている。右側に氷に覆われたハドソン川が見える。
[Caronia:1905年、スコットランド、クライドバンク、 John Brown & Company Limited建造。19,524総トン、全長678フィート、全幅72フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力18ノット。旅客定員2,650人(1等300 人、2等350人、3等900人、最下級船室1,100人)]

 Caroniaの喫煙室(次頁、上)は、明らかに「クラブの」雰囲気である。

 明かり窓と円形天井が、しばしば大西洋横断定期船の1等の公室の装飾要素とされていた。ガラス張りの天井が、日中の Caronia(次頁、下)のラウンジの利用を明るく楽しいものにしていた。夜、この部屋は壁や天井の電球が剥き出しのランプの照明で、 大変に柔らかな薄明かりに包まれていた。

CarmaniaとCaronia
 Caroniaの1等船室(前頁、上)は、しばしば家族旅行で連結して使われた。個人用の浴室は、最高級のスィートを除くと例外的で あった。共同の設備は、通常、同一甲板の廊下に沿って内側にあった。乗客は船室係に入浴を予約し、浴室係に伝えられた。毎日の入浴は、1 等であっても、20世紀の初期においては定期船で一般的に見られるものではなかった。その上、髭剃りや体を洗うお湯は、船室係を通じての み利用でき、時間の指定がなされていた。船室の蛇口は利用できたとしても、冷水のみであった。ここに見える船室では電気床暖房になってい る。主要なラウンジを除くと、暖房は、20世紀への変わり目の汽船においては、必ずしも備えられていなかった。
 このCaroniaの2等のラウンジ(前頁、下)は、楽しく快適そうに見えるが、1等に見られるようなより多くの装飾に欠けていた。
 1等や2等の上品さとは対照的なのは、3等あるいは最下級船室の旅客設備である(上)。1910年において、乗客は25ドル支払えば、 こんな部屋の寝台(これはCaroniaの一つ)で、アメリカへ8日から10日かけて行くことができた。最下級船室の洗面・便所の設備 は、しばしば乗客を適切に賄うには数が足りなかった。例えばCaroniaの流しは、900人の3等客、1,100人の最下級船室客に とっては、制限的な設備の一つであった。

OCEANIC
 White Star Lineは、殆ど絶え間なくCunardとの競争を続けていた。毎年、この会社はより大型の、より高速の、そしてより豪華な旅客船を投入していたものだった。広告担当者 は、1等の更なる改良と、恐らくは最下級船室が改良され、より広くなったということを説明するのに懸命であった。しかし過去においてそう だったように、最も人気のある船とは、大型の(あるいは少なくともそう見える)安全で、信頼できる船であった。
 1899年に竣工したとき、White Stars Oceanicは、最大の船であった。長さ700フィートを超える最初の船であった。
 そうした大型定期船は、小型船の運航者にとっては脅威であった。実際、レーダーやその他の船舶の位置を表示する装置が登場する前の時代 だったのである。衝突、とりわけ霧の中での衝突はその可能性が恐れられていたものであり、しばしば頻繁に起きたものである。1901年9 月、Oceanicは英国沿岸沖で小型沿岸貨物船に衝突した。7人が死亡した。その前年には、CunarderのCampaniaがアイ リッシュ海の嵐の中で真っ二つに裂けた。11人が死亡している。1908年にはアメリカの定期船St. Paulが英国の巡洋艦Gladiatorと衝突している。この小型軍艦は沈没し、27人の命を奪った。
[1899年、北アイルランド、ベルファスト、Harland & Wolff Limited建造。17,272総トン、全長704フィート、全幅63フィート。3段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力19ノット。旅客定員1,710人(1等410 人、2等300人、最下級船室1,000人)]

CELTIC (前頁、上)
 1900年、White Starが大型の北大西洋定期船を2隻発注する決定をしたとき、その計画においては、大きさと信頼性が要素となっていた。1年後、Celticが就航した時、本船は最大の 定期船であり、20,000トンを超える最初の船であった。更に3本又は4本の煙突を持つ代わりに、そのデザインはやや後ろ向きのもので あった。すなわち、4本マストに2本の細い煙突であった。マストの数は、前世紀の偉大な帆船を連想させるものであった。White Starは可能性ある乗客は保守的であると感じ、船舶の外観は、現代的ではないものを選択したのであった。そうした論理が働いていた。Celticと姉妹船Cedric は、1903年に引き渡され、北大西洋で最も成功した定期船となった。
[1901年、北アイルランド、ベルファスト、Harland & Wolff Limited建造。20,904総トン、全長700フィート、全幅75フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力16ノット。旅客定員2,857人(1等347 人、2等160人、最下級船室2,350人)]

BALTIC (前頁、下)
 CelticとCedricの人気が大変なものであったので、White Star Lineは同じような2隻の、僅かに大型の船を発注した。BalticとAdriaticと命名され、「The Big Four(=4大船)」として知られる四重奏曲を完成させた。少なくとも数年は世界最大の定期船であった。この2隻はリバプールとニューヨーク間で週1回の運航を行い、そ こでは主として移民のためにアイルランドに寄港した。
 White Starの取締役は、これら4船を大変に気に入り、更に大型の定期船、すなわち3隻で、更に豪華な水準で、週1回の運航を維持できると見たのである(その後これは Olympic、 Titanic、Britannicとなった)。
[1904年、北アイルランド、ベルファスト、Harland & Wolff Limited建造。23,884総トン、全長726フィート、全幅75フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力16ノット。旅客定員2,875人(1等425 人、2等450人、最下級船室2,000人)]

REPUBLIC(上)
 White Starは、Cunardや他の多くの定期船会社のように、北米への急騰する移民に主として対処すべく第二の補助船隊を維持していた。しかしながら、こうした船の中で White StarのRepublicは、歴史的な出来事を成し遂げている。換言すれば目立たない船歴である。1909年1月23日、Republicはイタリアの汽船 Floridaと、Nantucket Lightship(=ナンタケット燈台船)のちょうど沖で衝突した。2,000人以上が乗船していたRepublicは酷く損傷し、救助が必要となった。本船は海運史に おいて最初のS.O.S.無電を発信したのである。これにより、乗員・乗客のうち4人を除く全員が近くの救助船によって救助された。この 新しい遭難制度は、直ぐに世界中の船舶で使われた。この損傷はRepublicにとって致命的なものであることが明らかとなった。小型の 米国貨物船が曳航しようと試みたが、1月24日朝、この空船は沈没した。
[1903年、北アイルランド、ベルファスト、Harland & Wolff Limited建造。15,378総トン、全長585フィート、全幅67フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力16ノット。1等約200人、最下級船室 2,000人以上。]

EMPRESS OF IRELAND(上)
 Canadian Pacificは、地球上に最大の輸送網体系を構築していた。北大西洋に就航していた旅客船は、英国とカナダ東部を結んでいた。鉄道がブリティッシュ・コロンビア州に達 し、バンクーバーの太平洋港が終点であった。更にそこからは東洋への第二の汽船が出ていた。乗客は別の航路を探していたのである。つまり 香港や日本に行くのに、スエズ運河を経由する長く暑く、しばしば不快な横断を避けられるものである。直ぐに大成功を収め、 Canadian Pacificは大西洋において多くの競合他社(Cunardは例外であったが)を得ることとなったのである。
 Empress(=女帝)の定期船は、両大洋におけるCanadian Pacificの海運体系の印であった。北大西洋の2隻の最大の旅客船は、14,200トンの姉妹船、Empress of BritainとEmpress of Irelandであり、両船はリバプールとケベック市間の航路に1906年に就航した。不幸なことにEmpress of Irelandは、悲劇と共に記憶されている。1914年5月29日、ファーザー・ポイントに近いセント・ローレンス河で、濃い霧の中、操船不十分のノルウェーの汽船 Storstadと衝突した。Empressは殆ど直ぐに沈没し、1,024人余が亡くなった。Titanicはその2年前に沈没して 1,503人が死亡しており、この2つの悲劇は、今日に至るまでの最悪の海難を代表するものとなっている。
[1906年、スコットランド、グラスゴー、Fairfield Shipbuilding & Engineering Company建造。14,191総トン、全長570フィート、全幅65フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力18ノット。旅客定員1,580人(1等310 人、2等500人、3等500人、最下級船室270人)]

KONIG ALBERT(次頁)
 Hamburg-America LineとNorth German Lloydは、ニューヨーク港に埠頭設備を実際に有する大変に数少ない汽船会社の一つであった。マンハッタン島の西10丁目を横切ったホボケンにあり、4つの突堤が3丁に 亘るハドソン河に突き出ていた。世界最大級の定期船を扱うことが出来るよう、軟弱な河の泥の上に50フィートから90フィート埋め立て て、6フィートの間隔を空けた3つの埠頭が造成された。
 ホボケンのドイツ埠頭総合施設には、作業所、貯蔵所、ボイラーのあるエンジンの工場、石炭上屋、策具用の倉庫や鍛治屋、その他荷役道 具、ランプその他照明の貯蔵所、桶屋、石炭置き場、ペンキ屋、縫帆手屋、広い手荷物置き場、汽船会社を代表する15の事務所、鉄道事務所 や、夏の午後には屋上に移動式プールを備えた管理局があった。
 ここではNorth Garman Lloydの中型汽船Konig Albertが、ホボケン埠頭に停泊している。
[1899年、ドイツ、ステッチン、Vulkan Shipyards建造。10,484総トン、全長521フィート、全幅60フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力15.5ノット。旅客定員2,175人(1 等257人、2等119人、最下級船室1,799人)]

HAMBURG(前頁)
 著名な乗客が、しばしばホボケンのターミナルを通過した。ここでは、元大統領Teddy Rooseveltが、Hamburg-America LineのHamburgに乗船してアフリカに向かうところ。
[1900年、ドイツ、ステッチン、Vulkan Shipyards建造。1O,532総トン、全長521フィート、全幅60フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力15.3ノット。旅客定員2,170人(1 等290人、2等100人、3等80人、最下級船室1,700人)]

ホボケンの火災(上)
 ホボケンの元のドイツ定期船埠頭は、1900年6月30日、何事もなければ静かだった土曜日の午後、大火災が勃発して破壊された。火災 は自然発火によるもので、第3埠頭の貨物の干草から出火した。同時に、4隻の定期船に乗船していた何百人もの乗員・乗客、訪問者の逃げ道 を奪ったのである。定期船のうち3隻は、炎に包まれた。Saaleは全壊し、MainとBremenは座礁した。215人が焼死、あるい はハドソン河のよどんだ水の中で水死した。船窓の大きさが小さいため、燃えている船から脱出できない者もいた。この悲劇の後、すべての船 窓の大きさは、少なくとも成人が通り抜けられる大きさに拡張された。火災は3日間続き、1,000万ドルの損害が生じた。新しい鋼鉄の埠 頭は1905年に竣工し、大型のドイツ定期船にちょうど間に合った。

AMERIKA(前頁、上)
 Hamburg-America LineのAmerikaが1905年10月に初めて就航した時、本船は最大かつ最高に豪華な注目すべき定期船であると格付けされた。アメリカのメディアがこの最大のドイ ツ定期船に押しかけた。その旅客設備の壮大さや、機関の出力、あるいは船上で使われる茶碗の数や電線の長さの果てまでの情報で街は溢れか えった。図入りの印刷物によって、1等の喫煙室の木製パネルから冬園の青々とした緑樹までの詳細が伝えられた。特記されるのは、この定期 船のエレベータであり、旅客船に初めて導入されたものである。こうした報道の結果、多くのドイツの定期船は、ドイツよりもアメリカでよく 知れられたのである。
[1905年、北アイルランド、ベルファスト、Harland & Wolff Limited建造。22,225総トン、全長700フィート、全幅74フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力17.5ノット。旅客定員2,662人(1等 420人、2等254人、3等223人、最下級船室1,765人)]

KAISERIN AUGUSTE VICTORIA(前頁、下、上)
 1年以内に、Amerikaの異母姉妹が就航した。ドイツ皇后によって命名され、Kaiserin Auguste Victoriaと名付けられ、短い期間ではあったが、世界最大の定期船であった。しかしHamburg-Americaは、極端に快適で豪華なものも求めていた。そこで 本船の1等旅客設備の呼び物の一つは、有名なRitz Carlton Companyによって運営されていた特別のグリル(=焼肉食堂)であった。丸ごと焼いた雄牛や、焼いたレイヨウといった品目のある金で飾った献立表が用意されていた。し かし1等船客であっても、追加入場料が取られていた。皮肉にも追加料金は、最下級船室で横断する費用と殆ど同じものであった。
 上甲板の旅客設備の楽しみと並んで、ドイツ人はこの旅客船の技術的側面を強調していた。「海を横断する鋼鉄製の偉大な作品と力」という 詩的な描写をしていた。結果として、少なくともこの定期船の技術的側面だけは、宣伝媒体にしばしば取り上げられていた。上の写真では、 Kaiserin Auguste Victoriaの2本のプロペラ軸の1本が写っている。見込みのある乗客やその他の船舶愛好家は、25,000トン近い定期船がそうした設備によって17ノットを超える 速力、又は時速20マイル近い速力を出しているものだと、熱心に語ったものであった。速い飛行機が登場するかなり以前においては、遠洋定 期船は、産業や国家の発展における最も驚くべきものの一つであった。
[1906年、ドイツ、ステッチン、Vulkan Shipyards建造。24,581総トン、全長705フィート、全幅77フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力17.5ノット。旅客定員2,996人(1 等652人、2等286人、3等216人、最下級船室1,842人)]

Kaiserin Auguste Victoria
 Hamburg-Americaは、大西洋定期船会社の中で、広告に写真を使用した最初の会社の一つである。乗客のモデル(上)が、 Kaiserin Auguste VictoriaのImperial Suitesの一つで旅行の準備をしているところ。
 同じモデルが何人かの「雇われた」乗客と共に、遊歩甲板での何気ない午後を装っている(次頁、上)。本船のオーケストラが、甲板での慣 例の真昼の演奏をしているポーズを取っている。実際には、こうした写真は通常、ニューヨーク港の静かなホボケン埠頭の空の静かな定期船の 上で撮影されたものである。
 1909年のHamburg-Americaのパンフレットで使われた写真では、最も有名な船上の甲板での遊びが紹介されている。 シャッフルボードである(次頁、下)。他の大西洋会社にも増して、ドイツは上甲板での暇つぶしに健康増進を強調していた。多くの者にとっ て、船旅はとても健康に良いものであった。

PRESIDENT LINCOLN
 ドイツは、それぞれの方法で稼ぐ旅客船を保有していた。President Lincolnでは1等や2等の旅客設備を有していたが、西へ向かう切れ目のない移民向けに、3等や最下級船室には肝を潰すような収容力があった。乗客が少ない時やドイツ への帰港時向けに、こうした船には6つの大きな貨物用船倉があった。President Lincolnは、賢明にも旅客と貨物の運航を混合させていた。
 唯一建造された6本マストの旅客船であるPresident Lincoln(前頁、上)と姉妹船President Grantは、多くの移民を乗船させようとするドイツ人の試みが反映されていた。アメリカ人の名前(他にClevelandやCincinnati、更には Amerika、George Washington)を使うことで、アメリカ行きの移民を惹きつけたのである。ある程度は、この作戦は成功した。多くの移民がこうした船を選択し、入国手続きと帰化が上 手く行くと考えたのである。
[1907年、北アイルランド、ベルファスト、Harland & Wolff Limited建造。18,168総トン、全長616フィート、全幅68フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力14.5ノット。旅客定員3,828人(1等 324人、2等152人、3等1,004人、最下級船室2,348人)]

 1等食堂の糊の利いたナプキン(前頁、下)は、帆船のレースのようである。
 船内の厨房(上)では、3,828人の乗客と344人の船員に少なくとも1日に2回食事を用意しなければならなかった。
 船内の3等と最下級船室の違いは、旅客設備にあった。3等(右)は、個室になっていたが、全く荒涼とした魅力のないものであった。最下 級船室の乗客は、広い寮のような共同寝室で、鉄で出来た寝台が提供されていた。

PATRICIA
 Hamburg-AmericaのPatriciaの甲板で休んでいる移民(前頁、上)。大型汽船会社の大半は、ヨーロッパのターミナ ル港に、3等や最下級船室の移民向けの抑留「村」(=移民収容所)を持っていた。アメリカへの「生涯の航海」をするための定期船に乗船す る前に、ヨーロッパの様々な地方から列車で到着したものである。こうした「村」、会社によっては「ホテル」と呼んだもので待ち、横断や船 自体、あるいはアメリカの入国手続きについてしばしば教育を受けたのである。
[1899年、ドイツ、ステッチン、Vulkan Shipyards建造。13,023総トン、全長585フィート、全幅62フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力13ノット。旅客定員2,489人(1等 162人、2等184人、最下級船室2,143人)]

 1900年から1915年の間に、1,250万人の移民が大西洋を新世界に渡った(1907年だけでも120万人)。旅行者の90 パーセント近くが、3等か最下級船室で旅をした。全盛期は1903年から1907年にかけてと、1910年から1915年にかけてであ る。全体では驚くべきものであり、イタリアから300万人、バルカン半島諸国からは300万人、ロシアやバルト海諸国から250万人、英 国から100万人近く、更にスカンジナビアから100万人、アイルランドから50万人、ドイツから50万人、他のヨーロッパ諸国から 100万人であった。
 ヨーロッパの港では、移民はしばしば大量に積みこんだ艀で旅客汽船に乗船した(前頁、下)。小型船は、しばしば定期船会社が所有してい た。この写真では、Holland-America Lineの艀で(この会社の煙突のデザインが右に見える)、移民がHamburg-AmericaのPatriciaに乗船している。
 殆どの移民は、大西洋横断定期船の混雑した狭苦しい船室で耐えていたが、横断は必ずしも耐えがたいものではなかった。1905年の Holland-Americaの定期船の最下級船室の献立例では、次のような食事であった。月曜日:スモークしたベーコンの添えたザ ワークラウトと芋、火曜日:エンドウのスープと塩漬けのベーコンと芋、水曜日:茶豆のスープと塩漬けの肉、芋とグロート、木曜日:野菜 スープ、芋と米を添えた牛肉、金曜日:エンドウのスープと塩漬けのベーコンと芋、土曜日:白豆のスープと塩漬けの肉、芋、土曜日:野菜 スープ、芋と米を添えた牛肉である。
 ニューヨークでは、3等と最下級船室の乗客は港に停泊した汽船から下船することはなかった。これら移民客は、艀や連絡船で自由の女神の すぐ近くに政府の検疫所があるエリス島に向かったのである。1等や2等の乗客だけが船に残留することが許され、マンハッタン島の波止場に 向かったのである。
 現在、米国に暮らしている3分の1以上の人々が、エリス島を経由してやって来たか、そういうことをした親戚を持っている。移民にとって 検疫手続きは、横断それ自体以上に恐ろしいものであった。エリス島の医師は「six-second specialists」として知られ、苦しい呼吸をして病気の症状が出ていないか、びっこを引いていないか、咳をしていないか、更には髪が薄くなっていないかということ について、移民を検査したのである。もし医師が移民の上着にチョークで印をつけたならば(例えばEは目、Lはびっこ等)、更に医学的な検 査がなされたのである。移民にとって、それは更に怖いものであった。
 検査の第二段階では、入国審査官は汽船会社によって既に集められていた情報を点検した。この手続きにおいて誤解や外国語が入り混じった ため、名前はしばしば変えられた。例えば、BugajskyはBaglinskyになった。FishcovはFishmanに。著名な ケースの一つとして、3人の兄弟がApplebaum、Appleyard、Appletreeになったというものもある。別のケースで は、職業が姓になったものもある。たとえばTaylor(仕立て屋)、Baker(パン屋)、Cook(調理師)、Miller(粉屋) である。
 概して全入国者の20パーセントだけが更なる検査のために抑留され、最終的には2パーセントだけが入国を拒否されて帰国した。そうした 不幸な人のために、汽船会社は帰りの船を用意しなければならなかった。
 カメラマンを意識してPatriciaのLeithauser船長(上)は、船橋での昼の検査中、堂々として立っている。この船長は、 2,489人の乗客と、高価な、時に貴重な荷物を積んだ6つの船倉を管理した249人の船員を監督していた。

PRINZESSIN VICTORIA LUISE
 Hamburg-Americaの経営陣は、大西洋横断の1等や最下級船室の乗客で満足していたわけではなかった。人気が出るかなり以 前から、この会社は豪華さやヨットのようなクルーズの重要性を認識していた。クルーズは直ぐに大変な人気を収め、とりわけ東地中海の冬の 楽しみであった。その後それは「東洋」としてしばしば言及され、後に北国のバルト海、ノルウェーのフィヨルド、更にはスピッツベルゲン島 の果てまで行く夏の遊覧旅行が行われていた。
 1900年、Hamburg-Americaは、クルーズ専用に設計された最初の旅客船の引渡を受けた。あらゆる面において、本船は大 変なお金持ちの要求を満たすように作られていた。Prinzessin Victoria Luiseと命名されたが、皇室に敬意を払い、ヨーロッパの王族のヨットを手本にしたものであった。本船の特別な検査において、皇帝はこの新船が実は自分のヨットよりも大 きいものであることに気がついた。しかしHamburg-Americaは船に皇帝用スィートを設け、皇帝をなだめたのである。その他の 119の船室もまた、洋上の慰安において完璧なものであった。すべてに寝室、居間、浴槽が備えられていた。
 大変に宣伝され、クルーズ船の建造を促したものであったが、現役時代は大変に短かった。1906年、竣工僅かに6年目で西インド諸島ク ルーズ中にジャマイカで座礁し、全損となったのである。
[1900年、ドイツ、ハンブルグ、Blohm & Voss Shipbuilders建造。4,409総トン、全長407フィート、全幅47フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力15ノット。1等約400人。]

NIEUW AMSTERDAM
 Holland-America Lineは大変に保守的な傾向の会社であり、利益になっていた最下級船室の何千もの乗客と同様、快適さを求める1等乗客に訴えようとしていた。Nieuw Amsterdamが1906年の春にフラグシップとして就航した時、本船は「古き良き日々」を思い起こさせる偉大な帆船を乗客に連想さ せるような、大変に伝統的なデザインを取り込んでいた。この会社は、更にもう1歩踏み出そうとしていた。Nieuw Amsterdamは帆を一式備えていた最後の定期船であった。ここに本船の姿を見ることができるが、些か詩的な写真である。マンハッタン島の西12丁目からハドソン河を ちょうど横切ったところにあるホボケンのHolland-Americaのターミナルに停泊しているところ。
[1906年、北アイルランド、ベルファスト、Harland & Wolff Limited建造。16,967総トン、全長615フィート、全幅68フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力16ノット。旅客定員2,886人(1等400 人、2等246人、3等2,200人)]

LA PROVENCE(上)
 初期の北大西洋の汽船の上甲板は、乗客がぶらつくには狭いものであった。屋外は、通風孔、管、配管、甲板室、救命艇、鈎柱、煙突の周り の覆いで散らかっていた。これはFrench LineのLa Provenceの船上である。2人の紳士が装置類で混み合っている中で、迷子になっているように見える。
[1906年、フランス、サン・ナゼール、Chantiers de Penhoet建造。13,753総トン、全長627フィート、全幅65フィート。3段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力21ノット。旅客定員1,362人(1等422 人、2等132人、最下級船室808人)]

ESPAGNE(次頁、上)
 French LineはCompagnie Generale Transatlantique(略称はCGT)としても知られていたが、競争相手の英国やドイツの大西洋定期船会社ほど速く発展はしなかった。その代わりフランスは、 ニューヨークへの郵便輸送のみならず、西インド諸島の植民地のグラドループ島やマルティニーク島、時には中南米への移民を乗せた、低速の より実際的な船を運航していた。この写真は、Espagneがサン・ナゼールで乗客と貨物を載せて中央アメリカに向かうところ。
[1910年、フランス、Port de Bouc、Ateliers et Chantiers de Provence建造。11,155総トン、全長561フィート、全幅60フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力16.5ノット。旅客定員488人(1等 296人、2等106人、3等86人)]

ROCHAMBEAU(次頁、下)
 French LineのRochambeauは、広範な北大西洋運航向けに広い最下級船室用の空間を備えていた。ル・アーブルとニューヨーク間の急行線では、274人の船員が 2,078人の乗客の世話をした。
[1911年、フランス、サン・ナゼール、Chantiers de Penhoet建造。12,678総トン、全長598フィート、全幅63フィート。3段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力15ノット。旅客定員2,078人(2等428 人、3等200人、最下級船室1,450人)]

LAPLAND(前頁、上)
 Red Star Lineによって経営されていた大西洋横断客船は、ベルギー船籍であった。後にJ.P.Morganの権益によって買収されて英国船籍に変わったが、Laplandのよう な船はアントウェルペンとニューヨーク間で定期運航をしていた。ここでも移民が頼みの綱であった。
[1909年、北アイルランド、ベルファスト、Harland & Wolff Limited建造。17,540総トン、全長620フィート、全幅70フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力17ノット。旅客定員2,536人(1等394 人、2等352人、3等1,790人)]

FREDERIK VIII(前頁、下)
 Norwegian-America LineやSwedish-American Lineといった国家主義的な会社が設立される前、スカンジナビアからの何千もの移民は、コペンハーゲンとニューヨークを結ぶデンマーク船籍のScandinavian- American Lineを利用していた。この会社のフラグシップはFrederik VIIIであり、ここでは1913年当時世界で最も高かった792フィートのWoolworth Towerのある霧のかかった摩天楼を背景に、ニューヨークを出発する様が見える。
[1913年、ドイツ、ステッチン、Vulkan Shipyards建造。11,580総トン、全長544フィート、全幅62フィート。3段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力17ノット。旅客定員1,350人(1等 100人、2等300人、3等950人)]

NEW YORK(上)
 北大西洋の厳しさは平等なものであった。American Lineの初めて建造された2軸の急行船であった、3本煙突のNew Yorkの上甲板にあるガラス張りの円形明かり窓は、何回も割れたものだった。下にあった家具や絨毯は破壊され、残りの横断の間、給仕が水浸しとなった旅客区画を立ち入り 禁止にしたものだった。
[1888年、スコットランド、クライドバンク、J.& G. Thomson建造。10,508総トン、全長560フィート、全幅63フィート。3段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力20ノット。旅客定員1,290人(1等290 人、2等250人、最下級船室750人)]

ST. LOUIS(上)
 定期船St. Louisと姉妹船St. Paulは、American Lineの下でイングランドとニューヨークを結ぶ北大西洋横断時に星条旗をたなびかせていた。外国の多くの船に比べて小型で幾分豪華さに欠けていたが、1等と最下級船室の 西行きの移民の双方の多くの乗船客にとって、米国船籍で米国調は人気であった。
[1895年、ペンシルベニア州、フィラデルフィア、 William Cramp & Sons Ship & Engine Building Company建造。11,629総トン、全長554フィート、全幅63フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力19ノット。旅客定員1,340人(1等320 人、2等220人、最下級船室800人)]

VIRGINIAN(次頁、上)
 グラスゴーに本拠を置くAllan Lineは、1905年に2隻の注目に値する船を生み出した。VictolianとVirginianであり、北大西洋における最初の蒸気タービン定期船であった。そうし た機関は、以前使用していた蒸気レシプロが遥かに進歩したものと考えられていた。2隻の10,600トンの姉妹船は、大変な成功を収め た。その後間もなくして、Cunardは19,500トンの新しいCarmaniaにこれを採用した。更に成功を収めた。2年以内に Cunardはそうしたタービンを、新しい巨大な速力の女王であるLusitahiaとMauretaniaに使用した。両船とも 30,000トンを超えていた。
 Virginianは、船齢15年に達した大変に数少ない定期船の1隻でもあった。リバプールとカナダ東部間のAllan Lineの下での運航の後、Swedish-American Lineに売却され、1920年から1948年までDrottningholmとなった。1948年、パナマのHome Linesに加わってBrasilとなり、その後、1955年にイタリアでスクラップになる前までHomelandとなった。
[1905年、スコットランド、グラスゴー、Alexander Stephen & Sons Limited建造。10,754総トン、全長538フィート、全幅60フィート。蒸気タービン、3軸。巡航速力18ノット。旅客定員1,712人(1等426人、2等 286人、3等1,000人)]

BURDIGALA(次頁、下)
 Compagnie de Navigation Sud-Atlantiqueは、ボルドーとマルセイユから南米東岸に、フランスの郵便と旅客の航路を持っていた。そうした船の中で、最大かつ最も興味深い船が12年間も 係船していたBurdigalaである。1898年、North German LloydのKaiser FriedrickとしてDanzigで建造され、主要航路のブレマーハーフェンとニューヨーク間の急行船となる予定であった。しかし竣工してみると、計画速力は期待外れ のもので、Lloydの取締役達にとって全く満足できないものであった。造船所に改修のために送られ、要求された22ノットを出せること が復帰の条件であった。再び造船所に送られた。3度目の挑戦も失敗に終わった。North German LloydとDanzig造船所の間で国際的な紛争が勃発した。最終的には造船所が折れたのだった。競争相手のHamburg-America Lineに短期間傭船に出したが、ここでもこの定期船の運航実績は満足できないものであった。そこで造船所に戻されて、満12年間もそこ に留まったのである。1912年、フランスに遂に売却されて、すっかり修復されて新しいボイラーが付けられた。その後、僅かな成功を収め ただけであった。不幸なことに、ほんの4年間しか生き残れなかったのである。本船は1916年11月、エーゲ海の機雷原で沈没した。
[1898年、ドイツ、Danzig、Schichau Shipyards建造。12,481総トン、全長600フィート、全幅63フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力19ノット。旅客定員1,350人(1等 400人、2等250人、最下級船室700人)]

KENILWORTH CASTLE(上)
 南アフリカへの旅客航路では、英国のUnion-Castie Lineの独壇場であった。この会社の発祥は1853年に遡り、この年Union Steam Collier Companyは、P&O (Peninsular and Oriental Line)と当時のその他の汽船で使用するための石炭を、サウス・ウェールズからサウサンプトンに輸送するため5隻の船を発注した。この石炭輸送は最終的には廃止となった が、その後間もなくして南アフリカの海運で失敗があり、Union Companyが1857年に南アフリカへの英国政府郵便契約を取得したのである。これは成功であった。そしてまたCastle Mail Packets Company等、他社と競争する勇気も得たのである。こうして競争は活発となり、時に激しく、北大西洋の当時と同じような状況になった。
 南アフリカの鉱物資源で大量の旅客需要があり、結果として大型の船が建造された。しかし1900年までに、会社が競争することは非効率 となり、南アフリカ政府は共同郵便契約を提案した。UnionとCastleは、この取決めを分け合うより選択の道がなかった。こうして その年の3月に、新しく合併したUnion-Castle Mail Steamship Companyの運航が始まったのである。郵便運航の主要航路はサウサンプトンから出ており、マデイラ島かラス・パルマスに寄港して、南のケープタウン、ポート・エリザベ ス、イースト・ロンドン、ダーバンへと向かった。Kenilworth Castleは、当時の主要な郵便船の一つであった。
[1903年、北アイルランド、ベルファスト、Harland & Wolff Limited建造。12,975総トン、全長590フィート、全幅64フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力17ノット。旅客定員810人(1等340人、 2等200人、3等270人)]

BALMORAL CASTLE(下)
 飛行機が登場するかなり前においては、旅客船が誰もにとっても旅行手段であった。1910年、Union-Castleの郵便船 Balmoral Castleは、一時的に王室のヨットとなって英国王族によって使用され、南アフリカ議会の開会のためケープタウンに向かった。
[1910年、スコットランド、グラスゴー、Fairfield Shipbuilding & Engineering Company建造。13,361総トン、全長590フィート、全幅64フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力17ノット。旅客定員810人(1等320人、 2等220人、3等270人)]

NIAGARA
 英国船籍の会社の全てが、母国から直接船を出していたわけではなかった。地域運航やオーストラリアへの運航に加え、Union Steamship Campany of New Zealandは、シドニーとバンクーバー間で太平洋横断航路を運営していた。第一次世界大戦時、汽船Niagaraは、この長距離運航のフラグシップであった。
[1913年、スコットランド、クライドバンク、John Brown & Comproy Limited建造。13,415総トン、全長543フィート、全幅66フィート。3段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力17ノット。旅客定員704人(1等290人、 2等223人、3等191人)]

EMPRESS OF INDIA
 大西洋横断定期船や内陸の河川や湖沼の大型船隊を除くと、Canadian Pacificは太平洋で旅客船運航を維持していた。ここの運航は、この会社の殆ど世界的な運航の一部をなし、ブリティッシュ・コロンビア州から日本、香港、中国に航路を 伸ばしていた。この運航の初期の船の中には、3隻のとりわけ優雅な、殆どヨットのような、「Pacific Empresses(=太平洋の皇后)」として知られていたものがあった。いずれも帝国的な名前が付けられており、Empress of India(ここに掲載)、Empress of Japan、Empress of Chinaであった。
[Empress of India:1891年、イングランド、Barrow-in-fur-ness、Naval Construction & Armaments Company Limitad建造。5,902総トン、全長452フィート、全幅51フィート、喫水31フィート。3段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力16ノット。旅客定員770人 (1等120人、2等50人、最下級船室600人)]

3、国家の船

 初期の大西洋横断快速船である4本煙突の船は、偉大なものであり、成功を促進させた。取締役会では、更に大型の船舶を求めて議論がな されていた。政府、特に英国とドイツは何れも積極的であった。そうした主要な船舶は、単に国家の印象を高めただけではなく、軍事的な目的 にも使用されたのである。しかし1909年と1910年においては、戦争の考えはかなり遠いものであった。大型定期船への要求は、観光客 や、称号を持つ金持の1等船客から最下級船室の最も貧しい移民までから出されていたものであった。船が好きだったのである。1等船客はそ うした巨大な船で、他と区別された、高い身分を有する者として航海することを好んだのだった。移民の群れは、未だにそうした船(=大型 船)が「生涯の航海」において最も安全で最も支障のないものを提供するものと考えていた。

 CunardのLusitaniaとMauretania(何れも1907年)は、その指導的な触媒であった。最初のタービン動力の 超定期船として、両船とも比類のない成功を収めたのである。アメリカ所有のWhite Starは、英国国旗の下で運航されていたが、リバプール―ニューヨーク急行運航においてCunardの主な競争相手であった。1909年、White Starは劇的な努力の中で、仕返しをすることを決めたのである。この会社は2隻ではなく、3隻の最大かつ最高に豪華な船を建造しようと したのであった。すなわちOlympic、Titanic、そしてGiganticである。しかしこの野心的な計画は、直ぐにも限界を超 えることとなったのだった。

 ドイツはその産業力と海運力の存在感を見せびらかそうとした。そのためには最大の船を浮かべることが最高の方法であった。 OlympicとTitanicが46,000トンで当時最大であったならば、Hamburg-America Lineは52,000トンのImperatorで対抗し、その後54,000トンのVaterland、遂には56,000トンのBismarkで対抗したのである。煙 突の高さからラウンジの広さ、そして輸送した乗客数の果てまで、この3隻の船に敵うものはいなかったのだった。

 第一次世界大戦直前の平和が終わりを告げる頃、遠洋巨大船の信じられない世代が登場した。フランスは大きさや速力ではなく、国家の技 術や装飾の洋上陳列ケースとなる新しいフラグシップを作り出したのだった。それは国家、造船業者、船主の壮大なる代表者であり、正に「国 家の船」であった。その大部分が成功を収めたとき、それは果てしのない国家の栄誉と考えられたのである。しかしTitanicが処女航海 で沈没した悲劇により、その運命は逆転し、国家の威信は深く傷ついたのであった。


OLYMPIC
 英国のWhite Star LineはCunardの競争相手であり、北大西洋における指導的な会社の一つであったが、20世紀の最初の10年間が全盛期であった。事業は急騰し、この会社の船舶は大 型化し、より豪華なものとなった。しかしWhite Starは、その定期船の速力に関しては野心を持っていなかった。その代わり他の全ての船、とりわけCunardersであるLusitaniaやMauretaniaよ りも優れた新しい船によって、大きさと旅客設備の豪華さに専念していた。
 豊富な資金力を持って将来を展望し、White Starは3隻のマンモス定期船を発注した。関心を持つ人々には誘惑するような詳細が発表された。40,000トンを超える最初の旅客船であった(Cunardの自慢とし ていた2隻は31,000トン)。その船名さえも、巨大な大きさを示唆するものが選択され、Gigantic、Titanic、そして Olympicとなった。船内は大西洋の最も素晴らしい定期船になることとなっていて、それぞれにアラビア風屋内プール(大西洋横断汽船 では初めてのもの)、11の異なる様式で装飾された1等船室、青々とした緑樹のある椰子庭園を持っていた。2等と3等に加え、900人以 上の類例のない1等があり、1等と呼ばれるものでは最高のものであった。この新しい3隻の遠洋の女王のために、White Starは、当時最高の造船業者であった北アイルランドのベルファストにあるHarland & Wolffに依頼した。
 1910年10月20日、この3姉妹の1番船がOlympicとして進水した。しかし6ヶ月後の5月31日、White Starの最も偉大な日がやって来た。2番船Titanicが正午に進水したのである。そして午後に、招待客、高官、新聞記者が竣工したOlympicに乗船し、サウサン プトンまで初めての1泊航海を行ったのである。巨大なOlympicの内部は、最も見込みのある特徴を示しているように思われたもので あった。本船は贅沢なものであった。新聞を興奮させ、最初の「洋上宮殿」となった。
 上の写真は、1912年春にベルファストの造船所で撮影されたもので、White Starの3隻の超定期船のうち2隻が並んで停泊している。Titanic(左)は、不運の運命の下にある処女航海にむけて艤装中である。Olympic(右)は、修理を 行っているところ。1911年6月にサウサンプトンからニューヨークに処女航海を行った時(次頁)、Olympicは世界最大の定期船の 先触れとなった。本船の45,300トンの記録は、1年後、姉妹船Titanicの46,300トンにより抜かれた。これら大変に高く評 価された数字は、ドイツ帝国の真新しいフラグシップ、52,000トンのImperatorの到来により、直ぐに色褪せたものとなったの だった。
[Olympic:1911年、北アイルランド、ベルファスト、 Harland & Wolff Limited建造。45,324総トン、全長882フィート、全幅92フィート、喫水34フィート。3段膨張式往復蒸気機関、3軸。巡航速力21ノット。旅客定員 2,764人(1等1,054人、2等510人、3等1,200人)]

Olympic
 OlympicとそのWhite Starの姉妹船の内装は、テムズ河の岸にある宮殿、大邸宅、更にはアラビア風の混合物を反映させたもので、上に示したラウンジのように、陸上のホテルの気分を乗客に思い 起こさせるものであった。とりわけ1等では、White Starは乗客に海と横断航海それ自体を無視させて、船を移動式行楽地に変換しようと試みたのだった。

?以下は、Olympicに乗船した1等船客からの1913年6月19日付けの手紙の抜粋である。本船の印象全体が表れている。
?「すべて考え抜かれた、これは世界で最高の船だ。単にMauretaniaやLusitaniaと同じ位速いというだけではなく、無限 に贅沢で快適だ。部屋は広くて豪華に装飾されており、食堂は秀逸な一つの手本だろう。良い食堂で、サービスも全てが考え抜かれたもので、 ニューヨーク中のものよりも良い。下の食堂(2等や3等)のサービスについて不満があったと聞いているが,それが正当なものであったかど うかは知らない。」
 ベランダ(次頁、上)は、ゆったりとした集まりに適したもので、午後のお茶の儀式が行われた。
 本船の1等の乗客には、Olympicは下部甲板のトルコ風呂(次頁、下)のような、温泉のような設備をも提供していた。隣接してアラ ビア風屋内プールがあり、銅製のランプと大理石製の噴水式水飲み器があった。完全装備の体育館も、乗客には提供されていた。

TITANIC
 White Star Lineは、当時、そして歴史における第二の超定期船の衝撃を心に描いていた。処女航海の悲劇によって、本船は全時代を通じて最も有名な、そして広く知られた船となってい る。300以上の詩、少なくとも75の歌、更に無数の書籍、雑誌、新聞記事、研究、主要な映画、そしてテレビ・ドラマが、Titanic とその不幸な運命の下にあった就航航海について作られた。
 3隻の定期船の2番船であったために、この会社の広報は、本船の違いを作り出すために2倍働いたものだった。こうしてその処女航海の前 であってさえも、Titanicは良く知られた船だったのである。しかしWhite Starは更に歩を進め、本船を「世界初の不沈船」として宣伝したのだった。余分に水密隔壁を有しており、絶対的な自信を持っていたために、2,600人の乗客と900人 近い船員に比して、救命艇や救命設備が少なすぎたのである。
 本船は1909年3月31日に起工し、1911年5月31日の進水は大いに宣伝された。お姉さんのOlympicのように、4本の高く そびえる煙突を有していたが、4本目は偽物であり、単に効果を狙って付け加えたものであった。4本煙突は、旅行者、とりわけ最下級船室の 乗客にとり、総じて大きさや速力や安全性を訴えるものであった。結局、1等船客の贅沢さに捧げれてはいたが、Titanicは西行きへの 片道切符を求めていた最下級船室の移民から利益を得ることとなっていた。
 前頁にはTitaticの偉大な船体が見え、ベルファストの造船所で進水の準備が出来ている。竣工後、試験航海に出た(上)。
 Titanicの稀に見る写真では、ニューヨークへの処女航海に先立って、サウサンプトンに接岸している様が見える(右)。船はたなび く旗で「満船飾」となっている。端から端まで伝統的な旗を珍しくたなびかせている。
 サウサンプトンからニューヨークへのTitanicの処女横断は、非常に多くの文書に書かれて来た。1912年4月10日にサウサンプ トンを出航したことは良く知られている。このとき、本船は危うくアメリカの定期船New Yorkと衝突するところであったが、これは何やら悪い前兆であった。その後、14日の深夜少し前、氷山にぶつかり、右舷を300フィート切り裂いた。この穴は致命的なも のであり、本船は死を宣告されたのである。2時間30分後の午前2時20分、この定期船はニューファンドランド島の380マイル東の 12,000フィートの北大西洋の海底に沈没した。約1,522人の乗員・乗客が死亡した。午前4時10分、最初の救命艇が現れ、705 人(Titanic乗船者の約32パーセント)の生存者の救助を始めた。
 この悲劇は、今日に至るまで最悪の海難となっている。White Star Lineは完全に復活することはなかった。乗客の安全性は改善された。この災害は余りにも酷く、余りにも意気消沈させるものであったので、大英帝国の終焉の始まりであった と考えれている。
[1912年、北アイルランド、ベルファスト、Harland & Wolff Limited建造。46,329総トン、全長882フィート、全幅92フィート、喫水34フィート。3段膨張式往復蒸気機関、3軸。巡航速力21ノット。旅客定員 2,603人(1等905人、2等564人、3等1,134人)]

FRANCE
 大西洋横断運航が成長を続け、英国とドイツとが大型定期船を建造していたので、フランスは同様に競争力を得ようとしていた。1909 年、新船を発注したが、評判の高い4本煙突の船で、フランス国旗の下にあったどんな旅客船よりも、2倍の大きさがあるものであった。当初 はLa Picardieと命名されることとなっていたが、1910年9月20日に適切なFranceとして進水した。
 本船は1912年4月に就航し、Titanicの災害からちょうど2週間後にニューヨークに到着して、直ぐに高い評価を受けたもので あった。大西洋で最大かつ最速の定期船ではなかったが、フランス商船隊のフラグシップであった。本船はその装飾で大変な注意を引くことと なった。すなわち最高の定期船の一つだったのである。公室と上甲板の船室では、Franceはルイ14世の帝国と、ムーア人の様式を提供 していた。1等の2層の高さの食堂は、豪華な料理を提供し、フランスの定期船が今後何十年にも亘って有することとなった特色を有すること となった。
 当時の他の大型定期船がしていたように、Franceは1等の億万長者向けの旅客設備(下に示したのはスィートの居間)と余り豪華では ない2等、そして最下級船室の移民という釣合の取れた航海をしていた(ル・アーブルとニューヨーク間)。総じて本船はかなり成功した船で あり、French Lineが4隻のより大型の、更に浪費した豪華船である34,500トンのParisを次期総合基本計画に据えることを促進したのである。
[1912年、フランス、サン・ナゼール、Chantiers de Penhoet建造。23,666総トン、全長713フィート、全幅75フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力24ノット。旅客定員2,026人(1等534人、2等 442人、3等250人、最下級船室800人)]

IMPERATOR
 Hamburg-America Lineに代表されるドイツは、英国を抜きたがっていた。これは単なる企業間の競争ではなく、国家の威信に関わる問題であった。Cunardは速力の女王 LusitaniaとMauretaniaを擁し、3隻目の大型船Aquitaniaを計画していた。White StarはOlympic、Titanic、Britannic(Giganticとして計画)の3隻の自社船の計画があった。Hamburg-Americaの首脳はこ れまでになく大型で贅を尽くした船となる3隻の定期船で返答した。竜骨が1910年6月18日に敷かれ、大西洋の「the colossus(=巨人)」として噂された。46,000トンのWhite Starの姉妹船OlympicとTitanicは、同時期、ベルファストで工事中であった。数ヶ月後、CunardはAquitaniaを発注したが、46,000トン 近いものであった。そこで新しいドイツの定期船は52,000トンを超えるものとなった。競争が始まったのだった。(これらの定期船は Blue Ribbandを狙ってはいなかった。速力記録はCunardのMauretaniaにあり、1907年から1929年まで大西洋における最速の船であった。これらの船 は、最大かつ最高に豪華である点で競争していた。)
 Hamburg-Americaは、新しい巨大なフラグシップに3本煙突のデザインを選択した。事実、上甲板から69フィートもあるこ れらの煙突は、定期船に装着された最大のものであった。(後に安定性の問題が生じ、9フィートにまで切り詰められた。)本船の前後には2 本のマストがそびえていた。甲板には83隻の救命艇と2隻の小型発動機船があり(数字はTitanicの悲劇により増加した)、4枚羽の 4軸プロペラは毎分185回転であり、2つの機関室は69フィート、95フィートの長さ、8,500トンの石炭を収容できる石炭庫があっ た。
 国境を超えてより多くの乗客を惹きつけるべく、この定期船はEuropaと命名されることとなっていた。しかしドイツ皇帝 Wilhelm IIは、この新船の虜となり、Imperatorと命名されることとなった。皇帝は1912年5月23日にこの新しい帝国のフラグシップを進水させた。Titanicの沈 没から僅かに5週間後のことであった。海軍総司令官の制服で正装し、皇帝はこの栄誉のために特別に作った雛壇の上に登った(前頁、下)。 皇帝はHamburg-America Lineの天才的な取締役で、壮大な3隻の定期船計画を発案したAlbert Ballinと雛壇に座った。不幸にも実際の命名式の前に、本船の船首から木材の塊が落ち、危うく皇帝を直撃するところであった。
 史上最大の船であったので、Imperatorはドイツ帝国の新しい科学技術能力の象徴となった。造船の関係者は皇帝に、本船の銀製の 3フィートの詳細模型を贈った。皇帝はその出来映えを大変に喜び、この模型をBallinに贈呈した。
 Imperatorは1913年の晩春に竣工した。本船はクックスハーフェン(ハンブルグ)を6月13日に出航し、サウサンプトン経由 でニューヨークに向かった。このある意味でお祭り気分の勝利に満ちた出来事は、ある非常に深刻なことで汚点が付いたのだった。本船は頭 でっかちだったのである。大変に穏やかな海でも酷く揺れたのである。この欠陥は財政を破綻させ得るものであった。そこで最初の年次検査で は、3本の煙突が切り詰められ(上)、全ての上甲板のパネルや艤装品は軽い材質のものと替えられ、相当量のセメントが船底に流し込まれた のである。ある程度、横揺れは収まった。今やドイツ人は、第二のHamburg-Americaの巨船を待望していた。
[1913年、ドイツ、ハンブルグ、Bremer Vulkan Shipyards建造。52,117総トン、全長919フィート、全幅98フィート、喫水35フィート。蒸気タービン、3軸。巡航 速力23ノット。旅客定員4,594人(1等908人、2等972人、3等942人、最下級船室1,772人)]

Imperator
 本船は巨大であった。船首は独特の金箔の船首像によって印象的に見え(上)、それはワシをかたどったもので、翼を広げ、爪で地球をしっ かりと掴んでいた。地球はHamburg-Americaの標語を現していた。「Mein Feld ist die Welt」(=世界は私のもの)。しかしこの非凡な装飾は短命であった。翼が大西洋の嵐で壊れたのである。ワシは直ぐに撤去され、決して取りかえることはなかった。
 Imperatorは、他の定期船よりも多くの乗客を乗せることができるように設計されていた。戦争の勃発の可能性を無視して、 Hamburg-America Lineと特にAlbert Ballinは、将来の良い面しか見ていなかったのである。1等客の数は増加していた。そしてアメリカへの移民も同様に約束されていた(1914年だけで、ニューヨークに 100万人近くが横断して来た。)。Imperatorと計画されていた2隻の姉妹船は、ここから利益を得るつもりであった。北大西洋上 のドイツの壮麗さ(次頁、上)、Imperatorの1等食堂の船長のテーブルである。
 検査の一行がImperatorの社交室でポーズを取っている(次頁、下)。向こうの部屋の突き当たりにKaiser Wilhelmの白い大理石の胸像がある。皇帝はこの定期船の進水時の発起人であり、頭上には飾り立てた明かり窓があった。

Imperator
 Imperatorの1等の屋内プール(上)は、最も著名な設備の一つであった。ポンペイの風呂として知られ、ロンドンのRoval Automobile Clubにあるものより僅かに小さかった。大理石で出来ており、上の甲板には観客席があり、この種の洋上設備の中では最も人騒がせなものであった。船の上でさえも、ドイツ 人は健康と肉体の健康に拘っていた。本船の体育設備(下)、恐らくは筋肉を鍛え、贅肉を落とし、身体を刺激するものと思われる多くの器具 がある。

Imperotor
 本船で撮影された1等の厨房部門(上)。Imperatorの旅行の社会階級の底辺は、最下級船室の乗客である。大半はドイツ人であっ たが、東ヨーロッパ諸国からの人々もいた。最下級船室の甲板は制限されたもので、この定期船の船首のもやの真下の狭苦しいところにあっ た。最下級食堂(下)は、船首にあった。これは望ましいものとは言えなかった。1等は中央に食堂を持っていたので、船の揺れの影響を受け ることが少なかったのである。最下級船室は剥き出しであった。すなわち天井や床は剥き出しの鋼鉄であり、裸電球で、椅子というよりは長い ベンチであり、テーブルの列が所狭しと並んでいた。

Imperator(上)
 Titanicの悲劇の結果、定期船会社はより広範な、そしてより厳格な安全基準に従うようになった。召集されて様々な Imperatorの船員がボート甲板に並んでいる。この定期船の83隻の救命艇と鈎柱はしばしば検査され、ニューヨークとハンブルグの いずれの港でも海面上に降ろされた。

AQUITANIA(次頁)
 Cunard Lineによって発注された3番目の定期船は、リバプールとニューヨーク間で週1回の急行運航をすることとなっており、LusitaniaやMauretaniaと同じ位 の速力は意図していなかった。代わりに4本煙突の大型版であったが、更に重要なことは、1914年春の新品のAquitaniaは、史上 最高に美しく装飾された船の一つと考えられていた。
 フランス南西部の古代ローマの地名に因んで命名されたが、直ぐに「the ship beautiful(=美しき船)」の愛称が付けられた。意匠の優雅さ、旅客設備の美しさは伝説となった。Cunardは、直ぐに最高に成功した船で自信を深めた。 AquitaniaのCaroline喫煙室、Palladianラウンジ、ルイ16世食堂ほど良いものはなかった。Adamの居間、 Jacobeanグリル、そして大英博物館のエジプトの装飾品の模造品で装飾された屋内プールもあった。
 Aquitaniaは最後の大西洋の4本煙突の船であった(そうした船はこの後、僅かに2隻建造されたが、Union-Castle Lineの南アフリカ航路向けであった。)。事実、このCunarderは、現役として使用された本当に最後の4本煙突の船であったので あり、35年間運航して1949年に引退した。本船はドイツの巨船Vaterlandによく似ており、両船とも第一次世界大戦の直前に竣 工し、結果として当初、商用運航にはほんの僅かな期間しか就航しなかった。
[1914年、スコットランド、クライドバンク、John Brown & Company Limited建造。45,647総トン、全長901フィート、全幅97フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力23ノット。旅客定員3,230人(1等618人、2等 614人、3等1,998人)]

Aquitania
 浮世離れした特別の1等の食事のために、AquitaniaはJacobeanグリル室(上)を提供していた。入場するには追加料金が かかった。2層の高さの1等のルイ16世食堂は、Aquitaniaの最高の部屋と考えられている。1950年にこの定期船が解体された とき、椅子の幾つかが助かっている。刷新されて、1957年に就航した別のCunarderである22,000トンのCarinthia の1等食堂で使用された。この船が1968年に引退した後のこれら椅子の歴史は、不明である。
 椰子庭園、冬園、ベランダ・ラウンジ、ガーデン・ラウンジ(下)は、遠洋定期船によくあるもので、とりわけ第一次世界大戦前の10年間 はそうであった。
 Aquitaniaを捉えた詩的な写真(次頁)は、西12丁目第54埠頭のCunardのニューヨークの埠頭から出航する時のもの。

VATERLAND
 1913年にHamburg-AmericaのImperatorが世界最大の船だったとすると(52,100トン)、ドイツのこの2 番船は、それよりも巨大であった。この新しい船は、大体54,000トンを超えていた。再びドイツは、世界最大の船を保有することとなっ た。
 当初の計画ではEuropaと命名されることとなっていた。これはヨーロッパ市場全般を獲得するためであったが、最後には国家主義が勝 利した。本船は1913年4月3日に、バリリアのPrince Rupertにより、Vaterlandと命名された。3隻の偉大なドイツの超定期船についての奇妙なことの一つは、伝統に反し男性によって命名されていたことである。皇 帝はImperatorに栄誉を授け、Prince RuputはVaterlandに対して行い、最後に進水したBismarckは、Countess Hanna von Bismarekが予定されていたがしくじり、予期していなかった皇帝が行ったのである。この進水は周到に計画されたものであった。海に浮かんだ時(上)、この全長950 フィートの船体は、危うく反対側のエルベ河の堤防に激突するところで止まったのだった。
 ハンブルグで行われたVaterlandの進水には40,000人余が出席した(前頁)。本船は別の驚くべきドイツの定期船であった。 150万個のリベットが建造に使用された。本船の石炭庫には9,000トンの石炭が積まれ、12,000トンの貨物を載せる空間があっ た。1,180人の船員は、1人の船長、4人の副船長、7人の航海士、そして29人の機関士によって統率されていた。
 大西洋を横断する豪華船の中で、本船は最上級のものであった。1等の旅客設備には、冬園、社交室、広い食堂、グリル室、喫煙室があっ た。商店街、銀行、旅行会社、そして屋内プール、体育館があった。1等の船室は752床であり、その上には2つの極端に豪華な皇帝の スィートと、10の豪華な離れがあった。それぞれには寝室、居間、そして大理石の風呂があった。
[1914年、ドイツ、ハンブルグ、Blohm & Voss Shipbuilders建造。54,282総トン、全長950フィート、全幅100フィート、喫水35フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力23ノット。旅客定員 3,909人(1等752人、2等535人、3等850人、最下級船室1,772人)]

Vaterland
 本船の準備作業の様子(前頁、上)。本船が竣工するや(1914年の春)、広報担当者は構造の強固さと安全性を強調した。 Titanicの悲劇と、Imperatorが遭遇したバランスの問題から多くを学んでいたのだった。Vaterlandの傑出していた 特徴の中には、無休の有人無電システム、強化された船体メッキ、前檣の巨大サーチライト(恐らくは氷山を見つけ出すためのものだったろ う)があり、当時最高の防火設備があった。しかしながら、この世界最大の船の商用運航は極めて短期間であった。本船は1914年5月14 日にハンブルグを出発してニューヨークに向けて処女航海に出た。8月、戦争が勃発してニューヨークで拿捕されたのである。
 1914年の初夏、イングランド南部海岸のカウズで、ドイツはビックリさせるような技術の進歩を示す機会を得た(前頁、下)。4本マス トのKaiserin Auguste Victoria(左)は、1906年当時最大の船であり、24,500トンで全長705フィートであった。Vaterland(右)はこの高く評価された地位を得たばか りであり、54,200トンを超え、全長は950フィートであった。英国の嫉妬に大いに喜び、ドイツ人は輝いていた。しかし数年のうちに 全く逆転したのである。第一次世界大戦でドイツが敗北すると、Kaiserin Auguste Victoriaは英国国旗を掲げてCanadian PacificのEmpress of Scotlandになった。更に造船業者とハンブルグの前船主を苦しめたことに、Vaterlandは戦勝品として合衆国に奪われてLeviathanとなり、この最大の 船は星条旗をたなびかせたのである。
 Vaterlandの1等食堂(右、上)は、他の大西洋上の女王達よりもいくぶん洗練されていた。この部屋の淡白な美しさは、白熱灯に 囲まれた目を見張らせる円形天井の壁画によって高められていた。ニューヨークへの横断中の食事時の写真(右、中央)からは、同じ部屋が乗 客で一杯になっており、全く広くは見えない。
 Vaterlandのような定期船での長く寛いだ晩は、静かで快適な喫煙室(右、下)や椰子庭園で過ごしたものだった。少なくとも1等 の乗客の生活は、大概は静かなものであった。演奏会やダンスの楽団がいたかもしれないが、船が仮面舞踏会や封切映画、漫談を呼び物とする のに1年もかからなかった。

BISMARCK
 ドイツ人は、「Big Three」として知られた最大の3番船を楽しむことはできなかった。多くの人が1914年6月20日の進水に際して悪い前兆を見たのだった(上)。有名なドイツの首相の 孫であるCountess Hanna von Bismarckは、命名の栄誉を与えることとなっていたが、ワインの瓶を放ったとき、目標を外れてしまったのである。この若い伯爵夫人の傍に立っていた皇帝が進み出て、 本船を代わって命名した。8日後、サラエボでの銃弾が世界の平和を粉砕した。Ferdinand大公が殺害され、この出来事から第一次世 界大戦が始まったのである。Bismarckはドイツ人の所有者のために航海することは決してなかった。
 戦時中、Bismarckは造船所に置かれ、ドイツ商船隊のフラグシップとなるべき世界最大の船は錆びついた。この定期船が竣工した ら、皇帝と全皇族を乗せて世界中を勝利のクルーズを行うものと噂されていた。しかし1919年、皇帝はドイツの敗北後、亡命したのだっ た。Hamburg-Americaと「Big Three」を率いた天才Albert Ballinは、自身の人生を奪われて砕け散った。生き残ったドイツ人は、この定期船が国営運航を復活させるために完成することを希望した。しかし勝利した連合国は違う計 画を有していた。
 ドイツ人、特にハンブルグの造船業者にとっては厳しい決定であった。ベルサイユ条約により、Bismarckは1916年に機雷により 沈没したWhite Starの48,000トンのBritannicの賠償として英国に送られることとなったのである。嫌々ながら造船所の職員はこの定期船竣工の仕事をし始め、英国仕様にし たのである。
 工事は、ドイツ人職員の意図的な怠業と戦後のドイツの鋼材不足から遅延した。1920年10月には造船所で火災もあった。1922年3 月、ハンブルグに新しい船主のWhite Star Lineの職員が完成した船の引渡を受けるべく到着し、衝撃を受けたのだった。Bismarckの名前が明らかに船首に描かれ、煙突はHamburg-Americaの塗 装だったのである。新しい英国の主人は、船室が物置として使われていたのも発見したのだった。ドイツ人はこの巨大な定期船が出発するのを 見送ることすら気が進まないでいた(左)。試運転のためアイリッシュ海に向かい、正式にMajesticと命名されて、White Starの煙突の色に再塗装され、船籍港としてリバプールに登録された。
[1914年-22年、ドイツ、ハンブルグ、Blohm & Voss Shipbuilders建造。56,551総トン、全長956フィート、全幅100フィート、喫水35フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力23.5ノット。1等、2 等、3等、最下級船室に3,500人以上の旅客を収容すべく設計。等級毎の正確な数字は決められていなかった。]

BRITANNIC
 White Star Lineの3隻の豪華急行定期船の3番船は、Giganticと命名されることとなっていた。しかしTitanicの災害で、大きさを大げさに仄めかす名称は賢明ではない と考えられた。そこでBritannicの名前が選ばれたのである。しかしこの大型定期船の船歴は、恐らくは他のどんな船よりも哀れなも のであった。運航したのはたったの1年であり、決して商用航海はしなかったのである。1914年2月26日に進水したが、竣工は8月に戦 争が勃発したために延期となった。1915年11月、英国海軍省の命令で病院船として完成した。1年後、11月21日にエーゲ海での任務 中にドイツの機雷原に入り、爆発・沈没して21人が死亡した。Britainnicは当時、殆ど知られていない大型船の一つであった。 Titanicの喪失に引き続き、本船の死は、かっては偉大であったWhite Star Companyの緩やかな衰退を示すものと言えた。
 Britannicは、例外的に大きな、殆どクレーンのような一連の鈎柱を装備しており、緊急時に一連の救命艇を降ろすことができた。 他は感じの良い寛げるものではあったが、不恰好なもので、こうしたものは明らかにTitanicの沈没後に安全装置を付け加えたものと言 えた。
[1914年-15年、北アイルランド、ベルファスト、 Harland & Wolff Limited建造。48,158総トン、全長903フィート、全幅94フィート。3段膨張式往復蒸気機関、3軸。巡航速力21ノット。旅客定員2,573人(1等790 人、2等830人、3等953人)]

4、世界大戦

 1914年の不吉な夏のこと、オーストリア大公の暗殺に引き続いて、ドイツ帝国が、英国、フランス、ロシアに対して戦争を始めるとい う劇的な出来事があった。全ての海域の旅客船は、とりわけ北大西洋においては直ぐに影響を受けた。殆どの商用運航が急停止したのである。

 1914年8月、緊急命令によりMauretaniaはハリファックスに急いで避難し、Olympicはニューヨークに退避した。 Kronprinzessin Cecilieは同じくらいの大きさのOlympicとしてバー・ハーバーに隠された。直ぐにヨーロッパの定期船は、大小問わず徴用され、あるものは武装商船巡洋艦に、あ るものは兵員輸送船に、またあるものは病院船となった。灰色、黒色、青色で迷彩が施されて以前の平時の色が塗り潰され、多くの船舶の見分 けがつかなくなった。とりわけU-boatの乗組員にとってはそうだった。船舶はすべて軍の命令下に置かれて、遠くの海域に行ったのだっ た。巨大なAquitaniaやOlympicのような船が、病院船として遠くエーゲ海に現れた。Aquitaniaの素晴らしい Palladianラウンジが突如として病棟となったのである。

 その損失たるや、よろめくようなものだった。当初、ドイツは宣戦を布告した時にアメリカの港湾で30隻以上の船舶が捕獲された。そう したものの中には、世界最大の定期船Vaterlandがあり、他に有名なものとして、Amerika、Kaiser Wilhelm II、そしてGeorge Washingtonがあった。しかしより劇的で衝撃的であったのは、CunardのLusitaniaの喪失である。1915年5月7日にアイルランド沖で、敵のU- boatの魚雷攻撃を受けたのだった。1,198人余りが死亡し、うち159人がアメリカ人であった。当時の著名な歴史家の1人である Mark Sullivanは次のように記している。「アメリカとドイツとの間の戦争が不可避となった、正にその日の出来事であった。」1917年までに合衆国は連合軍に加わって、 皇帝の軍隊と戦った。U.S.S. LeviathanとなったVaterlandを含む抑留されたドイツの定期船は、今やそれを作り出した国と戦うこととなったのである。

 1918年11月に戦争が終わるまでに、世界の海運はすっかり様変わりした。英国だけでも1,169隻の船舶を喪失したのである。有 名なCunardは1隻の急行船、Lusitaniaを喪失した。White StarのBritannicも同様に、竣工から1年もしないで沈没した。休戦により、ドイツの定期船の殆ど全てが剥ぎ取られることとなった。その中には巨大船トリオの Imperator、Vaterland、そしてBismarckがあった。Hamburg-America Lineは、1913年には大西洋で最大の旅客船隊を保有し、それは世界最大でもあったが、そこにはDeutschland、ただ1隻だけが残されたのである。機関に欠陥 があるままで、当初の4本煙突は2本になって、移民だけが乗る船として戦後の運航を再開したのであった。


KAISER WILHELM DER GROSSE(前頁、上)
 1914年8月、ドイツの定期船会社は全ての運航を取り止めた。戦争が始まったのだった。幸運にもドイツ海域やその近くにいたドイツの 船舶もあった。他は拿捕されるか抑留され、アメリカの港湾には30隻かそこらのそうした船があった。Kaiser Wilhelm der Grosseは、高速商船巡洋艦に改造されるため、ドイツ帝国海軍によってブレーメンで徴用された。その任務は連合国の通商破壊であった。北大西洋上では3隻の船舶を撃沈 し、2隻の英国旅客船を臨検で停船させた。8月26日、スペイン領西アフリカのリオ・デ・オロで、英国巡洋艦H.M.S. Highflyerが現れたとき、この旧定期船は石炭の積み込み作業中であった。2隻の船の間で決闘となった。Kaiser Wilhelm der Grosseが弾薬を使い果たしたとき、船長は本船を爆破して沈めるよう命じたのだった。ドイツ最初の大型定期船は、作戦行動中に喪失したのだった。

KRONPRINZESSIN CECILIE(前頁、下)
 別のドイツの超定期船Kronprinzessin Cecllieは、ヨーロッパでの戦争が差し迫っているという報告を受けた1914年7月29日、北米海岸沖にいた。本船の位置は気がかりなものであった。ドイツ人客を乗 せていただけではなく、ブレマーハーフェン行きの1,000万ドルの金の延べ板と、100万ドルの銀という高価品を輸送していたのだっ た。船長は英国に拿捕されることなく安全に横断することは不可能だと悟った。そこで船長と上級船員は劇的な選択をしたのだった。本船は明 かりを消し、無線を封鎖したのである。この異例な行為に激怒する乗客もいた。謎めいた作戦に喜んで協力するものもいた。更に第3のグルー プは、米国国旗を掲げて安全に中立国の海域を航海すべく、本船の買収を提案した。
 船員は4本の煙突を、上が黒縞で下が黄褐色のWhite Starの色に再塗装した。遠くから見るとドイツのKronprinzessin Cecilieは、英国のOlympicと見間違えるものであった。定期船は進路を反転し、安全で辺鄙なメーン州バー・ハーバーに向かった。このドイツの「宝船」がちっぽ けな港に到着したとき、地元民は沖止めの「Olympic」を見て度肝を抜かれた。この知らせは直ぐにニューヨークに伝わったが、 White Star Olympicは無事にマンハッタンの停泊地に接岸しているという返事であった。メーン州の大型定期船の正体は直ぐには判らなかった。本船はアメリカに抑留されたが、英国 の手からは逃れたのだった。
 その後、本船は身の振り方が決まるまでボストンに移動した。この写真では、この定期船の2本目の煙突の上にCustom House Towerが見えている。本船は何ヶ月間も使用されなかった。他の5隻のドイツの4本煙突船の2隻も、アメリカの手中にあった。戦争が勃 発したとき、Kaiser Wilhelm IIはホボケンのNorth German Lloyd埠頭で拿捕された。そこで3年近くを過ごして、米国海軍の兵員輸送船U.S.S. Agamemnonとなった。Kronprinz Wilhelmは、武装商船巡洋艦として戦争の初期を過ごした。この豪華な平時運航用に建造された船は、大西洋で15隻以上(合計6万トン以上)の連盟国側の船を撃沈し た。1915年4月、本船は使い尽くされた状態で、バージニア州ニューポート・ニューズに入った。支給品も燃料もなく、修理が正に必要で あった。4月26日、本船は正式に米国当局に抑留された。その後、1917年にアメリカが参戦し、本船はU.S.S. Von Steubenという船名の兵員輸送船となった。

VATERLAND(上)
 ドイツの軍事行動の最大の計算違いの一つに、帝国のフラグシップで最大の定期船であった巨大なVaterlandを、宣戦を布告したと きにホボケンの埠頭で拿捕されてしまったということがある。3年近く本船は、政治的な無関心から放置されて錆びつき、無視されていた。戦 争の初期、本船はドイツ系米国人によって、資金集めのための宴会や舞踏会に使用され、その収益は皇帝の軍隊を支援すべく Vaterlandに贈られた。その後、アメリカがヨーロッパでの戦いによって脅威に曝されるようになると、Vaterlandは「立ち 入り禁止」となった。静かな船で少数の以前のドイツ人船員が本船の管理をした。
 Vaterlandは1917年7月、正式にアメリカによって接収された。その後、本船はLeviathanとして知られるようにな り、星条旗をたなびかせたのである。

LUSITANIA(前頁、上)
 CunardのLusitaniaの喪失は、第一次世界大戦で最も有名な船の悲劇であることは確かである。姉妹船Mauretania や当時の他の超定期船と違って、Lusitaniaは定期戦時運航に残っていた。1914年の夏から1915年にかけて、1隻だけで月に 1回ニューヨークとリバプール間を結んでいた。当初、武装商船巡洋艦に改造するという考えもあったが、これは決して実現することがなかっ た。すべての戦時運航において、船倉は英国行きのアメリカの資材のために予約されていた。1915年5月の運命の航海における正式の積荷 目録には、真鍮板、銅、チーズ、樽入りの牡蠣、木枠に詰め込まれた鶏等が含まれていた。しかし非公式には、より不吉な貨物が積まれてい た。小口径のライフルの銃弾4,200箱、散弾銃の弾100箱、信管18箱である。歴史家の中には、600万の銃弾と「剥き出しの信管」 323個、そして水に触れると爆発する揮発性のある綿火薬と共に、何十トンもの爆発物が積み込まれていたと主張する者もいる。
 LusitaniaはU-boatsよりはかなり速いものと信じられていて、旅客船としては攻撃とは無縁と思われていた。しかし5月7 日の午後2時08分、最初の魚雷攻撃を受けたのだった。ドイツのU-Boat 20から発射され、Lusitaniaの右舷船橋下の船体を貫いた。160フィートまで水蒸気が空高く吹き上がり、石炭、木材、鋼材の破片が飛び散った。船はたちまち浸水 し始め、15度まで傾いた。その時、船首に大きな損傷を与える2度目の爆発があった。生存者は、この2度目の爆発はボイラーの爆発ではな くて、「秘密の不可思議な貨物」が海水に触れて起こったものだと主張した。Lusitaniaは最初の攻撃から18分後に、アイルランド のOld Head of Kinsale沖に沈没した。
 この悲劇が襲った時、Lusitaniaには1,959人の乗客が乗っていた。救命設備や救命艇は 2,605人分用意されていた。しかし魚雷攻撃の後、直ぐに本船は大きく傾斜して、救命艇の多くを使用することは不可能となった。更に本船の48隻の船のうち、6隻しか浮 かばなかったのである。Lusitaniaの船尾は海から跳ね上がり、プロペラが回転を続け、少なくとも2人の乗客が煙突が海水に浸かっ た時に吸い込まれて、ボイラーが爆発したときに外に投げ出された。
 1,198人余が死亡したが、うち758人が乗客であった。乗船していた159人のアメリカ人のうち 124人が死亡した。129人の子供のうち、94人が死亡した。うち35人は赤ん坊であり、31人が行方不明となった。
 1人の船員、Frank Towerは注目すべき幸運によって助かった。彼は1912年のTitanicと1914年のEmpress of Irelandの沈没でも助かっていたのである。
 この場面は悲劇の後、クィーンズタウンにおけるLusitaniaの生き残った救命艇のうちの5隻である。

ORMONDE(前頁、下)
 有名な造船技師のNorman Wilkinsonは、とりわけ大型兵員輸送船の使用促進という英国の計画を進めており、灰色、黒、白、紺色での幾何学模様の塗装で目を眩ませようとした。これは船の存在 を隠し、特にドイツのU-boatの乗組員が見分けることができないようにするためのものであった。ある程度は成功した。Orient LineのOrmondeの工事は、戦争が始まって直ぐの1914年に中断し、1918年に兵員輸送船として竣工した。処女航海向けに迷 彩塗装を装ったのである。
[1913年-18年、スコットランド、クライドバンク、John Brown & Company Limited建造。14,853総トン。全長600フィート、全幅66フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力18ノット。平時の旅客定員1,473人(1等278人、 2等195人、3等1,000人)]

EMPRESS OF RUSSIA(上)
 Canadian PacificのEmpress of Russiaも、兵員輸送時には迷彩色に塗装して使用された。ある者には、この塗装は大きな海蛇の歯のように見えたものだった。この定期船の航海はしばしば極秘扱いであ り、灯火管制を敷いてジグザグの進路を取った。
[1913年、スコットランド、グラスゴー、Fairfield Shipbuilding & Engineering Company建造。16,810総トン、全長592フィート、全幅68フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力20ノット。平時の旅客定員1,192人(1等284人、 2等100人、アジア人用最下級船室808人)]

MAURETANIA(前頁)
 最速の定期船CunardのMauretaniaも迷彩色に塗装された。戦時中は、病院船や兵員輸送船として従事した。病院として、ガ リポリ作戦のため地中海に向かった。兵員輸送船としては北大西洋で働き、何千もの米兵を西ヨーロッパの塹壕の中に送り込んだ。平時には乗 客を乗せたものであるが、本船で航海した軍人には愛された(ここにあるのは1917年にヨーロッパに向かったアメリカ人)。彼らの間で は、本船は親しみを込めて「the Maury」として知られていた。

ANDANIA(上)
 戦争のために多くの旅客船は短命になり、しばしば全く短い一生となった。ここに示したCunardのAndaniaは、リバプールとモ ントリオール間に運航すべく1913年に就航した。1年後、本船は徴用され、兵員輸送任務に就くため改造された。1918年1月、竣工後 4年ばかりで、ドイツのU-boatの魚雷攻撃を受けた。更に酷かったのがHolland-Americaの32,200トンの Statendamの場合である。この新しいオランダのフラグシップは、1914年にベルファストで建造された。長引く戦闘のため 1917年に竣工し、英国政府に移籍してJusticiaと呼ばれる兵員輸送船として竣工した。1年後の1918年7月19日、ニュー ヨークへの航海中に魚雷攻撃を受けて沈没した。戦争の終わりに、英国は補償としてHolland-America Lineに60,000トンの造船用鋼材を提供した。
[1913年、スコットランド、グリーンノック、Scott's Shipbuilding & Engineering Company Limited建造。13,405総トン、全長540フィート、全幅64フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力14.5ノット。旅客定員2,140人(1等 520人、3等1,620人)]

FRANCE(前頁、上)
 戦時中、FranceはFrance IVと再命名された。1914年、本船は兵員輸送船に改造され、地中海での作戦に送られた。1915年11月、トゥーロンで大修理を行って病院船に改造された。白の船体に 大胆に赤の線が入り、鮮やかな赤十字が描かれて、その幾つかは夜間航海時には点灯するようになっていた。かっては豪勢なラウンジも、病棟 に改造された。手術室と薬局も完備された。医師と看護師は以前の旅客室を使用し、その幾つかには傷病兵が占めていた。1919年、戦争が 終わると、FranceはFrench Lineに返還されてル・アーブルとニューヨーク間の豪華な運航を再開した。

STOCKHOLM(前頁、下)
 定期船会社の中には、とりわけスカンジナビアの会社では、戦時中も商用運航を継続しようとしていたところがあった。Swedish- American Lineが1915年に最初に旅客運航を始めた時、北方の航路であるイェーテボリとニューヨーク間の航路を使用した。その船舶はスコットランドを回り、アイスランドをかす め、カナダ沿岸にしがみついて合衆国に到達した。
 最初のSwedish-Americanの定期船の1隻は、以前のPotsdamであり、Holland-America Lineによって保有されていた。例外的に大型の1本煙突で有名な船で、しばしば「Funneldam(=煙突ダム)」と呼ばれていた。1915年までにスウェーデン航路 に就航し、Stockholmと再命名された。これはその後何隻かの定期船に付けられた同じ船名の最初の船である。用心深い乗客と周期的 な係船によって第一次世界大戦を生き延びたが、第二次世界大戦の犠牲者となった。1929年にスウェーデン人によって売却されたとき、捕 鯨母船に改造された。この変わった船歴は、南極を航海中にナチスによって拿捕されて終わりになった。ヨーロッパに戻され、遂には1944 年、ドイツ軍撤退の最中にシェルブールで沈められたのである。数年後、イングランドで解体された。
[1900年、ドイツ、ハンブルグ、Blohm & Voss Shipbuilders建造。12,835総トン、全長571フィート、全幅62フィート。3段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力15ノット。旅客定員2,292人 (1等282人、2等210人、最下級船室1,800人)]

CAP POLONIO(上)
 戦争によって船主の計画は混乱した。Hamburg-South America LineのCap Polonioは、1914年3月に就航した。この会社のフラグシップとしてハンブルグ、リオ、ブエノスアイレス間に就航する予定であった。翌年の夏に戦争が勃発すると、 工事は中断し、外人部隊の巡洋艦として使用するよう変更された。3本目の見せかけの煙突をつけて、1915年冬にVinetaとして就航 した。本船は僅か17ノットという低速の旅客船であったために満足できないものであることが、直ぐに判明した。そこで本来の船名を付けた 旅客船として竣工したが、1919年に賠償金として英国に引き渡された。Union-CastleとP&O linesの両社が旅客船として代わる代わる運航したが、欠陥のある機関が深刻な障害となった。1921年、元のドイツの船主に買い戻され、新しい機関をつけて完全に刷新 された。1922年2月にCap Polonioとして再就航し、大変に人気のある利益を生み出す定期船として10年を過ごした。1935年にブレマーハーフェンで解体されたときも名声は衰えず、調度品の 幾つかは、地元ホテルが使用するために購入した。
[1914年、ドイツ、ハンブルグ、Blohm & Voss Shipbuilders建造。20,576総トン、全長662フィート、全幅72フィート。3段膨張式往復蒸気機関、3軸。巡航速力17ノット。旅客定員1,555人 (1等356人、2等250人、3等949人)]

LEVIATHAN (VATERLAND)
 1917年の夏の始まりから戦争の終わりまで、前のドイツのVaterlandはアメリカのLeviathanに再命名され(前頁、 下)、北大西洋で兵員輸送を行った。こうした巨大兵員輸送船には多数の職員が必要であり、Leviathanは合衆国海軍によって人員が 配置されていた(前頁、上)。1918年、Pershing将軍が乗船した(上)。将軍が敬礼している背後で腕を上げているのは、若き日 のDouglas MacArthurである。

Leviathan
 軍事運航で奮闘した後、旧ドイツ定期船の多くは不確定・未定のまま長期間抑留された。Leviathanはホボケンの埠頭で数年間放置 された(上)。ワシントンの当局者はその将来を決定することを怠っていたのである。長期間の真剣な熟慮の後、新しく設立された United States Linesに移籍して米国船隊の商用フラグシップとなることが提案された。1921年、本船は大修理と改造のため、バージニア州のNewport News Shipyardsに送られた。造船所の労働者には、当初本船はみすぼらしく見えたものだった。戦前の壮麗さを復元することは簡単な仕事ではなかった。何千もの労働者を要 して本船を念入りに作った(次頁)。電線が張り替えられ、配管が替えられ、鋼材が補強され、機関が修復され、乗員・乗客用の旅客設備が完 全に刷新された。Leviathanが再び偉大な定期船に似たようなものになるのには時間がかかった。戦争は遠い記憶になり始めていた。

GEORGE WASHINGTON(上)
 1914年8月にホボケンに抑留されたドイツ定期船の中には、North German LloydのGeorge Washingtonがあった。本船のアメリカの名前は、より多くの西行きの移民を誘惑しようとして付けられたものであった。「Big George」と親しみを込めて知られ、1917年4月に徴用されるまで、3年近くホボケン埠頭に残っていた。米国海軍向けに U.S.S. George Washingtonとして修理され、ホボケンと北ヨーロッパ間の軍事輸送を始めた。本船は愛され、よく働いた船だった。この人気から、本船は1919年ベルサイユでの平 和会議に向かったWoodrow Wilson大統領とその側近を乗せる船に選ばれたのである。大統領は3月に出発して8月に帰ってきた。その後軍務を終えて大西洋商用航海向けにUnited States Linesに移籍した。元々はドイツの生まれではあったが、元の船名を持ち続けたのである。
[1909年、ドイツ、ステッチン、Vulkan Shipyards建造。25,570総トン、全長723フィート、全幅72フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力18.5ノット。平時の旅客定員2,679 人(1等568人、2等433人、最下級船室1,226人)]

AGAMEMNON(KAISER WILHELM II;下)
 3隻のドイツの4本煙突の船は、1917年から18年にかけて米国の下で下士官輸送の任務にあたり、それを作り出した国を敗北させるた めに大西洋を横断して軍人を運んでいた。休戦後、任務を解かれ係船した。いずれもとりわけ戦時中に酷使され、しかも老齢であった、全ては 船齢20年を経過していた。様々な提案があったが、その大半は米国船籍の下でヨーロッパ旅客運航に就くというものであった。革新的な ディーゼル運転の定期船に改造するという話さえもあった。しかしどの計画も実現しなかった。旧Kronprinz WilhelmのVon Steubenは、1923年にボルチモアで解体された。旧Kaiser Wilhelm IIのAgamemnon(ここに掲載)と旧Kronprinzessin CecilieのMount Vernonは、チェサピークの淀んだ海域に係船された。決して現役に復帰することはなかった。ドイツが再び戦争を始める1940年まで、忘れられていた。英国が兵員輸送 船に使うという提案があったが、極端に古く、刷新には高い費用がかかるので却下された。この2隻の旧定期船は、ボルチモアに曳航されて潰 された。

5、平和の再来:20年代

 第一次世界大戦は、旅客船事業を変化させた。何と言ってもその特色がすっかり、そして定期船それ自体が組替えられたのである。例えば 巨大船の中ではLusitaniaとBritannicがいなくなり、ドイツのImperatorとBismarckが英国に行って BerengariaとMajesticとなった。アメリカ人は自国の保有する最初のヤンキー国旗の超定期船を運航した。本船も旧ドイツ 船のVaterlandであり、Leviathan(=強い巨人)と再命名された。他の船舶の中には変化はそれほど目立たないものもあっ た。1908年のGeorge Washingtonは、船名はそのままであったが、ドイツからアメリカ保有船に転換された。Amerikaも同様であるが、その綴りは適切なAmericaに改められ た。

 北大西洋の旅客運航も同様に変わった。1921年のアメリカの移民規制のためである。絶え間のない安定した最も儲かった移民の群れ は、全ていなくなったのである。1907年には120万人が西に向かったのであるが、それが1924年にはたったの15万人になったので ある。その結果として、旅客船所有者の大部分は、古い最下級船室を撤去して、より快適な3等船室を設けたのである。新しい中産階級のアメ リカ人観光客市場が生まれ、汽船会社はその市場を獲得しようとした。もちろん1等船室も同様に、戦前のように贔屓にされていた。最も主要 な航路においては、船上において見覚えのある大立者や無声映画の新人女優や、追放されたロシアの公爵からフランスの伯爵に至る、少数の貴 族の類が見受けられたものであった。

 お定まりの英国の活動とドイツの緩慢な回復に加え、多くのヨーロッパ諸国がその市場の分け前に与ろうと浮かび上がって来た。フランス は最大の定期船である豪華なParisを建造し、イタリアは1923年までに最初の2万トンの船を建造し、その2年後にはスウェーデン が、大西洋最初の動力定期船である新しいフラグシップを就航させたのである。


AQUITANIA(上)
 戦争の直前においては、Cunard Lineは北大西洋における最も卓越した定期船会社に留まっていた。英国と大陸の双方の競合他社が嫉妬したことには、サービスが良く時刻表通りの運航で、多くのファンを持 つ素晴らしい船隊を有していた。サウサンプトンとニューヨーク間の急行運航は、それぞれから週1回の出発で、Cunardは世界最大、最 高に豪華な「Big Three」で有名であった。Berengariaは最大で、ドイツ生まれではあったものの、フラグシップと考えられていた。Aquitaniaは最も美しいものと考えら れていた。Mauretaniaは世界最速の定期船であり続けていた。
 Aquitaniaは偉大なる遠洋定期船の縮図であった。大きく(長さが4丁以上あった)、素晴らしく意匠され装飾されていた。造船 所、設計者、船主の信用を高めて喜ばしたことに、本船は常に大西洋市場において最も利益を上げる定期船の一つであった。

BERENVGARIA(IMPERATOR; 次頁)
 1920年代のCunardのフラグシップは、事実上、ドイツ建造の定期船、前のImperatorであった。戦後、短期間、アメリカ 人によって兵員輸送船として使用され、その後、Lusitaniaの賠償として英国政府に移籍した。元のドイツ風の内装は改装されて英国 風となり、この定期船の船主にはCunardが任命され、大きな3本の煙突はオレンジ・レッドと黒色に再塗装された。しかしドイツ時代の 安定性の問題を引き継いでいた。晩年には「tender ship」として知られていた。
 Berengariaと再命名され、その大きさ、力強さ、豪華さ故に、世界的に有名なお得意様を惹き付けることのできる名声を勝ち得 た。1924年、ウェールズ皇太子(後のエドワード8世、その後のウィンザー公)をニューヨークまで乗せた。1等にRenfrew卿とし て乗船した。これは皇太子が人を欺くための試みであったが、誰も騙されなかった。その代わり、上甲板で活発に動き回り、船の綱引き大会に 参加し、舞踏室では夜には踊って、大変に人気のある乗客の1人となったのだった(次頁、下、椰子庭園から見たもの)。
 航海ではいつでも有名人が乗船していた。Will Rogers、Mary Pick-ford、Douglas Fairbanks、Henry Ford、J. P. Morgan、ルーマニア女王、DuPonts、Astors、Vanderbiltsのメンバー。3等の料金が50ドルから80ドルであったのに対し、1等の最高の スィートは4,000ドルもした。良い部屋はしばしば王族によって予約されていたが、時折、詰まらない問題が生じた。Vanderbit 提督は、好みの船の好みのスィートが誰かに予約されているのを知って、即座に今後10年分、自分のために予約したのだった。

MAJESTIC (BISMARCK)
 Cunardの主要な競争相手はWhite Star Lineであり、その船舶はアメリカのJ. P. Morganの権益によって所有されていたが、未だに英国国旗の下にあった。1926年、遂に全てを英国所有に取り戻した。しかしWhite Starは未だに人気のある会社ではあったが、第一次世界大戦後に再び煌きを取り戻すことはなかった。
 Titanicの喪失は暗雲を引き摺っていた。ベルファスト建造の3隻の第3船であるBritannicは、一度も大西洋を横断するこ となく沈没したのだった。20年代の初めまでにWhite Starは、サウサンプトンとニューヨーク間の急行線から3隻の大型定期船を撤退させた。Majestic(上)は、不完全なドイツのBismarckであり、英国に引き 渡され、その後、賠償としてWhite Starに引き渡されたものである。1922年にユニオン・ジャックの下で登場すると、この会社のフラグシップで最大の定期船となり、1935年に79,000トンのフラ ンスのNormandieが現れるまで、高く評価されていた。1等ラウンジ(次頁、上)と食堂(次頁、下)の光景から、人気の的となった 豪華さを窺い知ることができる。本船のWhite Starの僚船は、46,300トンのOlympicと34,300トンのHomeric、そして賠償としてこの会社に来たもう一隻の旧ドイツ船であった。

OLYMPIC(上)
 1920年代、偉大な定期船に多くの大衆の関心が集まっていた。概して「人間が創造した最大の乗り物」として考えられていた。雑誌や新 聞の紙面は、とめどなくその大きさ、機関、とりわけその壮大さ、豪華さを描写した記事で溢れていた。地元紙には出入港時刻の一覧表が掲載 され、しばしば有名人の乗客の写真が添えられた特別のコラムがあった。ファッション雑誌は、最新の作品に広々とした屋外甲板を使用した。
 自然なことに、最大の定期船は大いに好奇心を刺激したのだった。ここに見えるOlympicのような世界最大の船の一つがサウサンプト ンの世界最大の乾船渠に入ると、それはニュースとなった。ロンドンから特別見学列車が仕立てられ、その1日観光は、埠頭の周りを遠足する 人々で目立ったものだった。20年代中葉、たったの8シリング以下で行われた列車で行く見学旅行は、大変に人気のある遠足であった。

HOMERIC(次頁)
 White Starの「Big Three」の3番船であるHomericは、第一次大戦が始まった時、North German Lloyd向けに建造中の定期船であり、休戦後、賠償品として英国に割譲された。MajesticやOlympicよりもいくぶん小型で あったが、Homericは旅客設備の美しさと洋上における殆ど驚くべき安定性で注目の大西洋横断定期船で、多くの乗客を集めていた。こ の偉大な定期船の出港はそれ自体が事件であった。ここには、西20丁目の麓にあるマンハッタンのチェルシー埠頭からHomericが引き 出されている様が写っている。有名な船舶史家で作家のFrank O. Braynardは、かって次のように書いた。
 航海の日々は、恵まれたひとときであった。Majestic、Berengaria、Leviathanのような巨大定期船で行く深夜 の航海は、最も魅力溢れるものであった。出発時には10,000人もの見物人がいたものだった。贅沢なラウンジ、華麗な塗装、至るところ にある美しい家具、そして蝋と磨き粉の特別な匂いに、「おぉ」だの「あぁ」だのと言いながら訪船者の群れが長い廊下を歩いたものだった。
 ボンボヤージュの小包と巨大な籠に入った花が、至るところに重ねられていた。給仕やその他の者が何日もかけて分類し、正しく船室に配達 したものだった。定期船の出発が近づくと、通りの交通が混雑した。ある時、46人が単に86番埠頭に来れなかったという理由で Leviathanに乗り遅れた。すると数人のボーイが路地裏から銅鑼を鳴らして、「all ashore that's going ashore」と大声で叫んだが、これはお別れの宴会としては適切なもので、出港を忘れさせるものであった。これら可哀想な乗客は、曳船 で連れて行かれたのだった。
[1913年-22年、ドイツ、Danzig、Schichau Shipyards建造。34,351総トン。全長774フィート、全幅82フィート、喫水36フィート。3段膨張式往復蒸気機関、 2軸。巡航速力19ノット。旅客定員2,766人(1等529人、2等487人、3等1,750人)]

LEVIATHAN(VATERLAND; 上)
 偉大なる大西洋横断定期船の西の終点に位置していたが、アメリカは旅客船事業に全く興味を持たなかった。せいぜい、小型の旅客船に僅か な星条旗をたなびかせているだけであった。一方で、英国国旗をたなびかせた巨大で最も豪華な定期船は優勢であり、戦前はフランスとドイツ がある程度のものであった。その後休戦となって、2番目に大型の定期船である旧ドイツのVaterlandは、アメリカの手に落ちた。何 度か重要な兵員輸送の航海をした後、その将来が決まるまで係船された。
 遂にAmerican Merchant Marineのフラグシップとなることが決まり、「世界で最も偉大な船」として宣伝された。実際には第2の大きさであり、White StarのMajesticが上回っており、また最速でもなかった。Blue Ribbandは、CunardのMauretaniaが未だに保持していた。しかしアメリカのフラグシップとなって、しかるべきヤンキーの特色を有することとなった。そ の巨大な船体に関連してLeviathanと再命名され、自国の船で横断したいアメリカ人観光客の新時代に、人気が上昇した。ナイト・ク ラブ(ここに掲載)は、20年代初期にしては、とりわけ現代的な様式のものであった。
 残念ながら、Leviathanは殆ど成功しなかった。1923年7月に処女航海を行ったが、航海予定に見合った大きさや速力に敵うア メリカの定期船は他になく、何か「孤独」であった。このことから乗客に運航予定の隙間が生じ、しばしば乗客は外国船籍の定期船に乗りかえ ることとなった。別の問題は禁酒法であった。Leviathanはその生涯の大半を「dry ship(=喉の乾く船)」として過ごし、喉の乾いたアメリカ人に問題を押し付けていたのである。更に、船上でのサービスが英国や大陸の定期船に殆ど匹敵しないものであっ たと言われていた。かくして、何時も報道価値のある有名な定期船であったLeviathanは、20年代の巨大な大西洋横断女王の中で、 最も成功しなかった船の一つとなった。
[1914年、ドイツ、ハンブルグ、Blohm & Voss Shipbuilders建造。59,956総トン(英国の測度法では48,932総トン)、全長950フィート、全幅100フィート、喫水38フィート。蒸気タービン、 4軸。巡航速力23ノット。旅客定員3,008人(1等940人、ツーリスト666人、3等1,402人)]

サウサンプトン遠洋埠頭(次頁、裏面)
 20年代初期のサウサンプトンの世界最大の船が集まっている様子が、上に見られる。White StarのHomericが、後ろで正に出港しようとしている4本煙突のOlympicの左手に見える。CunardのBerengariaが中央右側にあり、もう一隻の 4本煙突、Aquitaniaが直ぐ傍にいる。2本のストーブの管のような煙突をつけた小型のUnion-Castleの定期船が右手遠 くに見える。
 劇的な到着風景(下)においてはAquitaniaが後ろに見え、その蒸気で部分的に姿がわかりにくい。法定検査のため乾船渠で休んで いる。Homericと4本煙突のOlympicは、隣接して停泊している。右の隅には、Royal Mail LinesのAraguayaがいる。
 裏面に引き伸ばした船渠での写真は、Leviathanから1923年に撮影されたもの。Olympicが直ぐ前におり、 Aquitaniaが左にいる。

Paris
 英国が世界最大の最もサービスの良い定期船を所有し、アメリカが第二位の大きさの船を持ち、一方ドイツがゆっくりと再建をし始めている とすれば、20年代のFrench Lineは、偉大な様式と個性によってそれらに匹敵する船を有していた。優越したサービス要素を強調していた。それは乗客が船を選択する際の重要な考慮事項であった。会社 の職員の中には同じ船に何年も留まる者がいて、旅行者の中には何年も横断の度に同じ給仕や事務員に会うのを楽しみにしている人がいた。ま た職員の中にはより野心的で、通常は最もワクワクするものであるが、概してその会社の最も新しい定期船を、船から船へと渡り歩く者もい た。
 世界最大ではなかったが、20年代のフランスの定期船は最も装飾され、恐らくは当時、最も近代的なものであった。1912年にこの会社 が4本煙突のFranceを投入したが、この成功により更に4隻の定期船を建造する計画が推進された。全ては姉妹としてではなく別々に建 造され、進化の連続であった。その結果、この新しいフランスの定期船は大きいだけではなく、新しい装飾様式において最良のものであった。 3本煙突のParisは、1916年に竣工予定であったが、戦争のために1921年まで遅れて竣工した。20年代において何か不思議な船 であった。内装は壮麗なアール・ヌーボーであったが、アール・デコの雰囲気を漂わせていた。大西洋において最高の料理を提供し、船上の環 境と職員は、特に米国人にとっては、パリっ子の生活の最も輝くような印象を与えるものであった。French Lineの宣伝文句はこの概念を強調していた。「France, you know, really starts at Pier 57, New York!(=フランス、それは、ニューヨーク57番埠頭から正に始まるのです!)」
 素晴らしい台所と船全体の環境と様式と並んで、フランスの定期船は1等の途方もないスィートと豪華な部屋で有名であった。そうした部屋 は番号ではなく、一般に国の地方あるいは都市に因んで命名され、様々な様式や装飾によって飾られていた。部屋は通常、丸窓ではなく、独立 した寝室(上)に、1つか2つの浴室、更に居間、納戸、衣装部屋、玄関、更には召使用の船室が隣接していた。ツインのベッドの間には電話 機が置かれている。そうした便利なものは、20年代初期においては、どんなに大きな船であっても、定期船では大変に稀なものであった。旅 客船は可能な限り如何なる様式・時代において建造されていた。すなわちエジプト様式、イタリア・ルネサンス様式、ムーア様式、スペイン様 式、ルイ14世、15世、16世様式、帝国様式、ジョージ王朝様式、アン女王様式、ジェームズ1世様式、チューダー朝様式、アール・ヌー ボー、アール・デコ、更にはバウハウス(注、1900年代ドイツの建築学派)まであった。
 20年代の1等旅行の究極のものは、好んで有名な大型定期船で大西洋を横断するもので、旅行用の自家用車を持って行った(右)。乗客の 中には私的な召使、ペット、素晴らしい宝石を持って行く者もおり、これが汽船で行く遠洋旅行の古典的な水準であった。
[1921年、フランス、サン・ナゼ―ル、Chantiers de l'Atlantique建造。34,569総トン、全長764フィート、全幅85フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力22ノット。旅客定員1,930人(1等560 人、2等530人、3等840人)]

DEUTSCHLAND(1924年)とALBERT BALLIN
 Hamburg-America Lineは戦後、激減し荒廃し、剥ぎ取られた。再建はゆっくりしていた。この会社の大型で豪華な船を建造するという政策は、例外的に快適な旅客設備を提供する穏当な船が好 まれて見捨てられた。過去を連想させる新造旅客船の1番船は、世紀の変わり目の多くの定期船や19世紀の帆船を思い起こさせる4本マスト を使用したものであった。過去の移民の偉大な時代に、Hamburg-Americaは新しい大西洋横断定期船を建造した。この姉妹船は Albert BallinとDeutschland(上)として知られ、1,558人の乗客と6つの大きな船倉という均整の取れた収容力を有していた。これらの船はハンブルグとニュー ヨーク間を10日で結び、途中、サウサンプトンとシェルブールに寄港して、旅客と貨物の双方から利益を上げていた。
 この姉妹船は戦前のHamburg-Americaの高い水準と一致するもので、大変に良い1等の旅客設備を提供していた。この1等は 第6甲板にあり、そこには広いスポーツ甲板と野外ボーリング場があった。特別のグリル(=焼肉料理)室を含め、料理のサービスはアラカル ト(一品料理)のメニューで、特別の入場料金がかかった。公室にはガラス張りの遊歩道、喫煙室(次頁、上、Albert Ballin)、書斎、図書室、婦人用美容室、社交場、テラス・カフェがあった。また子供用食堂、屋内のタイル張りのプール、体育館、エレベーター、売店、花屋もあった。
 Albert Ballinのテラス・カフェ(次頁、下)は、戦前の冬園の修正・小型版であった。その目的は同様のものであった。すなわち乗客を田舎の暮らしを連想させる緑樹で、海岸の 快適で楽しい生活を思い起こさせることにあった。船首から船尾まで、陽光が溢れ穏やかな潮風が吹く飾り立てられた区画が輝いていた。
[Deutschland及びAlbert Ballin。1924年、ドイツ、ハンブルグ、Blohm & Voss Shipbuilders建造。20,607総トン、全長627フィート、全幅72フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力15.5ノット。旅客定員1,558人(1等 221人、2等402人、3等935人)]

COLUMBUS(上)
 第一次世界大戦が勃発したとき、North German Lloydは2隻の新しい35,000トンの船の建造をちょうど始めたところであった。工事は中止となり、船は単なる鋼鉄の骨組みとして、戦時中を過ごした。新しい姉妹船 のColumbusとHindenburgは大西洋のLloydのフラグシップとなることが予定されていた。その後休戦となり、 Columbusは英国に与えられてWhite Star LineのHomericとなった。しかし2番船はドイツに留まった。資材不足と費用の増加から、作業の進捗はゆっくりとしたものであった。当初の船名は放棄され、 Columbusと命名されて、1924年4月に初めてニューヨークに横断航海した。それはかっては力強かったNorth German Lloydの定期船船隊の緩慢な復活の印であった。
[1924年、ドイツ、Danzig、Schichau Shipyards建造。32,581総トン、全長775フィート、全幅83フィート、喫水36フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力23ノット。旅客定員1,725人 (1等479人、ツーリスト644人、3等602人)]

RELIANCE(次頁、上)
 ドイツの定期船会社の回復は、しばしば難しい過程を経たものだった。20,000トン船に予定されていた2隻の船、William O'SwaldとJohann Heinrich Burchardは、1914年に戦争が勃発した時、未だにHamburg-America向けに工事中であった。その後、他の非常に多くのドイツの旅客船のように戦争終 結時に賠償品となり、両船はアムステルダムのRoyal Holland Lloydに向かった。O'SwaldはBrabantiaになり、BurchardはLimburgiaに変わった。2年間、この2船はオランダと南アメリカの東海岸を 結んでいた。その後、1922年にニューヨークのUnited American Linesに売却されてResoluteとReliance(ここに掲載)となり、それぞれハンブルグとニューヨーク間の大西洋横断航海を行った。Hamburg- America Lineとの共同運航であったが、ここは2船の元の船主であった。その後、1926年に色々なことがあって、2隻はHamburg-Americaに売却された。10年以 上経過し(アメリカ人の選択した名前のままであったが)、遂に当初予定されていた船主の元に戻った。その後、Resoluteと Relianceは、とりわけクルーズ船として大変に素晴らしい名声を得た。
[Reliance。1920年、ドイツ、 Geestemunde、J.C. Tecklenborg Shipyard建造。19,582総トン。全長615フィート、全幅71フィート。3段膨張式機関と蒸気タービン機関1基、3軸。巡航速力16ノット。旅客定員 1,010人(1等290人、2等320人、3等400人)]

CLEVELAND(次頁、下)
 戦後、Hamburg-America Lineに再び加わる前に、船歴を変更することに耐えていた別のドイツ定期船が、Clevelandであった。古典的な4本マストのデザインの時代の1909年に建造さ れ、ハンブルグからニューヨークとボストンに行く航路で使用された。戦時中はドイツの母港に係船され、1919年に賠償品として米国政府 に割り当てられた。兵員輸送船に改造されて、U.S.S. Mobileとなった。1年後、リバプールとニューヨーク間の一連の移民輸送のために窮地に立っていたWhite Star Lineに傭船された。その年の暮れにロンドンのByron Steamship Companyに売却され、ギリシャのピレウスとニューヨーク間の移民輸送用のKing Alexanderになった。1923年、アメリカに戻ってUnited American Linesに加わり、元の名前のClevelandとなった。その後直ぐにハンブルグ―ニューヨーク航路に復帰し、元のドイツの船主と共同運航した。1926年、 Hamburg-America Lineは本船を買い戻した。
[1909年、ドイツ、ハンブルグ、Blohm & Voss Shipbuilders建造。16,971総トン、全長607フィート、全幅63フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力15.5ノット。旅客定員1,600 人(キャビン・クラス600人、3等1,000人)]

ALBERTIC(上)
 偉大かつ壮大な大西洋横断汽船会社は、注目すべきフラグシップと記録破りに加え、「cabin liners」としてしばしば参照されるあまりよく知られていない中型船を運航していた。こうした船は、儲かるニューヨーク航路ばかりではなく、ボストン、フィラデルフィ ア、ケベック・シティ、モントリオール、その他カナダの沿岸地方をも結んでいた。
 こうした旅客船には頻繁に船主が変わるものがあり、White StarのAlberticは、North German LlovdのMunchenとして設計され、係船されていたものだった。戦争で建造が中止された。戦争の終わりに英国のRoyal Mail Linesに引き渡され、Ohioとなった。1927年にWhite Starに加わって大恐慌まで従事し、その後、日本で解体された。
[1914年-23年、ドイツ、ブレーメン、Weser Shipbuilders建造。18,940総トン、全長615フィート、全幅71フィート。4段膨張式機関、2軸。巡航速力17ノット。旅客定員1,442人(1等 229人、2等523人、3等690人)]

MONTCALM(次頁、上)
 Montcalm、Montrose、Montclareといった姉妹船は、Canadian Pacificの大西洋からカナダ東部を結んでいた中型定期船であった。リバプールから出帆し、凍結しない4月から12月の間、セント・ローレンス海路を通ってケベック・ シティ、モントリオールに向かったのである。真冬は、ニュー・ブラウンズウィック州のセント・ジョンで横断航海を打ち切った。
[1921年、スコットランド、クライドバンク、John Brown & Company Limited建造。16,418総トン、全長575フィート、全幅70フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力16ノット。旅客定員1,810人(キャビン・クラス 542人、3等1,268人)]

LACONIA(次頁、下)
 偉大なるCunard Companyは、殆ど流れ作業で中間タイプの旅客定期船を建造した。2本の高いマストと1本のむしろ細い煙突のある均整の取れた船型であった。旅客設備は、貨物のために かなり広い空間を残していた。Laconiaはこの12隻以上の同種船の3番船であるが、最大搭載人員は2,180人で、6つの船倉を有 していた。
[1921年、イングランド、ニュー・カッスル・アポン・タイン、 Swan, Hunter & Wigham Richardson Limited建造。19,680総トン、全長623フィート、全幅73フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力16ノット。旅客定員2,180人(1等340人、2等 340人、3等1,500人)]

TRANSYLVANIA(上)
 英国のAnchor Lineは、スコットランドやアイルランドから合衆国への移民輸送に特化した5隻の姉妹船を、1920年から1925年の間に建造した。最初の3隻の定期船は Cameronia、Tuscania、Calforniaであり、1本煙突の、力強いというよりは簡素な外観の船であった。会社が望む ほどの人気はなかった。最終の2隻の姉妹では、設計者は3本煙突にすることを決定した。この最後の姉妹はとりわけ成功し、特に「煙突が多 ければ、それだけ一層船は安全だ」と未だに信じている移民の輸送において成功した。Transylvania(ここに掲載)と姉妹船 Caledoniaは、20年代において北大西洋を走った最も人気のある定期船の2隻であった。
[1925年、スコットランド、グラスゴー、Fairfield Shipbuilding & Engincering Company建造。16,923総トン、全長552フィート、全幅70フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力16ノット。旅客定員1,423人(1等279人、2等 344人、3等800人)]

VEENDAMとVOLENDAM(次頁)
 戦争の後、Holland-America Lineは、1921年のAmerican Immigration Act(=米国移民法)に課せられた割当により、最下級船室市場の時代が終わったことを悟ったのだった。結局、最初の戦後の新しい旅客船として、この会社はほんの 15,400トンの2隻の中型船を建造した。VeendamとVolendamとして知られる2隻の姉妹は、現実的な生き方に落ち着い た。すなわち、夏はロッテルダム、イギリス海峡の港とニューヨークを結ぶ北大西洋横断、冬はニューヨークからカリブ海、更に遠くの地中海 へのクルーズであった。Veendamがニューヨークから出港したときに撮られた写真(次頁、上)。ここにはアメリカの旅客船 Orizaba(左)と油槽船Franklin(右)も写っている。
 Volendamの図書室(次頁、下)には、当時のオランダ装飾が反映されている。雰囲気は快適な居心地の良いものであった。つやのあ るマホガニーのパネルと、それに見合った絨毯の上の柔らかな肱掛椅子とソファが組み合わされている。
[Veendam。1923年、スコットランド、ゴバン、 Harland & Wolff Limited建造。15,450総トン、全長579フィート、全幅67フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力15ノット。旅客定員1,898人(1等262人、2等 436人、3等1,200人)]

ROMA(前頁、上)
 1926年から27年にかけて、イタリアは更に2隻の最大定期船を加えた。最初の2隻はよく知られた北ヨーロッパの船に匹敵するもので あった。その2隻の第1船であるRomaは、1926年9月に就航した。本船は急行運航の型を確立した。すなわちナポリ、その後ジェノバ から船を出して、フレンチ・リビエラのVillefrancheに寄港し、その後(スペイン人乗客のために)ジブラルタルに寄港して、そ してニューヨークに横断するというものであった。1年かそこらして、姉妹船のAugustusが加わった。この2隻の明らかな違いは、 Romaは蒸気タービンであるのに対し、Augustusにはディーゼルが装着されて、より特色のあるものとなっていた点である。本船は 最大の発動機船であった。
[Roma。1926年、イタリア、ジェノバ、Ansaldo Shipyards建造。32,583総トン、全長709フィート、全幅82フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力22ノット。旅客定員1,675人(1等375人、2 等600人、3等700人)]

COLOMBO(前頁、下)
 20年代の北ヨーロッパの汽船会社の多くと違って、イタリアの会社は未だに北米に横断しようとしていた多くの移民によって支えられてい た。そのため、小型のあまり装飾されていない船が使用され、3等や最下級船室の収容力が大きく、基本的にナポリ、ジェノバ、ニューヨーク を結んでいた。汽船Colomboが、屋外の甲板に多くの移民を乗せて西56丁目の麓にあるニューヨークの第96埠頭に接岸しようとして いる。多くの移民が埠頭に近いニューヨークのウェスト・サイドの借家に落ち着いた。他の者は、最初に上陸した埠頭から半径5マイル以内に 留まった。
[1915年-21年、イングランド、Jarrow-on- Tyne、Palmers Shipbuilding & Iron Company Limited建造。11,762総トン、全長536フィート、全幅64フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力16ノット。旅客定員2,800人(1等100 人、3等700人、最下級船室2,000人)]

BERGENSFJORD(上)
 北大西洋においてノルウェーを代表する会社として1910年に設立されたNorwegian-America Lineの旅客船は、マンハッタンの通例の定期船バースから約5マイル南にあるブルックリンのベイ・リッジ地区の埠頭を珍しく使用していた。Bergensjordのよう な定期船は、何千人ものノルウェー人の移民が乗船し、とりわけ興味深いことに、大部分がノルウェー人からなる大規模なスカンジナビアの共 同体が同じブルックリン埠頭から僅かに離れたところにあり、今日まで定住しているのである。僚船のStavangerjordと共に、 Bergensjordは月1回の運航で、オスロ、クリスチャンサン、スタバンゲル、ベルゲン、コペンハーゲンを出発し、それから横断し てハリファックス(カナダに向かった移民向け)に寄港し、最終的にはブルックリンで引き返した。
[1913年、イングランド、Birkenhead、 Cammell, Laird & Company Limited建造。10,666総トン、全長530フィート、全幅61フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力15ノット。旅客定員1,081人(1等105 人、2等216人、3等760人)]

GRIPSHOLM(上)
 Swedish-American Lineがイェーテボリ、コペンハーゲン、ニューヨーク間の北大西洋航路向けに最初の真新しい定期船を建造する決定をしたとき、経営陣は新規な特色ある船を選択した。伝統 的な蒸気タービン動力の代わりに、ディーゼル機関を搭載した。こうして新しいGripsholmは、大西洋を走った最初の発動機船となっ た。
[1925年、イングランド、ニューカッスル・アポン・タイン、 Armstrong, Whitworth & Company Limited建造。17,993総トン、全長573フィート、全幅74フィート。Burmeister & Wainディーゼル、2軸。巡航速力16ノット。旅客定員1,557人(1等127人、2等482人、3等918人)]

DROTTNINGHOLM(次頁)
 多くの乗客は、定期船に多くの想い出を持っているものである。こうした感情は鮮やかな記憶となって何年も残るものである。ここに何度も 祖先の地との間を航海した、スウェーデンの家系のアメリカ人Richard Sandstromの記憶を紹介しよう。
 1930年のこと、私の父はDrotiningholmに乗って横断しました(次頁、上)。父は乗員の何人かと大変に親しくなり、 ニュージャージーの家に乗員が遊びに来たものです。当時、スウェーデンの定期船は、月曜日か火曜日に到着し、土曜日の朝の航海までニュー ヨークに留まっていました。ということで、船員が遊びに来るには十分な時間があったわけです。
 その後私はDrotiningholmで横断したのですが、その時は既に多くの船員と顔見知りでした。船は古い浜辺のホテルのようで、 少しも変わっていませんでした。私は特に古い喫煙室がお気に入りでした。そこは当時、男性専用でした。円熟した田舎の旅館の雰囲気でし た。
 私はDrotiningholmを、偉大な海のうねりのように記憶しています。屋内の遊歩甲板を持った最初の大西洋定期船の一つでもあ り、乗客の集う何時も大変に人気のあった社交場でした。特別の時間に風呂の注文をしたものです(船には個人用の風呂のついた船室が4つし かなかった)。これは船室係りが手配してくれて、浴室係りに連絡してくれました。もちろん、乗客は少なくとも北大西洋横断中は、毎日風呂 に入ることはしませんでした。
 私達のキャビン・クラスの部屋(Drotiningholmのキャビン・クラスは、当時の他の多くの旅客船の1等に相当するものだっ た)には箪笥がありませんでした。そこで殆ど全ての乗客は、10日間の横断のために洋服箱を持って旅行していました。それは手荷物室に置 き、特別の時間に入ることができました。洗濯物をどうしたのかよく覚えていません。干すのに時間がかかった時代だったんですが!
 Drotiningholmのキャビン・クラスの食堂(次頁、下)。中央に明かり窓と暖炉がある。
[1905年、スコットランド、グラスゴー、Alexander Stephen & Sons Limited建造。11,182総トン、全長538フィート、全幅60フィート。蒸気タービン、3軸。巡航速力17ノット。旅客定員1,386人(キャビン・クラス 532人、3等854人)]

BELGENLAND(上)
 20年代、とりわけ最下級船室の大量の移民が姿を消すと、大西洋横断運航は何かぱっとしないものとなった。結局、多くの汽船会社は、代 わりにクルーズに転向したのだった。こうした豪華航海は段々と人気のあるものになり、特にアメリカの大立者、ハリウッド貴族、ヨーロッパ の追放王族のような人達を扱う、より広範な旅行となったのである。オーストリアの最後の皇后Zitaは、世界の多くのクルーズ船がお気に 入りであった。
 Red Star LineのBelgenlandは、20年代に最も人気のあったクルーズ船であった。本船は世界一周航海で有名で、例えば1924年12月にニューヨークを出発した。 133日間の旅程で、14カ国60港に寄港し、合計28,130マイルに及ぶものであった。陸上観光の便利ために寄港は長いもので、例え ば目だったところでは、日本、朝鮮、中国に17日間、インドには18日間、エジプトや聖地には8日間停泊した。
[1914年-17年、北アイルランド、ベルファスト、 Harland & Wolff Limited建造。24,578総トン、全長697フィート、全幅78フィート。蒸気タービン、3軸。巡航速力17ノット。旅客定員2,600人(1等500人、2等 600人、3等1,500人)]

RELIANCE(前頁)
 Hamburg-Americaの姉妹船RelianceとResoluteは、「white cruising yachts(=白いクルーズ船)」として知られていたが、20年代が全盛期であった。その航海は様々なものであった。例えば1926年の冬には、Relianceはカリ ブ海の島嶼に、全て1等の一連の航海を行った。27日間の最低料金が250ドルで、14日間が150ドルであった。Resoluteは ニューヨークを出港して4ヶ月の世界一周クルーズを行った。この旅行の料金は1,500ドルからで、この価格には全ての寄港地観光が含ま れていた。

CARINTHIA(上)
 Cunardarsは、有名なMauretaniaの地中海旅行など、とりわけ様々なクルーズをしていた。その他の航海は、この会社の 中型船で行われていた。Scythiaは1926年1月にニューヨークから地中海に66日間の旅行に出掛けた。最低料金は925ドルから で、全ての寄港地観光が含まれていた。4月には、ここに掲載したCarinthiaが41日間の地中海旅行を行った。料金は625ドルか らであった。両船とも、旅客設備は全て1等で高級であった。すなわち、Scythiaの収容人員は2,206人からほんの385人にまで 劇的に下げ、Carinthiaは1,650人から400人に減らしたのである。
[Carinthia。1925年、イングランド、Barrow- in-Furness、Vickers Armstrong Shipbuilders Limited建造。20,277総トン、全長624フィート、全幅73フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力16ノット。旅客定員1,650人(1等240人、2等 460人、3等950人)]

ALGONQUIN(次頁、上)
 航空機の進出の遥か以前においては、周遊クルーズ航海は、しばしば2つのアメリカの港を結ぶものであった。例えば、米国船籍の Clyde-Mallory Linesは、ニューヨークとガルベストンを定期運航してマイアミに寄港したAlgonquinのような旅客汽船を使用していた。
[1925年、バージニア州、ニューポート・ニューズ、 Newport News Shipbuilding & Drydock Company建造。5,950総トン、全長402フィート、全幅55フィート。蒸気タービン、1軸。巡航速力16ノット。旅客定員同一等級300人]

SHAWNEE(次頁、下)
 Shawnee(ここに掲載)や姉妹船のIroquoisのような別のClyde-Malloryの定期船は、ニューヨーク、チャール ストン、ジャクソンビル間を定期運航していた。そうした運航は多くの人々の気を惹いた。船は毎週金曜日にジャクソンビルを出発し、土曜日 の朝にチャールストンに寄港し、最後に月曜日の朝にニューヨークに到着した。この洋上での「long weekend(=長い週末)」は僅かに37.50ドルであった。
 もちろんShawneeのような船は、乗客のみに頼っていたのではなく、貨物も輸送していた。Shawneeはしばしばフロリダのオレ ンジ木箱を何千も積んでニューヨーク港に入ることもあった。
[1927年、Newport News Shipbuilding & Drydock Company建造。6,200総トン、全長409フィート、全幅62フィート、喫水21フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力18ノット。旅客定員同一等級600人]

AMERICA(AMERIKA)
 旅客船は多くの運命や災難を蒙っている。衝突、沈没、火災、座礁、転覆、そして時には跡形もなく消息を絶つものもある。United States LinesのAmericaは、1926年3月10日、バージニア州のNewport News Shipyardで修理中に出火した。火のまわりは速かったが、本船は助かった。1905年にドイツのAmerikaは竣工し、船歴は53年に及び、突っ込んで2隻の船を 撃沈して自身も沈没し、火災では殆どはらわたを抉られた。それでも本船は3つの異なる船主の下で旅客定期船として運航し、2つの戦争では 兵員輸送船として従事したのである。

6、帝国の船

 20年代、旅客船はまだ世界を最も良く結びつけるものであった。賢明にも船主は、政治的、経済的に広範に支える適切な船隊を作り出し ており、社会的な結びつきもあったのである。そうした船舶ではしばしば幾つかの等級別に旅客を輸送し、甲板の下には積荷があり、本国から 商品全般を運び、帰りには植民地からの貨物を輸送していたのである。

 旅客船は植民地時代の帝国のために連絡していた。オランダは東インドと、フランスはインドシナ、そして英国は未だに世界中で最大の植 民地網を支配していたのである。甲板やラウンジには、その機能が反映されていた。つまり乗船名簿には、植民地官僚、政府の役人、そして連 中にとって心強いことに、文官、兵隊、教師、警察、医師、看護師、科学者、宣教師、絶え間のない貿易商人達が名を連ねていた。インド洋の 汽船には、竹で作られた家具、椰子の鉢、天井の扇風機等の揃ったラウンジ(=休憩室)があり、ジャワへ向かうプランテーションの所有者 や、セイロンに通っていた茶畑農園主、インドの胡椒商人らを乗せていたかもしれない。

 この章にある船舶のすべてが、そうした政治体制の一部であったわけではない。イタリアと南米間、あるいはドイツとアルゼンチン間のよ うな大変に儲かった航路に就航していた船もあり、経済的にはもちろん、社会的な絆を象徴していた。3等の移民は、しばしばそうした運航で は大半を占めていたのだった。

 もちろんこれら船舶の大半は、貨物輸送にとって重要なものであった。常連の乗客や観光客の他に、Bermudaはニューヨークから、 同名の島(=バミューダ島)に清水を輸送していた。Blue Funnelの船はビルマの新しい橋のために鋼材を配達し、P&Oの定期船はボンベイで鉄道備品の荷を降ろし、Royal Mailの船舶は英国製の機械をブラジルに輸送した。政治的な結び付きが変化するまで、世界的な貿易を行っていたこうした船舶は、旅客と貨物双方の絶え間のない流れを確実 なものとしていたのである。


BERMUDA(前頁)
 英国領のバミューダ諸島に旅客船運航があることは、自然なことであった。ニューヨークからほんの600マイルであり、40時間ほどの船 旅であった。ロンドンのFurness Withy Companyが、一連の小型の中古の旅客船を使ってそうした運航を始めた。直ぐに休暇といえばバミューダという意識が多くのアメリカ人に生まれた。その結果、 Furnessは大型の真新しいクルーズ船を運航用に発注したのである。本船は1927年にBermuda(前頁、上)として竣工した。 6日間の周遊クルーズは、50ドルだった。
 本船には1等の旅客設備には多くの豪華なスィートがあった(前頁、下)。こうした船室には寝室、居間、玄関、個人用の浴室が付いてい た。
 Bermudaは全時代を通じて最も不運な旅客船の1つである。竣工後3年ほど経過した1931年6月、バミューダ島ハミルトンの埠頭 で火災によって酷く損傷した。しかし船主は、修理は経済的に実行可能と感じたのだった。ベルファストの造船所に引き渡されたが、そこで2 度目の悲劇的な火災が11月に勃発した。本船は終わりとなった。上甲板の殆どすべてが焼失し、埠頭で沈没した。しかしまだ問題があった。 解体のために浮揚され、1932年5月にスコットランドのロサイスに向けて曳航されていたが、座礁したのである。こんな惨めな終わり方を した船は殆どない。
[1927年、北アイルランド、ベルファスト、Workman, Clark & Company Limited建造。19,086総トン、全長547フィート、全幅74フィート。Doxfordディーゼル、4軸。巡航速力17ノット。旅客定員691人(1等616 人、2等75人)]

LAFAYETTE(上)
 ヨーロッパの最大の列強のように、フランスは海外の植民地に運航すべく、貨物の収容力は制限的だが郵便に特化した旅客船隊を維持してい た。国有のFrench Lineは、カリブ海のグアドループ諸島やマルティニーク島、フランス領ギアナを結ぶ特別の船隊を保有していた。ル・アーブル発のニューヨーク航路に何年か就航していた Lafayetteは、晩年には西インド諸島の植民地運航に配船されていた。
[1915年、フランス、Port du Bouc、Chantiers et Ateliers de Provence建造。12,220総トン、全長563フィート、全幅64フィート。3段膨張式往復蒸気機関、4軸。巡航速力18ノット。旅客定員1,250人(1等 336人、2等110人、3等90人、最下級船室714人)]

CARTAGO(前頁、上)
 広大なバナナ農園により、United Fruit Companyは、カリブ海や中央アメリカに企業帝国を持っていた。この経営と南方への商品、貨物一般の輸送、及び北方への20万房のバナナの輸送のため、この会社は一連 の貨客船を建造した。Cartagoのような船は、1等客を100人も輸送することができ、この中には会社幹部、農場経営者、その家族、 貿易業者、科学者、そしてもちろん一般の旅行者が含まれていた。多くの旅行者はUnited Fruitの「バナナ・ボート」を好んだものだった。というのは、異国風のより遠くの熱帯の港に行くのんびりした航海であったからだった。
[1908年、北アイルランド、ベルファスト、Workman, Clark & Company Limited建造。4,732総トン、全長419フィート、全幅49フィート。3段膨張式往復蒸気機関、1軸。巡航速力14ノット。旅客定員1等100人]

CAP ARCONA(前頁、下)
 20年代、ドイツの厳しい経済状況から何千もの人がブラジルやアルゼンチンのようなところに移民した。 Hamburg-South America Lineは、3等と最下級船室の乗客のみを輸送するに適した特別の一連の船を建造した。しかしより豪勢な運航のために、この会社は壮大な3本煙突の船を建造し、それは「ド イツ商船隊における最も素晴らしい船」であると愛情を込めて考えられた。
 Cap Arconaは1927年11月に就航し、豪華さを呼び物としていた。どの1等船室も外側にあり、それには個人用の浴室設備が付いていた(それ自体、大変に珍しいものだっ た)。食堂は上の遊歩甲板にあり、20の窓から下に広がる海を見下ろすことができた。完全な体育館と温水塩水プール、そして3番目の煙突 の後ろに広い野外テニス・コートがあった。何年間かCap Arconaは「南大西洋の女王」であった。ドイツ人は大いに喜んだのだった。
[1927年、ドイツ、ハンブルグ、Blohm & Voss Shipbuilders建造。27,560総トン、全長676フィート、全幅84フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力20ノット。旅客定員1,315人(1等575 人、2等275人、3等465人)]

ASTURIAS(上)
 20年代半ば、英国のRoyal Mail Linesは注目すべき2隻の定期船を加えた。姉妹船Asturias(ここに掲載)とAlcantaraである。当初からこの2隻の船はかなりの注目を浴びた。 Royal Mailは貨物の空間に最大限の優先順位を置いていたので(ブラジルやアルゼンチンには一般貨物、米国にはアルゼンチンの牛肉であった)、両船の設計者はディーゼル推進を 選択した。当時としては比較的新しいものであった。ディーゼルを装着することで、ボイラー室の空間が不要となった。こうして22,000 トンのRoyal Mailの姉妹は、1926年-27年に竣工した当時、世界最大かつ最速の発動汽船であった(ずば抜けたスウェーデンの17,000トンのGripsholmは、以前の最 大発動汽船であり、1925年に竣工した。)。
 船上の旅客設備は最も豪華なものであり、南米航路でそれまでに見られなかった快適さであった。公室は英国や帝国流の人気のある装飾で あった。とりわけ目立ったのが2層の高さのフランス帝国食堂で、1回制で400席のものであった。更に全長29フィートの屋内プールがあ り、熱帯を航行中にその見事さが実証された設備であった。
[1926年、北アイルランド、ベルファスト、Harland & Wolff Limited建造。22,071総トン、全長656フィート、全幅78フィート。Burmeister & Wain型ディーゼル、2軸。巡航速力16ノット。旅客定員1,410人(1等410人、2等232人、3等768人)]

ANDALUSIA STAR(上)
 英国のBlue Star Lineは南米運航の大半を占めていた移民輸送を避けていた。その代わり、全て1等の豪華な船室を設け、北の英国の方へ向かう肉の積荷に関連して大きな貨物の収容力に集中 した。Blue StarはVestey Groupによって保有されていたが、ここは英国に大きな食肉加工と肉屋の事業を持っていた。ロンドンを出発して、ポルトガル、カナリア諸島、それからリオ・デ・ジャネイ ロ、サントス、モンテビデオ、ブエノス・アイレスに向かうゆっくりとした航海をしていたことから、周遊旅行を探していた乗客は、しばしば Andalucia StarのようなBlue Starの貨客船を選択した。南米では(多くが荷役作業のために)長期間の滞在をしたものだが、これはクルーズ航海には好都合であった。船上でのサービスはクラブのような 雰囲気で、排他的な傾向があった。乗客は毎年、同じ船室の同じ客室係を要求して、航海を繰り返したものだった。
[1927年、Cammell Laird & Company Limited建造。12,846総トン、全長535フィート、全幅68フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力16ノット。旅客定員1等180人]

VULCANIAとSATURNIA(次頁)
 イタリアのCosulich Lineは2隻の大変に良い発動汽船を持った。これらの船は一般に夏の間はトリエステ、ベニス、ニューヨーク間の大西洋横断、冬の間はより南の針路で、イタリアからブラジ ル、ウルグアイ、アルゼンチンを周ったものだった。SaturniaとVulcania(ここに掲載)は、洋上に浮かぶ最大の発動汽船の 2隻とされ、この低い殆どしゃがんだような外観の船は、当時ディーゼル駆動の船として一般に使用されたものだった。
 他のヨーロッパや英国の大部分の船会社が、当時流行していたアール・デコのようなより現代的な様式に注意を向けて久しいのに、イタリア 人は古い装飾に固執していた。白い木製パネルに金箔を施したVulcaniaの1等の舞踏室は、戦前の雰囲気を示唆している。
[1927年、イタリア、Monfalcone、Cantiere Navale Triestino建造。23,970総トン、全長631フィート、全幅79フィート。Burmeister & Wainディーゼル、2軸。巡航速力19ノット。旅客定員2,196人(1等279人、2等257人、3等310人、4等1,350人)]

VulcaniaとSaturnia
 VulcaniaのImperial Suite(前頁、上)には寝室(作り付けの寝台ではなくベッド)、居間、特別の個室、個人用の浴室があった。
 1等の書斎(前頁、下)は、公室における現代的なものの1つであった。
 Saturniaの1等の壮大な階段(上)。姉妹船Vulcaniaでも念入りに彫刻されたパネルが呼び物とされていた。

CONTE BIANCAMANO
 別のイタリアの会社Lloyd Sabaudoは、20年代中葉に2隻の良い定期船、Conte Biancamano(前頁、上)Conte Grandeを加えた。大型で十分に高速で、適当な旅客設備を有していたことから、イタリアの政治・経済との結び付きを反映して様々な航路に配船された。第二次世界大戦 前、Conte Biancamanoとその姉妹船はニューヨーク、南米東岸、南アフリカ、インド、更には中国に航海し、東アフリカの植民地に兵員輸送航海を行ったこともあった。
 Conte Biancamanoの喫煙室(前頁、下)は、マホガニーで仕上げられている。2層の高さがあり、一方の端にバーがあり、他方の端には電気仕掛けの火のついた暖炉が装飾さ れている。注目すべきは、左上隅の天井についた電気扇風機である。
 世界の水準からすれば本船は中型定期船であり、イタリア船隊において最大でなかったが、輝きを失わなかった。本船の1等舞踏室(上)は 天井画を見せびらかし、3層の高さがある。この部屋はしばしば、午後や夕方の演奏会に使用された。ダンスをすると、絨毯がずれて動き回 り、最後には固い木製の床が姿を現したものだった。
[1925年、スコットランド、グラスゴー、William Beardmore & Company Limited建造。24,416総トン、全長653フィート、全幅76フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力20ノット。旅客定員1,750人(1等280人、2等 420人、3等390人、4等660人)]

WINDSOR CASTLE(前頁、上)
 Union-Castle Lineは、第一次世界大戦後もアフリカ航路において支配的地位を保っていた。紛争が勃発するや、この会社は当時最大の船を計画し、北大西洋以外の航路で唯一(かつ最後 の)4本煙突の2隻の定期船となった。第1船はArundel Castleで、1915年に起工した。工事が1918年に再開されると、最初の形はむしろ時代遅れのものとなった。 Arundel Castleが、最初に1921年4月に姿を現した。Windsor Castle(ここに掲載)はPrince of Wales(後のEdward8世王、その後のWindsor公)によって命名され、翌年の4月に現れた。その後何年か、2隻の姉妹船はサウサンプトンと南アフリカのケー プ・タウンを結ぶUnion-Castleの最良の郵便定期船となった。
[Windsor Castle:1922年、スコットランド、クライドバンク、John Brown & Company Limited建造。18,967総トン、全長661フィート、全幅72フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力17ノット。旅客定員870人(1等235人、2等360 人、3等275人)]

CARNARVON CASTLE(前頁、下)
 20年代中葉まで、Union-Castleは多くの客船会社のやり方に追随していた。低い煙突をつけた発動汽船の新世代に感銘を受け たのだった。そうした船は能率的であり、機関室の空間が余り要らず、それゆえ旅客や貨物という利益を出す空間を生み出すものと考えられ た。Carnarvon Castleが1926年夏に初めて投入されたとき、Union-Castleや他社にとり、新しい種類の船の合図となった。
[1926年、北アイルランド、ベルファスト、Harland & Wolff Limited建造。20,063総トン、全長656フィート、全幅74フィート。Burmeister & Wainディーゼル、2軸。巡航速力16ノット。旅客定員853人(1等311人、2等276人、3等266人)]

USARAMO(上)
 German Africa Lineは、ドイツ人貿易業者、政府官僚、観光客にとって、アフリカ東部、西部、南部の植民地を結ぶ大動脈であった。Usaramoのような小型の旅客汽船は、ハンブルグ からイギリス海峡を通り、それから南進してアフリカ西部の港湾に行き、その後ケープ・タウン、そして北進してアフリカ東部に寄港した。
[1920年、ドイツ、ハンブルグ、Blohm & Voss Shipbuilders建造。7,775総トン、全長450フィート、全幅56フィート。蒸気タービン、1軸。巡航速力14ノット。旅客定員261人(1等101人、2 等62人、3等98人)]

RANPURA(上)
 Cunardに続いて、P&O Steam Navigation Company Limitedは、しばしば単に「P&O」として言及されるが、恐らくは最も伝説的な英国汽船会社である。P&Oの船は大英帝国の建設と発展の後を追って 来た。エジプトからスエズ運河、そしてインド、遂にはオーストラリア、極東である。ここの旅客船の全ては似たような航海をしていた。すな わちロンドンから出港して地中海を通り、スエズ運河を通過して紅海、そしてインド洋に出るというものである。しばしば大変に暑い天候の下 での運航であったので、知恵のある乗船客は、行きは日陰になる左舷の船室を好み、帰りは右舷の船室に乗ったのである。こうしたやり方は簡 単な略語となった。「port outward, starboard home(行きは左舷、帰りは右舷)」である。この標語は「posh」という略語になったと考える人もいる。以来、「大変に優雅」という意味で使われてきた。
 20年代、P&Oは、急行船と補助船の大船隊を維持していた。ロンドンからスエズ運河を経由してボンベイに行く急行船として4 隻の姉妹船があり、全てインドの名前が付いていた。すなわち、Ranpura(ここに掲載)、Ranchi、Rawalpindi、 Rajputanaである。
[Ranpura:1925年、イングランド、ニューカッスル、 Hawthorn, Leslie & Company Limited建造。16,585総トン、全長570フィート、全幅71フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力17ノット。旅客定員590人(1等310人、 2等280人)]

CITY OF SIMLA(次頁、上)
 英国のEllerman Linesは、長年に亘って世界最大の海運会社の1つであった。ここの範囲は世界的であった。船舶の大部分は貨物船であったが、1等船客用の旅客設備を持つものもあり、大 半はロンドンとインド、南アフリカを結んでいた。全てには「都市」の名前が付けられていた。すなわち、City of Canterbury、City of Durban、City of Hong Kong、City of Poona、そしてCity of simla(ここに掲載)である。
[1921年、イングランド、West Hartlepool、William Gray & Company建造。9,468総トン、全長476フィート、全幅58フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力13.5ノット。1等約100人]

TAIREA(次頁、下)
 British India Lineは、英国から運航するばかりではなく、インドそれ自体を基地として、多くの様々な運航をしていた。アフリカ東部と南部、ペルシャ湾、東南アジア、オーストラリア、 更には北上してアジアの沿岸さえも走っていた。
 3本煙突のTaireaと姉妹船のTakliwa、Talambaは、ほんの7,900トンにしては大型に見えたものだった。恐らくは 煙突の数のためだろう。暗い石のような色の3隻は、ボンベイとザンビア、ダル・エス・サラーム、モンバサ、ダーバンのようなアフリカ東部 の港湾を結ぶインド洋の運航に就いていた。1等には、植民地官僚、貿易業者、特別に許可された旅行者が快適に過ごし、他の者は幸運とは程 遠く、短距離の1泊旅行を甲板客として本船を利用した。
[1924年、スコットランド、グラスゴー、Barelay Curle & Company Limited建造。7,933総トン、全長465フィート、全幅60フィート。3段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力16ノット。サロン客130人、甲板客約 1,000人]

INDRAPOERA(上)
 オランダの東インドの植民地貿易は、2つの競合する会社によって支えられていた。アムステルダムに本拠を置くNederland LineとロッテルダムのRotterdam Lloydである。全ての船は、Slamat、Sibajak、Indrapoera(ここに掲載)のように、東洋への運航を反映した名前であった。
[Indrapoera:1926年、オランダ、フリッシンゲン、 De Schelde Shipyards建造。10,772総トン、全長499フィート、全幅60フィート。Sulzerディーゼル、2軸。巡航速力15ノット。旅客定員388人(1等141 人、2等184人、3等63人)]

ANGERS(次頁、上)
 フランスのMessageries Maritimesは、マルセイユからインドシナへに向かう植民地貿易を扱っていた。Angersのような船においては、政府の役人やその家族、貿易業者、労働者、教師、 技術者、兵士、その被扶養者、時に旅行者が絶えず乗船していた。
[1907年、ドイツ、ハンブルグ、Blohm & Voss Shipbuilders建造。9,846総トン、全長483フィート、全幅53フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力15.5ノット。旅客定員373人(1 等151人、2等142人、兵員80人)]

ANCHISES(次頁、下)
 リバプールに本拠を置くBlue Funnel Lineは、英国最大の海運会社の1つであった。ここの船は、とりわけ船名で注目され、グレコ・ローマンの神話から採られていた。船舶の大半は乗客が12人の貨物船であっ たが、うち数隻は中東、オーストラリア、東洋への運航のために広範な旅客設備を有していた。
 オーストラリア航路向けに1910年―11年に建造された3隻の姉妹船は、Aeneas、Ascanius、Anchisesであり、 全ての名前はVergilのAeneidから採られたものだった。そうした航路を走っていた大部分の船と違って広い移民用船室はなく、1 等の空間だけしかなかった。
[Anchises:1911年、北アイルランド、ベルファスト、 Workman, Clark & Company Limited建造。10,046総トン、全長509フィート、全幅60フィート。3段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力14ノット。1等288人]

EMPRESS OF AUSTRALIA
 20年代において、Canadian Pacificは太平洋を横断する最良の定期船運航を維持していた。大英帝国の東洋の領地に到達する、スエズ運河を経由しない航路を提供していた。東のターミナル(=終着 駅)としてバンクーバーを使用し、有名なEmpressの定期船が、香港、日本の横浜、中国の上海まで旅をしたのである。この運航は大陸 横断鉄道と共に、この会社の大西洋定期船と連結されていた。太平洋においては、4隻の大型定期船があった。Empress of Russia、Empress of Canada、Empress of Australia、そしてEmpress of Asiaである。そうした船は、バンクーバーから2週間おきに航海していた。
 ここに掲載したEmpress of Australiaは、1923年9月1日に横浜の埠頭を出港して数分のものである。この日、大地震がこの都市を襲った。本船は上下に揺れて激しく翻弄されたが、被害は殆 どなく助かり、この大災害後、すぐさま最も重要な医療・避難センターとして使用された。
 Empress of Australiaの1等の舞踏室(上)は、当初ドイツの定期船として設計された影響が見られる。1913年、本船はHamburg-American Lineによって、Tirpitzとして発注された。しかしながら第一次世界大戦の結果、ドイツの造船所は英国、とりわけ賠償品として、 Canadian Pacific Cornpany向けに完成したのである。
 本船の最高の船室(中央)は、当時、大変に人気のあったPrince of Wales(故Windsor公)に敬意を表して命名された。この若き皇太子は1923年、Canadian Pacificの定期船Empress of Franceに乗船された。その後ずっと後になって、1939年春、イングランドの王と女王は、北米親善訪問の際にPrince of Wales Suiteを宿泊所として利用された。
 1等の喫煙室(下)が絨毯を敷かないでいることは、むしろ普通ではないことだった。
[1913年-20年、ドイツ、ステッチン、Vulkan Shipyards建造。21,860総トン、全長615フィート、全幅75フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力16.5ノット。旅客定員1,513人(1等404 人、2等165人、3等270人、最下級船室674人)]

OTRANTO(前頁、上)
 イングランド―オーストラリア間の航路において、確立されたP&O Linesの主要な競争相手はOrient Lineであった。全てのOrientは同じ頭文字であり、Orford、Orontes、Orama、Oronsay、そしてOtranto(ここに掲載)であった。 「ダウン・アンダー」航路で最良の船であり、ロンドン、ジブラルタル、マルセイユ、ナポリ、スエズ運河、セイロン間を結び、更にフリマン トル、ブリズベーン、メルボルン、シドニーに足を伸ばした。夏の間、Otrantoのような船は、ロンドンからクルーズを行い、通常、カ ナリア諸島、西アフリカ、地中海、ノルウェーのフィヨルド、そしてバルト海に向かった。
[1925年、イングランド、Barrow-in- Furness、Vickers-Armstrong Shipbuilders Limited建造。20,032総トン、全長659フィート、全幅75フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力20ノット。旅客定員1,686人(1等572人、3等 1,114人)]

AORANGI(前頁、下)
 英国のAorangiは、世界初の大型発動機船で1924年にデビューした。その後直ぐに他船が、一般に使用されていた蒸気タービン動 力の代わりに、この新しい推進形式を採用した。ニュージーランドのUnion Steamship Companyの一部として、Aorangiは太平洋の領土を結んだ。すなわちオーストラリア、ニュージーランドからカナダ西部である。
[1924年、スコットランド、グラスゴー、Fairfield Shipbuilding & Engineering Company建造。17,491総トン、全長600フィート、72フィート。Sulzerディーゼル、4軸。巡航速力17.5ノット。旅客定員947人(1等436人、 2等284人、3等227人)]

MATAROA(上)
 Shaw Savill Lineは、英国とニュージーランドを結んでいた。保有船の中でTamaroaとMataroaの2隻の船は、ロンドン、キュラソー島、パナマ運河、それから南に向かって オークランド、ウェリントンを結ぶ定期航海をしていた。
[1922年、北アイルランド、ベルファスト、Harland & Wolff Limited建造。12,341総トン、全長519フィート、全幅63フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力15ノット。旅客定員553人(1等131人、3等422 人)]

LEVIATHAN
 20年代が幕を降ろす頃、遠洋定期船の歴史における新しい時代が始まりつつあった。ヨーロッパの海運列強、すなわち英国、ドイツ、フラ ンス、イタリアの間で、新種の超定期船を使って新たな競争が始まろうとしていた。それはこれまでにない、最大、最速、豪華なものであっ た。また船の装飾は急速に変化していた。より現代的なものとなって、1927年のフランスの定期船Ile de Franceには初めてアール・デコ様式が導入された。遂に1929年秋、世界的な大恐慌が始まり、世界中の海運に不利に影響した。本書に収録された船の多くは、半分か殆 ど空船で走り、早めに解体されたのである。この詩的な写真は、巨大なLeviathanが物憂い冬の午後、ニューヨークから出港するとこ ろである。年は1929年。直ぐに本船は係船され、正に晩年を迎えていた。