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ウイリアム H.ミラー, Jr.「図説イタリアン・ライン史1932年―1977年」

1、初期の船隊

 「イタリア」と言えば、Italia Flotta Riunite Cosulich、Lloyd Sabaudo、NGI、北米に向かったItalian Lineの1922年1月2日に遡る。Lloyd SabaudoとNavigazione Generale Italianaは、Cosulich Lineと対等に同じ系列のグループに参加した。一方、新しいItalian Lineはジェノバに本拠を置き、Cosulichはなおもトリエステに経営部門を分離して置いていた。しかしイタリアの3つの大手大西洋海運会社は、新しい1つの会社と なったのである。

 この新会社形成には、2つの重要な理由がある。第一の理由は、もちろん大恐慌の深刻な影響である。イタリアの旅客船は、乗客数におい て凄まじい落ち込みを経験し、無駄な競争をそぎ落とさねばならなかった。第二の理由は、恐らくより重要なことであるが、単に名声のためで ある。Benito Mussolini首相の政府は、イタリアが大西洋横断旅客海運において優位の地位に立つことを望んだのである。具体的に言うと、Mussoliniはイタリアが、英国、 フランス、ドイツと対等の地位に立つことを望んだのである。政府は既に、NGIに対しては51,000トンの超定期船Rexの建造、 Lloyd Sabaudoに対しては48,500トンのConte di Savoiaの建造を助成していた。1932年の夏・秋に就航してみると、これら2隻のイタリアの豪華定期船を保有することは馬鹿げたことのように思われた。ところが Mussoliniは、僚船を保有すべきだと感じたのであった。勝利と成功に満ちたイタリア色のある船である。実際、この3社は1928 年以来、合同協定を締結していたのであるが、この2隻の新しい超定期船により、更にそれを強固なものとしていくこととなったのである。

 Italian Lineは、資本金7億2,000万リラ、合計400,500トンの22隻の船舶を保有して始まった。NGIは、ニューヨーク航路に32,000トンの姉妹船 AugustusとRoma、南米東岸には異母姉妹のDuilioとGiulio Cesareを保有していた。Lloyd Sabaudoは、ニューヨーク航路にConte GrandeとConte Biancamano、南米にはConte RossoとConte Verdeを保有していた。最後にCosulichは、ニューヨーク航路にSatumiaとVulcaniaを保有し、南米向けにはNeptuniaとOceaniaとい う2隻の船を計画していた。明らかに模倣していた。

 Augustusは、1931年12月28日にジェノバを出航した。合併の5日前のことである。1月9日にニューヨークに到着した。 2日後の11日に西インド諸島へクルーズに出発したときには、煙突には新しいItalian Lineの色(赤、緑、白)に再塗装され、新しい社旗をたなびかせていた。イタリアの2つの指導的な港湾、ジェノバとトリエステの紋章をあしらっていた。もっと具体的に言 うと、St. Georgeの十字(白地に赤)で、赤地にトリエステの白いハリヤードの意匠であった。新しいItalian Lineの下での最初の大西洋横断航海を行ったのは、Conte Biancamano。新しい会社の装いで1月8日にジェノバを出発し、Villefranche、ナポリ、ジブラルタルを経由してニューヨークに向かった。

 1933年までに、Italian Lineは世界的規模で旅客船船隊を保有していた。Rex、Conte di Savoia、Augustus、Romaはジェノバ―ニューヨーク急行線に就航していた。Conte Biancamano、Conte Grande、そして後のAugutusは、ジェノバから南米のリオ・デ・ジャネイロ、サントス、モンテビデオ、ブエノス・アイレスに向かっていた。Duilioと Giulio Cesareは、ジェノバからマルセイユ、ジブラルタル、ダカール、ケープタウン、ダーバンに向かう新しい航路に就航した。SaturniaとVulcaniaは、ニュー ヨークに向けて北大西洋を航海したが、アドリア海のトリエステ、ベニスからの出航であった。NeptuniaとOceaniaも南米航路 であった。最後にConte RossoとConte Verde(注、後に日本に傭船され戦時交換船・兵員輸送船)は長距離のジェノバ―上海航路で使用されていた。しかし直ぐに別のイタリアの船主であるLloyd Triestinoに移籍となった。

(この章に登場する船)
Conte Rosso
Conte Verde
Duilio
Giulio Cesare (1922)
Conte Biancamano
Conte Grande

2、洋上の城

 第一次世界大戦の破壊と混乱に引き続き、大西洋横断遠洋定期船事業は、ゆっくりとではあるが、再建と再生の動きをみせていた。ロンド ン、リバプール、ブレーメン、ハンブルグ、パリ、ジェノバの汽船会社の役員室では、警戒と近代化の気分が広がっていた。建造のための材料 がしばしば不足して、造船所は過剰受注であり、再建予算はしばしば切り詰められたものであった。更に恐らくは最も重要なことに、かっては 儲かった3等・最下級船客の商売が、1921年の米国政府の新しい移民割当によってかなり減少してしまったことである。1907年には 120万人もの移民が西へと横断して流れ込んでいたのに、1924年までに突然15万人にまで落ち込んだのである。戦前の船で手軽に儲 かっていた利益は、今では突然断たれ、改良されたツーリスト級の船室がしばしば下部甲板に設けられた。時代は変わったのである。

 英国は未だにMajesticやMauretaniaのような、「最大」かつ「最速」の定期船を保有していたが、戦前に建造されたも のであった。新しく建造されたものは、大変に保守的な1万5,000トンから2万トンの船であった。しかし何だか熱狂的で楽観的なものも あって、フランスでは1921年に34,500トンのParis、1927年には43,100トンのIle de Franceを加えていた。連合国の訪問者はまだ制限されていたが、ドイツは何とかして1924年に32,500トン、1,725人乗りのColumbusという大型定期 船を加えた。イタリアは大西洋横断定期船事業においてはかなり出遅れていたが、20年代初期に一連の姉妹船、異母姉妹を使って開始した。 1921年―23年のConte RossoとConte Verde、1922年―23年のGiulio CesareとDuilio、1925年のConte Biancamano、そして1927年のConte Grandeである。しかし2隻の最大最速、そして20年代に就航した恐らくは最も壮大な船は、32,600トンのRomaとAugustusという姉妹船だったのであ る。

 「RomaとAugustusは、かなり飾り立てた、十分に装飾を施した船でした。」と旅客船史家のEverett Viezは話した。「まるで洋上宮殿かお城のようでした。金箔を施したバロック様式で、それを目の当たりにした誰もが忘れられないくらいに金をかけたものでした。20年代 後半における究極のイタリアの定期船だったのです。」ジェノバ近郊のSestri PonenteのAnsaldo造船所で建造され、1年以上間をおいて就航した。すなわちRomaが1926年9月で、Augustusが1927年11月である。全長 711フィートの船体に、Augustusは2,210人もの乗客を乗せた。豪勢な1等は302床、装飾の少ない2等には504床、そし て簡素な3等は1,404床に分かれていた。

 NGI、すなわちNavigazione Generale Italianaによって保有されていた2隻の大型船は、Mussolini首相に唆されて統合され、1932年には統一されたItalian Lineの保有となった。初期においては、ナポリ、ジェノバ、Villefranche、ジブラルタルから、ニューヨークへイタリアの 「急行運航」が就航していた。後に白の船体に再塗装されて、リオ・デ・ジャネイロ、サントス、モンテビデオ、ブエノス・アイレスに向か う、イタリア―南米航路に使用された。またニューヨークから地中海全体の港湾を周遊する、6週間のクルーズも行っていた。

 51,000トンのRexと48,500トンのConte di Savoiaは、1932年にイタリア一番の豪華定期船となった。あらゆる点で栄光ある船であったが、第3船、すなわちAugustusかRomaが、北大西洋で週1回の 急行運航を維持するためには必要であった。1938年から39年にかけて、第3の超定期船が、RexとConte di Savoiaに加わるために建造されるという噂があった。噂の中には、6万トンで3本煙突の船だとするものさえもあった。「政府と、そしてItalian Lineは心変わりをしたんですよ。」とイタリア旅客船の権威Maurizio Eliseoは注目する。「変更後の計画と言うのは、AugustusとRomaの改造でした。その計画では、外観を大幅に変更するというもので、1本の煙突と1本のマス トを船橋部に設置し、1951年から52年のGiulio CesareやAugustusみたいに見えました。連中は巡航速力を上げるために、元の蒸気タービンとディーゼルを(1926年―27年から)Fiatのディーゼルに替 えたがっていたんです。Fiatでは8基のディーゼル機関を建造する計画を立てましたが、実際に作ったのはたったの5基です。第二次大戦 中はしまいこんでいました。その後、1940年代後半になって、2基は新しいGiulio Cesareに、2基は新しいAugustus、そして1基は戦後のItalian Lineの貨物船に使われました。」

 RomaとAugustusの計画は再度変更となり、戦時中、Mussoliniの海軍は、外観を変更して大型航空母艦とした。実 際、これまでに改造された最大の旅客船となった。後にNazisに徴用され、結局は連合軍の爆撃の犠牲となった。1945年春に戦争が終 わった時、両船はジェノバ港で沈没しており、修理は不能であった。その生涯は解体所で終えたのであった。

 「本船が商用運航から引退してかなり経った1990年代になって、RomaにあったGoddess Roma(=ローマの女神)の像が、小さなジェノバのお店の階段の裏側にあったのが発見されたのです。」とMaurizio Eliseoは付け加えた。「Angelo Zanelli作で、高さ9フィート、Carrara大理石製。売りに出されて、価格は1万ドルでした。」

(この章に登場する船)
Roma
Augustus (1928)

3、古典的発動機船

 CallistoとAlberto Cosulich兄弟は、1903年にUnione Austriaca di Navigazioneを設立し、その後1919年にオーストラリア人の経営に代わってイタリア人の下で再建された。第一次世界大戦後、この会社はCosulich Societa Triestina di Navigazione、すなわちCosulich Lineに商号変更した。

 Cosulichの20年代中葉まで使用した最初の旅客船は、12,567トンのPresidente Wilsonであり、戦前はKaiser Franz Josef Iだった船、そして8,145トンのMartha Washingtonであった。両船とも、トリエステ、パトラ、パレルモ、ナポリ、アルジェリア、リスボン、ニューヨーク間の大西洋横断定期運航をしていた。同時に北大西 洋航路の7隻のイタリア船籍の旅客定期船が4隻に減船となり、最も有力な3社Navigazione Generale Italiana、 Lloyd Sabaudo、Cosulichによって運航されていた。前2者は約20,000トンの新しい2隻の旅客船を加えた。更に、NGIは既に32,000トンの姉妹船 RomaとAugustusを計画していた。そしてSabaudoは25,000トンの異母姉妹Conte BiancamanoとConte Grandeを発注した。確かに、Cosulichは改善された新船を保有する必要があった。そこで24,000トンの発動機船SaturniaとVulcaniaが加わ ることとなった。

 20年代中後期は海事革新の時代であり、旅客船の意匠における現代の始まりであった。18,000トンのスウェーデンの定期船 Gripsholmは、1925年11月に投入された時、北大西洋の最初のディーゼル機関の主要な定期船であった。大西洋運航で本船が実 証されるや、更に多くの発動機船が建造された。大きな32,600トンのAugustusは、1927年の秋に到来した。しかし姉妹船の Romaは、伝統的な蒸気タービン推進であった。NGIはAugistusに、M.A.N.型のディーゼルを装着した。後者は直ぐに「世 界最大の発動機船」と呼ばれるようになった。

 ディーゼルによって新しい外観が生まれた。すなわち大きなあぐらをかいたような煙突で目立たなくなったのである。3本煙突の伝統的な 外観のIle de Franceは1927年5月に到来し、3本煙突のオランダのStatendamは1929年4月、そして更に目だったものとして、7年後にQueen Maryが到来した。これら新しい「stump stack(=切り株型煙突)」の発動機船は、すっかり新しい外観をもたらしたのであるが、称賛する者がいる一方、あざ笑う者もいた。

 1928年初頭、オランダは、ペンキの缶のような形の小さな1本煙突をつけた15,600トンのChristiaan Huygonsを加えた。Union Castle LineのLlangibby Castleと1929年のDunbar Castleは、それぞれずんぐりした2本煙突を見せつけていた。この意匠はその拡大版に引き継がれた。その中には、Carnarvon Castle、Winchester Castle、Warwick Castle姉妹がいた。別の英国企業のRoyal Mail Linesは、2隻の力強い発動機船であるAsturiasとAlcantaraを加えた。その後、White Star Line向けの傾斜した外観の2隻の大型定期船、1920年のBritannicと1932年のGeorgicである。

 CosulichのSaturniaとVulcaniaは、あらゆる点で素晴らしい船であった。1928年2月と12月に投入され、 1932年からはItalian Lineの運航予定に加わった(しかしCosulichは、1937年までItalian Lineと完全には合併しなかった。)。

 「大西洋を航海した定期船の中で最も魅力的な2船でした。」とEverett Viezは話した。「当初、切り株のような平たい煙突なので、過小評価したものです。しかし内部はイタリアのバロック調だったのです。洋上大聖堂だったんですよ!歴史的 に、個人用のベランダを導入したものでした。今日、個人用のテラスやバルコニー(注、ベランダとほぼ同義)は大変な人気があります。しか しSatunia、Vulcaniaには船を一周できる甲板があり、どの1等船室にも個人用のベランダが付いていました。そうしたものを 呼び物とする最初の船です。このベランダで、これらの船は頂点に踊り出ました。もちろん、大変に優れたイタリア料理や素晴らしい Cosulichのサービスで人気を博していました。全時代を通じて最高の定期船の2隻だったのです。」

 「恐らくItalian Lineが所有した船の中で、最も成功した船だったでしょう。」と1930年代にCosulichで働いていたMario Vespa船長は付け加えた。「戦前において成功し、その後の1940年代後半、50年代においてさえも成功していました。何千ものイタリア人、ヨーロッパ人の移民がこれ を利用して第二次世界大戦後に北米、ハリファックス、そしてニューヨークに向かったのです。力強く、大変に充実した優れた「船」でした。 Italian Lineの下で例外的に37年間も運航したのです。」

(この章に登場する船)
Vulcania
Saturnia

4、より遠くの海域へ

 1930年代、ニューヨーク市の5丁目624番地のItalian Lineの事務所からは、世界のほぼ全ての地域に行く船旅を予約することができた。1週間かそこらで手続きをしてくれて、RexかRomaのような船でイタリアに渡り、そ れからジェノバかナポリに行って2番目の船に乗り替えることとなる。確かに小さな船であったが、サービスや食事が良く快適であった。 Italian Lineは、南米、アフリカ、中東、東洋、そしてオーストラリアへの航路を維持していた。

 1937年、例えば4隻の定期船が、南米東岸への忙しい運航予定に沿って航海していた。ペルナンプコ州、バイア州、リオ・デ・ジャネ イロ、サントス、時にリオ・グランデ、モンテビデオ、ブエノス・アイレスに向かっていた。ジェノバからブエノス・アイレスには17日間 で、1等船室で1人1日当たり19ドルかかった。2等で1日当たり11ドル。この年、4隻の大型船が就航していた。Conte Biancamano、Augustus、Neptunia、Oceaniaである。南米西岸には、カリブ海とパナマ運河を経由して、コロンビア、エクアドル、ペルー、チ リに、より小型のOrezioとVirgilioが殆ど毎月運航していた。

 アフリカには多くの航路があった。南米急行線の運航には、DuilioとGiulio Cesareが使用されていた。ジェノバからケープ・タウンには16日間で、1等で204ドルかかった。その後、西アフリカ航路は分かれて、ダカール、コナクリ、タコラ ジー、アクラ、ラゴスといった港湾を結んだ。他の航路は、アフリカ大陸を完全に1周していた。

 中東・極東航路は、アフリカ航路のように政府の支配下にあったItalian Lineの姉妹会社であるLloyd Triestinoによって運航されていた。この航路においては素晴らしいVictoria、そしてConte RossoとConte Verde姉妹が就航していた。ジェノバ、ナポリ(トリエステ、ベニスも)からポート・サイド、マサワ、アデン、ボンベイ、コロンボ、シ ンガポール、マニラ、香港、そして上海に航路を伸ばしていた。ジェノバから上海への24日間の航海は、1等で最低390ドルかかった。

 オーストラリア航路もLloyd Triestinoの船によって運航されており、ジェノバ、ナポリからポート・サイド、コロンボ、フリマントル、メルボルン、そしてシドニーに向かっていた。

 地中海を結ぶ旅客運航は豊富にあり、Adriatica Line、Lloyd Triestino、Tirrenia Lines等があった。例えばTirreniaは、ナポリ―パレルモ間、ナポリ―マルタ―トリポリ間、ナポリ―トリポリ―アレキサンドリア間を結んでいた。アドレア海の運 航は、所謂「Grand Express(=豪華急行船)」と呼ばれ、ジェノバ―ナポリ間、トリエステ―ベニス―アレキサンドリア間を結んでいた。例えばジェノバからアレキサンドリアへは4日間で あり、1等船室で最低一人当たり120ドルであった。同様の運航をハイファ、イスタンブール、黒海沿岸の港湾にまで行っていた。

 第二次世界大戦後、これらの旅客船の大半は、様々な新造船を使って再開された。1970年代まで、Italian Lineのニューヨーク事務所に行って、世界の大半を結ぶ船旅を予約できたのである。

(この章に登場する船)
Neptunia
Oceania
Oranzio
Virgilio
Victoria (1931)
Esperia
Colombo

5、洋上宮殿

 「RexとConte di Savoiaは1930年代の最高の船で、確かにイタリアが生み出した最高のもので、恐らくは最高の最も有名なイタリアの豪華定期船でしょう。」と1939年から40年に かけてRexに乗船して給仕をしていたVito Sardiは話した。「大きくて大変に出力があって、工学の偉大なる作品であり、もちろん高貴な様式で装飾されていました。あらゆる点において、イタリアの洋上宮殿だった のです。」

 1920年代後半の高揚と楽天主義によって、海運会社は、とりわけ大きくて気前の良い遠洋定期船を建造する計画を立てていた。事実、 かってなく最大の船だったのである。大きさが問題とされた。例えばニューヨークでは、壮大な摩天楼の建設がこの傾向を反映していた。 1929年に77階建てのChrysler Buildingが建つと、2年後には102階建てのEmpire State Buildingが建った。海では、フランスのNormandie(1935年)が長さ1,000フィート、75,000トンを超えた最初の遠洋定期船となった。以前の記 録保持者は英国のMajesticであり、長さ950フィート、56,500トンであった。その内部において、これら新船の意匠は目を見 張らせるものであり、様式化されたラウンジ、浪費とも言えるスィートと客室の他、革新的な最上甲板の完全なテニス・コート (Empress of Britain)、リゾートのような屋外プールのある甲板(RexとConte di Savoia)、鳥篭と緑樹の茂る完璧な冬園(Normandie)があった。屋内プールやヘルス・クラブ、ボーリング場のある船もあれば、花屋やチョコレート店、更には 紳士服の仕立て屋もある船もあった。しかし大変な速力や機械的な動力の感覚が、しばしば乗客数に最も影響して新聞の見出しを飾り、最も気 前の良い信用を作り出したのである。大西洋を最も速く横断した者に贈られる誰もが欲しがったBlue Ribbonの勝利が、未だに国家の威信の非常に多くを占めていた。大英帝国は、輝かしきCunarderであるMauretaniaによって、1907年から1929年 までの22年間、これを保持していた。この船は32,000トンの船であった。

 20年代後半に遠洋定期船の優秀さを競う新しい「競争」を始めたのは、ドイツ人であった。第一次世界大戦における不名誉な喪失にも拘 らず、とりわけNorth German Lloydは、35,000トンの2隻を1925年に発注して十分回復していた。しかしこの2隻は直ぐに50,000トンを記録して登録され、大変に強力な機関を有してい た。BremenとEuropaと命名されたこの船は、大西洋で速力記録を破って英国から栄誉をもぎ取ろうと、「2重処女航海」を計画し て航海したものだった。実際、Bremenは1929年7月に最初に優勝旗をひったくった。シェルブールとニューヨークのAmbrose Light(=灯台)間で平均27.83ノットを出して、Mauretaniaの26.6ノットを打ち破ったのである。Europaは造 船所の火災で遅れ、1年後に到来して27.91ノットの新記録を樹立した。

 1931年、英国はCanadian Pacificの42,300トンのEmpress of Britainをもって応えたが、このあらゆる点において素晴らしい船は、速力の優勝者ではなかった。イタリアはそれまで挑戦者となることはなかったが、1年後にRex、 その後Conte di Savoiaが浮かび上がって来た。51,000トンのRexは1933年8月に28.92ノットの記録を出し、1935年まで2年近くBlue Ribbonを保持した。1935年5月には、より強力なNormandieが到来した。

 並外れた革新的な全く魔法のようなNormandieは80,000トン近い船で、誰もが目を止める類稀な船であった。「洋上の夢」 とある観察者は話した。例外的な、しばしばビックリさせるような装飾で、すなわちLalique照明設備、Aubusson絨毯、 Dupasガラスのパネル、全ての1等船室が違った内装で、本船は偉大な夜の船でもあった。Normandieは、1935年春の処女航 海で平均速力29.98ノットを出して、Blue Ribbonを取った。栄光の、最愛のQueen MaryがこのFrench Lineのフラグシップと競争をし、1936年8月に30.63ノットで英国に奪い返して永遠に勝ち取った。このBlue Ribbonは、1952年、光り輝くUnited Statesの下に行った。本船は、この長旗をたなびかせる最後の遠洋定期船となったものだった。

 Mussolini自身とその政府、そして実際全てのイタリア人は、本当にRexとConte di Savoiaに大変な誇りを持っていた。イタリア人にとって最初の超定期船であり、地中海に就航した最初の大型船であった。特別のイメージを提供するために、広報担当者は 懸命になって働いた。南ヨーロッパの休暇の素晴らしさを暗示して、「Rivieras afloat(=洋上のリビエラ)」と名付けた。所謂、洋上行楽地のはしりである。人気のある船で、30年代後半には第3の超定期船の考えが少なくとも浮上して来た。この 大型姉妹船の改良型の僚船として、僅かに小型のAugustusやRomaを改造して機関を積み替える計画であった。ところがRexと Conte di Savoiaは、多いに金を稼いでいたわけではなかった。大恐慌が当然被害をもたらし、ここの「陽光溢れる南の地中海航路」は、未だに全く人気がなく、ヨーロッパへの航路 は伝統的な北部航路、すなわち、サウサンプトン、シェルブールあるいはル・アーブルといったところからのものであった。しかしこの船での 赤字はほとんど問題にはならなかった。イタリア政府は全く喜んでこうした世評の高い定期船の助成金を出していたからである。

 ニューヨークを出入りする商用運航を継続していた最後の超定期船であった。1940年の春になると、他船は運航を長らく休止していた (例えばQueen Maryは既に陰気な灰色に塗装されて、勇敢な兵員輸送航海をしていた。)。RexとConte di Savoiaは、直ぐに戦争の犠牲者となった。イタリアの降伏後、Nazisによって係船そして隠匿され、Conte di Savoiaは逃走又は拿捕を逃れようとして火が放たれたのである。1943年9月11日に炎上した。1年後、連合国司令官は、イタリア人から略奪した物の敗北の、残忍な 象徴としてRexを破壊しなければならないと決断した。125発近いロケット弾が、トリエステ南部に人里離れて係留されていた船に発射さ れた。本船は炎上し転覆した。戦後、この当時船齢僅かに15年ほどの並外れたイタリアの超定期船は、取り壊しの詳細を示したメモだけを残 し、残骸が発掘されて遂には解体されたのである。

(この章に登場する船)
Rex
Conte di Savoia

6、復活と回復

 「Alcide de Gasperi大統領が1946年、Truman大統領に会いに行き、個人的に戦時中アメリカに拿捕された4隻のイタリアの定期船の返還を求めたのです。また多くの Liberty(=自由の)船も要請しました、とMaurizio Eliseoは話した。「アメリカ人が発動機船のSaturniaとVulcaniaをソビエトに売却するという噂があったのです。ソビエトの代理人は、実際調べていたの ですよ。これらの船がイタリアに返還されるかは不明だったのです。別の2隻のConte BiancamanoとConte Grandeは、実際Italian Lineに「見捨てられ」ました。この会社は保険も消滅させようとさえしたのです。戦後、係船され、その将来は不確実でした。」

 de Gasperi大統領の嘆願は成功した。4隻の定期船、すなわちイタリア人に返還された兵員輸送船であるSaturniaとVulcaniaは1946年12月、 Conte BiancamanoとConte Grandeは翌年の夏に返還された。最初の2隻は戦前の壮麗さを回復した。すなわち重厚なバロック調で豪華に飾り立てた時代様式である。しかし変化も同様に到来してい た。たとえばSaturniaでは戦前の収容力は2,197人であったが、これが1,370人に減少となったのである。Conte BiancamanoとConte Grandeは大改造されてアメリカ人によって兵員輸送船となったことから、1940年代後半に刷新されて殆ど新船となった。旅客室は「イタリアン・モダン」が出現した最 初の例となった。その様式は喝采をもって迎えられ、その後の新しい定期船、例えばAugustus、Giulio Cesare、Andrea Doria、Cristoforo Colombo、更にはLloyd Triestinoの最初の戦後の定期船であるAustralia、Neptunia、Oceaniaにも引き継がれた。

 急いで修理し、発動機船のSaturniaとVulcaniaは、それぞれ1947年1月と7月に商用運航に復帰した。ナポリ、ジェ ノバ、カンヌ、ジブラルタル、そしてニューヨーク間で急行船を運航したのである。2本煙突の異母姉妹Conte GrandeとConte Biancamanoは、6ヶ月の間隔を置いて、前者は1949年7月、後者は1949年11月に続き、南米航路に復帰した。すなわちリオ・デ・ジャネイロ、サントス、モ ンテビデオ、ブエノス・アイレス行きである。数ヶ月後の1950年3月、Conte Biancamanoはニューヨーク航路で必要とされ、超過予約のSaturniaとVulcaniaの応援のため北に向かった。第二次世界大戦の燃え滓と瓦礫と破壊の中 で、イタリア人はアメリカへの2つの主要航路において、4隻の豪華定期船を持っていたのである。

 この会社は、1947年から49年にかけて6隻の大型貨客船を加えた。Paolo Toscanelliのようなこれらの船舶は、ジェノバからチリのバルパライソに向かう南米西岸への航路を再開した。

(この章に登場する船)
Antoniotto Usodimare

7、南米の姉妹船

 「Augustusは、偉大なItalian Lineの下での私の最初の船でした。1960年のことです。ヨーロッパと合衆国間と、ヨーロッパと南米東岸間の大型豪華定期船の運航は、まだブームだったんです。3等級 の乗客を運んだもので(1等178人、キャビン・クラス288人、ツーリスト714人)、いつも満員でした。」とNicola Arena船長は回想した。今日、昔のItalian Lineの最後の船である、この同じ27,000トンの定期船が生き延びているが、極東の海域である。現在ではAsian Princessと呼ばれている。実際、イタリア時代以来、様々な船名を持ったものだった。Great Sea、Ocean King、Philippines、President。過去20年近く係船し、停泊地から停泊地へと渡り、香港、マニラ、スービック湾(これもフィリピン)、そして高雄 (カオシュン)(台湾)といった港を転々とした。最近、この全長680フィートの定期船は再び噂に上り(約25回目のことであるが)、修 理の上、太平洋クルーズに使用されるという。

 21ノットのAugustusと姉妹船Giulio Cesare(1973年解体)は、イタリアを荒廃させた第二次世界大戦の直後に設計された。マーシャル・プランによる資金が建造に投入され、30年代後半に製造されて倉 庫に保管していたFiatのディーゼル機関が動力源に使用された。トリエステ近郊で建造され、2隻の姉妹船は1951年から52年にかけ て完成した。後にニューヨーク行きの北大西洋航路で使用されたが、元々はナポリ、ジェノバ、カンヌ、バルセロナ、リスボンから中部大西洋 を横断してリオ・デ・ジャネイロ、サントス、モンテビデオ、ブエノス・アイレスに行く南米航路向けのものであった。

 「1等には、大変に裕福なお客様を迎えたものです。大半がヨーロッパ人でしたが、南米の方もいました。」とArena船長は回想し た。「大変なお金持ちのアルゼンチン人やブラジル人を乗せたものです。とりわけ、大型農場のエスタンシアの所有者ですね。普通、そうした 人達は冬を南米で過ごし、6月から8月はヨーロッパで過ごしたものなんです。召使の他、乗用車、更には馬までも乗せていました。ヨーロッ パ人の側では、D'Arenberg公爵を覚えています。毎年、カンヌから実家のあるプンタ・デル・エステまで乗船されました。船に乗る ときは地元警察署長と一緒で、警察署長は個人的にダイヤモンドやルビーで一杯の、7つの宝石箱を警備していたものです。Augustus の金庫に直ぐに保管されました。こうした乗客は、もう見かけることはできませんね。今日のクルーズ船では、乗客は殆ど目立たないもので、 そうした宝石を見せびらかしたりはしていません。ローマ教皇の選挙のためにローマ・カトリック枢機卿や側近を乗せたこともあります。大使 も迎えましたが、この時は、いつもその国の国旗を掲揚したものです。時折、同時に数人の大使が乗船することがあって、このときは5つや6 つの国旗を掲げたものです。まるでニューヨークのWaldorf-Astoria Hotelの玄関みたいになっていましたよ!」

 「キャビン・クラスには、医師や弁護士、技術者のような専門職の方を迎えたものです。」とArenaは振り返った。「ツーリスト・ク ラスは、ブラジルやアルゼンチンに向かう移民で満員でした。チリに行く移民もいました。大半はイタリア人でしたが、スペイン人やポルトガ ル人もいましたね。実際、ニューヨークやハリファックス(イタリアの定期船は西行き横断でここにも寄港していた)に向かっていた北大西洋 航路よりも、南米に向かう移民は質の高い人達でした。ヨーロッパへの復航では、先に移住していた人の若い息子や娘達を乗せたものです。 ヨーロッパ旅行は、南米の家族の間ではよくある卒業の贈り物だったんですね。ツーリスト・クラスにはこの他、修道女や聖職者、勉強や調査 のためにイタリアに向かう教授や教師も乗船していました。」

 南米定期航路は、70年代初期に衰退し始めた。航空機が太刀打ちできない競争相手であることが判ったのである。Giulio Cesareは解体業者の下に行き、Augustusはイタリア人のために僅かに長く持ちこたえ、1976年1月に最後の航海をしてナポリで係船した。その後直ぐに東洋の 船主の、有名なPhilippine President Linesに売却された。巨大貨物船団の所有者である。再び航海するのを見るのは、興味深いことだろう。

(この章に登場する船)
Giulio Cesare (1951)
Augustus (1952)

8、他のイタリア船、他の航路

 我々が偉大なItalian Lineのことを考える時、ニューヨークへの北大西洋航路のVulcania、Cristoforo Colombo、Leonardo da Vinciのような豪華船と、大型姉妹のMichelangeloやRaffaelloを思い浮かべる傾向にある。そしてもちろん、1956年7月にナンタケット島沖で最 悪の沈没をしたことで、Andrea Doriaが記憶に残っている。しかしItalian Lineは、南米に旅客船運航もしていたのであり、東岸直行と、その後分離したパナマ運河経由で太平洋岸の港湾に向かう航路があった。後者の航路は恐らく殆ど知られていな いし、殆ど記憶に残っていないものである。

 この航路の運営には数隻の小型貨客船を使用していたが、Italian Lineは1963年に3隻の良い旅客定期船を取得した。12,800トンの姉妹船Australia、Neptunia、Oceaniaであり、全てLloyd Triestinoから購入したものであった。1951年に建造されて以来、この3隻はイタリア―オーストラリア航路に就航していた。旅 客室を改装して(1等136人、ツーリスト536人に)再編し、それぞれDonizetti、Rossini、Verdiと再命名され た。直ぐに「3人の音楽家」と呼ばれることとなった。

 全長528フィートの船は、イタリアから月1回の航海をしていた。正確な航路は、ジェノバ、ナポリ、カンヌ、バルセロナ、そしてカナ リア諸島のテネリフェ島に短時間の寄港をし、その後、ラ・グアイラ、キュラソー島、カルタヘナ、クリストバル、パナマ運河、ブエナベン トゥラ、プナ、カヤオ、アリカ、アントファガスタ、そしてバルパライソで遂に引き返すものだった。運賃はジェノバからバルパライソへの 1ヶ月航海で、60年代初期に1等600ドル、ツーリスト380ドル。

 「そりゃもう、とても良い船でしたよ。」とRossiniとVerdiの船長であったRaffaele Gavino船長は回想した。「操船しやすくて、反応も良かったですよ。1970年代初期まで、イタリア人とスペイン人の移民も扱っていましたが、その頃までに、大部分は 一般の乗客になっていましたね。大勢のフランス人客を乗せていたことを覚えています。移民はベネズエラのラ・グアイラで下船したもので す。貨物の方は、出発する時は、主として工業製品と、スペインから大量の宗教本と印刷物を積んで行きました。帰りは銅、コーヒー、そして ココアです。またチリやエクアドルからラ・グアイラに、果物も運びましたね。それからエクアドル沖のある小島に、好奇心をそそるような貨 物も運びましたよ。ボタンを作るために使われた小さな種です。ボタンは全部イタリアに積んで帰りました。」

 お決まりの航空会社との競争、貨物の取り扱い方法としての新しいコンテナ輸送、そしてイタリア船籍の船の運航費用の急騰に直面して、 Italian Lineは1974年から75年にかけて全ての旅客運航を終了する決定をした。南米西岸への運航と同様、ニューヨーク航路も1976年夏に休止した。3姉妹は引退し、直ぐ にラ・スペチアのイタリアの解体業者に売却された。「バルパライソ行き」の船で、旅客を扱うものはもはや無くなったのである。

(この章に登場する船)
Australia
Neptunia
Victoria (1953)
Galileo Galilei
Guglielmo Marconi
Ausonia
Homeric
Oceanic
Castel Felice
Aurelia
Sydney
Eugenio C.

9、復活の船

 「Italian Lineの1等では、毎晩が「Gala Night(=夜祭)」でした。」そう覚えているのはNicola Arena船長。1958年にこの会社に就職し、約20年後の1977年の、正に最後の旅客航海まで残っていた人である。「1等の行事は、4時のお茶の時間から始まったよ うでした。穏やかなクラシック音楽を12人編成のオーケストラが演奏していました。そしてカクテル・ラウンジで食前酒です。鮭の燻製と キャビアが出たものです。背後ではバイオリンが演奏されていました。毎晩が正式の夜会で、女性は何日もある洋上で毎晩違う衣装を身に着け たものです。有名人、政府の役人、大変なお金持がお客様でした。大抵、大量の荷物と20以上のバッグを持って旅行をしていました。それで 船には巨大な手荷物預り所があったんです。船倉には自動車も積んでいましたね。」

 「夕食後にはダンスをしていました。」とArenaは付け加えた。「当社では特別のソーシャル・ホステス(=社交接客婦)を用意して いました。イタリア人、ドイツ人、スイス人で、皆さん偉大なヨーロッパの家系の貴族の血筋を引く人達でした。完全に乗客に溶け込んでいま した。特にBaroness Larogobardiを覚えています。偉大なベネチアの家の出身で、ソプラノ歌手でもありました。」

 Arena船長は、技術学科を卒業して上級事務長となり、1960年代と70年代の壮大なItalian Lineの豪華旅客船の大半で勤務した。すなわちConte Biantamano、Cristoforo Colombo、Augustus、Giulio Cesare、Leonardo da Vinci、そして超定期船のMichelangeloとRaffaelloである。南米航路を、Marco PoloやVerdiのような船で航海していたこともあるという。

 ニューヨーク航路は1953年に完全に復活し、豪華で力強いAndrea Doriaが、処女航海で海を渡って、ニューヨークの第84埠頭に向かったものだった。曳船、消防艇、そして頭上のヘリコプターが歓迎した。本船に引き続いて、1954年 夏には姉妹船Cristoforo Colomboが就航した。1956年7月にDoriaが早くも沈没し、直ぐに代替が計画された。大型の初期の姉妹を改良したLeonardo da Vinciが、1960年夏に就航した。Saturnia、Vulcania、Conte Biancamanoといった戦前の初期の定期船を彷彿させるものであり、これら50年代の豪華船は、イタリアの「復活の船」と呼ばれた。

 「ニューヨークとナポリ、ジェノバ、カンヌ、そしてジブラルタル間の航路では、多くの有名人の乗客を迎えたものです。」とArena 船長は付け加えた。「モロッコ国王、Paul Newman、Elizabeth Taylor、Renata Tebaldi、La Scala(=スカラ座)のテノール歌手全員、Windsor公爵夫妻、Roosevelt家とRockefeller家の一族、 Dustin Hoffman、そしてイタリアの人気者の喜劇役者Alberto Sordiです。モロッコ国王がRaffaelloの甲板の全部を貸切ったことを思い出しますね。国王は、側室を含む137人の側近を連れて旅をしていました。砂漠の戦士 達が24時間警備をし、色とりどりの刀や槍を使っていました。Windsor公爵夫妻は、秘書、召使、執事、そして5匹の子犬を連れての 航海でした。Gloria Swansonは、自分用の健康食品とミネラル・ウォーターを持参していました。その他、多くのカトリック枢機卿を迎えました。多くの場合、これら有名人の乗客は最高の船 室を取っていました。より多くのプライバシーを求め、最高の職員がお世話をし、しばしば自室でお食事をされました。」

 「キャビン・クラスでは、医師や弁護士といった専門職、時にその一家全員を迎えたものでした。」とArenaは言った。「北米行きの ツーリスト・クラスは大半が移民で、一般にイタリア人でしたが、ユーゴスラビア人、スペイン人、東ヨーロッパ人、そしてドイツ人さえもい ました。しかし1970年代初頭までには、こうした大型の高級定期船の運航費用は、高過ぎるものとなっていました。航空会社が太刀打ちで きない競争相手になっていて、Italian Lineは赤字を出していました。政府は気前の良い助成金に固執していましたが、遂に1975年から76年にかけて、敗北を認めたのです。Italian Lineとその豪華定期客船の偉大なる時代は、終わったのです。Cristoforo Colomboのような船舶はベネズエラに売却され、Leonardo da Vinciは係船しました。とにかく、こうした船を再び見ることは決してないでしょう。」

(この章に登場する船)
Andrea Doria
Cristoforo Colombo
Leonardo da Vinci

10、イタリアの超定期船

 「最初から赤字だったんです。イタリア政府の大変に気前の良い助成金に依存していたんですよ。この船は生き残り、結局は成功するとい う、全く大きな、気前の良い夢だったんですね。」とNicola Arena船長は話した。45,000トンの超定期船、MichelangeloとRaffaelloという、1960年代に建造された最大かつ尊大なイタリア船のことを 思い出していた。この1,775人乗りの旅客船は、戦前のRexよりも長かった。

 1965年、ちょうど1ヶ月おいて、ジェノバとモンファルコンでそれぞれ建造された全長902フィートのMichelangeloと Raffaelloは竣工した。昔の急行船がナポリから8日間、ジェノバから7日間、ジブラルタルから5日間かけてニューヨークに運航し ていたのを維持できるよう設計されていた。1965年の1等運賃は425ドルから、一方、ツーリスト・クラスの寝台は275ドルであっ た。すべて白塗りで光り輝き、これら豪華定期船には6つのプール、広い公室、そしてどの船室にも、少なくとも1つの個人用シャワーと便所 が付いていた。

 「MichelangeloとRaffaelloの最初の草案は、実に1958年にまで遡ります。」とMaurizio Eliseoは言う。「白ではなくて、黒い船体でした。2本の煙突には、格子状のものはついていませんでした。あの格子様式は、姉妹船のGuglielmo MarconiとGalileo Galilei(1963年建造)向けに最初は考えられていたのです。しかし船主のLloyd Triestinoがこれを認めなかったので、代わりにMichelangeloとRaffaelloに使いました。この煙突は、Turin Polytechnic(=トゥリン専門技術学院)のMortarino教授のデザインです。」

 French Lineが66,300トンのFranceの引渡を受けた3年後、Cunardの65,800トンのQueen Elizabeth 2の4年前に到来したこのイタリアの2隻は、船価1億2,000万ドルで、60年代にしては馬鹿でかいものであった。1960年に最初に到来したLeonardo da Vinciの改良・拡大版であった。しかし1958年から59年にかけて航空会社が大西洋横断旅行事業を支配し始めると、この2隻の豪華大型イタリア船の建造はどう見ても 間違いであった。実際、これらの船は、1桁リラの利益も出さなかったのである。ローマ(=政府)からの助成金は、輸送した乗客につき 700ドルの燃料費を出すというものであった。ニューヨークを本拠に全て同一等級で熱帯に行くクルーズさえも試みられたが、失敗した。こ の新船が1975年まで10年間も航海を継続したことが、むしろ信じられないくらいであった。

 「当時のItalian Lineの取締役は、市場調査をするような人々ではありませんでした。世の中の流れが判っていなかったんです。」とArena船長は付け加えた。「しかし、これだけははっ きりしていました。大西洋旅客事業は、正に終わりでした。しかし取締役は自分たちの好みを持っていたんですね。大型の評判の良い船が好み でした。実際、大西洋横断旅客海運の衰退という世の中の流れに、公然と挑戦しようとしたのです。それでもMicholangeloと Raffaelloは、全く不経済なものでした。」

 「大赤字船でしてね。しばしば運賃を支払った乗客よりも、大勢の船員を乗せていました。それに、イタリア海員組合は役に立たないもの でした。強硬だったんですよ。もちろん1960年代後半のイタリアの社会主義運動の影響下にありました。政府は決してItalian Lineを廃業しないと連中は思っていたんです。終わりが到来したときは、本当に災難でしたよ。あの型の船がクルーズをするには、遅すぎたんです。」

 年老いたか弱きWindsor公爵婦人が乗船して、Michelangeloは、1975年7月に最後の横断航海を行った。直ぐに艤 装品が取り外されて、2隻の大型定期船はジェノバ南部とラ・スペチアに係船されて売れるのを待つこととなった。Norwegian Caribbean Linesはカリブ海のクルーズ船に改造することを考え、ブラジル人は係留した低価格家屋にすることを考え、リヒテンシュタインに本拠を置くある組織は、洋上の癌検査・治 療診療所に改造したがっていた。「後に大変に成功したHome Linesの会長になったMario Vespa船長が、この2隻を所有していた政府団体Finmareに1976年に接触したことを覚えています。」とArena船長は言った。「もっともな価格を提示して、 イタリア人船員のままアメリカでクルーズ運航する計画を持っていました。ところがイタリア政府の大臣どもは、聞こうともしなかったんです ね。この船は、政府が間違った方向に進めてしまった責任を負うべきものでした。連中は船から逃れたかったんです。そこでイランのシャー政 府に、陸軍の職員、海軍の訓練生、石油の作業員の宿泊設備として売却したわけです。」

 1977年、Michelangeloはバンダル・アッバスに「追放」となり、Raffaelloはイランのブーシェルに送られた。 しかしこれらの船は、2度と同じように使われることはなかったのだった。Italian Lineの連絡要員が去ると、失望させられた。直ぐに荒廃して放置され、小さなネズミの大群が押し寄せたということだった。Raffaelloは、1983年2月にイラク のミサイル攻撃によって沈没し、Michelangeloは、1991年に近くのパキスタンの解体業者に送られた。この2隻の船にとって は、悲しい結末であった。

(この章に登場する船)
Michelangelo
Raffaello
Costa Classica
Carnival Destiny