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ウイリアム H.ミラー, Jr.「偉大なる豪華定期船 1927年―1954年 写真の記録」

1、20年代

 20年代は全般的に、遠洋定期船にとって比較的穏やかな時代であった。世界大戦が終わり、犠牲となった船に新しい大船隊が取って代 わって行った。昔の植民地貿易が再建され、郵便船が以前と同様に重要なものであった。英国はなおも最大の船隊を有し、最も評判の高い北大 西洋航路に君臨していた。自国で設計したか、あるいは戦後に入手した最も偉大な定期船を保有していた。先頭にはCunardやWhite Starといった会社が立ち、週1回の大西洋横断定期便を競争していた。しかし確固たる決断の下、フランスが1921年のParisを皮 切りに前進して来たのである。これに対してイタリアが最初の30,000トンの船を放った。しかし大部分の者にとって、大きさや速力は度 外視されたのである。アメリカの移民制限により輸送需要が減少した。多くの会社にとって生命線だった最下級船室が切り詰められた。結局、 新しい定期船は小型化されて速力は遅くなり、豪華さや豪勢さよりも快適で趣のあるものとなったのだった。

 その後、1927年にIle de Franceが就航し、豪華定期船を定義付ける豪華さの正に象徴となった。単なる商用遠洋フェリーではなく、むしろ壮大な洋上ホテルという新しい旅行の領域を切り開いたの だった。


BERENVGARIA
 上の写真では、 Cunard LineのBerengaria(中央)が、1924年7月11日、ニューヨーク市西12丁目の麓にある第54埠頭に停泊している。大型で力強く豪華な本船は、大西洋で名 声を得た船の1隻であった。Berengaria、威厳あるAquitania、そして華やかなMauretania(当時世界最速の汽 船)は、毎週1回、サウサンプトンからニューヨークに毎年何千人もの乗客を輸送していた「Big Three(=3大船)」として知られていた。運航は、寒さの厳しい冬季間の北大西洋で最も厳しい時期でも継続された。Laconia(別のCunarder)と共に Minnetonka、Homeric、Baltic、そしてPittsburghが、Berengariaを乗り越えて行った。 Berengariaは、元々ImperatorとしてHamburg-America Line向けに建造されたもので、Titanicの悲劇を蹴散らして1913年に就航した。本船は、第1次世界大戦後に英国に割譲された。
[1913年、ドイツ、ハンブルグ、Bremer Vulkan Shipyards建造。52,228総トン、全長919フィート、全幅98フィート、喫水38フィート。蒸気タービン、4軸。巡航 速力23ノット。旅客定員2,723人(1等972、2等630人、3等606人、ツーリスト級515人)]

 Berengariaの最高のスィートの居間(左)は、この船の豪華さを物語る。

MAURETANIA
 Cunarderの1隻であるMauretania(上)は、最も宣伝され、そして最も人気のある定期船の1隻であった。1907年に 竣工したとき、本船は単なる世界最大の旅客船ではなく、最初に蒸気タービンを使用した船の1隻であったのであり、この蒸気タービンは旧式 の出力の小さい3段式あるいは4段式膨張蒸気方式に取って代わって行ったものだった。また本船は処女航海で誰もが欲しがるブルー・リボン を獲得し、22年間も大西洋上における最速の遠洋定期船として君臨し、多くの乗客を疑いもなく集めたものだった。この優勝旗は1929年 の夏にドイツの新しいBrernenによってひったくられた。第一次世界大戦前に建造された多くの主要な定期船のように、 Mauretaniaは石炭焚きであった。これは、本船が大量の黒い煙を吐き出すことを意味したのであり、甲板の下には「black gang(=黒の一団)」として何だか恐ろしいものとして知られていた200人余の火夫が、殆ど地獄のような条件のところで長く連なった溶鉱炉に石炭をくべて働いていた。 しかし20年代初期までに、石油を燃焼させる方式が実用化された。すぐさま凡そ200人の船員に変化が生じ、生活状態と効率は概して改善 され、やっかいな石炭をくべる作業はしなくても良くなったのである。1921年の夏が始まると、Mauretaniaは建造された造船所 で8ヶ月を過ごして、石油を燃焼するように改造された。この動きは最終的には大西洋の全ての主要船会社に影響を与えることとなった。
[1907年、イングランド、ニューカッスル、Swan, Hunter & Wigham Richardson Shipbuilders Limited建造。30,696総トン、全長790フィート、全幅88フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力25ノット。1921年以降、旅客定員1,756人(1等 589人、2等400人、3等767人)]

 Mauretaniaの内装の壮大さと華麗さは、裏面に掲載したように明らかである。

Mauretania
 1等ラウンジ(前頁)には、古典的な円柱とガラス張りの丸屋根が配されていた。主食堂(上)は、中央に井戸があって2層の高さがあっ た。船尾の運動甲板(下)には、様々な競技をするための設備があった。

ALAUNIA
 Cunardは最大かつ最も優雅な定期船を運航していたが、この会社の取締役らは20年代の大西洋でより寛いだ傾向を発展させようと考 えていた。結局、合衆国とカナダ東部との間を14,000トンから20,000トンの船が殆ど流れ作業のように現れることとなった。 Alaunia(次頁、上)のようなこれらの船は15ノットで、英国から大西洋を8日から10日かけて横断した。
[1925年、スコットランド、クライドバンク、John Brown & Company Limited建造。14,030総トン、全長538フィート、全幅65フィート、喫水30フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力15ノット。旅客定員1,706人(1 等484人、3等1,222人)]

 1928年に撮られた良質の3等船室(次頁、下)と1等メイン・ラウンジ(上)の写真。

HOMERIC
 White StarのHomeric(前頁)は、20年代、世界最大の2軸定期船であったが、スタビライザー(横揺れ安定装置)が登場する前の北大西洋における最も揺れない船の1隻 としての評判を得ていた。
[1913年―22年、ドイツ、Danzig、Schichau Shipyards建造。34,351総トン、全長774フィート、全幅82フィート、喫水36フィート。3段膨張式往復蒸気機関、 2軸。巡航速力19ノット。旅客定員2,766人(1等529人、2等487人、3等1,750人)]

 上では、端艇甲板で2人の少年が3輪車で競争している様子が捉えられている。

MAJESTIC
 White Star LineのMajestic(上)は、20年代における最大の旅客定期船であった。本船はドイツ人によってBismarckとして設計され、殆ど竣工していたが、第1次世 界大戦後に英国に割譲された。本船の大きさ、名声、豪華な内装により、大恐慌以前の北大西洋における最も人気のある、そして最も儲かった 定期船の1つとなった。20年代の終わりに、音声の付いた活動写真を上映した最初の定期船としてとりわけ知られていた。4本煙突の Olympicと中型のHomericも運航して、White Starは英国の遠洋定期船会社の巨人Cunardと直接に競争して、ニューヨークとサウサンプトン間を週1回の運航をしていた。56,551トンのMajesticに は、2人の異母姉妹がいた。United States Linesの59,900トンのLeviathanと、52,200トンのCunarder、Berengariaである。Majesticのトン数は、英国の測度法に基 づいて登録されてものであるのに対して、Leviathanは米国の規則に従って59,900トンで登録されており、こちらが大きいよう に思われる。しかしアメリカの測度法は英国の測度法に比べて数字が大きくなるのである。つまり英国の測度法では、Leviathanは ずっと軽くなって48,000トンになるのである(注、「軽く」は「容積が小さく」の誤り)。これは定期船が国家の威信を反映した厳しい 競争の時代であったからであり、「最大」「最長」「最速」「最高に豪華」かが、その成否に影響した。
[Majestic:1922年、ドイツ、ハンブルグ、Blohm & Voss Shipbuilders建造。56,551総トン、全長956フィート、全幅100フィート、喫水38フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力23.5ノット。旅客定員 2,145人(1等750人、2等545人、3等850人)]

 ここに掲載したのは親しげに話をする乗客(次頁、上)、Majesticの乗客の1人がFranklin Delano Rooseveltという友人に手紙を書いている。「もし海と船が好きならば、Majesticはいつもの不愉快な群集で一杯の華麗なホテルの以外の何者でもない。2等の 待遇は1等と同じで、違いは料金だけ。確実に待遇ではない。給仕が話すように、最上級の人々は3等の待遇で2等を旅することになる。」し かしこの厳しい評価は、1928年に本船で誕生日を楽しんでいる子供達や(次頁、下)、本船を愛情を込めて「Magic Stick(=魔法の杖)」と呼んでいた船員、港湾労働者、乾船渠労働者には通じないだろう。

LEVIATHAN
 Leviathan(上)は、元々ドイツのVaterlandであり、第1次世界大戦中にニューヨークで拿捕された。休戦に引き続い て、本船はバージニア州ニューポート・ニューズで改修されて、1923年7月4日にUnited States Linesの下で処女航海に出るまで大西洋には出なかった。本船の船歴は財政問題で汚点が付いた。この会社には適当な僚船がいなかったのである。アメリカの禁酒法により、 本船は「乾き切った」ままであり、当時は英国とヨーロッパの定期船が、より魅力的で豪華で良いサービスを提供していた。 Leviathanは一般の旅客船からは遥かに遠いものであった。例えば屋内プールはローマ風呂として有名だったが、長さ65フィート で、タイル、大理石、ブロンズで出来ていた。円柱、噴水、高水準の画廊があった。食堂は有名なRitz Carlton Companyが経営していた。この客船会社は乗客に、「公開前のトーキー(=音声付き映画)」を見せていた。
[1914年、ドイツ、ハンブルグ、Blohm & Voss Shipbuilders建造。59,956総トン(英国の測度法で48,932総トン)、全長950フィート、全幅100フィート、喫水38フィート。蒸気タービン、4 軸。巡航速力23ノット。旅客定員3,008人(1等940人、ツーリスト666人、3等1,402人)]

 次頁にLeviathanの有名な乗客を掲載した。Rudolph Valentino(上、左)、Gertrude Hoffman(上、右)、Pola Negri(下、左)、そしてペットの豹と共にいる氏名不詳の夫人(下、右)。

Leviathan
 1等船室の寝室と居間。

HAMBURG
 第1次世界大戦後、偉大なHamburg-Amerioa Lineは旅客船のトン数を激減させた。できる限り急いで再建が始まり、1923年までに最初の新しい定期船が準備できた。1926年建造のHamburgは、大変に伝統 的な輪郭をしている。ほっそりとした直立の煙突と、歴史的な4分儀鉤柱に2段結びになった救命艇。更に、6つの船倉に相当の貨物収容力を 持った、大型旅客船の典型であった。
[1926年、ドイツ、ハンブルグ、Blohm & Voss Shipbuilders建造。21,691総トン、全長635フィート、全幅72フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力19ノット。旅客定員1,150人(1等222 人、2等472人、3等456人)]

FRANCE
 4本煙突のFrance(上の写真の左側)がニューヨークのFrench Lineの15町目ターミナルで大型のParisと並んでいる。
[France:1912年、フランス、サン・ナゼール、 Chantiers de l'Atlantique Shipyard建造。23,769総トン、全長713フィート、全幅75フィート、喫水35フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力23ノット。旅客定員1,623人 (1等517人、2等444人、3等510人、最下級船室159人)。]

 Franceは大西洋横断運航において最も人気のあった定期船の1つであり、確かに最も豪華に建造された船の1隻であったが、 「Chateau of the Atlantic(=大西洋の城)」として、愛情をもって知られていた。本船の内装は、豪勢なルイ14世様式で貫かれていた。しかし最も非凡な特色は、洋上の壮大な階段の 入り口であった。本船の1等食堂の徹底した装飾(次頁)は、乗客に劇的な入り口を提供するものであり、20年代30年代に建造された多く の主要な定期船の、最も目立つものとなったのだった。

PARIS
 French Lineの船は20年代において「floating bits of France itself(=洋上のフランスの欠片そのもの)」とあるパンフレットに適切に述べられていたように、圧倒的な存在感があった。サービスと旅客設備は良かったが、料理がず ば抜けていた。海に捨てる高級料理の残飯を引っつかむことを期待して、海かもめは他の船よりはParis(上)の跡を追ったものだと言わ れている。
[1921年、フランス、サン・ナゼール、Chantiers de l'Alantique建造。34,569総トン、全長764フィート、全幅85フィート。旅客定員1,930人(1等560人、2等530人、3等840人)]

Parisの壮大な階段(前頁)が玄関に通じていた。天井は丸窓の内部までガラスで出来ていた。French Lineは現代性について特に継続して具体化しており、明らかに1912年のFranceの食堂を意識して、この僅か9年後に登場した様式で作っている。

Paris
 本船の最も豪華なスィート(最上)の1つであるこの居室は、20世紀初期の伝統を代表しており、ジェームズ1世風、チューダー朝、バ ロック朝、パラス(=アテナ)様式が初期に好まれ、後にアール・デコ様式の滑らかで簡素な重厚な魅力が好まれた。
 通信室(左下)では、しばしば航海で最も興奮する瞬間を目撃したものであり、船と陸地とを中継する伝言を持った接客係でごった返し、し ばしば終わりのない行列となったものだった。ハリウッドの新進若手女優や経済界の大立者が旅をすると、1週間の横断中に何百もの外国電報 を受け取り、同じ数だけの電報を返信したかもしれない。またより真面目な場合として、浸水した貨物船から救難連絡を受け、あるいは他の船 の怪我をした船員が定期船の医師の助けを求めて来ることもあった。
 20年代に油焚きのタービンが、戦前の石炭焚きに代わり登場した。そして機関室はきちんとした、かなり清潔なものとなった(右下)。最 後に、物好きな乗客、―非常に多くの場合、殿方であるが―、機械のツアーのために機関長によって下部甲板に招待され得ることとなった。船 の動力機関の最中心部は、Parisの乗客のような見物人に強い印象を与えた。この船は、2,500人もの人々を難なく乗せて、21ノッ トで動く34,000トンの定期船であった。

ILE DE FRANCE
 1926年、French Lineは、上に掲載したこの会社の新しいフラグシップを特集した念入りに作られた金箔張りのパンフレットを発行した。そのイラストは、巨大な、飾り立てられた、それでも 現代的な公室のもので、女性客が羽根のついた扇子をもって、煙草を吸い、ボルゾイ犬を従えて日光甲板にいるものだった。本船の現代風の程 度は、それ以前に見られた船とは違うものだった。食堂は目を見張るものであった。礼拝堂、射撃練習場、念入りに作られた体育館、更には子 供のためにメリー・ゴー・ラウンドまであった。船室には作り付けの寝台ではなく、ベッドがあった。
[1927年、フランス、サン・ナゼ―ル、Chantiers de l'Atlantique建造。43,153総トン、全長791フィート、全幅91フィート、喫水34フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力23.5ノット。旅客定員 1,786人(1等537人、2等603人、3等646人)]

 航海時、壮大な階段の付いた3層の高さのある主玄関(右)は、優雅に着飾った乗客、篤志家、会社幹部、ひょっとして新聞記者で一杯に なった。煙草の煙とシャンペンのコルクの抜かれる音と共に、お喋りと笑い声で満ち溢れた。ピカピカの制服を着たボーイが走り回り、乗船記 念の電報を配達し、果物の入ったピカピカの籠を配った。そして突然、船をガラガラという音が貫き、Ileの力強い汽笛が出発30分前であ ることを告げたのだった。

Ile de France
 1等食堂(上)。1等サロン(下)。

Ile de France
 デラックスな1等スィート。

Ile de France
 1等の乗客は、端艇甲板(上)のようなところをぶらつき、新しい手入れの行き届いた贅沢を楽しんだ。Ile de Franceの素晴らしい1等食堂は、3層の高さでそびえていた。そうした単純に大きな、しかし人目を引く部屋を、観光客は見たことがなかった。旅客施設に重点をおいた設 計ではなく、本船それ自体が全く独創的なものだった。「ocean liner style(=遠洋定期船風)」の時代が始まったのである。船室は同様に現代的であったが、鋼鉄の天井が剥き出しのままであった。舷窓を開けると、部屋の中は海の音で満ち 溢れた。女中が洋服箪笥を満たし、化粧台を整理して夫人を助けたものだった。香水や化粧品が別室の浴室にまで連なっていた。殿方はスーツ や夜会服を従者にアイロンがけをさせた。非常に大きな蒸気タンクが積まれており、旅の終わりには貯蔵庫として使われた。
 Ile de Franceの船上の椅子の多くさえも、意匠において全く新しいものだった。その後、次の旅客船を計画していた大手定期客船会社にとっての最初の第1歩は、この最高に絶妙 で図抜けた、流行を取り入れたフランス船を訪問することとなった。

PRESIDENT ROOSEVELT
 20年代において偉大な定期船は、単なる横断のための手段ではなかった。「Cabin liners」が極めて典型的なものであった。キャビン・クラスは数ではなく、船の空間の点で、これらの船において優勢であった。3等の宿泊設備も有していた。 United States LinesのPresident Rooseuelt(上)は、この型の好例。本船はニューヨーク、イギリス海峡沿岸の港湾、ブレーメン間で運航していた。
[1922年、ニュージャージー州、カムデン、New York Shipbuilding Corporation建造。13,869総トン、全長535フィート、全幅65フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力17ノット。旅客定員437人(キャビン・クラス 201人、3等236人)]

President Roosevelt
 キャビン・クラス食堂(前頁)は、ステンドグラスの弓なりになった天井と厚板の床材を自慢としていた。キャビン・クラスの117番船室 (上)は、本船のもったいぶらない快適さを示している。

SCANSTATES(上)
 貨客結合船は、20年代、人気で快適な輸送手段となった。旅行者の中には主要航路の妖しい魅力に満ちた高速船よりも、これを好んだ者が いた。American Scantic LineのScanstatesは、ニューヨークとスカンジナビアの港湾の間を航海した。この会社は有名なMoore-McCormack Linesの1部門であった。
[1919年、ペンシルベニア州、フォグ・アイランド、 American International Shipbuilding Corporation建造。5,163総トン、全長390フィート、全幅54フィート。蒸気タービン、1軸。巡航速力13ノット。キャビン・クラス90人]

EDAM(次頁、上)
 Holland-America Lineは「Spotless Fleet(=欠点のない船隊)」として知られていた。その船は28,000トンのStatendamから、Edamのような小型の貨客結合船にまで及んだ。Edamの活 躍は、ロッテルダムとニューヨーク、ボルチモアを結ぶ航路と、より遠くのハバナやベラクルスに行く航路に分類できる。
[1921年、オランダ、フリッシンゲン、de Schelde Shipyards建造。8,871総トン、全長466フィート、全幅58フィート。蒸気タービン、1軸。巡航速力13ノット。旅客 定員974人(1等174人、3等800人)]

LALANDIA(次頁、下)
 デンマークのEast Asiatic CompanyのLalandiaは、伝統的な煙突を持たないという新奇な一連の貨客結合船の中の1隻である。4本あるマストの3番目の管から廃棄ガスが排出されていた。 本船とその僚船は、コペンハーゲンを出港して地中海、スエズ運河を通ってエジプトに沿って進み、東洋へと向かった。
[1927年、デンマーク、Nakskov、Nakskov Shipyard Limited建造。5,146総トン、全長405フィート、全幅53フィート、喫水24フィート。Burmeister and Wainディーゼル、2軸。巡航速力13ノット。1等29人]

LLANGIBBY CASTLE(上)
 アフリカ航路を運航していた一流会社は、英国のUnion Castle Lineであり、サウサンプトンとケープとの間で手の込んだ郵便船運航をしていた。そうした運航に従事していた多くの船の中に、Llangibby Castleがあった。本船は硬直した船型に反してずんぐりとした煙突を持った、20年代の「motorship modern(=現代式発動機船)」の古典的な1例である。
[1929年、スコットランド、ゴバン、Harland and Wolff Limited建造。11,951総トン、全長507フィート、全幅66フィート。Burmeister & Wain型ディーゼル、2軸。巡航速力14.5ノット。旅客定員450人(1等250人、3等200人)]

MULBERA(次頁、上)
 British India Lineは、帝国の東部を連結していた。Mulberaはロンドンとカルカッタを、スエズ運河経由で結んでいた6隻の姉妹船のうちの1隻であった。他に注目されるようなと ころのある船ではなかったが、本船はDuke and Duchess of York(=ヨーク公爵夫妻)(後のKing Ceorge VIとQueen Elizabeth)を20年代半ばに東アフリカに乗せたことがある。英国王室は、50年代まで海外旅行には航空機を利用しなかった。
[1922年、スコットランド、Alexander Stephen & Sons Limited建造。9,100総トン、全長466フィート、全幅80フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力13ノット。同一等級170人]

LECONTE DE LISLE(次頁、下)
 マルセイユのMessageries Maritimesは、後にフランス植民地の本拠地となったサイゴンへの航路にLeconte de Lisleを保有していた。そうした時代にあっては、ラウンジや甲板は、側近や家族を従えた高等弁務官、軍人、技術者、貿易業者、文官らが、植民地での任務として旅に出 た。
[1922年、フランス、La Ciotat、Societe Provencale de Construction建造。9,877総トン、全長452フィート、全幅61フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力15ノット。5等級に240人]

LANCASTRIA
 20年代後半には、チャーター航海・娯楽のクルーズに人気が出てきていた。例えば冬には、Cunard Lineは世界中を1ヶ月間クルーズをしていた。更にカリブ海に航海し、南米とアフリカ一周、地中海から黒海、夏にはノース・ケープ、スカンジナビア、西ヨーロッパ、カナ ダ東部、そしてバミューダ、ナッソー、ハバナへの短距離旅行をしていた。1929年の世界一周クルーズの料金は、900ドルからだった。 ここにあるのは、CunardのLancastriaが、1928年春のある特別なアメリカ軍の航海で、ニューヨークからロンドンに出発 するところ。
[1922年、スコットランド、グラスゴー、William Beardmore & Company Limited建造。16,243総トン、全長578フィート、全幅70フィート、喫水30フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力16.5ノット。旅客定員1,846人 (1等235人、2等355人、3等1,256人)]

SANTA BARBARA(前頁、上)
 ニューヨークのGrace Lineは、ここに掲載したSanta Barbaraと姉妹船Santa Mariaを使用していた。往復クルーズ旅行者と、カリブの港から港に向かう旅行者を運送していた。これらの船は、外国で建造された大変に数少ない米国船籍の定期船であ る。
[1928年、イングランド、Haverton-on-Tees、 Furness Shipbuilding Company建造。8,060総トン、全長486フィート、全幅84フィート。ディーゼル、2軸。巡航速力18.5ノット。1等150人。]

BERMUDA(前頁、下)
 Furness-Bermuda Lineのニューヨーク―バミューダ島間の老朽小型船を使った観光運航は、大変に成功したので、1927年に豪華なBermudaを建造した。始め、本船は冬季のみバ ミューダ島航海に使い、残りは長期クルーズに使用するつもりであった。しかしながら、直ぐに反応が大変に良かったことから、 Bermudaの運航は通年運航になった。
[1927年、北アイルランド、ベルファスト、Workman, Clark & Company Limited建造。19,086総トン、全長547フィート、全幅74フィート。Doxford型ディーゼル、4軸。巡航速力17ノット。旅客定員691人(1等616 人、2等75人)]

MALOLO(上)
 サン・フランシスコのMatson Navigation Companyは、ハワイ諸島で観光業をそれ程展開していなかった。1927年、最大の船Mololo(後に掲載したようにMatsoniaに再命名)を使ってサン・フラ ンシスコ、ロサンゼルス、ホノルル間で1等豪華サービスを開始した。突然、豪華さが太平洋に広がったのだった。このMaloloと後の Matsonの定期船は、素晴らしい公室、広々とした船室、プール、体育館、そして美容師を含む職員が、最上級のサービスを提供すると宣 伝した。Mololoは、特にその後の全てのアメリカの旅客船に影響を与えた、新しい広範に改善された安全基準を導入した。大西洋西部に おける試運転で、本船はノルウェーの貨物船と衝突し、15年前にTitanicを海底に沈めたのと同じ衝撃を受けたのだった。隔壁の進歩 によってMeloloは助かり、7,000トン以上の海水で浸水しつつもニューヨーク港に戻ったのだった。
[1927年、ペンシルベニア州、フィラデルフィア、 William Cramp Ship builders建造。17,232総トン、全長582フィート、全幅82フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力21ノット。1等693人。]

STELLA POLARIS
 これまでに建造された最も古典的なクルーズ船の1つであるStella Polarisは、1927年にノルウェーのBergen Lineに引き渡された。億万長者級の豪華船で、Stellaはほんの165人の乗客しか収容する余地がない。夏の間本船は、フィヨルドに沿ってノース・ケープやスピッツ ベルゲン、そしてバルト海にクルーズをした。春と秋には地中海を航海し、冬には豪華な世界一周を行った。
[1927年、スウェーデン、イエーテボリ、Gotaverken Shipyards建造。5,209総トン、全長416フィート、全幅51フィート、喫水17フィート。Burmeister & Wainディーゼル、2軸。巡航速力15ノット。1等165人。]

2、巨大船

 Ile de Franceは最初の「洋上豪華ホテル」であったが、これで最後にはならなかった。1927年に竣工するや、直ぐにより大型でより高速の、そしてこれまで見たこともないよ うな気前の良い新しい選りすぐりの船の設計図が描かれたのである。その旅客設備は、Conte di Savoiaの水が流れる絨毯敷きの犬小屋から、Normandieの最上級スィートにある白いグランド・ピアノに至るまで、人類の夢が実現したと宣伝されたものだった。 こうした巨大船の全ては、最も大きな会社であってさえも、その財政の範囲を超えるものであった。幸運なことに、船舶の技術と壮大さという 国家の威信のために、政府が気前良く融資してくれたのであった。

 最大の競争は、最も速く大西洋を横断した者に対するBlue Ribbon(=青い長旗)を巡るものであった。英国のMauretaniaは22年間それを維持したが、1929年にドイツのBremenが奪った。イタリアのRexが 1933年に獲得し、その2年後、フランスのNormandieが勝ち取った。1938年までは英国にその栄光があった。Queen Maryがしっかりと確保していたのである。

 しかし悲しいことに、Queen Maryという例外を除いては、こうした巨大船は利益を出さなかったのである。たじろぐような建造から離れると、維持費と燃料費、その他の要素が圧し掛かってきた。 BremenとEuropaは、反ドイツと反ナチ感情の犠牲となって、期待した程の乗客を惹きつけることが出来なかった。Empress of Britainは、カナダや世界クルーズには大き過ぎた。RexやConte di Savoiaの「陽光溢れる南航路」は、決して豪華な北部の運航ほど、恐らくは人を誘惑するものではなかった。最後に、恐らくは最も壮大で確かに革新的な Normandieは、その大変な豪華さ故に、多くの乗客を乗せることが出来なかったのである。4年間の大西洋横断において、船体の半分 以上を満たして航海することは、滅多になかったのだった。


EUROPA
 第一次世界大戦後のドイツの復活は、信じがたいものであった。1918年には殆ど船舶は全滅したが、その後の10年には2隻の 50,000トンの船が建造されたのである。BremenとEuropa(上)であった。20年代半ばに35,000トン、全長700 フィートの船として製図版に現れた。キール(=竜骨)が敷かれて間もなくして、発想が変えられたのである。全長が900フィート以上に跳 ね上がり、機関と宿泊設備は、大西洋で最も速く、最も豪華なものとすることとなった。North German Lloydの広報部では、突飛な登場の仕方をすることに決定した。すなわち、英国のMauretaniaからBlue Ribbonを奪い去って、処女航海において2隻の定期船がすれ違うというものであった。2隻の船は、1928年8月に1日おいて進水した。その後、この野望は砕け散っ た。翌春、ハンブルグで組立作業中、Europaは出火して内部の大半が破壊されてしまったのである。修理に更に1年かかった。この結 果、Bremenは元々の予定に固執して、1隻でニューヨークに向かうこととなった。1929年7月のこの船の記録は、4日間17時間で あった。この船はBlue Ribbonを奪い取ったのである。
[Europa:1930年、ドイツ、ハンブルグ、Blohm & Voss Shipbuilders建造。49,746総トン、全長938フィート、全幅102フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力27ノット。旅客定員2,024人(1等 687人、2等524人、ツーリスト・クラス306人、3等507人)]

 1等船室の内装(左)は、当時のドイツ趣味を反映している。

Europa
 主食堂(上)と舞踏室(下)。

BREMEN
 1929年夏就航の新しいBremenで、工学技術の世界は驚嘆した。巨大な推進器は別としても、本船は、ナイフ様の船首で本質的に抵 抗を逓減させることのできる球状船首を使用していた。Europaはごく僅かに速い速力で、1930年にこの姉妹船からRibbonを奪 い取った。しかし、Bremenは間もなくして速力があることを証明し、その称号を奪還したが、1933年、遂にイタリアのRexにその 栄光は奪われた。BremenはEuropaよりも僅かに名声が上回っており、この姉妹船よりも人気があった。元々この2隻は、背の低い ずんぐりした煙突を持ち、そのためとりわけ滑らかな外観を呈していた。しかし艫の旅客甲板に、煙とすすがしばしば溜まったことから、煙突 は2倍の高さにされたのである。
[Bremen:1929年、ドイツ、ブレーメン、A/G Weser Shipbuilders建造。51,656総トン、全長938フィート、全幅102フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力27ノット。旅客定員2,200人(1等 800人、2等500人、ツーリスト・クラス300人、3等600人)]

North German Lloydの広報部は、このドイツの姉妹船がニュースになるよう努力し続けていた。その船歴の初期においては、カタパルトに備えられた水上飛行機が、2本の煙突の間に置か れていた。本船が接岸する36時間前に、飛行機で郵便が送られた(下)。この企画はしばらくは成功したが、終いには費用がかかり使いにく いことが判明した。1935年までに、この技術は取り除かれた。

EMPRESS OF BRITAIN
 1928年にCanadian Pacificは、ニューヨークから出ていた伝統的な航海から離れて、中西部や西部のアメリカ人を誘致することを期待して、ケベック・シティからの大西洋運航向けに豪華定 期船を発注した。1930年6月11日にEmpress of Britainとして進水したが、その時初めて式典の模様が、カナダと合衆国にラジオ放送された。処女航海の後、新奇さが失われ、終わりにはその北での運航は、洒落た船に よるマンハッタンからのより短距離の、魅力に満ちた横断航海には太刀打ち出来ないこととなった。Empress of Britainの設計者は、冬季の世界一周クルーズ用に用心深く準備し、1939年1月まで(除く1933年)、ニューヨークから30,000マイル、128日間の地球一 周旅行を行ったのである。
 この旅行では燃費を逓減すべく、2基の外部暗車が船内に持ち込まれた。航路は伝統的なものであった。地中海を東に進んでスエズ運河から インドに抜け、ジャワ島、バリ島、中国、日本、アメリカ西海岸、そしてパナマ経由でニューヨークに戻ってくるもの。Empressは30 年代にBremenが通過するまで、スエズ運河とパナマ運河を通過した最大の船という記録を保持していた。こうしたクルーズの料金は、小 額ではなかった。最低でも2,100ドルであり、スィートは16,000ドルもした。召使は更に1,750ドルの追加であった。しかしこ のクルーズは赤字であった。Empress of Britainは当時、最も利益の出ていない船の1隻であった。本船の誇りある瞬間は、恐らく1939年に訪れたといえる。King George VIとQueen Elizabethが6月に北米を親善訪問した時、本船に乗船してイングランドに帰国したのである。この王族夫妻と側近らは、横断のため一連のスィートを占有した。
[1931年、スコットランド、クライドバンク、John Brown & Company Limited建造。42,348総トン、全長758フィート、全幅97フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力24ノット。旅客定員1,195人(1等465人、ツーリ スト・クラス260人、3等470人)]

 Empress of BritaimのMayfair Loungeは、古代ギリシャ建築の趣を取り込んだものだった。銀製の現代的な意匠を取り込んだ豊富な胡桃が、壁の羽目板に使用されていた。円柱と壁柱は、人造大理石製で あった。丸天井は琥珀色の硝子の羽目板が使われ、肋材の交差するところには十二宮図の記号が浮き彫りにされる一方で、それぞれ黄金色の陽 光を受けていた。
 大英帝国から仕入れた豊富な木材で、豪華なアパートの居間が装飾されていた。
 1等の体育館には電動木馬、ボート扱ぎや自転車の機械、パンチ・バッグ、メディシン・ボール、そして「自動式ラクダ」があった。

Empress of Britain
 Mayfair Lounge(前頁)。豪華なアパート(上)。1等の体育館(下)。

REX
 他の汽船会社との大競争の最中、Italian Lineはその最大の2隻の定期船、RexとConte di Savoiaの、大変に魅力的で熱心な広報活動を行った。両船は「Riviera afloat(=洋上のリビエラ)」と呼ばれていた。その主題を実現すべく、砂が屋外プールの周りに撒かれ、多色の傘で強調して、浜辺のような効果を作り出していた。この 姉妹船が完成した当初は最大かつ最速であった。Rexは1931年8月、イタリア国王夫妻の出席の下、命名された。記録破りの処女航海の 終点において、この最初の航海はもの悲しい結果に終わった。Mussolini首相の見送りを受けて本船は、国際的に有名な乗客を乗せて 1932年9月にジェノバを出港した。しかしジブラルタルに接近中、深刻な機関不調が生じたのである。修理に3日間要した。乗客の半分は 下船を希望した。大西洋上では更に面倒な事態が生じた。ヨーロッパに戻る前に、ニューヨークで長い修理が必要だったのである。1933年 8月、Rexは遂にBlue Ribbonを獲得した。この栄光はNormandieが就航するまでの2年間、保持された。
[1932年、イタリア、ジェノバ、Ansaldo Shipyards建造。51,062総トン、全長880フィート、全幅96フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力28ノット。旅客定員2,258人(1等604人、2 等378人、ツーリスト・クラス410人、3等866人)]

Rex
 このリド・デッキは、大西洋横断定期船最大のものであった。

CONTE DI SAVOIA
 Rexほど人気や突飛なものではなかったが、記録破りではなかったものの、Conte di Savoiaは1932年11月に処女航海に成功した。しかしアメリカから900マイル沖で、喫水線の下にある排水弁が塞がって、船体にかなり大きな穴を開けたのである。 間もなくして、この巨船の発電区画は海水で溢れた。検査の結果、5時間から8時間で沈没するかもしれないと計算された。しかし幸運にも、 船員と機関士らの超人的な働きのおかげで、穴をセメントで塞ぐ応急修理は成功したのだった。
[1932年、イタリア、トリエステ、Cantieri Riuniti dell'Adriatico建造。48,502総トン、全長814フィート、全幅96フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力27ノット。旅客定員2,200人(1等 500人、2等366人、ツーリスト・クラス412人、3等922人)]

NORMANDIE
 Normandie(左)は、30年代の世界で最も魅力に満ちた船であった。建造に6000万ドルがかかったが、両大戦間においてこれ に匹敵するものはなく、フランス政府の意向が強く働いていた。新奇さと浪費が、本船の意匠の基調であった。Ile de Franceを建造した有名なPenhoet造船所が指名され、併せてヨーロッパ最高の設計者、内装業者、彫刻家、技術者、専門家が指名された。皇帝の軍艦の設計者であっ たVladimir Yourkevitchが据えられた。本船は当初「super-Ile de Frence」として知られ、その後French Lineは徐々にその魅力的な詳細を公表していった。すなわち、全長1,000フィートを超えた最初の定期船であり、60,000トンを超えた最初の船であることである (下の写真の4本マストのスクーナーと比較すれば、その大きさが判るだろう。)。そのパリの事務所では、船名の提案に忙殺されていた。す なわち、Neptune、Lindbergh、Pershing、President Doumer、Jeanne d'Arc、Napoleon、Benjamin Franklin、そしてMaurice Chevalierというものさえもあった。全部で6クォートになる世界最大のシャンペーン瓶を使って、フランスのファースト・レディー、Lebrun夫人が、1932年 10月の進水式でNormandieを命名した。進水台にはグリースとして何トンもの石鹸、スェット、ラードが使用された。そこまでして も、100人の作業員が余波でロアール川に押し流されたのである。大恐慌の犠牲者となったこの大型定期船は、艤装船渠にしばらく係船され た。処女航海は、1935年5月まで延期された。
[1935年、フランス、サン・ナゼール、Chantiers de l'Atlantique建造。82,799総トン、全長1,028フィート、全幅117フィート。蒸気ターボエレクトリック・エンジン、4軸。巡航速力29ノット。旅客 定員1,972人(1等848人、ツーリスト・クラス670人、3等454人)]

 処女横断航海では、Normandieは平均32ノットで全ての記録を打ち破った。本船の時間は4日間3時間14分であった。イタリ ア人はRexが保持していたBlue Ribbonを泣く泣く手放した。Berlin Radioは、BremenとEuropaの「本当の」速力が直ぐに示され、この栄光を奪還すると報じた。英国は静かにNormandieは復路の航海の半ばで恐らくひび が入るだろうと報じた。裏面(次頁)には、この偉大な定期船の半分の船員、すなわち上級船員や各部門の責任者、庭師からボーイまでの約 675人の姿が見える。

Normandie
 1等食堂(前頁、上)は、ベルサイユ宮殿のHall of Mirrors(=鏡の間)よりも僅かに大きかった。確かに出帆した最高に傑出した部屋であり、Laliqueの備品や打ち出された銅や硝子で創造された堂々としたもの だった。他のものも、同様に肝を潰すようなものだった。長さ300フィートに及ぶ3層の高さを持つ1,000席の食堂。屋内プールは等級 別の深さで、80フィートの長さがあった。劇場は2階建て、380席。礼拝堂は全部で100席あり、快適であった。車庫には100台の乗 用車を収容した。大きな玄関、個人用の居間、バー、グリル・ルーム(=焼肉食堂)、テラス・カフェ、ライティング・ルーム(=書斎)、図 書室、射撃練習場、変わったお店、銀行、洋品店、体育館、子供や召使用の特別食堂があった。新鮮な草花や噴水、籠に入った鳥を自慢とする ウインター・ガーデン(=冬園)。主食堂の外には、髪粉をつけたカツラを被ったドアマン(=扉係)がいた。
 グランド・ホールに通じる壮大な銅製の2枚扉(前頁、下)は、第二次世界大戦初期に撤去され、最終的にはニューヨークのブルックリン・ ハイツのOur Lady of Lebanon Churchに通じる通りで見かけることとなった。
 美しいDupas硝子の羽目板がメイン・ラウンジ(上)を覆い、特注のAubussonのタペストリーが椅子の室内装飾に使用されてい た。
 グランド・サロン(下)のような本船のツーリスト・クラスの宿泊設備は、当時の他の殆どの定期船に比べ、傑出したものだった。

QUEEN MARY
 1934年に合併する前、CunardとWhite Starは、それぞれ超定期船を計画していた。Cunardはスコットランドのクライドバンクに80,000トン船を発注した。White Starは60,000トンの発動機船を念頭に、ベルファストのHarland and Wolffを予定していたが、この会社の不健康な財政状態は、大恐慌で更に悪化し、その「夢の船」は放棄された。Cunardの定期船は、造船所の断続的な、しばしば長期 に亘る遅延があったものの、生き残った。当初、本船の名前は極秘にされていた。Cunardのリバプールの首脳陣からは、よろけるような 数字が示された。同じ頃、イギリス海峡の向こうでは、フランスのNormandieが建造中であった。両者の競争は、進水前から始まって いた。メアリー王妃は1934年9月、この定期船に自分の名前を付けるためにクライドに向かった。英国の王族による最初の命名であり、王 妃としての24年間で最初の公衆に対する女王演説として注目された。新しいQueen Maryは、Normandieの1年後、1936年春に姿を見せた。本船は競争相手ほど現代的ではなかった。その代わりCunardは、内装に見栄を張らずに威厳のある 外観の船を建造したのだった。
[1936年、スコットランド、クライドバンク、John Brown & Company Limited建造。81,235総トン、全長1,O18フィート、全幅118フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力29ノット。旅客定員2,139人(1等776人、 ツーリスト・クラス784人、3等579人)]

Queen Mary
 1等のメイン・ラウンジにおける荘厳さと威厳は明らかである。1936年夏の6回目の大西洋横断において、Maryは NormandieからBlue Ribbonを奪った。激しい戦いの後、Normandieは1937年にこの称号を奪還した。1年後、Queenは31ノット近い速力の、3日間21時間で走って、その 賞旗を奪い返した。2隻の超定期船の競争は、速力ばかりではなかった。他に数字の宣伝合戦があった。1935年、Normandieの総 トン数は79,000を丁度超えたところであった。世界一大きな船であった。1年後、Maryは81,000になった。勝たせないために Normandieは、船尾甲板に大きな甲板室を作ってトン数を83,000に押し上げた。こんなことが、当時の国家や法人の競争であっ た。
 端艇甲板(次頁)の広々とした場所では、乗客が暇な時間に散歩していた。

5隻の巨船
 時折、世界最大の定期船が、一緒に接岸してヨーロッパとの間を往復していた。この1937年3月にニューヨークで撮影された写真には、 Europa、Rex、Normandie、Georgic、そしてBerengaria(左から右)が写っている。

3、大恐慌

 どの旅客船会社にとっても、最も不景気な時期であった。正に生きていくために必要な血液、すなわち乗客がごっそり姿を消したのであ る。1929年には100万人以上の乗客が大西洋を横断していた。1935年までに、その数字は半分近くに落ち込んだのである。

 ちょうどその時期に、最も偉大な巨大船が政府の金で支援され建造されていたが、定期船はその存続を巡ってもがいていた。クルーズに送 られるものもあったが、時には船体の半分も満たしていなかった。係船になれば良い方で、最悪の場合、スクラップとなった。他の船で運の良 いものはなく、古典的なAtlantic Transport LineのMinnetonkaの場合、この21,000トンの船は、船齢10年で1934年に捨てられたのだった。

 Aquitaniaの例外を除くと、大西洋の古い女王達は消え、4本煙突の船は姿を消した。終いには、時間のかかる骨の折れる撤去作 業となった。染みの付いた窓、ソファ、マントルピース、更には洗面器の果てまで、時折、郷愁的なファンのために競売に付された。そして 空っぽとなった船体は、解体業者の下に送られたのだった。


不況の運航
 Blue Ribbonを22年間保持したCunardの王様Mauretania(上)は、30年代初期に白色に再塗装して、現実逃避的な航海である週末のクルーズ (cruises to nowhere)に送られた。ハバナ、ナッソー、ポルトープランス、バミューダ島にも旅をした。1934年のナッソーへの6日間のものが、70ドルであった。
 別のCunarderであるBerengaria(次頁)は、同様の深刻な問題を抱えていた。不景気で利益が食いつくされ、その老朽化 した船体はボヤの餌食となり、職員は減らされて、すっかりうらぶれた有様であった。この船は不況クルーズに切り替えた。すなわち、米国禁 酒法に打ち勝つ宵越しの「booze cruises(=酒盛りクルーズ)」、週末航海、東海岸からノバ・スコシアへの小旅行、バミューダ島やカリブ海への不定期運航。価格は安く、その時代には適切なもので あった。繁盛した大西洋横断時代の本船を知る者は、今やこの船を「Bargain-area(=バーゲン・エリア、「安売り地帯」の意) と呼んだのである。

スクラップ
 分解の工程において、しばしば恐ろしい場面が現れるものである。この場面は、スコットランドの解体業者での1938年の Berengariaの船上。以前の大舞踏室や船室がガラクタと化している。遊歩甲板と端艇甲板は破片で散らかり、前方の煙突は潰れ落ち ている。

OLYMPIC
 偉大な船舶は大恐慌時代、死に物狂いになって収益を追い求めていた。Cunard-White StarのOlympicは、毎年の分解検査の間、サウサンプトンの浮き船渠で休養し、one-day Bank-Holiday cruises(=祝日1日クルーズ)を行っていた。
[1911年、北アイルランド、ベルファスト、Harland & Wolff Limited建造。46,439トン、全長882フィート、全幅92フィート。3段膨張式往復蒸気機関、3軸。巡航速力21ノット。1932年当時、旅客定員1,447 人(1等618人、ツーリスト・クラス447人、3等382人)]

クルーズへの動き
 この時代に生き残った定期客船は、生き残るために、もがかなければならなかった。イタリア政府は1932年に3社の大西洋の会社から、 Italian Lineを設立した。North German LloydとHamburg Americaは、Hapag-Lloydとして運航すべく合併した。Cunardは、1934年に財政的に病んでいたWhite Star Lineと一緒になった。連合して直ぐにCunard-White Starは、8隻の定期船を解体工場に送った。この中には巨大なMajesticとOlympicが含まれていた。
 White Star Doric(一番上)も、30年代初期に北大西洋から引っ張り出された。クルーズ定期船に改造されて、本船は地中海、カナリア諸島、スカンジナビア、カリブ海に航海を行っ た。本船は僅か12年間運航して、1935年にスクラップとして売却された。
[1923年、北アイルランド、ベルファスト、Harland & Wolff Limited建造。16.484総トン、全長601フィート、全幅68フィート、喫水31フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力16ノット。旅客定員2,300人 (キャビン・クラス600人、3等1,700人)]

 Italian LineのRoma(上)は、1935年にニューヨークから58日間の地中海クルーズに出帆した。料金は340ドルからで、マディラ島、カディス、タンジール、マラガ、ア ルジェ、パルマ・デ・マリョルカ、カンヌ、マルタ、ポート・サイド、ハイファ、ベイルート、ロードス島、スポラデス諸島(「日中通過」と して宣伝)、イスタンブール、ボスポラス海峡、ピレウス、コルフ、コトル、ドゥブロブニク、ベニス、メッシナ、ナポリ、モナコ、サウサン プトン、ブーローニュ・スル・メール、ロッテルダムを周ってニューヨークに戻って来た。
[1926年、イタリア、ジェノバ、Ansaldo Shipyards建造。32,583総トン、全長709フィート、全幅82フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力22ノット。旅客定員1,675人(1等375人、2 等600人、3等700人)]

PARIS
 その料理で歓呼の声をもって迎えられた豪華Parisは、30年代初期に満船となった航海は3回しかなかった。French Lineは、本船をクルーズ業務に就かせて「係船」される可能性を避けていた。ある者にとっては、たったの300人の億万長者を乗せて地中海やスカンジナビアを怠けて放浪 しているような船を保有することは、恥じずべきことあるように思えたものだった。

不況の影響
 アムステルダム―インドネシア間の貨客結合船でさえ、大きな打撃を受けた。Nederland Lineは、オランダからノルウェーのフィヨルドに向かう「若者クルーズ」に、Tarakan(前頁、上)を送る力があった。600人もの10代の少年が、25ギルダーも しない特別にあつらえた共同寝室で旅をした。
[1930年、オランダ、ロッテルダム、 Wilton-Fijenoord Shipyards建造。8,183総トン、全長469フィート、69フィート、喫水32フィート。M.A.N.ディーゼル、1軸。巡航速力14.5ノット。旅客定員21 人]

 大恐慌時代、かってなく多くの船が不景気となり、老朽船の多くは通常のあるいは強制的な引退に追い込まれた。こうした老朽船は一般 に、修理や維持に手間がかかったものだった。それゆえ金がかかったのだった。Union Castleの船齢30年のWalmer Castle(前頁、下)の1932年の姿。乗客の中には、Rudyard Kiplingがいた。
[1902年、北アイルランド、ベルファスト、Harland & Wolff Limited建造。12,546総トン、全長578フィート、全幅74フィート。4段膨張式往復蒸気タービン、2軸。巡航速力17.5ノット。旅客定員754人(1等 336人、2等174人、3等244人)]

 Majestic(上)は、1936年3月にサウサンプトンに最後の接岸をした。2ヶ月後、本船は英国の解体業者に、ほんの 115,000ポンドで売却された。マストは切り倒され、煙突は短くされ、救命艇は撤去された。その後、少しばかりの猶予期間が置かれ た。解体業者は本船を海軍省に売却し、恒久的に係留される訓練船H.M.S. Caledoniaとなった。不幸なことに、本船は1939年に火災に遭い、その後間もなくして、戦争のため分解された。

LEVIATHAN
 United States LinesのLeviathanの最期は、最も悲惨なものだった。4年近くもかけて、ゆっくりとした死が迫ったのだった。1934年9月の最後の商用航海を終え、ホボケン に接岸して幽霊船となった。救命艇は消え、煙突には蓋がされ、船内は静まり返り、警備員が寂しく寝ずの番をしていた。もう1つの大戦が 迫っていることを予期する者は殆どいず、本船を軍隊輸送船として使われる可能性を見出すことはできなかった。船主は本船を復活させること を諦めた。1938年の冬、無数の曳船が船台からこの恐竜を引っ張り出し、骸骨の船員らと共に、海を渡ってスコットランドの解体業者に送 られたのである。

BELGENLAND
 Red Star LineのBelgenlandは、その晩年Columbiaと改名したが、20年代終わりから30年代初期の、人気クルーズ船であった。しかしその後、賑わいや忠実な支 持者は、突然消えたのだった。格安「booze cruises(=酒盛りクルーズ)」でさえ、失敗した。1936年5月4日、解体工場で故意に座礁させられ、本船には懐中電灯を持った一群が乗り込んで来た。それ自体 は、見捨てられた船員らに対し職を提供する仕事であった。
[1914年―1917年、北アイルランド、ベルファスト、 Harland & Wolff Limited建造。24,578総トン、全長697フィート、全幅78フィート。3段膨張式往復蒸気タービン。巡航速力17ノット。旅客定員2,600人(1等500 人、2等600人、3等1500人)]

PILSUDSKI
 ポーランドのGdynia America Lineは、30年代までに新船の必要性が大いにあったが、十分な資金の余裕がなく、何もできないでいた。新たな道が開けた。ポーランドはイタリアに2隻の14,000ト ンの旅客船の見返りに、5年分の石炭を提供したのである。新船のPitsudski(上)と姉妹船Batoryは、12を下らない国々か らの原料や備品で建造されていた。愛情を込めて、「international ships(=国際的な船)」と呼ばれていた。台所道具、釜、消防器具、ジャイロコンパスは合衆国製。錨、洗濯機、冷蔵設備はデンマーク製。船体に使われている鋼材はチェ コスロバキア製。イングランドは操舵装置、ボイラー、プロペラを提供。スコットランドは蒸気設備。船首と船尾の部分はハンガリーが引渡 し、メッキ材はオーストリア。救命艇の鈎柱と配電盤はドイツ。そして燃料ポンプと機関の部品はスイス製であった。
[1935年、イタリア、Monfalcone、Cantierl Riuniti dell'Adriatico建造。14,294総トン、全長526フィート、全幅70フィート。Sulzerディーゼル、2軸。巡航速力18ノット。旅客定員759人 (ツーリスト・クラス355人、3等404人)]

4、植民地、クルーズ、そして郵便

 既存の船体を手をつけずに何とか維持しているところがある一方で、大恐慌にも拘らず実際に新しい定期船を何とかして加えている船主も いた。

 新船は中型の大きさになる傾向があった。大西洋においてはより倹約し、いとも簡単にクルーズに押し出され得るものとなっていた。他の 航路では、より広大な植民帝国に依拠するようになっていた。これらの船舶は行政官やその家族、軍隊、貿易商人にとって極めて大切な連絡路 であり、更に本国間の貨物と郵便の絶え間ない流れにとって重要であった。全く快適でまずまずのものであり、こうした船舶は巨大な大きさや 速力を持つ必要が殆どなかったのである。

 クルーズ船は、ここでも中型の大きさであったが、重要性が増していた。というのはこの世界情勢から現実逃避するための手段であったか らである。しかし純粋のクルーズをするものは殆どなかった。港から港に向かう乗客も扱い、広くはなくても貨物空間を設けて帳尻を合わせて いたのである。郵便契約による援助がある例もあった。

 郵便は当時、正に旅客船が存在していることの正当化理由であった。貨物船はこの貴重な貨物を扱うことはできたが、かなり速力の遅いも のであった。そのために多くの定期船が30年代に大いに利益を出したわけではないものの、世界政治と航空機との競争がなかったことから、 貨客船として生き残ったのである。極めて単純なことであるが、多くの旅行において、船は文字通り旅行のための唯一の手段だったのである。


BRITANIC
 30年代の不況にも拘らず、北大西洋の定期客船会社は、実に中型の新しい良質の船を開発した。しばしば「mailships(=郵便 船)」として言及される。White Star LineのBritannic(上)は1930年5月、ベルファストから生まれ出た。リバプール―ニューヨーク間の運航向けに設計され、本船と姉妹船の Georgic(1932年)は、当時の発動機船の好例であった。すなわち、平たい煙突(前方のものは模擬煙突であり無電設備を収容して いた)と、長くほっそりとした姿を形作る低い上部構造物がそれであった。
[1930年、北アイルランド、ベルファスト、Harland & Wolff Limited建造。26,943総トン、全長712フィート、全幅82フィート。Burmeister & Wainディーゼル、2軸。巡航速力18ノット。旅客定員1,553人(1等504人、ツーリスト・クラス551人、3等498人)]

 Britannicの姉妹船Georgicの主食堂(次頁、上)は、中央部に2層の高さがあり、天井には間接照明があり、入り口には 大きな3枚の鏡が嵌め込まれていた。
 Georgicの1等の屋内遊歩甲板(次頁、下)は、現代的な絨毯と対照的に花柄の肱掛椅子とソファーがあるのが自慢であった。右に見 える垂直に伸びた「ラッパ型」の照明器具は、30年代の多くの旅客船にはよくあるものであった。

Britannic
 1等スィートの寝室(1930年)。

WASHINGTON
 Washington(上)と姉妹船のManhattanは、イギリス海峡の港湾やハンブルグに行くUnited States Lines向けに建造された。簡素な調和の取れた2本のマストと2本の煙突を備えており、この概念は後年のCunardのQueen Elizabethに見られたものであった。
[1933年、ニュージャージー州、カムデン、New York Shipbuilding Company建造。24,289総トン、全長705フィート、全幅86フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力20ノット。旅客定員1,130人(キャビン・クラス 580人、ツーリスト・クラス400人、3等150人)]

 Washingtonの上級船員は、定期的に船橋で試験を受けた。下の写真は、六分儀の使用法を試験しているところ。

Washington
 本船の内装は概して現代的な指向であったが、この喫煙室は初期の様式に立ち帰ったものであり、木彫りの彫刻、どっしりとした家具、中央 の明かり窓、そしてアメリカヘラジカ、鹿、バイソンの剥製があった。この部屋は、明らかに男性の領分であった。

LANCASTRIA(上)
 CunardのLancastriaが、1937年秋、荒天の中、外洋に向かっているところ。30年代、本船の船主は大西洋において最 大の船隊を保有し、最も広範に展開している会社であった。旅客運航は、ロンドン、サウサンプトン、リバプール、ベルファスト、グラス ゴー、Cobhの他、イギリス海峡の向こうのル・アーブル、シェルブール、更には遠くのハンブルグからも運航していた。 Cunardersはニューヨーク、ボストン、ハリファックス、セントジョンズ、ケベック・シティ、モントリオールに寄港した。それ自 体、Cunardは小さな帝国であった。

CALAMARES(次頁、上)
 CalamaresのようなUnited Fruit Companyの貨客結合船は、「Great White Fleet(=偉大な白い船団)」として知られていた。広範な魅力的な船舶からなっており、全ての船隊はさっぱりとした白に塗装され、約100人の乗客を乗せて、中米、南 米、カリブ海への2週間か3週間の航海をした。出発地は様々であった。ニューヨーク、ボストン、ボルチモア、更にはニューオーリンズで あった。航空機による大量輸送が始まる前のこの時代、船は現実離れした遠くの土地に向かう、最も壮大で最も包括的な旅を提供していた。
[1913年、北アイルランド、ベルファスト、Workman, Clark and Company建造。7,782総トン、全長470フィート、全幅55フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力15ノット。1等143人]

SANTA PAULA(次頁、下)
 30年代、ニューヨークから出ていた旅客船は、多くが8日間から10日間の航海であったが、しばしばマンハッタンの岸辺の昼食時間の見 物人のために、行進をしたものだった。この航空写真では、3隻の正午の出港が写っている。Santa Lucia(下)は南米クルーズに向かっている。President Harrison(上、左)は、4ヶ月間世界一周旅行に出発したところ。そしてSanta Paula(上、右)は、カリブ海に2週間。Santa PaulaはGrace Line向けに建造された4隻の姉妹船の1隻であり、インドと南米に、ニューヨークとサンフランシスコとから出ていた。本船の設計は、300人の乗客と約7,000トンの 貨物という調和の取れたものだった。宿泊設備は高水準で、高く評価された熱帯風の新奇なもの。2本の煙突の間にある食堂は、天井が巻き上 がるようになっていて、乗客が星の下で食事ができるものだった。
[1932年、ニュージャージー州、Kearny、Federal Shipbuilding and Drydock Company建造。9,135総トン、全長508フィート、全幅72フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力19ノット。旅客定員300人(1等240人、2等60 人)]

ORIENTE(前頁)
 Ward LineのOrienteは、ニューヨークからハバナへ7日間クルーズに隔週で航海した。ハバナはその後、カリブ海で最も人気のある寄港地の1つとなった。本船は最低料金 が75ドルからの、新婚客に最も好まれた船だった。
[1930年、バージニア州、ニューポート・ニューズ、 Newport News Shipbuilding and Drydock Company建造。11,520総トン、全長508フィート、全幅70フィート。ターボエレクトリック、2軸。巡航速力20ノット。旅客定員530人(1等430人、 ツーリスト・クラス100人)]

 屋外に恒久的に装着されたプールは、30年代までに僚船に引き継がれた。Oriente(下)には、サイド・ベンチ(注、プール脇の ベンチ)や多色の傘が開いたテーブルがあった。甲板で昼食を摂り、夕食前にカクテルを傾け、夜空の下でダンスをしたのだった。

ALCANTARA(上)
 英国やヨーロッパの港から南米への運航は、30年代、かなり大きなものとなっていた。1等船客が、本船を商用や休暇で使用していた。し かし北大西洋で3等客からの収益が最大であったように、新生活を捜し求め、あるいは圧制を逃れて来た移民が最大の収入源であった。本国行 きの便は、冷凍区画にアルゼンチンの牛肉を大量に輸送することで、利益を上げていた。Royal Mail Linesの英国のAlcantaraは、ラテン・アメリカ航路において最大かつ最速の船の1隻であった。姉妹船Asturiasと共に、本船はシェルブール、リスボン経 由でサウサンプトンからリオ・デ・ジャネイロ、サントス、モンテビデオ、ブエノス・アイレスに月に1回の運航であった。最後には2週間も 立ち寄り、少なくとも数少ない1等船客にとっては理想的なクルーズであった。
[1927年、北アイルランド、ベルファスト、Harland & Wolff Limited建造。22,909総トン、全長666フィート、全幅78フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力18ノット。旅客定員1,319人(1等331人、2等 220人、3等768人)]

MONARCH OF BERMUDAとQUEEN OF BERMUDA(前頁)
 Monarch of BermudaとQueen of Bermuda(上)が、バミューダ島のハミルトン港に並んで接岸している。当時の世界標準からして豪華であり、「millionaire's ships(=百万長者の船)」として知られるようになった。全ての船室には便所と十分な浴槽あるいはシャワーが備えつけれており、30 年代初期の先例となった。時折この姉妹船は、大変な人気だったことから、バミューダへの3週間毎のクルーズで、4,500人もの乗客を輸 送した。
[Monarch of Bermuda:1931年、イングランド、ニューカッスル、Vickers-Armstrongs Shipbuilders Limited建造。22,424総トン、全長579フィート、全幅76フィート。蒸気ターボエレクトリック、4軸。巡航速力19ノット。旅客定員830人(1等799 人、2等31人)。
Queen of Bermuda:1933年、イングランド、ニューカッスル、Vickers-Armstrongs Shipbuilders Limited建造。22,575総トン、全長580フィート、全幅76フィート。蒸気ターボエレクトリック、4軸。巡航速力19ノット。旅客定員731人(1等700 人、2等31人)]

 Queen of Bermudaの2層の高さのメイン・ラウンジ(下)は、ほっそりとした金属と調和のとれた磨かれた木材で作られ、遠くに舞台があった。その装飾の上に換気のための白い送 風管が見える。

ALBERTVILLE(上)
 Belgian LineのAlbertvilleは、アントウェルペンからコンゴの港まで航海する、植民地運航をしていた。
[1928年、フランス、サン・ナゼール、Ateliers et Chantiers de la Loire建造。11,047総トン、全長521フィート、全幅62フィート。ディーゼル、2軸。巡航速力16.5ノット。3等級に400人]

IROQUOIS(前頁)
 Clyde Mallory Linesのアメリカの定期船Iroquoisは、冬にはニューヨークとマイアミ、ジャクソンビル、ハバナへの運航、夏にはメーン州からノバ・スコシア州への航海をしてい た。
[1927年、バージニア州、ニューポート・ニューズ、 Newport News Shipbuilding and Drydock Company建造。6,209総トン、全長409フィート、全幅62フィート、喫水21フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力18ノット。旅客定員600人。]

STRATHMORE(上)
 P & O Steam NavigationのStrathmoreは1935年8月に就航したが、「Down Under(=オーストラリア・ニュージーランド地方)」向けに建造された最大の定期船であることで、注目された。P & OとOrient linesは30年代には全く別個の会社であったが、両社はオーストラリア運航を支配していた。合わせて20隻以上の定期船が、ロンドン又はサウサンプトンから、フリマン トル、ブリスベン、メルボルン、シドニーに航海した。ここの船には2つのタイプがあった。大型の、概して20,000トンを超えるもの は、一般の旅客事業を扱った。第二集団の、小型で遅く、通常古い船は、最下級船室のような1人部屋に、大量に乗客を乗せる移民船として使 われていた。
[1935年、イングランド、Barrow-in- Furness、Vickers-Armstrongs Shipbuilders Limited建造。23,428総トン、全長665フィート、全幅82フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力20ノット。旅客定員1,110人(1等445人、ツーリ スト・クラス665人)]

KARANJA(上)
 British India LineのKaranjaは、インドの港湾を往復する地方運航に就いていた。上甲板の船室は、植民地官僚や軍人、その家族で満員であった。その下では、1,000人以上の 「deck passengers(=甲板船客)」が、移住や巡礼や、更には遠方での事業計画のためにする航海で、本船を利用していたのだった。
[1931年、スコットランド、グラスゴー、Alexander Stephen & Sons Limited建造。9,890総トン、全長486フィート、全幅64フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力18ノット。旅客定員1,350人(サロン・クラス250 人、3等1,100人)]

PRESIDENT HOOVER(次頁)
 American President LinesのPresident Hoover(上)と姉妹船President Coolidgeは、サン・フランシスコから横浜に寄港して、香港、マニラ、上海に行く太平洋横断貿易で星条旗をたなびかせていた。
[1931年、バージニア州、ニューポート・ニューズ、 Newport News Shipbuilding and Drydock Company建造。21,936総トン、全長654フィート、全幅81フィート。蒸気ターボエレクトリック、2軸。巡航速力20ノット。旅客定員988人(1等307 人、ツーリスト・クラス133人、3等170人、最下級船室378人)]

 本船には優雅で広々とした1等メイン・ラウンジがあった(下)。

MILWAUKEE(前頁)
 大西洋横断航路でしばらく過ごしてから、Hamburg America LineのMilwaukeeは、1935年、白に再塗装され、洋上健康温泉に衣替えした。
[1929年、ドイツ、ハンブルグ、Blohm & Voss Shipbuilders建造。16,754総トン、全長575フィート、全幅72フィート。M.A.N.ディーゼル、2軸。巡航速力16.5ノット。1等559人]

海難
 ある夏のクルーズでの災難(上)。ニューヨークから出港したIroquoisは、1936年7月14日、メーン州Bald Porcupine Islandで、濃霧のため座礁した。数百人の乗員乗客が、小型の船で岸に送られ、夏の休暇の始まりは劇的なものとなった。
 1937年12月、寒さの厳しい大西洋横断航海の後で、船員がポーランドの定期船Pilsudskiに着氷した氷の大きな塊を削り取っ ているところ(右)。
 全ての遊びのクルーズが、楽しかったわけではない。500人以上の乗員乗客を乗せて休暇から戻って来たとき、Ward LineのMorro Castle(次頁)は、1934年9月8日に出火した。本船はニューヨーク港の南、僅か数時間の海域で、ジャージー海岸の沖、ほんの6マイルにいたにも拘らず、無能で混 乱が生じたために、状況は災害になったのだった。本船は委付されたが、全てが遅過ぎた。133人が死亡したのだった。行楽地の Asbury Parkに火ぶくれの船体が波によって打ち上げられ、集まった病的に詮索好きな何千人もの見物人に強烈な印象を与えた。この悲劇の調査後、アメリカの旅客船に対して、より 厳しい安全基準が設定されることとなったのだった。
[1930年、バージニア州、ニューポート・ニューズ、 Newport News Shipbuilding and Drydock Company建造。11,520総トン、全長508フィート、全幅70フィート。蒸気ターボエレクトリック、2軸。巡航速力20ノット。旅客定員530人(1等430 人、ツーリスト・クラス100人)]

MONTE SARMIENTO(上)
 30年代半ば、ナチの宣伝組織が「Strength through joy(=喜びを通じて強くなる)」クルーズを実施した。これはノルウェー沿岸やバルト海の休暇旅行を装った、様々なドイツの定期船で行われた政治宣伝活動である。 Hamburg-South America LineのMonte Sarmientoは、鍵十字の旗で飾り立てて、1回の旅行で1,500人も乗せたのだった。
[1924年、ドイツ、ハンブルグ、Blohm & Voss Shipbuilders建造。13,695総トン、全長524フィート、全幅66フィート。M.A.N.ディーゼル、2軸。巡航速力14ノット。旅客定員2,470人 (3等1,328人、最下級船室1,142人)]

NIEUW AMSTERDAM(次頁)
 Holland America Lineは、オランダで建造される最大の国際的フラグシップを建造できるだけの十分な現金を持っていた。Wilhelmina女王は、1937年春にNieuw Amsterdamを命名した。誇らしげに、本船はオランダの「Ship of Peace(=平和の船)」と呼ばれていた。起こり得る戦争で使用されることは全く予期していなかったのである。しかし本船がニューヨークに初めて横断した1938年5 月、Nieuw Amsterdamの船主達は、隣接するナチ・ドイツの脅威の増大を無視することは出来なかったのだった。
[1938年、オランダ、ロッテルダム、Rotterdam Drydock Company建造。36,287総トン、全長758フィート、全幅88フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力20.5ノット。旅客定員1,220人(1等556人、 ツーリスト・クラス455人、3等209人)]

Niew Amsterdam
 この定期船はオランダの「国家の船」であり、ちょうどフランスのNormandieや英国のQueen Maryのようなものであった。オランダの多くの芸術家がこの船の一部を創造する栄誉のために競い合ったが、それは明るい色を使った広々としたものであった。船主は本船を 「明日の船」であると宣言したが、確かにこのスリナム・スィートの居間のようなもので明らかなように、本船は30年代の最も現代的なヨー ロッパの定期船であった。

5、1939年

 ヨーロッパと極東で戦争への準備がなされる不安な年ではあったが、遠洋定期船事業は続いていた。ニューヨークにいる間は監視が厳しく なっていたが、BremenとEuropaは以前のように運航していた。2月にはNormandieがカーニバルのためにリオにクルーズ をし、Empress of Britainは、いつものように4ヶ月かけて世界を一周していた。

 20年代以来のどんな時よりも速く、造船所から新しい定期船が生まれていた。世界中の航路向けに、アメリカ、英国、フランス、オラン ダ、スウェーデン、ドイツ、そして日本の定期船でさえも建造され、あるいは真新しいフラグシップが発注されていたのである。そして突然9 月1日に、全ては崩壊したのであった。

 殆ど全ての定期船運航は休止し、商用運航はそれが一時的なものであったとしても、脇に置かれたのである。定期船を素早く輸送船や兵員 輸送船に改造するために、造船所はフル操業となった。

 多くの船舶、とりわけ巨大船は、この年の暮れは無事に過ごした。中立国の、例えばアメリカの船舶は疎開で活躍した。動きの素早い敵の 陸軍の脅威から脱出することが出来た、収容人員の3倍以上の何千人もの幸運な人々で一杯であった。


戦争の足音
 1939年の夏、Europaの船尾でナチの旗が翻っている(前頁、上)。
 51,000トンのBremen(前頁、下)が1939年の冬の南米クルーズでパナマ運河を通過している。通過した船の大きさ記録を打 ち立て、ドイツの力を誇示した。旅客定期船によって作られたこの記録は、35年後近くまで破られることはなく、66,000トンの Queen Elizabeth 2がドイツ船を打ち破った。
 6月、Hamburg Americaの定期船St. Louisは、ナチのドイツから逃れて来た915人のユダヤ人を乗せて、島に上陸することを拒否されてハバナ沖で漂流した(上)。友人や親戚は岸から手を振ることができる だけであった。キューバの警察と軍人を乗せた小型船が、自殺しようと飛び降りるかもしれない者を拾い上げるため本船を取り囲んだ。本船は キューバ海域から離れることを余儀なくされ、ヨーロッパに戻った。
[1929年、ドイツ、Vegesack、Bremer Vulkan Shipyards建造。16,732総トン、全長574フィート、全幅72フィート。M.A.N.ディーゼル、2軸。巡航速力16ノット。旅客定員973人(キャビン・ クラス270人、ツーリスト・クラス287人、3等416人)]

PARISの全壊
 Normarodieは、4月18日にParis(右)から出火して、直ぐに転覆したため、ル・アーブルの乾船渠に一時的に閉じ込めら れた。Parisは、この10年間に火災で全壊した12隻近いフランス所有の旅客船の1隻であった。

GEORGIC(前頁、上)
 一方、世界の大部分では、水平線上の暗雲を無視し続けていた。Cunard-White Starは威厳あるGeorgicを、ニューヨークからハリファックスに行く4日間独立記念日週末クルーズに送っていた。この現実逃避は45ドルであった。
[1932年、北アイルランド、ベルファスト、Harland & Wolff Limited建造。27,759総トン、全長711フィート、全幅82フィート。Burmeister & Wainディーゼル、2軸。巡航速力18ノット。旅客定員1,542人(キャビン・クラス479人、ツーリスト・クラス557人、3等506人)]

MAURETANIA(前頁、下)
 Cunardの2代目Mauretaniaは、6月にニューヨークで初めて歓迎を受けた。しかし数回の周回旅行の後、本船は灰色に再塗 装され、銃が備えつけられた。本船の収容力は1,360人の乗客から、7,124人の兵隊に跳ね上がった。
[1939年、イングランド、バークヘッド、Cammell Laird Shipbuilders Limited建造。35,738総トン、全長772フィート、全幅89フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力23ノット。旅客定員1,360人(キャビン・クラス 440人、ツーリスト・クラス450人、3等470人)]

COLOMBIE(上)
 French LineのColombieは、通常はル・アーブルと西インド諸島間を運航していたが、この不吉な夏には、ニューヨークと世界博覧会への特別クルーズを行った。
[1931年、フランス、ダンケルク、Ateliers et Chantiers de France建造。13,391総トン、全長509フィート、全幅66フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力16ノット。旅客定員491人(1等201人、2等146 人、3等144人)]

COLUMBUS
 8月24日、政治情勢が混沌としている中、Europaは乗客を満載してニューヨークに向かった。未だヨーロッパ海岸の沖にいる時点 で、ベルリン政府は直ぐに戻るように命令した。灯火管制を敷いて無電封鎖をして本船は航路を戻り、ブレマーハーフェンで心配した乗客を どっさりと降ろした。別のNorth German Lloydの定期船Columbusは、その時カリブ海でクルーズをしていた。本船はハバナでアメリカ人乗客を降ろし、中立のベラクルズに突進した。12月、Hitler は急いでドイツ本国に戻るよう示唆した。この不十分に計画された航海は、バージニア州の沖300マイルほどの海域で、拿捕されることを避 けるために船員によって故意に穴が開けられて、終わったのだった。
[1922年、ドイツ、Danzig、Schichau Shipyards建造。32,581総トン、全長775フィート、全幅83フィート、喫水36フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力23ノット。旅客定員1,724人 (キャビン・クラス470人、ツーリスト・クラス644人、3等602人)]

BREMENの最後の航海
 Bremenは8月30日にニューヨークにいた。ポーランドが侵略されて平和が破られる2日前ほどのことだった。本船は軍需物資が積載 されているのではないかと危惧するアメリカ当局によって抑留された。しかしアメリカは中立の立場であり、その政治的圧力から、本船は乗客 なしで出港することがその晩に許されたのである。本船の900人の船員は、自由の女神を横切る時、ナチの敬礼をした。ある者は、いかに危 険であっても、ブレマーハーフェンに急いで直行するとみていた。しかし本船は洋上で灰色に再塗装して、カムフラージュしたのである。北に 逸れてアイスランドに行き、最終的にはムルマンクに辿りついた。直ぐに用心のためにソビエト国旗が掲げられた。それからゆっくりとノル ウェー沿岸を下り、濃霧に身を隠して沿岸に沿って進んだ。4ヶ月近くかかって、12月10日にブレマーハーフェンに接岸し、その後、2度 と航海には出なかった。1941年3月、埠頭で火災により全壊したのである。

ATHENIAの沈没(前頁)
 英国船籍のDonaldsonの定期船Atheniaは、戦争の最初の犠牲者であった。9月30日、ヘブリディーズ諸島の西方200マ イルで、本船はナチのU-boatによって雷撃され、沈没した。112人が死亡した。このニュースは人々を震え上がらせた。戦争が外洋で 始まってしまったのである。
[1923年、スコットランド、グラスゴー、Fairfield Shipbuilding and Engineering Company建造。13,465総トン、全長538フィート、全幅66フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力15ノット。旅客定員1,552人(キャビン・クラス 314人、ツーリスト・クラス310人、3等928人)]

亡命者の輸送(上)
 乗客の心配は終わった。ヨーロッパからの亡命者が、10月11日にニューヨークのイロクワ埠頭で友人に手を振っている。大西洋上におい てAtheniaが沈没することになるとドイツ海軍省から警告が出ていたので、本船は洋上で駆逐艦と出会い、沿岸警備隊が港まで護衛し た。

商用航海の終焉(次頁)
 ニューヨークのウェスト・サイドの豪華定期船埠頭の1939年秋の写真は、尋常ではなく、緊張している。Cunardの Aquitaniaは、既に戦時の灰色に再塗装されていた。船台には北ヨーロッパでの出来事の影響を全く受けていないかのように、地中海 への定期運航を継続していたイタリアのRexが並んでいる。しかし最終的には、イタリアの定期船は商用航海を行う最後の船となったのだっ た。イタリア船の航海は、1940年春に休止となった。

中立の維持
 1939年秋、獰猛なドイツのWehrmachtは、フランスを貫く情け容赦のない進撃をすることに狙いを定めた。亡命者や捕われた旅 行者の群れが、安全にアメリカに横断しようとしていた。合衆国の定期船のManhattanとWashingtonは、未だに中立であ り、商用運航の何がしかを維持しようとしていた。敵の潜水艦や爆撃機がうろつかないことを願ってアメリカ国旗が側面に描かれ、 Manhattan(上)の日光甲板や昇降口の上にさえも描かれていた。ManhattanとWashingtonは、1,200人の乗 客が乗るものとして認可されていたものであるが、この非常時においては、しばしば2,000人以上も乗せて航海した。公室で簡易ベッドを 使う一方(右)、船室を4人や6人で分け合った。更には水を抜いた屋内プールまでも使用した。Arturo Toscaniniが軍医長の船室を相部屋として使用する一方、化粧女王のHelena Rubinsteinが喫煙室のソファーを使用していた。
[Manhattan:1932年、ニュージャージー州、カムデ ン、New York Shipbuilding Company建造。24,289総トン、全長705フィート、全幅86フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力20ノット。旅客定員1,239人(キャビン・クラス 582人、1等481人、3等196人)]

6、戦時中

 1940年から1945年の間に、世界の定期船の3分の1が破壊された。超定期船は3隻を除いて沈没した。ロッテルダムの Holland-Americaの近代的な会社のターミナルや埠頭は、ひん曲がった鋼材の塊と化したのである。

 洋上における連合軍の作戦は、素晴らしい手柄であった。1941年までに、CunardのQueensから小型の沿岸汽船に至るすべ ての旅客船は、軍によって使用された。その航路や要求は様々で、しばしば変更となり、通常、最高機密であった。Mauretaniaはシ ドニーに向かい、Ile de Franceはケープ・タウン、そしてQueen Elizabethはサン・フランシスコに向かった。中型の大きさの定期船は兵員輸送船に改造され、かっての魅力溢れる運航とは大違いであった。船には10,000人もの 軍人が乗船し、朝食と夕食の1日2食で、10人掛けでそれぞれ20分間であった。朝食の開始は7時。典型的な献立は、穀物、ゆで卵、ジャ ム付きのパン、チーズ、そしてコーヒーか紅茶であった。夕食は4時30分開始で、濃厚なスープ、肉、芋かシチュー、そしてデザートであ る。1日の消費量は肝を潰すようなものだった。牛乳が240ガロン、パンが14,000個、バターが880ポンド、小麦粉が80袋であっ た。

 連合国と枢軸国の定期船には、何れも様々な運命が待っていた。大部分が兵員輸送船に転換されたが、航空母艦や病院船、外交取引所、監 獄、修理工場、更には洋上強制収容所にすらなった。火災、魚雷攻撃、空爆が当時も今も危険なものである。生き残っても、時折見分けがつか ないものとなっていた。煙突やマストは吹き飛び、新しい甲板が建造され、内装は完全に変えられたのである。

 戦争が終わった時、全てのドイツの定期船は破壊されるか戦勝品として没収された。日本には、11,000トンのたったの1隻の旅客船 (注、氷川丸のこと)が生き残っただけである。イタリアの素晴らしい船隊は、4隻を除いて荒廃した。


1940年春
 多くの定期船は安全なアメリカの海域に留まった。ホボケンの埠頭に並んで、Holland-Americaの Westernland(前頁、上)、Nieuw Amsterdam(中央)、Volendam(下)が、係船しているか、バミューダ島とカリブ海への短距離娯楽旅行の合間に休んでいた。
 その後9月に、Nieuw Amsterdamは軍隊輸送船に改造された(前頁、下)。その後6ヶ月以上に亘って本船は、1航海平均8,599人、378,000人以上の軍隊を輸送した。
 本船の美しい公室や船室を撤去する作業が、シンガポールで中国人労働者によってなされた。急いで、不注意に、あるいは間違って行われた ことから、大部分が酷く損傷を受けたのだった。家具や装飾や絨毯が、天候に拘らず、何週間もシンガポールの船渠に積み重ねられて放置され た。その後、家具はオーストラリアに運ばれ、その後サン・フランシスコに行き、1946年にロッテルダムに戻った。本船の改造では、C甲 板の全船室は剥ぎ取られて、1,000以上のハンモックが吊るされた。壮大な広間は、3段重ねの寝台に600人収容する2階建ての共同寝 室となった。劇場には386人、スィートには22人が寝た。
 New YorkのChelsea埠頭の様子(上)は、来るべき戦争が近づいている徴候を示している。下流の第54埠頭のCunarder、Samariaは商用煙突の色を黒に塗 装している。Mauretaniaは既に完全な灰色になっており、直ぐに最初の軍事航海に出るところ。一番上にはUnited States LinesのWashingtonの煙突が、平時の塗装を留めている。アメリカは公式には未だに中立であったからだった。

STOCKHOLM(上)
 スウェーデンで建造された最大の定期船Stockholmは、戦争が始まった時、未だに建造中であった。本船は全く普通の商船として 1940年3月10日にトリエステで進水した。その後間もなくして、イタリア政府が本船を拿捕し、軍隊輸送船Sabaudiaとして完成 した。本船の短い一生は、1944年7月にトリエステ港を連合軍が空爆して終わった。
[1941年、イタリア、Monfalcone、Cantierl Riuniti dell'Adriatico建造。29,307総トン、全長675フィート、全幅83フィート。Sulzerディーゼル、3軸。巡航速力19ノット。旅客定員1,350 人]

OSLOFJORD(次頁)
 別のスカンジナビアの船、船齢2年のNorwegian AmericaのOslofjordは、1940年12月磁気機雷の犠牲となった。
[1938年、ドイツ、ブレーメン、A. G. Weser Shipyards建造。18,673総トン、全長590フィート、全幅73フィート。M.A.N.ディーゼル、2軸。巡航速力19.5ノット。旅客定員860人(キャビ ン・クラス152人、ツーリスト・クラス307人、3等401人)]

王族の避難(上)
 Windsor公爵夫妻は1940年の夏にヨーロッパから避難したが、American ExportのExcaliburに乗ってリスボンからバミューダ島に特別に寄港して移動した。Windsors一族は6部屋の続き部屋を取り、それには私的な甲板区画が あり、50個以上の荷物を持って航海した。そうした避難の仕方に文句を言う人は殆どいなかった。
[1930年、ニュージャージー州、カムデン、New York Shipbuilding Corporation建造。9,359総トン、全長474フィート、全幅61フィート。蒸気タービン、1軸。巡航速力16ノット。旅客定員1等125人]

ILE DE FRANCE(次頁、上)
 戦争が勃発した時、Ile de Franceはニューヨークの埠頭に停泊していた。フランスは本船を帰国させることを熱望していたわけではなかったので、スタテン島へ10隻の曳船を使って曳航され、 30,000ドルをかけて特別に浚渫し、係船された。800人の船員は、100人の警備職員に減らされ、その後5ヶ月間、運航を休止し た。その後1940年3月、本船を借り受けた英国国防省の指揮下で、Ileは12,000トンの戦争関連物資、潜水艦用燃料、銅の鋳塊、 真鍮棒、船尾の屋外甲板に積み込まれた木枠に入れられた、あるいはそれから出した爆撃機を積んでいた。5月1日、灰色と黒の塗装で身を隠 してヨーロッパに向けて出発した。そこからシンガポールに旅をしたが、フランスが降伏した後で、本船は正式に英国によって拿捕された。

軍隊輸送船としてのQUEENS(次頁、下)
 Queen ElizabethとQueen Mary(ここに掲載)は、疑いもなく、戦争で最も傑出した軍隊輸送船であった。Churchillは、ヨーロッパでの戦争を共同して少なくとも1年間短縮することを主張 した。その速力と収容力は、目を見張るものであった。Hitlerは、この両船を撃沈することのできたU-boatの艦長に、鉄十字勲章 と250,000ドルを提供した。両船は大部分の軍艦の限界を超えたもので、通例の横断護送船団とは別個に行動していた。戦争の初期に は、この偉大な姉妹船はオーストラリアから中東やアフリカに兵士を乗せてインド洋を航海した。帰りには、戦争捕虜や負傷者、避難民を輸送 した。両船は英国風のサービスを提供していたものだが、気候の点で意図していなかったため、適切な冷房設備を備えていなかった。大変しば しば、そこは灼熱地獄と化した。1943年、この2船は大西洋間の軍隊往復輸送に転配となった。毎週、ニューヨークから英国に 15,000人を扱っていたが、これは設計された収容力の数倍の数字であった。この巨大な船が転覆する可能性を避けるため、細心の注意が 図られた。船体の安定を図るために、同数の軍隊が分離された区画に乗せられた。1943年7月に横断した際には16,683人を乗せて、 Maryは全時代を通じて最高記録を打ち立てた。両船は、1945年まで大活躍した。
 両船は、災難とは無縁ではなかった。Queen Maryはスコットランド沖で1942年10月2日、英国の巡洋艦Curacoaに衝突して沈没させた。同軍艦の338人の乗員が死亡した。Queen Elizabethの方は、上手く行っていた。しかし戦争初期の太平洋の航海で、本船はサン・フランシスコ湾で数時間座礁した。が、幸運 なことに、深刻な損傷を受けなかった。戦争終結までに、Queensは200万人の軍隊を輸送した。

QUEEN ELIZABETH
 世界最大の定期船CunardのQueen Elizabeth(上)は、戦闘が始まったとき、まだ造船所の中におり、破壊工作やナチの爆撃機の標的になっていた。本船は灰色に仕上げられ、サウサンプトンでは、クラ イドバンクから本船が到着するのを待ち受けていた。しかし連合軍の最高機密の下、本船はスコットランドから安全なニューヨークに直行した のだった。本船は、作業員を置き去りにして出港するくらい急いで航海した。危険な横断において、本船は、本船を捕捉したかもしれない如何 なる枢軸国の軍艦や潜水艦をも遥かに引き離す速力を持っていた。本船は1940年3月にニューヨークに接岸したが、平時のようにファン ファーレをもって歓迎されることはなかった。
[1940年、スコットランド、クライドバンク、John Brown & Company Limited建造。83,673総トン、全長1,031フィート、全幅118フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力28.5ノット。旅客定員2,283人(1等823 人、キャビン・クラス662人、ツーリスト・クラス798人、戦時の軍隊11,027人)]

 1940年の春、ニューヨークの第88埠頭と第90埠頭で、短期間、Queen Elizabeth(右)とNormandie(左)という史上最大の定期船が並んで停泊していた(次頁)。

NORMANDIEの破壊
 1939年9月1日、ポーランドが侵略された時、Normandieはヨーロッパに向けて洋上にいる予定であった。アメリカの沿岸警備 隊は、外国の定期船で軍需物資が移動することを恐れ、検査のため、本船の航海は数日遅れになっていた。戦争が深刻化するにつれ、ニュー ヨークにNormandieを留めるのが最善の道のように思われたのだった。翌年、フランスが降伏した時、本船はマンハッタンの第88埠 頭にまだ留まっていた。本船の船員は、ほんの110人に減らされていた。本船の莫大な内装を取り出して、航空母艦に改造する提案が 1941年5月15日になされ、合衆国政府によって拿捕された。7ヶ月後、海軍に移籍となり、U.S.S. Lafayetteに改名され、戦争の2番目に大きな軍隊輸送船となった。造船所の作業員がこの偉大な船に入り込んで、贅沢な備品を取り外し、軍務に就く準備をしていた。 1942年2月9日、アセチレンの電灯の火花が救命胴衣とマットレスの山に燃え移った。火は直ぐに燃え広がった。

NORMANDIEの浮揚(前頁)
 火災によりNormandieの内部のかなりの部分が破壊されたが、本船の全壊は消火作業の結果であった。多数の曳船、消防艇、そして 陸上から、大量の水が水ぶくれを起こしていた船体に注がれたのである。本船はこの圧力に耐えられず、12時間以内に転覆した。 Normandie(上)では、史上、最高に困難な引揚げ作業を行うこととなった。
 20ヶ月後の1943年10月27日、Normandieは回復した。この過程において、マスト、3本の煙突、上部構造物の全てが撤去 された(下)。重要な海軍の潜水訓練に使用されたものの、この作業を完了させるのに500万ドルかかった。しばらく係船した後、本船は 1945年に余剰船とされ、その後、地元の解体業者に、たったの161,000ドルで売却されたのだった。

WESTERNLAND(上)
 1940年5月にオランダが降伏し、亡命オランダ政府の居場所は、イングランドのFalmouth沖に投錨していた軍隊輸送船 Westernlandに移転した。2ヶ月間の間、本船は皇太子妃Julianaの夫であるBernhard王子の指揮の下、800人の 役人の本部であった。
[1918年、北アイルランド、ベルファスト、Harland & Wolff Limited建造。16,314総トン、全長601フィート、全幅67フィート。蒸気タービン、3軸。巡航速力15ノット。旅客定員1,500人(キャビン・クラス 350人、ツーリスト・クラス350人、3等800人)]

VOLENDAM(前頁、上)
 Holland-AmericaのVolendamは、1940年の夏に英国から合衆国とカナダに子供を疎開させる計画の任命を受け た。8月30日、335人の子供と271人の大人を乗せていた本船は、アイルランド沖300マイルの海域で雷撃された。船首から沈んだ が、この定期船に取り残された乗員・乗客のうち、奇跡的に1人死亡しただけであった。喫水54フィートのVolendamの船首は水面す れすれであった。本船はビュート島に曳航された。応急修理がなされ、Birkenheadの造船所に更に修理するために送られた。造船所 で、2発目の魚雷が食い込んでいるのが船体から発見された。明らかに破裂に失敗したものであった。
[1922年、スコットランド、ゴバン、Harland & Wolff Limited建造。15,434総トン、全長579フィート、全幅87フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力15ノット。旅客定員1,175人(1等263人、2等 428人、ツーリスト・クラス484人)]

軍隊輸送
 この寝台(前頁、下)は、前のWard Lineのクルーズ船Orienteで、1942年までに合衆国陸軍の輸送船Thomos H. Barryとなっていた船で撮影されたもの。本船は、平時には530人の乗客を乗せたが、戦争中は3,609人の軍隊を乗せることのできる収容力を有していた。
 適切に救命胴衣を身に着けた4,000人以上の軍隊(上)が、1942年に大西洋を横断するBritannicに乗船している。

戦時の沈没
 1942年11月2日、南アフリカからニューヨークへの航海中、Holland-AmericaのZaandam(前頁、上)は、ブラ ジルの沖400マイル沖で、2発のナチの魚雷が命中した。本船は10分以内に沈没した。犠牲者は124人。82日後にアメリカ海軍の船が 3人の生存者を救助した。彼らの外洋における忍耐力は、記録上、最高のものである。
[1938年、オランダ、Schiedam、Wilton- Fijenoord Shipyards建造。10,909総トン、全長501フィート、全幅64フィート。M.A.N.ディーゼル、2軸。巡航速力17ノット。ツーリスト・クラス160人]

 5,000人の軍隊を乗せた輸送船President Coolidge(前頁、下)は、1942年10月、ニューカレドニア、ヌーメア沖で機雷にやられ、直ぐに沈没した。5人が死んだ。
 P & OのStrathallan(上)は、大人数の軍隊と何人かのEisenhower将軍の側近を乗せてイングランドから北アフリカに向かう途中の1942年12月21日に 雷撃された。4人が死亡した。戦時中は、1日に15隻から20隻の船が沈没することは珍しくなかった。
[1938年、イングランド、Barrow-in- Furness、Vickers Armstrongs Shipbuilders Limited建造。23,722総トン、全長668フィート、全幅82フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力20ノット。軍隊5,000人]

MONTEREY(上)
 前の太平洋のクルーズ定期船Montereyが、1942年9月にブルックリンの乾船渠で休んでいる。本船の平時の収容力は701人で あった。しかし戦時には3,851人乗りとして登録され、しばしばそれを超過していた。
[1932年、マサチューセッツ州、クィンシー、 Bethlehem Shipbuilding Corporation建造。18,O17総トン、全長632フィート、全幅79フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力20.5ノット。軍隊3,851人]

WILHELM GUSTLOFF(前頁、上)
 以前のドイツの豪華クルーズ船Wilhelm Gustloffは、1945年始めに洋上強制収容所になった。ナチスの戦況が悪化するや、本船は大勢乗せてバルト海に逃げ込もうとした。本船は雷撃されて、凍てつく海に 直ぐに沈没した。約6,096人が死亡したが、これは海難史上最悪のものだった。
[1938年、ドイツ、ハンブルグ、Blohm & Voss Shipyards建造。25,484総トン、全長684フィート、全幅77フィート。M.A.N.ディーゼル、2軸。巡航速力15.5ノット。ツーリスト・クラス 1,465人]

ANCON(前頁、下)
 星条旗をたなびかせていたPanama LineのAnconは、しばらくして通信船に改装された。本船は、1945年8月に東京湾に入った最初の連合軍の船舶の1隻であった。Halseyの戦艦 Missouriと、NimitzのSouth Dakotaの間に割って入り、この旧定期船は150人以上の従軍記者、写真家、ニュース映画技術者をもてなした。本船の甲板から、日本降伏のニュースが伝えられたのだっ た。
[1939年、マサチューセッツ州、クィーンシー、 Bethlehem Steel Company建造。10,021総トン、全長493フィート、全幅64フィート、喫水26フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力17.5ノット。平時の旅客定員215 人、戦時の兵員2,087人]

軍隊の帰還(次頁)
 1945年晩春までに、ヨーロッパでの戦闘は終了した。Queen Maryは、6月20日に第一次帰還兵合計14,777人を乗せてニューヨーク港に到着した。

お帰りなさい
 American Export Linesは、帰国祝賀の一環として、ニューヨーク港ジャージー・シティー埠頭の先端を再塗装した。この埠頭では、数多くの嬉しい出来事があった。この写真に写っている Gripsholmは、1,000人以上の亡命者を乗せていた。ハドソン川の向こうでは、United Fruitの埠頭に軍隊の帰還に感謝して、「a job well done(=ご苦労様でした)」と書かれていた。全くその通りであった。
[1925年、イングランド、Newcastle-upon- Tyne、Armstrong Whitworth & Company Limited建造。19,105総トン、全長590フィート、全幅74フィート。Burmeister & Wainディーゼル、2軸。巡航速力16ノット。平時の旅客定員1,557人]

7、戦後時代

 1945年夏、定期船会社は、昔の商用運航を復活させるべく即座に行動に出た。しかし悲しいことに、以前ほど多くの船を持っていな かったのである。そこで2つの注文がなされた。つまり生き残りの修理・再建と、新船の建造である。

 兵員輸送船の多くが、予想よりも遅いペースで軍務から解放され、1950年まで軍務に就いていたものもある。豪華な事業に復帰したも のは少なくなかった。生き残りは元の造船所であることが多かったが造船所に送られ、平時に使用するために大改造された。たびたびそれには 長い時間がかかり、困難なものであった。材料が、とりわけヨーロッパで極端に不足していたのである。造船所はてんてこ舞いであった。時々 追加の遅延があったものだった。グラスゴーで修理していた兵員輸送船が家具や他の艤装品のために待たされ、それらが1939年(注、49 年の誤りか)にシンガポールのような遠隔地で大急ぎで投売りされたのである。戦後の積み替え作業は、時に信じられないくらい遅かったので ある。

 1948年から1954年にかけて、12隻以上の真新しい定期船が現れた。アメリカは最も素晴らしい高速のUnited Statesを建造した。1952年のことである。

 商用運航は、かなり早く再び繁栄することとなった。観光客用の運航が再開され、膨大な数の避難民、移民、本国送還者のために船舶の需 要があったのである。例えば1948年までに、北大西洋航路は、史上最も利益を出す10年間を迎え始めたのであった。


EUROPA、戦勝品(次頁)
 1945年5月、アメリカの侵攻部隊は、ブレマーハーフェンのドイツの港湾に押し寄せた。そこでの戦勝品は、当時世界第3の大きさの定 期船、North German LloydのEuropaであった。船には軍隊が乗っており、戦前の優雅さは殆ど見当たらなかった。本船は1939年9月に係船されて以来、錆び付いていた。決して乗船し て来ることはなかったナチの軍隊のために、黄色の乗船信号が掲げられていた。英国侵略の目的で、巨大な扉が船の側面に切り開かれていた。 しかし本船が使用されることはなかったのだった。戦争の終結において、ベルリンから本船を破壊するよう命令が発せられた。そこで破壊され たのである。戦前の船長と僅かな船員が、連合軍のために運航を行った。本船は直ぐにAP-177、U.S.S. Europaに任命された。9月中旬、簡単な清掃と塗装を終えて、本船は4,300人の軍隊と960人の船員を乗せて、ニューヨークに向け出港した。この6年間で始めて外 洋に出たのである。ニューヨークで修理して、Europaは少しばかり急いで兵員輸送を行った。しかし本船は一連の火災に悩まされ、その 1つは9時間も燃えた。別の日には5人が犠牲になった。その後面倒なことに、深刻な船体の亀裂があることが明らかとなった。修理の必要性 が沢山あるにも拘らず、1946年2月、本船は国際連合賠償委員会に引き渡されたのである。ここに、U.S.S. Missouriの隣にいる本船の姿を見ることが出来る。

EUROPAはLIBERTEとなる
 Normandieを失ったフランスは、Europaを大変に欲しがり、本船はフランス国旗を掲げることとなった。新しい名前として Lorraineが採用されたが、戦争の終結においてLiberte(=自由)がより相応しいという強い感情が沸き起こったのだった。ま ず、煙突がFrench Lineの赤と黒に塗装された。その後、豪華運航向けに長時間かけて再建すべく、ル・アーブルに接岸した。物資不足から、作業はカタツムリのペースで進んでいた。12月の 嵐でLiberteは係留場所から引き裂かれ、半分水没していた戦前の定期船Parisに突っ込み、30フィート引き裂かれたのである。 すぐさま固定されたが、幸運にも垂直姿勢であった(上)。浮揚が優先であるとして、修復作業は中断した。6ヶ月後、本船は再浮揚され、 1947年の春までに最終工事のためにサン・ナゼールに送られた。
 French Lineの新しいフラグシップLiberteは、1950年8月に初めてニューヨークに到着した(次頁、上)。本船は3年間の中断の間、臓器移植をし、顔面整形手術をし た。ドイツの面影は残っていたが、フランス人は素晴らしいアール・デコの内装を導入した。本船の円柱のあるメイン・ラウンジ(次頁、下) を見ると、本船が耐えた試練を思い出すことは難しいものだった。
[1930年、ドイツ、ハンブルグ、Blohm & Voss Shipyards建造。51,839総トン、全長936フィート、全幅102フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力27ノット。旅客定員1,513人(1等569人、 キャビン・クラス562人、ツーリスト・クラス382人)]

STAVANGERFJORD(前頁)
 戦時中は遊んでいて被害を受けなかったNorwegian America LineのStavangerfjordは、1945年8月に北大西洋で最初の商用航海を行った。
[1918年、イングランド、Birkenhead、 Cammell Laird & Company建造。13,156総トン、全長553フィート、全幅64フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力18ノット。旅客定員679人(1等122人、キャビン・ クラス222人、ツーリスト・クラス335人)]

QUEENSの帰還(上)
 英国人にとって「遂にやって来た平和」の最大の印は、巨大なCunard Queensの帰還であった。Queen Elizabethが最初に解放された。本船は1940年に計画された豪華船に直ぐに復帰した。1946年9月27日、Queen Mary(右)は最後の軍隊輸送を終えてサウサンプトンに戻って来た。完成したQueen Elizabethの近くを通り過ぎている。修復はよろめくような事業であった。英国と米国の倉庫に荷を降ろし、中身をスコットランド、クライドバンクの造船所に船で運ん だ。作業はフランスから応援を必要とする程、過酷なものであった。遂に1947年7月31日に、Queen Maryは僚船に加わり、2隻のCunardの週1回急行運航を開始した。2隻の定期船によってそれぞれの目的地に毎週出発するのは、Cunardの歴史において初めての ことであった。結果として、その成功は光り輝くものだった。今後10年間に亘って、両船は大西洋で最も利益を上げた船であった。

NIEUW AMSTERDAMの改造(前頁、上)
 Nieuw Amsterdamは勝ち誇って、1946年4月10日、母港のロッテルダムに戻って来た。軍隊輸送の備品である特殊厨房、警報システム、ハンモック、立ち席、36基の大 砲を撤去するのに15週間必要であった。それから2,000トンの家具と装飾品が、戦時に保管されていたサン・フランシスコからオランダ に船で運ばれた。その調度品は、6年間も放置されていたため、しばしば大変に酷い状態であった。約3,000脚の椅子と500個のテーブ ルが、再装飾と改装のために、本来の造船所に送られた。調度品の4分の1がすっかり入れ替わった。ヨーロッパの工場や倉庫に材料や生地が ないかと隈なく探したが、その多くは占領時に、ナチスから隠しておいたものであった。蝶番や鎹のような多くの小さな部品は、手作業で作ら なければならなかった。それを作った機械は、敵によって盗まれたり、破壊されたりしていたからだった。絨毯の殆ど全てを張り替えたよう に、ゴムの床材の全てを張り替えた。鉄材の全ては計測して維持され、配管の全てが清掃された。全ての天井と床が撤去され、この定期船の 374個の浴室が作り直された。旅客区画では、傷がついて台無しになっていた木製パネルが鉋をかけられて、半分の薄さになって装着され た。全ての船室の収納庫と調度品が取替えられた。全ての電線が張り替えられた。停電中も塗装したため、熱帯の気候の下でひびが入った。 12,000平方フィートの硝子が刷新された。何千ものイニシャルが彫られたために、手摺でさえも再び磨かなければならなかった。この作 業は歴史に残るものであった。というのは資材が不足し、技術を持った熟練工の数が減少していたからだった。1947年10月29日、造船 所で18ヶ月を過ごして、Nieuw Amsterdamは再び大西洋横断運航に就いた。同様にして100隻以上の定期船が復帰した。

STOCKHOLM(前頁、下)
 Swedish American Lineの発動汽船Stockholmは、戦後、北大西洋航路向けに建造された最初の新船であった。1946年にキール(=竜骨)が敷かれ、1948年冬に処女航海で ニューヨークに横断した。
[1948年、スウェーデン、イェーテボリ、Gotaverken Shipyards建造。11,700総トン、全長525フィート、全幅68フィート。Gotaverkenディーゼル、2軸。巡航 速力19ノット。旅客定員395人(1等113人、ツーリスト・クラス282人)]

CARONIA(上)
 Cunard Lineは、1948年にCaroniaを計画した。本船は英国最大の戦後の定期船であり、Elizabeth王女(現在の女王)が進水式のためにスコットランドにお出ま しになられた。しかしそれ以外にも新奇なことがあった。すなわち本船は二重の目的があったのだった。大西洋横断運航は繁忙期のみで、それ 以外の長い1年の残りは、高価なクルーズをして過ごしたのだった。船体は4段階の緑色に塗装されたが、恐らくは熱抵抗と、直ぐに見分けが つくようにするためだったと思われる。本船は最も偉大な1本マストと、洋上で最大の煙突を有していた。最後に、適切なことに、全ての船室 には個人用の浴室が隣接しており、これは以前の全てのCunardersが及ばないものであった。親しみを込めて「Green Goddess(=緑色の女神)」として知られたCaroniaは、「millionaire's ship(=百万長者の船)」とも呼ばれていた。本船の異国情緒溢れる運航は、変わらぬものであった。冬には世界一周か南の海へ、春は地中海や黒海、夏はスカンジナビア、 秋には再び地中海をクルーズしたのだった。
[1948年、スコットランド、クライドバンク、John Brown & Company Limited建造。34,183総トン、全長715フィート、全幅91フィート、蒸気タービン、2軸。巡航速力22ノット。旅客定員932人(1等581人、キャビン・ クラス351人)]

ORONTES(上)
 英国のOrient Lineは、戦時中に、それぞれ20,000トンを超える4隻の定期船を失っていた。忙しいオーストラリアの旅客運航を再建すべく、修復と再建が急務であった。 Orontesは1929年に遡ることの出来る船だが、幸運にも戦争で生き残ったのだった。軍務に就いた後で250万ドルをかけて刷新さ れた。造船所の費用は急騰していた。本船の修理費は、20年前の建造費よりも高かったのだった。
[1929年、イングランド、Barrow-in- Furness、Vickers Armstrongs Shipbuilders Limited建造。20,186総トン、全長664フィート、全幅75フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力20ノット。旅客定員1,112人(1等502人、ツーリ スト・クラス610人)]

ORCADES(次頁、上)
 Orcadesは、戦後、Orient Line向けに建造された最初の定期船であった。本船は1948年12月に竣工した。900万ドルをかけた本船は、煙突と船橋の上のマストとが大変密着していた最初の旅客 船であることで際立っていた。本船の速力によって、ロンドンからメルボルンへの航海時間は、それまでの標準的なものより10日以上も短 い、26日間に短縮された。
[1948年、イングランド、Barrow-in- Furness、Vickers Armstrongs Shipbuilders Limited建造。28,164総トン、全長709フィート、全幅90フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力22ノット。旅客定員1,545人(1等773人、ツーリ スト・クラス774人)]

HIMALAYA(次頁、下)
 P&O Linesの英国のHimalayaのツーリスト・クラスのメイン・ラウンジが、柔らかい椅子や快適なソファ、カードゲーム用テーブルで、満ち溢れている。撮影は1949 年。

ORONSAY(上)
 1951年、Orient LineのOronsayの、簡素だが魅力あるツーリスト・クラスの食堂。

PRESIDENT WILSON(次頁)
 太平洋の旅客船は、大西洋ほど早く復活することはなかった。しかしながらサン・フランシスコのAmerican President Linesは、姉妹船President ClevelandとPresident Wilson(上)を投入することで、1947年―48年に飛躍した。両船は、戦前の運航を再開した。すなわち、サン・フランシスコからホノルル、横浜、神戸、香港、そし てマニラに向かう航路である。
[1948年、カリフォルニア州、アラメダ、Bethlehem Alameda Shipyard建造。15,359総トン、全長609フィート、全幅75フィート。蒸気ターボエレクトロニック、2軸。巡航速力19ノット。旅客定員778人(1等 324人、ツーリスト・クラス454人)]

 1等のスィートの居間(下)は、意匠や装飾において、大いに簡略化する傾向を反映している。

ILE DE FRANCEの帰還(次頁)
 1945年秋、Ile de Franceは、英国海軍の下での5年間の傑出した軍隊輸送を終えて、French Lineに復帰した。本船の戦時の功績を称えて、英国鉄道は機関車の1両をCompagnie Generale Transatlantiqueと命名した。当初Ileは、カナダやインドシナ(注、ベトナム)に簡素な旅行を行った。その後1947年4月、2年間かけて復帰すべく、本 船はサン・ナゼールの造船所に向かった。その結果、3本目の「模擬」煙突が撤去された。本船は1949年7月に、戦後最初の豪華横断の旅 をニューヨークに向けて行った。
[1927年、フランス、サン・ナゼール、Chantiers de l'Atlantique建造。44,356総トン、全長791フィート、全幅91フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力23.5ノット。旅客定員1,345人(1等 541人、キャビン・クラス577人、ツーリスト・クラス227人)]

BATORY
 1949年5月から1951年1月まで、Polish Ocean LinesのBatoryは、一連の政治的な問題の主題となっていた。最も深刻だったのが、本船に乗船してニューヨークからスパイとされる人物が逃げたというものだった。 アメリカの港湾労働者や修理工が本船を扱うのを拒絶した時、状況は最悪なものとなった。Batoryは撤退を余儀なくされ、ポーランドか らスエズ運河経由でインドやパキスタンに行く新航路に就航したのだった。
[1938年、イタリア、Monfalcone、Cantieri Riuniti dell'Adriatico建造。14,287総トン、全長526フィート、全幅70フィート。Sulzerディーゼル、2軸。巡航速力18ノット。旅客定員832人 (1等412人、ツーリスト・クラス420人)]

AMERICA
 戦時運航で6年間奮闘した後、United States Lines のAmericaの刷新に、600万ドルかかった。
[1940年、バージニア州、ニューポート・ニューズ、 Newport News Shipbuilding & Drydock Company建造。33,961総トン、全長723フィート、全幅94フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力22.5ノット。旅客定員1,046人(1等516人、 ツーリスト・クラス530人)]

America
 優雅で豪華なものが、戦後時代、海に戻って来た。1等の豪華なスィート(前頁、上)は静かな内装で、控え目なものだった。主舞踏室(前 頁、下)には、間接照明によって照らされた円形のダンス・フロアーがあった。1等食堂(上)は明るさがなく、滑らかさに欠けていた。

SATURNIA(前頁、上)
 Italian LineのSaturniaを1949年、僚船のVulcaniaから見たもの。この両船は、戦争に生き残ったイタリアの4隻の主要定期船の2隻であり、これと別の2隻が Conte BiancamanoとConte Grandeであった。
[1927年、イタリア、Monfalcone、Cantieri Navale Triestino建造。24,348総トン、全長632フィート、全幅79フィート。Sulzerディーゼル、2軸。巡航速力21ノット。旅客定員1,370人(1等 240人、キャビン・クラス270人、ツーリスト・クラス860人)]

CONTE BIANCAMANO(前頁、下)
 Italian LineのConte Biancamanoの1等画廊は、1948年―49年の戦後の修復後に登場した。本船は1925年にまで遡る。

GIULIO CESARE(上)
 Italian Lineの取締役は再建に直面して、超定期船は過ぎ去った時代の浪費の象徴であると考えた。そこで建造の青写真は、30,000トン以下のものとなった。Giulio Cesare(写真はMonfalconeの艤装船台で撮影)は、1951年10月、イタリアからリオ・デ・ジャネイロ、モンテビデオ、 ブエノスアイレスに向かう航路に就航した。
[1951年、イタリア、Monfalcone、Cantierl Riuniti dell'Adriatico建造。27,078総トン、全長681フィート、全幅87フィート。Fiatディーゼル、2軸。巡航速力21ノット。旅客定員1,180人 (1等178人、キャビン288人、ツーリスト・クラス714人)]

CRISTOFORO COLOMBO
 高級なニューヨーク運航向けに、Italian Lineは、姉妹船のAndrea DoriaとCristoforo Colomboを建造した。両船は更に飾り立てられて広々としたもので、1950年代の北大西洋における最高に現代的な定期船であった。Cristoforo Colomboが1954年7月に処女航海でニューヨークに到着した時、本船は11隻の新しい旅客船からなるイタリア旅客船隊の戦後の復 活完了の合図となった。
[1954年、イタリア、ジェノバ、Ansaldo Shipyards建造。29,191総トン、全長700フィート、全幅90フィート。旅客定員1,055人(1等229人、キャビン・クラス222人、ツーリスト・クラ ス604人)]

GEORGE WASHINGTONの最期(上)
 アメリカの老朽定期船の1つGeorge Washingtonが、1951年1月にボルチモアで炎上した。船と桟橋の損失は、2,000万ドルに上った。
[1908年、ドイツ、ステッチン、A. G. Vulcan Shipyard建造。23,788総トン、全長722フィート、全幅78フィート、喫水30フィート。4段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力18.5ノット。軍隊 6,500人]

INDEPENDENCE(次頁)
 明るい話題として、同年2,000万ドルで、American Export LinesのIndependenceが誕生した。
[1951年、マサチューセッツ州、クィンシー、 Bethlehem Steel Company建造。23,719総トン、全長683フィート、全幅89フィート、喫水30フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力23ノット。旅客定員1,000人(1 等295人、キャビン・クラス375人、ツーリスト・クラス330人)]

MAASDAM(最上)
 RyndamとMaasdam(ここに掲載)は、1951年―52年に「Atlantic Ferry(=大西洋の連絡船)」に加わった注目すべき船であった。その設計は、ツーリスト・クラスの旅客設備を重視するものであった。1等の空間は39床しかなく、上甲 板の独占的なペントハウス区画に配列されていた。独立した食堂と公室があった。ツーリスト・クラス区画は、本船の旅客空間の90パーセン トを占めていたが、822人の乗客を収容した。ここにも幾つかの公室があり、広いダイニング・サロン、屋外プール、考慮に値する屋外甲板 区画があった。大変に現代的で快適ではあったが、寝台は安価で、1日当たり平均20ドルであった。
[1952年、オランダ、Schiedam、Wilton- Fijenoord Shipyward建造。15,024総トン、全長503フィート、全幅69フィート。蒸気タービン、1軸。巡航速力16.5ノット。旅客定員861人(1等39人、ツー リスト・クラス822人)]

FLANDRE(上)
 French Lineの戦後最初の定期船で洒落た外観のFlandreは、1952年7月23日、ル・アーブルを処女航海のためニューヨークに向けて出帆した。アメリカの沿岸に接近 中、突如として機関と電気の故障のために航行不能となった。動力を失ったFlandreは、最初の航海で港に曳航された唯一の旅客船と なって、その優秀さは疑わしいものとなり、港湾労働者によってすぐさま「the Flounder(=まごつき)」とあだ名を付けられた。その後、本船は修理のために造船所に送り戻され、9ヶ月間も大西洋から離れたのである。
[1952年、フランス、ダンケルク、Ateliers et Chantiers de France建造。20,469総トン、全長800フィート、全幅80フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力22ノット。旅客定員784人(1等402人、キャビン・ク ラス285人、ツーリスト・クラス97人)]

UNITED STATES
 1943年始め、アメリカ一流の造船技師であるWilliam Francis Gibbsは、史上最速で最も安全な船の図面を描き始めた。合衆国政府は、そうした船が軍隊輸送船に転用できることの価値に気がついて、とりわけ戦時中のCunard Queensの輝かしい成功の後に、その援助をしたのだった。40年代末期までに、厳戒体制の下で最終計画が纏まった。キール(竜骨)が 1950年2月に敷かれ、昼夜交替で作業が進められた。15ヶ月以上も遅れて90パーセント完成した時、本船は(伝統的な進水ではなくし て)水に浮かんだ。この新しい快速船は、目立って現代的であった。すなわち、船橋の上にある短いマストと後ろに傾斜したどっしりとした煙 突の付いた、長くほっそりとした船体であった。Queen Elizabethよりもほんの40フィート短いが、このアメリカのフラグシップは、アルミニューム合金を使用していて30,000トン軽かった。命名式は、ヨーロッパの 超定期船の大部分が王族や有名人によって行われているのと違って、むしろ簡素なものであった。United Statesという名称は、最も適切な選択であると考えられた。
[1952年、バージニア州、ニューポート・ニューズ、 Newport News Shipbuilding & Drydock Company建造。53,329総トン、全長990フィート、全幅101フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力30-33ノット。旅客定員1,928人(1等871 人、キャビン・クラス508人、ツーリスト・クラス549人)]

United States
 本船は1952年始めにニューポート・ニューズで艤装工事を行った(上)。
 船室(左)のような本船の内装は、機能的で、豪勢さや豪華さのないものだった。安全性、特に防火が最優先事項であった。ピアノやまな板 を除いては木材を使わず、燃え易い素材は使わず、油絵すらなかった。7,700万ドルの費用の4分の1の資金を出した政府は、本船を大変 に気に入った。とりわけ15,000人の軍隊を48時間で移動させることが出来たために、気に入ったのだった。
 正面の様子(次頁)は、本船のナイフのような船首を明らかにしている。
 1952年晩春までに、本船は準備が出来ていた。本船の要目は、極秘のままであった。試験航海は素晴らしく成功した。これまでに建造さ れた最速の旅客船よりも遥かに速い、40ノット以上を出したのである。本船は「Big U(=大きなU)」として知られたが、ニューヨークで目を見張るような歓迎を受けた(次頁)。1952年7月のサウサンプトンへの処女航海では、Queen Maryよりも5ノット、10時間も速く走り、ブルー・リボンを直ぐに獲得した。United Statesは、平均35ノットであった。本船を追い越す豪華船は現れないことだろう。