HOME > コラム > ミスター・オーシャン・ライナーの本 > 遠洋定期船90年史(1954-1986)

ウイリアム H.ミラー, Jr.「偉大なるクルーズ船と遠洋定期船 1954年―1986年 写真による概観」

1、50年代:繁栄

 50年代は、世界の遠洋定期船と港湾間の運航の大半が、最も繁栄した最後の10年間である。1958年、120万人が北大西洋を船で 横断したが、これは史上最高の人数であった。他の航路もまた成長した。オーストラリア、南米、アフリカ、太平洋横断、そして昔の植民地運 航の端切れであってさえも繁栄したのである。最も傑出した例である巨大なCunardのQueensは、大西洋往復航海において、1回に つき、30万ドル以上の収益を上げていたのである。

 そうした刺激を受けて、毎年、豪華船の新しい小船隊が現れ、認可されているようであった。小奇麗な現代的な船が造船所から誕生した。 1本煙突であり、マストは船橋の上に移動し、鋭く傾斜した船首を持っていた。英国のSouthern Cross(1954年)は船尾に煙突と機関を付けた最初の主要な定期船であった。同年、P&Oの29,000トンのOrsovaは、従来型のマストを完全に廃止 した。1959年、オランダのRotterdamは、従来型の煙突を振るい落とし、排気用に2つの両側面につけた排気管を使用した。

 定期船港であるニューヨーク、サウサンプトン、ル・アーブル、ナポリ、そして遠くシドニーでさえも、かってなく賑わった。多くの場 合、6隻から8隻の旅客船が一緒に停泊していたものだった。旅客機は増加していたが、これに深刻な注意を払う汽船会社は殆どなかったので ある。


「豪華定期船通り」
 ニューヨークは、大西洋定期船の運航において、最も重要な終着港であった。マンハッタンのウェスト・サイドの西44丁目から西57丁目 通りにかけて、偉大な旅客船の埠頭が連なり、「Luxury Liner Row(=豪華定期船通り)」として一般に知られていた。この写真が撮影された1958年7月10日は、第二次世界大戦後のニューヨークで、遠洋定期船が最も混雑した日で あった。8隻の定期船が、並んで係留されている。Italian LineのVulcaniaが手前に見える。その奥にはAmerican Export LinesのConstitution、United States LinesのAmericaとUnited States、Greek LineのOlympia、CunardのQueen ElizabethとBritannic、そして一番向こうにFurness-Bermuda LineのOcean Monarchが見える。

「豪華定期船通り」(左上)
 地元の人間や、とりわけウェスト・サイド高速道路で自動車を運転していた者にとっては、マンハッタン西岸に偉大な定期船が停泊している ことは、かなりお馴染みの光景となった。この写真は1955年10月4日に西42丁目のMcGraw-Hill Buildingの屋上から撮影されたもので、(左から右に)French LineのFlandre、3隻のCunardersであるMauretania、 Queen Mary、Britannicが見える。

ニューヨークからの船出
 1,995人乗りの巨大なQueen Mary(次頁、右上)が、マンハッタンのバースから滑り出た。この定期船は、概して24時間から48時間、ニューヨークで過ごした。その間、到着客は、税関で通関手続き を行い、岸辺で過ごした。公室や船室は清掃され、次の客の到着に備えた。大量の高品質の貨物が、しばしば上手く扱われていた。その後、帰 りの荷物が船に積み込まれたものだった。
 ヨーロッパに出発する日には、乗客と訪船者は、出港前、約3時間前まで乗船することが許されていた。しかし異なる集団別に乗船し、旅客 設備の階級によって分けられていたのである。1等、キャビン・クラス、3等の訪船者別に、入り口すら区別されていた。50年代、訪船者は 1人当たり50セントの料金が徴収されていた(これはその船の国の海員基金に寄付されていた。)。
 航海中は、偉大な定期船では様々な催物で溢れていた。ボン・ボヤージュ・パーティー、電報の配達、新鮮な花や果物の入った籠、有名人の 記者会見、(巨大な船のトランクも含まれる)手荷物の仕分け、食堂やデッキ・チェアーの予約(更には事務室での船室割当の最後の調整すら あった)。それから出港30分前には、汽笛が鳴り、訪船者に岸に戻り、乗客には最後の別れのために屋外甲板に行くよう知らされた。50年 代中葉にAmericaがバースから離れる時に(中央、上)、乗客が屋外甲板に一列になって並び、親戚や友人に手を振っている。ある者は 恐らく涙ぐんでいたことだろう。埠頭の外にいる群衆は、最後の別れを惜しんでいた。

出港
 CunardのMauretania(次頁、下)が1959年4月7日、「Luxury Liner Row(=豪華定期船通り)」から出港し、ハドソン河をローアー・ベイに向けて南進し、やがては大西洋の外海に出ようとしている。6日間でアイルランドやフランスに渡り、 7日間でイングランドに達した。その背後には、左から右に、CunardのMedia、Queen Mary、Ivernia、フランスのLiberte、United States、イタリアのGiulio Cesareが並んでいる。

出港
 外国行きの定期船は、しばしば自由の女神の沖ですれ違った(右)。ここではHamburg-Atlantic LineのHanseaticが、CunardのParthiaと競い合っている。
 1956年7月12日の朝には、30分間に5隻の定期船がニューヨークから出港した(次頁、下)。左はFrench LineのFlandreで、中央はQueen Elizabeth。右はGreek LineのNew Yorkで、ローアー・ハドソン(=ハドソン河河口)にまだいるのが、Holland-AmericaのRyndamとGiulio Cesareである。

CUNARD QUEENS
 50年代、英国のCunard Lineは北大西洋最大の船隊を保有していた。1957年には12隻であった。そこの船は、「the great pond(大きな池)」としばしば呼ばれた大西洋を横断した全乗客の3分の1を輸送した。もちろん有名なQueensであるMary(次頁、上)と Elizabeth(上)は、ニューヨークとサウサンプトン間をシェルブール経由で毎週運航していたが、もっとも華やかで人気があった。 その僚船(姉妹船ではなかったが)は利益を上げ、力強い英国商船隊のフラグシップたりうるものであった。
 Queensは恐らく社交界において最も傑出した、報道価値のある大西洋定期船であった。変名を使って旅行した女優のGreta Garboは、給仕に変装してQueen Maryをニューヨークで下船した。Charlie Chaplinは、Queen Elizabeth(注、Queen Maryの誤り)に乗船してアメリカを自ら逃れて亡命生活を始め、イングランドに向かった。現女王の母君であるQueen Elizabethは、合衆国への親善旅行に、これら定期船に乗船して航海した。Helena RubinsteinはうっかりQueen Elizabethの舷窓の1つから使い古しのチリ紙箱を落としたが、その箱の中には、1組の20カラットのダイヤモンドのイヤリングが入っていたのだった。若き Jacqueline Bouvier(後のJohn F. Kennedy夫人)は、夏の旅行でヨーロッパにQueen Elizabethのツーリスト・クラスで航海した。乗船名簿にはキリがない。Churchill、Mountbatten卿、Eisenhowers一族、 Windsors一族、Elizabeth Taylor、Noel Coward、LaurelとHardy、アラブの王、Aristotle Onassis、更には1等のグリルでガラガラ蛇のから揚げをどうしても食べたいと言い張ったテキサスの石油王さえもいた。
 ある夏の朝、Queen Elizabeth(前頁、上)が、フランスとイングランドに5日間の航海に正に出ようとして、ハドソン河の中ほどにいる。背後にはマンハッタンの埠頭が見え、左から右に Italia(Home Lines)、Kungsholm(Swedish-Amencan Line)、Queen of Bermuda(Furness-Bermuda Line)、Georgic、Mauretania、Caronia(Cunard)、そしてOlympia(Greek Line)が見える。
[Queen Elizabeth:1940年、スコットランド、クライドバンク、John Brown & Company, Limited建造。83,673総トン、全長1,031フィート、全幅119フィート、喫水39フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力28.5ノット。旅客定員 2,283人(1等823人、キャビン・クラス662人、ツーリスト・クラス798人)]

 それぞれのQueenの1等の設備の中には、乗客が僅かな追加料金を支払えば、特別のVeranda Grillで食事ができるというものがあった。このグリル(=焼肉食堂)は、公爵夫人、映画の成上り者、大使、企業大立者のために分離して、豪華に配置されていた。端艇甲 板の後ろの船尾に位置し、その大きな窓からは、圧倒的な広大な海の光景と定期船の航跡を見ることができた。
 しかしQueensは運航上の問題と無縁ではなかった。この定期船には完全なエアコンの設備がなかったので、夏季の航海では下甲板の船 室はしばしばかなり暑くなったのだった。Queen Mary(最上)は、7月や8月にニューヨークから出港すると、冷房にしばしば48時間もかかったのだった。
[Queen Mary:1936年、スコットランド、クライドバンク、John Brown & Company, Limited建造。81,237総トン、全長1,O19フィート、全幅119フィート、喫水39フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力28.5ノット。旅客定員 1,995人(1等711人、キャビン・クラス707人、ツーリスト・クラス577人)]

Queen Elizabeth
 両Queensとも、「Transatlantic Deco(=大西洋横断様式)」の輝くような見本であった。間接照明、漆塗りの表面と磨き込まれた床が、Queen Elizabethの1等主要玄関の美しさを際立たせていた。

FRENCH LINE(左)
 Liberteは1950年代、French Lineの最高の船であった(ここにバースにMauretaniaとQueen Elizabethが留まる中、1958年7月9日に「Luxury Liner Row(=豪華定期船通り)」から出港する様を掲載)。僚船は、僅かに小型だが同等に有名だったIle de Franceであった。観光客の心を捉えた第3船、20,000トンのFlandreは、夏の繁忙期を手伝った。この3隻は一緒に、サウサンプトンかプリマスを経由する ル・アーブルとニューヨーク間の週1回の航海を行った。
 ちょうど20年代、30年代のように、French Lineはとりわけ壮大な趣を持っていた。すなわち、全てが小奇麗で洗練されていた。Elegance(=優雅)という言葉が、豪華な装飾と欠点のないサービスという点 で、こうした船の代名詞となっていたようである。もちろん、その料理は、昔のような大西洋上における最高の食事を乗客に提供するもので あった。歓呼と人気の点では、LiberteはCunardのQueensに僅かに及ばなかった。元々North German Lloyd LineのEuropaであり、本船は、戦争賠償品としてFrench Lineに与えられたものだった。
[Liberte:1930年、ドイツ、ハンブルグ、Blohm & Voss Shipyards建造。51,839総トン、全長936フィート、全幅102フィート、喫水34フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力24ノット。旅客定員1,502 人(1等555人、キャビン・クラス497人、ツーリスト・クラス450人)]

 軍隊輸送船として戦時中に活躍した後、Ile de Franceは修復され、改装された。調度品の幾つかは、1942年2月にニューヨークの埠頭で全焼したフランスの巨船、Normandieのものだった。
 1948年―49年に修理した時、Ileには時代遅れのアール・デコ風の、小奇麗で、戦前よりは見栄を張らないものとされた。1等図書 室(上)は、本船の新しい様式を反映している。

French Line
 Ile de Franceのその他の公室(上)に、壮大な大広間があった。
 Flandreの1等の壮大な大広間(右)は、様式において完全に現代的であった。1952年に就航した本船は、French Lineの戦後最初の定期船であった。
[1952年、フランス、ダンケルク、Ateliers et Chantiers de France建造。20,469総トン、全長600フィート、全幅80フィート、喫水26フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力22ノット。旅客定員784人(1等 402人、キャビン・クラス285人、ツーリスト・クラス97人)]

UNITED STATES
 アメリカのフラグシップであるUnited Statesは、1950年代には絶大な人気を誇り、とりわけ世界最速の定期船で皆が欲しがるブルー・リボンの保持者であることで人気があった。その最高記録は1952年 7月に達成したもので、ニューヨークのAmbrose Lightship(=燈台船)とイングランドのBishop Rockの間を、3日間10時間40分で走ったものだった。本船は、1938年以来、英国の定期船が保持していた優秀なQueen Maryから、優勝旗を奪い取ったのである。実際、United Statesは、そのリボンを取った最後の定期船となった。本船はニューヨーク、ル・アーブル、サウサンプトン間を5日間(時折、ブレマーハーフェンまで6日間)で結ぶ運 航を維持していた。本船の人気は、その船籍によって更に押し上げられた。多くのアメリカ人は自国の定期船で旅行することを好んだのであ り、超定期船級の船として、本船は明らかに英国のQueensやフランスのLiberteの好敵手であった。
 朝、3隻の定期船がハドソン河に到着している。手前がUnited Statesであり、西46丁目の麓にある第86埠頭に接岸しようとしている。その後ろにQueen Maryが続き、西50丁目の第90埠頭に向かっている。遠くでHolland-AmericaのRyndamが、ニュージャージー州ホボケンのバースに入るために曳船を 使って回頭している。
[United States:1952年、バージニア州、ニューポート・ニューズ、Newport News Shipbuilding and Dry Dock Company建造。53,329総トン、全長990フィート、全幅101フィート、喫水28フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力30―33ノット。旅客定員 1,928人(1等871人、キャビン・クラス508人、ツーリスト・クラス549人)]

United States
 乗客がUnited Statesでの横断で、穏やかな天候を楽しんでいる(上)。平均的な乗客にとって、そこにいることはお楽しみのうちの半分であった。読書やうたた寝で長くけだるい午後を 過ごし、4時にはお茶があった。夕食後、ラウンジでの「horse racing(=競馬)」や船の劇場での映画があったかもしれない。
 北大西洋の天候状態は、悪名高いものだった。雨、風、霧、ハリケーン、強風、狂ったような波、更には吹雪があった。そのため大西洋定期 船隊は、屋内の娯楽に重点をおいて設計されていた。7月と8月を除いて、天候状態はまず保障できなかった。
 世界的な有名人が、しばしば使用人を伴ってUnited Statesの1等のスィートで航海をした。Windsor公爵夫妻(次頁、上)は50年代最も宣伝された大西洋を横断した乗客であった。忠実にUnited Statesに乗船して、毎年ニューヨークに旅をした。それから数週間を過ごし、パグ犬(注、チンの1種)と90個にも上る手荷物を持っ て、同じスィートを占拠して、この定期船で帰国した。Windsors一族は1等の最上のスィートを占拠していたものの、しばしばラウン ジでダンスをしているのが見かけられ、甲板をぶらつき、更には私的な宴会で仲間の乗客と遊んでもいたのである。
 別のニューヨークの有名人がUnited Statesでニューヨークに到着した。女優のGreta Garbo(次頁、右上)が、1953年に付き添われて下船している。
 50年代、ニューヨークの新聞記者の小団体が、本国行きの定期船を歓迎した。かってのハリウッド映画の女王Grace Kelly(次頁、下)が、United Statesに乗船して皇太子妃として到着した。左にいるのは夫でモナコのRainier皇太子。

AMERICA(前頁、上)
 古く小型のAmericaもUnited States Linesの船だが、United Statesの僚船であった。しかし、その大きさと速力が違っていたことから、これら定期船は別々の時刻表に従うことを余儀なくされ、しばしば同じ港に並んで停泊してい た。
 Americaは、忠実な支持者を惹き付けていた。本船の内装はUnited Statesの機能的で金属的な様式よりも、かなり豪華であった。更にAmericaは、より娯楽色の強い横断航海を提供した。すなわち、アイランドのCobhに6日間で 行くものや、ル・アーブルとサウサンプトンに7日間で行くもの、ブレマーハーフェンに8日間で行くものである。ここに掲載したのは、ブレ マーハーフェンのColumbus Pier(=埠頭)に停泊しているAmerica。右側にギリシャの所有するOlympiaの船尾が見えている。
[America:1940年、バージニア州、ニューポート・ ニューズ、Newport News Shipbuilding and Dry Dock Company建造。33,961総トン、全長723フィート、全幅94フィート、喫水29フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力22.5ノット。旅客定員1,046人 (1等516人、ツーリスト・クラス530人)]

GIULIO CESARE(左上)
 Italian Lineは50年代ニューヨークから週1回の航海を提供し、ジブラルタル、ナポリ、ジェノバ、カンヌに行く急行航路か、メッシナ、パレルモ、ドゥブロブニク、ベニス、トリ エステに向かう長距離航海をしていた。この会社の偉大な優位性の1つが、強い国家の後押しがあったことだった。更に、そこの4隻の最大の 定期船は大西洋における最も近代的な船であり、全てが洒落た戦後の設計で、戦前のCunardarsやFrench linersに匹敵するものであった。新船のAndrea Doria、Cristoforo Colombo、Augustus、Giulio Cesareは、現代性に力を注いでいた。Saturnia、Vulcania、Conte Biancamano、Conte Grandeのような古い僚船は、旧世界の魅力や内装に力を入れていた。
 1等のメイン・ラウンジ(前頁、下)は、50年代の大西洋横断運航としては、明らかに現代的なものであった。
[1951年、イタリア、Monfalcone、Cantieri Riuniti dell'Adriatico建造。27,078総トン、全長681フィート、全幅87フィート。Fiatディーゼル、2軸。巡航速力21ノット。旅客定員1,180人 (1等178人、キャビン・クラス288人、ツーリスト・クラス714人)]

CONSTITUTION(左下)
 American Export LinesのIndependenceとConstitutionは、ニューヨーク、アルへシラス(スペイン)、ナポリ、ジェノバ、カンヌ間の「Sunlane Route(=陽光航路)」においてとりわけ人気があった。圧倒的に豪華という訳ではなかったが、良く手入れがなされた小奇麗な姉妹船 は、忙しい地中海運航向けに建造された最初のアメリカ大型定期船であった。同航路で長年優位性を保っていたItalian Lineと激しい競争を演じた。イタリア人移民でさえも、20世紀初頭においてアメリカの船の方が新しい故国に入国しやすいと思われたように、しばしば本国の船よりも、こ のヤンキーの姉妹を好んだのだった。
[1951年、マサチューセッツ州、クィンシー、 Bethlehem Steel Company建造。30,293総トン、全長683フィート、全幅89フィート、喫水30フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力23ノット。旅客定員1,110人(1 等405人、キャビン・クラス375人、ツーリスト・クラス330人)]

MEDIA(上)
 1953年1月の冬の分解検査で、Cunardの結合定期船Mediaは、Denny-Brownフィン・スタビライザーを装着し、そ れを装備した最初の大西洋横断定期船となった。そうしたフィン(=ひれ)が洋上における横揺れを逓減し、その結果、船上での船酔いの程度 が制限的なものとなった。その試験は大変な成功を収めた。スタビライザー(=安定装置)は直ぐにQueen Mary、Queen Elizabethの他、全ての新定期船に装着された。
[1947年、スコットランド、クライドバンク、John Brown & Company, Limited建造。13,345総トン、全長531フィート、全幅70フィート、喫水30フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力18ノット。旅客定員1等250人]

BERLIN(次頁、上)
 1945年に戦争が終わった時、North German Lloydは保有する旅客船隊の全てを失ったが、僅かに2隻の1,200トンの貨物船が生き残った。連合軍の制約から解放されて、この会社はゆっくりと再建を始めた。 1954年まで大西洋横断旅客運航が再開されることはなかった。Swedish-Americanの定期船Gripsholmがまず傭船 され、その後きっかり1年後に購入された。本船はBerlinとなった。1939年以来、ブレマーハーフェンから出帆した最初のドイツの 旅客船となった。
[1925年、イングランド、ニューカッスル・アポン・タイン、 Sir W. G. Armstrong Whitworth & Company, Limited建造。18,600総トン、全長590フィート、全幅74フィート、喫水29フィート。Burmeister & Wainディーゼル、2軸。巡航速力16.5ノット。旅客定員976人(1等98人、ツーリスト・クラス878人)]

EMPRESS OF BRITAIN(次頁、下)
 Canadian PacificのEmpress of Britainは、1956年4月にリバプール―モントリオール運航に就航したが、1931年のEmpress of Britain以来、有名会社向けに建造された最初の新定期船となった。この新船はElizabeth2世女王によって命名されたものであり、その他の特徴として、英国船 籍の船の中で完全なエアコン設備を備えた最初の定期船であった。
 新しいEmpressと僚船は、年の大半を大西洋北部海域をカナダとの間で定期運航し、モントリオールを往復するときは、セント・ロー レンス河を1,000マイル走った。冬季は、Empressesは横断航海の終着をニュー・ブラウンズウィック州のセント・ジョンとする か、ニューヨークからカリブ海にクルーズに出かけたものだった。
[1956年、スコットランド、グラスゴー、Fairfield Shipbuilding & Engineering Company建造。25,516総トン、全長640フィート、全幅85フィート、喫水29フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力20ノット。旅客定員1,054人(1 等160人、ツーリスト・クラス894人)]

ANDREA DORIAの沈没
 調和の取れた「Atlantic Ferry(=大西洋連絡船)」の時刻表は、1956年のつかの間の間、混乱した。7月25日の霧の立ち込めた晩のナッタケット島のちょうど沖で、災害が起きたのだった。 そのとき、東行きのSwedish-Americanの定期船Stockholmと、米国行き(注、西行き)のイタリアのフラグシップ Andrea Doriaの針路が交錯したのである。船橋の下に致命的な打撃を受けて、このイタリアの定期船は、翌日の早朝に沈没した(上)。合計52人の命と、イタリアの商船員の誇り が失われた。
[Andrea Doria:1953年、イタリア、ジェノバ、Ansaldo Shipyards建造。29,083総トン、全長700フィート、全幅90フィート、喫水30フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力23ノット。旅客定員1,241人 (1等218人、キャビン・クラス320フィート、ツーリスト・クラス703人)]

Stockholm(次頁)は船首を失い、びっこを引いてニューヨークに戻り、評判を下げたのだった。ブルックリンの造船所で新しい船 首を取りつけて、1956年12月に運航に復帰した。その後半年は、命が失われたことに関し法律論争が続けられた。損害賠償訴訟は総額 4,000万ドルに上った。最終的にはロンドンの保険業者の用心深い監視の下で、非公開で聴聞手続きがなされ、裁判は決着したのだった。
 この悲劇は新聞紙上に扇情的な見出しを飾ったものの、急騰する大西洋横断定期船事業を凹ませることは殆どなかった。儲かる時代が続いた のである。
[Stockholm:1948年、スウェーデン、イェーテボリ、 A. B. Gotaverken Shipyards建造。12,644総トン、全長525フィート、全幅69フィート、喫水24フィート。Gotaverkenディーゼル、2軸。巡航速力19ノット。旅 客定員608人(1等24人、ツーリスト・クラス584人)]

SOUTHERN CROSS(前頁、上)
 別の英国の定期船、Shaw Savill LineのSouthern Crossは、1954年にElizabeth2世女王によって進水したとき、何だか「wonder ship(=驚きの船)」であった。この船には多くの初めての試みがあった。本船は(重要な船体中央の旅客用の空間を作り出していた)船尾に煙突と機関を載せた最初の大型 定期船であり、貨物を扱わない最初の旅客船で、全てがツーリスト・クラスのサービスを提供していた最初の現代的な定期船であった。更にサ ウサンプトンからオーストラリア、ニュージーランドに向かう些か珍しい75日間の世界一周航海を行い、行きは南アフリカ経由、帰りはパナ マやカリブ海経由であった。
[1955年、北アイルランド、ベルファスト、Harland & Wolff, Limited建造。20,204総トン、全長604フィート、全幅78フィート、喫水25フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力20ノット。旅客定員ツーリスト・クラ ス1,100人]

HIMALAYA(前頁、下)
 1958年初期に、香港に姿を現した定期船Himalayaは、英国のP & O-Orient Lines向けに新たな太平洋横断旅客運航を開設し、シドニーとオークランドから、北のサン・フランシスコ、バンクーバーに向けて航海した。これはこの会社のイングランド からオーストラリア、極東への通常運航の考慮に値する拡張であった。1年後、本船はシドニーを離れて、日本の横浜、神戸から北米の西海 岸、そしてコロンボ(スリランカ)とボンベイ経由でロンドンに行く新会社を開設した。この結果としてP & O Orientは、史上最大の旅客船航路網で世界を事実上結ぶ定期船運航をしていると宣伝することが今や可能となったのだった。
[1949年、イングランド、Barrow-in- Furness、Vickers-Armstrong Shipbuilders, Limited建造。27,955総トン、全長709フィート、全幅91フィート、喫水31フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力22ノット。旅客定員1,159人(1 等758人、ツーリスト・クラス401人)]

ORSOVA(上)
 英国のOrient LineのOrsovaは、この会社のイングランドとオーストラリアとを結ぶ3隻の主要定期船の戦後再建計画の最終船で、1954年5月に竣工した。費用は1,500万ド ル近いもので、当時の英国建造の旅客船の総額に相当した。堂々とした明らかに現代的な本船は、従来のマストをすっかりなくした最初の主要 な定期船であった。その代わり、大きな1本煙突に索具を装着することが必須となった。ここに掲載したのは、バンクーバーでの姿。
[1954年、イングランド、Barrow-in- Furness、Vickers-Armstrong Shipbuilders, Limited建造。28,790総トン、全長723フィート、全幅90フィート、喫水30フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力22ノット。旅客定員1,503人(1 等694人、ツーリスト・クラス809人)]

ROTTERDAM(上)
 オランダは、同国史上、最大の定期船を就航させた。1959年晩夏のHolland-America Lineのフラグシップ、Rotterdamである。最も脚光を浴びたのは、Beatrix皇太子妃がニューヨークへの処女航海に乗船されたときであった。 Rotterdamは気前良く装飾された定期船であり、遅れて来た「ship of state(=国家の船)」であり、国家の芸術、意匠の他、輸入された木材を豊富に使用していた。本船はまた大変に注目される特徴を有していた。本船は従来の煙突を持たな かった最初の大西洋横断定期船であった。その代わりに両端に設置された船尾の2本のパイプが、排気管として使用されていた。正統主義者 は、従来の煙突がなくなったことを嘆き悲しみ、またある者は、この新奇さは実用的な設計要素であると考えた。英国のP & O Linesは、そうした影響を受けたものの1つであった。1961年に就航したこの会社の新しいフラグシップCanberraでは、2本 のパイプが使用されたのである。
[1959年、オランダ、ロッテルダム、Rotterdam Dry Dock Company建造。38,645総トン、全長748フィート、全幅94フィート、喫水29フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力20.5ノット。旅客定員1,456人 (1等401人、ツーリスト・クラス1,055人)]

BREMEN(右)
 西ドイツの新しいフラグシップBremenは、フランスの軍隊輸送船Pasteurを改造したもので、1959年7月、初めて北大西洋 を横断してニューヨークに渡った。マンハッタンに初めて到着した時、同国の僚船である外国行きのBerlinとすれ違った。今や North German Lloydは、2隻の船で旅客運航をすることとなったわけである。
 しかし50年代の終わりまでに、ジェット機の衝撃は、もはや無視し得ないものとなっていた。直ぐにその競争に気が付き、ドイツ人は新し いBremenを寛いだ横断航海のために切れ目のない心地良さを提供する「sea-going hotel(=海を行くホテル)」であると強調した。ジェット機での旅行には、同様の快適さはなかったのである。しかし冬になると、大西洋横断の交通量は次第に寂れたもの となって行った。幸いなことに、Bremenの設計は、ニューヨークからカリブ海に向かう儲かる冬のクルーズを提供できるものでもあっ た。
[1939年、フランス、サン・ナゼール、Chantiers de l'Atlantique建造。32,336総トン、全長697フィート、全幅88フィート、喫水30フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力23ノット。旅客定員 1,122人(1等216人、ツーリスト・クラス906人)]

2、客貨結合船

 しばしば「コンボ」として知られている客貨結合定期船は、第二次世界大戦で人気が特に出てきたものであり、その後10年かそこら、人 気が続いたものである。しかし、この種の船舶は決して新しいものではない。旅客と貨物との均衡の上に浮かぶ船は、初期において実証されて 来たものである。戦後において、実際的な(旅客船と貨物船という)2重の役割をもって世界の航路を復活させる必要性から、最も多く見られ たのだった。

 こうした船舶は、大変に儲かった。乗客は、通常、高水準の旅客設備で輸送され、重要な収益源であった。しばしば大型の定期船が避けて いた港湾を結び、広範なクルーズ風の往復航海を行っていた。とりわけ米国船籍の結合船は、クルーズの面で極めて人気があり、特に屋外の プール、完全冷房、広い甲板空間、個人用の浴室を備えた優れた1等船室で、人気があったのである。第二の収入源は積荷であり、しばしば1 万トンを超えるものであった。船の速力は約17ノットで、当時の貨物船に匹敵するか、あるいは僅かに優れたものであった。

 数社の汽船会社は、とりわけ英国、フランス、オランダの会社は、その成功と人気故に、50年代にこうした船舶を建造していた。不幸な ことに、現在ではすべて姿を消している。まず新しい高速貨物船が、貨物をひったくって行った。そして、ジェット機による旅客海運の一般的 な不振という衝撃を強く受けたのである。その晩年においては、不振の航路に就航し、しばしば12人乗りの貨物船に格下げとなっていた。ま た、巨大高速コンテナ貨物海運への技術的な過渡期が到来し、終わりになったのである。本書執筆時においては、ほんの一握りの結合定期船が 生き残っているに過ぎない。


AFRICAN ENTERPRISE
 米国のFarrell Linesは、ニューヨークから南・東アフリカへの長距離航路において、2隻の姉妹船African EndeavorとAfrican Enterprise(前頁)を運航していた。その全行程はケープタウンやダーバンのような港に長らく滞在するものであったが、平均65日間で50年代において950ドル であった。この写真はAfrican Enterpriseが港に到着し、ブルックリンのErie Basinに正に接岸ところ。
 African Enterpriseのダブル・ベッドの船室(上)は、清々しい装飾である。
[1940年、メリーランド州、Sparrows Point、Bethlehem Steel Company建造。7,997総トン、全長492フィート、全幅66フィート。蒸気タービン、1軸。巡航速力16.5ノット。旅客定員1等98人]

PRESIDENT POLK
 American President Linesは戦後、President MonroeとPresident Polk(上)の「combo(=結合)」姉妹船を使って、世界一周旅客運航を再開した。完全航海は105日間のもので、ニューヨークからパナマ運河、メキシコ、カリフォ ルニア、ハワイ、東洋、東南アジア、インド、パキスタン、スエズ運河、地中海を通って、大西洋を横断して帰国するものだった。広い海側の 2段寝台の船室(前頁、上)は簡略なものだが、快適であった。食堂(前頁、下)は寛げるものだった。
[1940年、バージニア州、ニューポート・ニューズ、 Newport News Shipbuilding and Dry Dock Company建造。9,260総トン、全長492フィート、全幅70フィート、喫水27フィート。蒸気タービン、1軸。巡航速力16.5ノット。旅客定員1等96人]

ALCOA CAVALIER
 Alcoa Steamship Company(アメリカのAluminum Companyの1部門)の運航向けのAlcoa Cavalier(上)と2隻の姉妹船、Alcoa Clipper、Alcoa Corsairは、標準的なVictory級の貨物船から旅客貨物運航向けに改造したものである。高品質の旅客設備が装着され、それには船室(全てに個人用の浴室設備が備 わっていた)、立派な公室、常設プールのある屋外甲板、とりわけ3隻はカリブ海の熱帯の港湾を航海するのが大半であったので、プールは有 用な設備であった。これらの船は、ニューオーリンズから18日間の周遊クルーズを提供していた。
 もちろん、貨物はAlcoaの運航において重要であった。ここに掲載したのは、Alcoa Cavalierがトリニダードからボーキサイトを積んでモービルに到着した様である。
 3隻のAlcoa姉妹の旅客用船室の全ては、ここにあるように(前頁)、夜間には寝室で昼間には居室に転換できるものであった。下の ベッドの大半は、昼間はソファとして使用された。Alcoaの旅客設備においては、ふんだんにアルミニュームが使用されていた。伝統的な 木工細工や化粧板は、姿を消していた。
[1947年、オレゴン州、ポートランド、Oregon Shipbuilding Corporation建造。8,481総トン、全長455フィート、全幅62フィート、喫水28フィート。蒸気タービン、1軸。巡航速力16.5ノット。旅客定員1等 95人]

GOTHIC(前頁上、本頁上)
 英国のShaw Savill Lineは、4隻の姉妹船、すなわちAthenic、Ceramic、Corinthic、Gothicを、ロンドンからカリブ海、パナマ運河、南太平洋を経由してニュー ジーランドに向かう航路で運航していた。この船には本国行きのラム、マトンの貨物のための冷蔵区画が特に装着され、概して大量の羊毛を積 んでいた。
 1953年、Gothicは、Elizabeth二世女王戴冠英連邦周遊用の王室ヨットとして一時的に使用するため、白に塗り替えられ て、英国政府に傭船された。女王、Philip大公、そして随行員が、改修した旅客船室を占めた。王族の航海向けに新たに改修された旅客 ラウンジ(上)は、女王の居間として用意された。
 女王は1953年11月にバミューダに飛行機で向かわれ、Gothicに乗船された。その後本船はパナマ運河を横断し、南太平洋の旅を 開始した。ニュージーランドとオーストラリアに長くそして大いに宣伝された滞在をして、船はスリ・ランカ、東アフリカ、スエズへと西に向 かい、この航海は翌年の5月にマルタで終わった。そこで女王に英国海軍から戴冠の贈り物が遅れて贈られた。将来の外遊のための全長400 フィートのヨット、Britanniaである。
[1948年、イングランド、ニューカッスル、Swan, Hunter & Wigham Richardson, Limited建造。15,902総トン、全長561フィート、全幅72フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力17ノット。旅客定員1等85人]

EXETER(前頁、下)
 American Export Linesは大変な人気のある「Four Aces(=4つのエース)」を運航していた。すなわち、Excalibur、Excambion、Exeter、Exochordaである。第二次世界大戦後、合衆国で この最良に設計された結合船は修理され、屋外ポール、かなり広い屋外甲板、良く装飾されたラウンジ、広い船室が設けられた。一団となって ニューヨークからスペイン、南仏、イタリア、エジプト、レバノン、トルコ、ギリシャに向かう7週間の周遊クルーズを行った。
[1944年、メリーランド州、Sparrows Point、Bethlehem Steel Company建造。9,644総トン、全長473フィート、全幅66フィート、喫水27フィート。蒸気タービン、1軸。巡航速力17ノット。旅客定員1等125人]

BRASIL STAR(前頁、下)
 Brasil Starは、ロンドンのBlue Star Line向けに40年代後半に建造された4隻の結合船の1隻である。それぞれ貨物用の6つの船倉に加え、50人以上の1等船客向けの空間を有していた。外国に向かう時は、 自動車や機械のような貨物を載せて、リオ・デ・ジャネイロ、サントス、モンテビデオ、ブエノス・アイレスに向かった。帰りは英国の食肉市 場に向かうアルゼンチンの牛肉が冷凍区画に満載されていた。Vestey Groupの一部をなすBlue Starは、食肉市場や冷蔵倉庫、更にはアルゼンチンの牛牧場を所有する巨大企業の一員でもあった。
[1947年、イングランド、Birkenhead、 Cammell Laird & Company Limited建造。10,716総トン、全長503フィート、全幅68フィート、喫水31フィート。蒸気タービン、1軸。巡航速力16ノット。旅客定員1等51人]

 Brasil Starの姉妹船Uruguay Starの喫煙室(前頁、上)は、戦後の英国船の装飾を反映したものとなっている。

SANTA MONICA(上)
 アメリカのGrace Lineは、1946年にSanta Monica級の9隻の52人乗りの結合姉妹船を就航させた。そのうちの3隻のSanta Clara、Santa Monica、Santa Sofiaはカリブ海を3週間かけて航海した。他の6隻のSanta Barbara、Santa Cecilia、Santa Isabel、Santa Luisa、Santa Maria、Santa Margaritaは、南米西岸への6週間の運航をしていた。それぞれの船はコーヒーやバナナから硝酸、冷凍魚まで、様々な貨物を輸送したが、多くの観光客にも宣伝されて いた。その宣伝は非凡なもので、カルタヘナ、ブエナベントゥラ、カラオ、バルパライソ、アントファガスタのような、現実離れした響きのあ る寄港地であった。旅客設備の中には、メインマストの上の大きな白い四角いものがあり、熱帯では、夜間の屋外映画のスクリーンとして使用 されたのだった。
[1946年、ノース・カロライナ州、ウィルミントン、North Carolina Shipbuilding Corporation建造。8,357総トン、全長459フィート、全幅63フィート、喫水27フィート。蒸気タービン、1軸。巡航速力16ノット。旅客定員1等52 人]

SANTA MARIANA
 Santa Marianaと3隻の姉妹船Santa Maria、Santa Magdalena、Santa Mercedesは、Grace Lineのニューヨーク―南米西岸航路向けに設計されたものである。コンテナ貿易が大成長を遂げる前に建造されたものであり、南米の港湾は、未だに貨物海運の現代的な方式 に見合った設備を有していなかった。その結果として、この4隻は甲板に自前のコンテナ用クレーンを持たなかったのである。甲板の下には、 バナナ用の特別の区画があった。
[1963年、メリーランド州、Sparrows Point、Bethlehem Steel Company建造。14,442総トン、全長547フィート、全幅79フィート。蒸気タービン、1軸。巡航速力20フィート。旅客定員1等119人]

3、作業船

 作業船は過去におけるものであるが、ある程度は残存しており、専門性から生じた品種である。旅客船としては、しばしば大型の定期船の ような魅力や栄光に欠けるものであった。その旅客設備は、時折、極めて質素なものである。速力は遅かった。目的は、低額運賃の乗客か、特 別の乗客を輸送するところにあった。格安観光客、移民、本国送還者(注、引揚げ者等)、難民、信心深い巡礼者、学生、労働者、更には軍隊 である。

 こうした船の中で、通常の耐用年数を超えて運航されたものもあった。小型の擦り切れた船体が、北大西洋、南米、あるいはオーストラリ アに向かったのである。1泊用の近海汽船を、移民を乗せてブエノス・アイレスやシドニーに行く、月単位の長距離航海向けに改造したものも あり、その外国行きの航海では、しばしば船の経費以上の収入があり、かなり儲かったのである。本国に向かう時は、空船であることがたびた びであった。船内設備は通常、狭苦しくて質実剛健なものであり、元の収容力の3倍以上にしているのが一般であった。

 他の作業船は新しく、より注意深く建造されたものである。これらの船には明確な目的があった。貨物と旅客の釣合を取り、旅客はしばし ば3等級か4等級、あるいは5等級に分けられているものもあった。造船所から出て来たばかりの船は、同一等級で移民や格安観光客向けに設 計されていた。これらの船は、いくぶん高速で(船内は)広い傾向にあった。

 安いチャーター・ジェット貨物機の出現により、こうした船の多くは、現在では忘却の彼方に流されてしまっている。例えばオーストラリ アに向かう移民で混雑した長い旅の時代は、現在では過去のものである。しかしその最盛期においては、こうした有名ではない、しばしば忘れ られている船舶が、大勢の乗客を乗せて成功し儲かっていたのである。


GROOTE BEER(前頁、上)
 戦時中にアメリカで建造された多くの貨物船は仕事がなくなり、40年代後半には余剰船となっていた。これらの船の中で、3隻の Victory級の貨物船がオランダの手に渡った。当初は軍隊輸送船として使用された。その後1951年に、元々貨物用の空間だったとこ ろが同一等級の900人の乗客用に改造された。その多くは移民や学生用であった。大きな共同寝室が3隻の姉妹船(Groote Beer、Waterman、Zuiderkruis)の全てに設置されたが、事実、通常の船室よりも多かった。この3隻はオランダ政府によって所有されたが、 Holland-America Lineのような民間旅客船会社によって運営され、ロッテルダムかアムステルダムから世界の港に航海していた。すなわち、ニューヨーク、ケベック、オーストラリア、極東、 南アフリカ、カリブ海諸国である。
[1945年、カリフォルニア州、リッチモンド、 Permanente Shipyard建造。9,190総トン、全長455フィート、全幅62フィート、喫水28フィート。蒸気タービン、1軸。巡航速力17ノット。旅客定員同一等級900 人]

VOLENDAM(前頁、下)
 Holland-AmericaのVolendamは、決して戦前の1等の旅客船の地位に戻ることはなく、同一等級の 「austerity service(=質素な運航)」の代わりに使用された。40年代後半、50年代初期には、本船は学生や移民を乗せてロッテルダムからニューヨークあるいはケベック・シ ティーに向かう航海と、冬場のオーストラリアへの移民輸送という長距離航海とをしていた。ここに見えるのは、本船がロッテルダムで、シド ニーに向かう「new settlers(=新移民)」を乗船させている様子。
[1922年、スコットランド、ゴバン、Harland & Wolff, Limited建造。15,434総トン、全長579フィート、全幅67フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力15ノット。旅客定員ツーリスト・クラス1,693人]

SEVEN SEAS(上)
 戦時中に補助的な航空母艦に改造された旧貨物船のSeven Seasは、40年代後半に旅客船に再改造され、後に西ドイツのEurope-Canada Lineで使用された。このHolland-America Lineの子会社は、本船を北大西洋の「低価格」運航で使用した。すなわちブレマーハーフェン、ロッテルダム、ル・アーブル、サウサンプトンからモントリオールあるいはハ リファックスそしてニューヨークに向かった。後年、冬のオフ・シーズンには、船上で学ぶ学生を乗せて、洋上大学として世界をクルーズし た。本船は、ロッテルダム港の労働者宿泊船という全く魅力のない役で生涯を閉じた。
[1940年、ペンシルベニア州、チェスター、Sun Shipbuilding & Dry Dock Company建造。12,575総トン、全長492フィート、全幅69フィート、喫水22フィート。Suizerディーゼル、1軸。巡航速力16.5ノット。旅客定員 1,007人(1等20人、ツーリスト・クラス987人)]

CABO SAN VICENTE(前頁、上)
 スペインのYbarra Lineは、スペインと他の地中海の港湾、南米東岸との間の移民輸送に、長年関係して来た。50年代後半、最大の旅客船を就航させた。姉妹船Cabo San RoqueとCabo San Vicenteである。その運航形態は、ジェノバからバルセロナ、パルマ・デ・マヨルカ、カディズ、リスボン、テネリフェから南大西洋を横断して、リオ・デ・ジャネイロ、 サントス、モンテビデオ、ブエノス・アイレスに向かうものであった。親しみやすいキャビン・クラスの大変に快適な寝室と共に、西行きの移 民向けのツーリスト区画は、初期の船よりはかなり改善されていた。
[1959年、スペイン、ビルバオ、Sociedad Espanola de Construccion Naval建造。14,569総トン、全長556フィート、全幅69フィート、喫水27フィート。Sulzerディーゼル、2軸。巡航速力20ノット。旅客定員841人 (キャビン・クラス189人、ツーリスト・クラス652人)]

SIBAJAK(前頁、下)
 Royal Rotterdam Lloydの定期船Sibajakは、元々アムステルダムから東インド諸島に向かう植民地運航向けに設計されていた。戦後、本船は同一等級の移民船に改造されて、通常、 オーストラリアに向かった。行きにはしばしば収容力一杯になったが、帰りは空船か、あるいは「down under(=オーストラリア・ニュージーランド地方)」での生活に不向きであった帰国者が乗船していた。
[1928年、オランダ、フリッシンゲン、De Schelde Shipyards建造。12,342総トン、全長530フィート、全幅62フィート。Sulzerディーゼル、2軸。巡航速力17 ノット。旅客定員同一等級1,000人]

JOHAN VAN OLDENBARNEYELT(上)
 別の旧オランダ植民地定期船Johan Van Oldenbarneveltの旅客設備は、戦後、移民や学生向きに改装された。典型的な4人部屋は、確かに魅力に欠けていた。
[1930年、オランダ、アムステルダム、Netherlands Shipbuilding Co.建造。19,787総トン、全長608フィート、全幅74フィート、喫水27フィート。Sulzerディーゼル、2軸。巡航速力17ノット。旅客定員同一等級 1,414人]

VILLE DE MARSEILLE(次頁、上)
 French LineのVille de Marseilleは、この会社の戦後の再建計画で生まれた簡素化された船であり、西地中海から植民地アルジェリアに向かった。マルセイユから北アフリカ、のオランの港へ 行き、Philippeville(現在のスキクダ)、Bone(現在のアナーバ)、アルジェに、金持ちの貿易業者や観光客から、季節労 働者やフランスの軍隊の果てまでの乗客を輸送したのだった。
[1951年、フランス、La Seyne、Forges et Chantiers de la Mediterranee建造。9,576総トン、全長466フィート、全幅64フィート、喫水20フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力21ノット。旅客定員653人 (1等143人、2等318人、3等192人)]

IMPERIO(右)
 ポルトガルのアフリカの植民地のアンゴラとモザンビークは、Companhia ColonialとCompanhia Nacionalの2社による定期船船隊を必要としていた。ColonialのImperioは、こうした船隊の典型であった。4等級の乗客(最下級はしばしば軍隊や警官 隊が使用した)と5つの船倉の貨物を輸送したのだった。リスボンからの運航がなくなると、Imperioとその僚船は、3ヶ所のアフリカ の海岸に送られた。最初はサオ・トメ、ルアンダ、ロビト、アンゴラのモサメデスに行き、その後南アフリカのケープタウンに行き、東岸の Lourenco Marques、モザンビークのベイラ、ナカラに寄港した。
[1948年、スコットランド、クライドバンク、John Brown & Company, Limited建造。13,186総トン、全長531フィート、全幅68フィート、喫水28フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力18ノット。旅客定員590人(1等 114人、ツーリスト・クラス156人、3等320人)]

Imperio
 政府官僚、軍高官、裕福な商人向けに設計されたImperioの1等区画は、豪華で、大変に快適な(初期のものではあったが)船の様式 を反映したものであった。ここに掲載したのは、本船の最上のスィートの居間(前頁、上)と、狭い1等のサロン(前頁、下)である。1等の 喫煙室のラウンジ(上)は、より現代的な様式で装飾されていた。

STATE OF MADRAS(最上)
 ボンベイのShipping Corporation of India, Limitedは、そのState of Madrasを地方・近海運航向けに配船した。本船はマドラス、ペナン島、シンガポールの間を不活発に往復運航した。乗客のある者は所謂「saloon class(=サロン・クラス)」で旅をし、残りは「steerage deck class(=最下級甲板クラス)」で航海した。下の相部屋船客には設備が殆どなく、自前の寝具さえも持参していたのだった。
[1948年、イングランド、Wallsend、Swan, Hunter & Wigham Richardson, Limited建造。8,580総トン、全長456フィート、全幅62フィート、喫水25フィート。3段膨張式往復蒸気機関、2軸。巡航速力13ノット。旅客定員650人 (サロン・クラス150人、最下級甲板クラス500人)]

BRAZIL MARU(上)
 最も異例な旅客運航の1つが、日本と南米東岸との間の移民運航であった。何千もの日本人が、再定住あるいは特別の労働事業のために、ブ ラジルとアルゼンチンへの渡航を欲したのだった。日本の旅客定期船会社は、戦後、カリフォルニアへの伝統的な太平洋横断運航向けの新船を 建造しなかったが、急騰していた南米運航向けに、2隻の貨物・旅客・移民に特化した結合船を建造した。そのうちの1隻がBrazil Maru(=ぶらじる丸)であり、リオ・デ・ジャネイロ、サントス、ブエノス・アイレスに向かう移民を積み込んで、神戸を出港する様をここに見ることができる。
[1954年、日本、神戸、Mitsubishi Heavy Industries, Limited(=三菱重工業)建造。10,100総トン、全長512フィート、全幅64フィート、喫水28フィート。Mitsubishi-typeディーゼル、1軸。 巡航速力16ノット。旅客定員982人(キャビン・クラス12人、ツーリスト・クラス68人、3等902人)]

4、浮かび上がる国旗

 第二次世界大戦後、比較的珍しい多くの登録国旗が、旅客船の船尾に現れ始めた。新しい船主は、巨大な船隊を保有したり、国家の名声に 浴しようとは概して思わないのであった。その意図というのは単純なものである。短距離航路を道楽半分にやり、特別な旅客需要(例えば移民 や巡礼者)に合わせるためにクルーズに適当な投資を行うか、あるいは安い税金の便宜のため、伝統的な国旗の下での厳しい規則にかかる高額 の経費を避けるためにパナマやリベリアの船籍にするのである。

 こうした成長様式の中で、もっとも顕著な例外はソビエト連邦である。40年代後半以来、西側の外貨獲得のために、世界最大の遠洋旅客 船隊を形成している。ソビエトの旅客船は、安価なクルーズ航海向けに西側の会社にしばしば傭船されているのである(注、ソビエト連邦崩壊 前の状況)。

 最近では、政治的理由、運航経費の上昇、航空機との競争、旅客運航の変化により、アルゼンチン、イスラエル、ポルトガルといった船籍 の船は、完全に旅客船海運から姿を消している。


ABKHAZIA
 第二次世界大戦後、ソビエトの旅客船隊はめざましく成長した。当初、これは接収船や沈没したドイツの旅客船を引揚げたものであった。場 合によっては、これはえらく退屈な作業であり、物資の不足や、ソビエトに支配された造船所ののろまな作業のため、作業は何年もかかったの だった。竣工するや、船舶は通常、3つあるソビエトの旅客航路の1つに任命されたものだった。すなわち、オデッサから出ている地方の黒海 航路、レニングラードから出ているバルト海航路、あるいはウラジオストクから出ていた遠くシベリアの沿岸航路である。時折、ニューヨーク にまで航海することすらあった。
 Abkhaziaは戦後の接収船であり、ドイツのMarienburgだった船である。かなり修理されて、オデッサを本拠にしてヤル タ、ソチ(ここに掲載)、バトゥーミ沿岸を結んだ。
[1939年、ドイツ、ステッチン、Stettiner Oderwerke Shipyard建造。6,807総トン、全長431フィート、全幅59フィート、喫水18フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力17ノット。旅客定員約550人]

LEONID SOBINOV(上)
 ソビエトは50年代後半までに新しい旅客船の建造を始めたが、定期的に中古定期船も購入していた。Leonid Sobinovは、以前のCunarderのCarmaniaであり、1973年に購入されて、以来、様々な船主の下で様々な運航に就いて来た。当初、本船はロンドンの C.T.C. Linesに傭船されて、オーストラリアやニュージーランドへの移民輸送の他、英国からの安価なクルーズをしていた。後にソビエトの地方運航に就き、主として黒海で運航し た。その後、技術者や学生を乗せてキューバへの横断航海を行い、更に後には、キューバ兵を中東や東アフリカに運んだ。ここに掲載したの は、マルタのバレッタでの船影。
[1954年、スコットランド、クライドバンク、John Brown & Company Limited建造。21,370総トン、全長608フィート、全幅80フィート、喫水28フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力19.5ノット。旅客定員同一等級 881人]

THEODOR HERZL(次頁、上)
 1948年の独立に引き続いて、イスラエルはZim Linesという自前の旅客船隊を創設した。当初は古い小型船からなっていたが、西ドイツとの賠償協定を通じ、この会社は50年代中葉に4隻の新しい旅客船を得たのだっ た。最初の2隻は貨客結合船のIsraelとZionであり、いずれもハイファ、地中海、ニューヨーク間を運航すべく設計されたものだっ た。2番目の姉妹船は、JerusalemとTheodor Herzlで、ハイファ、ナポリ、マルセイユ間の地方運航向きに建造された。その最初の目的は、イスラエルという未熟な国家に新しい移民を運んで来ることにあった。
[1957年、西ドイツ、ハンブルク、Deutsche Werft Shipyard建造。9,914総トン、全長488フィート、全幅65フィート、喫水21フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力19ノット。旅客定員ツーリスト・クラ ス570人]

VOLKERFREUNDSCHAFT(次頁、中央)
 1959年の終わりに、東ドイツ政府はSwedish-Americanの定期船Stockholmを買収し、労働組合の休暇クルーズ 向けに改造した。同一等級の600床近い寝台を有し、本船はノルウェーのフィヨルド、南は地中海、西アフリカから、更にはカリブ海にま で、労働者とその家族を乗せてバルト海を出帆した。本船にはVolkerfreundschaft、すなわち「国際的友情」という適切な 新名称が与えられた。
[1948年、スウェーデン、イェーテボリ、Gotaverken Shipyards建造。12,387総トン、全長525フィート、全幅68フィート。Gotaverkenディーゼル、2軸。巡航 速力19ノット。旅客定員同一等級568人]

TRANSYLVANIA(次頁、下)
 ルーマニア政府は黒海の沿岸にTransylvaniaを走らせていた。ヤルタ、オデッサ、イスタンブールといった港湾に姿を見せてい た。この写真では、地中海での特別クルーズ中のマルタで姿を見ることができる。
[1938年、デンマーク、コペンハーゲン、Burmeister & Wain Shipyards建造。6,672総トン、全長432フィート、全幅58フィート。Burmeister & Wainディーゼル、2軸。巡航速力18ノット。旅客定員約400人]

ANKARA(上)
 トルコもまた、注目すべき戦後の旅客船隊を発展させた。新船もあったが、通常は戦前のアメリカの余剰船となったものであった。 Ankaraはアメリカの沿岸定期船でクルーズ定期船でもあったIroquois。トルコ色の下、通常、英国人とヨーロッパの観光客を乗 せてクルーズをした。他のトルコの旅客船は、トルコ沿岸に沿って地方を定期運航するか、遠くのマルセイユ、ベニス、アレキサンドリア、あ るいは時折、大西洋を横断してニューヨークに向かったものだった。
[1927年、バージニア州、ニューポート・ニューズ、 Newport News Shipbuilding and Dry Dock Company建造。6,178総トン、全長409フィート、全幅62フィート、喫水21フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力18ノット。旅客定員407人(デラック ス・クラス4人、1等167人、ツーリスト・クラス236人)]

ALGAZAYER(次頁、上)
 エジプトは1962年に、姉妹船のAlgazayerとSyriaを地中海の旅客船に加えた。この船は2つの運航向けに設計されてい た。すなわちアレキサンドリア、ピレウス、ベニス間の貨客急行と、ポート・スエズとサウジアラビアのジェッダ間の巡礼運航である。
[1962年、西ドイツ、ハンブルク、Deutsche Werft Shipyard建造。4,444総トン、全長354フィート、全幅55フィート、喫水14フィート。M.A.N.ディーゼル、1軸。巡航速力15.5ノット。旅客定員 282人(1等30人、2等90人、3等162人)]

DALMACIJA(次頁、下)
 ユーゴスラビアの素晴らしいアドリア海沿岸で旅客船が運航することは、自然なことであった。当初、一連の古い小型船が運航に就いた。そ の後、60年代の中葉に、一連の新しいクルーズ船とカーフェリーのクルーズ船が建造された。Dalmacija(マルタでの船影)と姉妹 船Istraは、ここの船隊における最大の船であった。
[1965年、ユーゴスラビア、プーラ、 Brodogadiliste Uljanik Shipyard建造。5,651総トン、全長383フィート、全幅50フィート、喫水16フィート。Sulzerディーゼル、2軸。巡航速力19ノット。旅客定員1等 316人]

S.A. ORANJE(上)
 60年代中葉、英国のUnion-Castle Lineは、定期船運航で南アフリカに一大攻勢をかけた。その大型急行定期船から、28,700トンのPretoria CastleがSouth African Marine CorporationのS.A. Oranjeに装いを変えてサウサンプトンへの定期運航を行った。ここに掲載したのは、テーブル・マウンテンを背景にケープタウンを出港する様子。Transvaal Castleは、更に大型の32,600トンの船であったが、同様に移籍した。S.A. Vaalと再命名されて、南アフリカのフラグシップとなった。
[1948年、北アイルランド、ベルファスト、Harland & Wolff Limited建造。28,705総トン、全長747フィート、全幅84フィート、喫水32フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力22ノット。旅客定員755人(1等 214人、ツーリスト・クラス541人)]

MINGHUA(右)
 中華人民共和国は秘密のベールで覆われていたが、50年代と60年代に遠洋旅客船隊を創設し始めた。当初、これらの船舶は沿岸航路で使 用され、その後、時折、東アフリカのような場所での建設計画のために技術者と労働者を輸送していた。70年代中葉、中国は以前のフランス の定期船Ancervilleを取得して、Minghua(明華=明るい中国)に改名し、様々な太平洋の港湾に向かうクルーズを行った。
[1962年、フランス、サン・ナゼール、Chantiers de l'Atlantique建造。14,224総トン、全長551フィート、全幅72フィート、喫水21フィート。Burmeister & Wainディーゼル、2軸。巡航速力22.5ノット。旅客定員同一等級733人]

5、改造と増築

 第二次世界大戦後、造船費用は急騰した。50年代のある英国定期船は、20年代、30年代に建造された同程度の大きさの船舶よりも 15倍の費用がかかったものである。結局、最近では、旅客海運において増築の数が凄まじく増えていることが注目されている。老朽船の改造 は、大変に経済的なのである。

 改造と増築の手順は、簡単に描写することができる。古い引退した船は、しばしば船腹過剰か不景気の旅客・貨物市場において、大変に安 い価格で塊として取引されている。最近では、こうした船舶の多くは全てが古いものではない。購入された船は、造船所に送られ(停泊料の安 いところが好みのギリシャの船主もいる)、そこでは取り外されたマストやら、帆げたやら、煙突やら、救命艇やら、甲板設備やら、時に完全 な上部構造物ですぐに艀が一杯になるのである。そして空っぽの船体が残る。これが鍵となる要素なのである。つまり船体が最も費用のかかる 部分である。船体は、鋼製の船殻、二重船殻、そしてディーゼルかタービンの推進機関から構成されている。

 技術者や労働者に、設計者や内装業者が加わって、船主の要求に見合った「新しい」船を作り出すのである。傾斜を付けた船首、燃え上が るような煙突、流れるような上甲板の配置から、しばしば元の船の見分けがつかなくなるのである。多くの場合、この結果というのは、純粋に 芸術的な手腕によるものである。惜しげもなく飾られた現代的な公室と旅客室によって、船の本当の船齢が判らなくなってしまうのである。


GENERAL WILDS P. RICHARDSON、
LA GUARDIA、
LEILANI、
PRESIDENT ROOSEVELT、
ATLANTIS、
EMERALD SEAS(全て同一の船)

 迷彩色を施された(次頁、上)アメリカの軍隊輸送船General Wilds P. Richardsonは、第二次世界大戦の終わり近くに建造された11隻の17,000トンの姉妹船の1隻であった。それぞれ5,000人以上の軍人を収容することができ た。軍務に就いた期間は比較的短く、Richardsonは試験的に商業的な平時の旅客船に改造されるために選ばれた。計画は、この等級 の他の船に拡張されなかったが、この元軍隊輸送船は全時代を通じて最もしばしば改造され、再設計された旅客船になった。1億ドル以上も本 船には費やされた。
[1944年、ニュージャージー州、カーニー、Federal Shipbuilding & Dry Dock Company建造。17,951総トン、全長623フィート、全幅75フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力19ノット。旅客定員 兵士5,200人]

 1949年、Richardsonの軍隊輸送船の内装は、取り出されて撤去された。本船は600床以上の寝台を有する旅客運航向けに 改造された。まず、本船はAmerican Export Linesのニューヨーク―地中海航路向けのLa Guardiaになった。商業的に運航するには経費のかかる船であることが判り、本船はしばらく係船された。1956年、Textron Companyの手に渡り、更に改造されて、サンフランシスコ―ホノルル間のクルーズ運航向けのLeilaniになった(次頁、中)。
 再び財政的な問題が生じ、1960年にLeileniはAmerican President Linesに売却されて、3度目の改造が行われた。President Rooseveltに改名されて(次頁、下)、太平洋横断、世界一周、更には短距離沿岸航海といった豪華クルーズ運航向けに再設計された。新しい収容力は456人に制限さ れて、全てが1等となった。
 10年後の1970年、再び持主が変わり、今度はギリシャ船籍のChandris Linesに加わった。更に改造が行われ、外装も内装も含めて最も徹底的に行われた。収容力は962床に跳ね上がった。Atlantis(上)として、カリブ海のクルーズ 船として2年間を過ごした。1972年、Eastern Steamship Linesに売却された。その後5回の改造がなされてEmerald Seasに再命名され、フロリダ州とバハマ間の1泊クルーズを行った。

President Roosevelt(上)
 President Rooseveltは、日本、香港、フィリピンに向かう太平洋横断運航に就いていたので、旅客設備の一部は、明かにアジア風であった。本船の大型船室の1つの居室のベッド の窓の仕切は、明確に日本調であった。

MONTEREYとMARIPOSA
 1955年、サンフランシスコのMatson Lineは、当時僅かに船齢3年の、2隻の高速Mariner級貨物船を購入した。オレゴン州のポートランドに送られ、そこの造船所で船体が剥ぎ取られた。貨物空間の大部 分は、豪華な全て1等の旅客設備に取って代わられた。1年以内にMariposaとMontereyに改名されて、ハワイ、南太平洋、 オーストラリアのクルーズ運航に就いた。貨物船のFree State Mariner(次頁、上)は、Montereyになった。ここに掲載したのは改造を始めるためにポートランドに到着した模様。
[Monterey:1952年、メリーランド州、 Sparrows Point、Bethlehem Steel Company建造。14,799総トン、全長563フィート、全幅76フィート、喫水29フィート。蒸気タービン、1軸。巡航速力20ノット。旅客定員1等365人]

 竣工なったMonterey(下)が、ホノルルのアロハ埠頭に停泊している。背後には別のMatsonの定期船、古い Matsoniaが見える。

MontereyとMariposa(前頁)
 Mariposaの段差のある食堂(上)。脚のないテーブルと通路もある。
 Montereyの姉妹船、Mariposaがポートランドの造船所の艤装埠頭で竣工真近である(下)。
[Mariposa:1952年、マサチューセッツ州、クイン シー、Bethlehem Steel Company建造。14,812総トン、全長563フィート、全幅76フィート、喫水29フィート。蒸気タービン、1軸。巡航速力20ノット。旅客定員1等365人]

ATLANTIC(上)
 別の以前のMariner級貨物船、American Export LinesのAtlanticは、主としてツーリスト・クラスの定期船としてニューヨークと地中海の港湾間を航海していたが、しばしば遠く東のイスラエルにまで足を伸ばし ていた。旅客設備は大西洋横断様式に従ったものであった。すなわち、上甲板の1等は僅かに40人で、残りはツーリスト・クラスだった。掲 載したのは、1960年5月の処女航海でニューヨークから出港した様子。Atlanticは等級に関わらず、全ての船室に浴室と便所を備 えた、最も初期の旅客船の1つである。しばらくは、洋上で最も大きな屋外プールを持っていることも自慢としていた。
[1953年、ペンシルベニア州、チェスター、Sun Shipbuilding & Dry Dock Company建造。14,138総トン、全長564フィート、全幅76フィート、喫水28フィート。蒸気タービン、1軸。巡航速力20ノット。旅客定員880人(1等 40人、ツーリスト・クラス840人)]

Atlantic(前頁)
 貨物船Badger Marinerとして大西洋を航海していた時の、以前の船倉は、500席のツーリスト・クラスの食堂のような設備になった(上)。
 ツーリスト・クラスの4人部屋(下)は、上寝台はプルマン式で、空調設備があった。

HANSEATIC
 1957年の秋、Canadian PacificのEmpress of Scotland(上)は、モントリオールへの最後の大西洋横断航海を終えた。老朽化して時代遅れになっており、本船は売りに出されて、一時的に係船するためにベルファス トに送られた。直ぐに本船のしっかりした船体と機械の可能性を見極めていた新しい船主が見つかった。250万ドルで、本船は新たに Hamburg-Atlantic Lineの装いとなった。ここは北大西洋における、西ドイツで最高の定期船にするつもりであった。
 ハンブルクの造船所で修理して、以前のEmpressは、流線型の2本煙突のHanseatic(上)となって、翌年の7月に大西洋に 再び現れた。見分けが付く者は殆どいなかった。1等458人、ツーリスト250人の元の旅客設備は、現代水準のスィートになった。 Hanseaticは、忠実なお得意様を直ぐに獲得することができた。
[1930年、スコットランド、グラスゴー、Fairfield Shipbuilding & Engineering Company建造。30,029総トン、全長672フィート、全幅83フィート、喫水31フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力21ノット。旅客定員1,252人(1 等85人、ツーリスト・クラス1,167人)]

ACHILLE LAURO(上、次頁、上)
 しかしながら、すべての旅客船の改造が円滑に進んだわけではなかった。オランダのWillem Ruysは、元々インドネシアとの貿易向けに建造されたものだが、1964年にオーストラリアの観光・移民船に改造すべく、ナポリのLauro Linesに売却された。この定期船は、まず1,200万ドルの改造と整形のためにシシリー島のパレルモの造船所に送られた。1965年 8月29日、本船の上甲板から火災を起こし、改造部分の大半を焼損した(上)。本船は全壊せず、船主は本船を修復して、計画した改造を継 続する決心をした。1年近く後、本船はAchille Lauroとして姿を現した(次頁、上)。この船は、1985年にアラブのテロリストに乗っ取られ、新聞の見出しを飾った。
[1947年、オランダ、フラッシング、De Schelde Shipyard建造。23,629総トン、全長631フィート、全幅82フィート、喫水29フィート。Sulzerディーゼル、2軸。巡航速力22ノット。旅客定員 1,652人(1等152人、ツーリスト・クラス1,500人)]

 Lauro Linesの問題は、Achille Lauroに留まらなかった。ここは別のオランダの定期船Oranjeも購入していた。本船はAngelina Lauroとなって、改造のためにジェノバの造船所に送られた。パレルモでAchille Lauroから出火した5日前に、Angelinaからも出火したのだった。深刻なもので、6人の造船所の労働者が死亡した。しかし計画されていた僚船のように、 Angelina Lauroはその後修理されて、計画よりも1年程遅れて就航した。

ATLAS(次頁、中、下)
 1972年、Ryndam(次頁、中)は、Holland-America Lineの船隊の中で最古の旅客船であった。本船はニューヨークとモントリオールの双方に向かう北大西洋航路で使用され、オーストラリアや更には特別の学生航海のクルーズ にも使用された。最終的にはオランダでの運航には古過ぎることが判り、ギリシャのEpirotiki Linesに売却されて、その後際立って現代的なクルーズ船Atlasとして再設計された(次頁、下)。とりわけ突出していたのは、新しい煙突の意匠であり、鋭く傾いたマ ストであった。屋外のリド・デッキ(=プール甲板)とプールを備え、1等のクルーズ船としての極めて成功した新しい人生を送り始めた。 エーゲ海のみならず、スカンジナビア、西インド諸島、更には大西洋を横断してカリブ海や南米でも航海した。
[1951年、オランダ、Schiedam、Wilton- Fijenoord Shipyard建造。15,051総トン、全長510フィート、全幅69フィート、喫水28フィート。蒸気タービン、1軸。巡航速力16ノット。旅客定員1等731人]

DANAE
 貨物船のPort Melbourne(再上)とPort Sydneyは、1955年に英国のPort Line向けに、オーストラリアやニュージーランドの「meat runs(=肉輸送)」に就航すべく建造された。コンテナ海運が広まって、最終的には引退し、1974年、ギリシャの複合企業Carras Companyに売却された。ギリシャ人は、Carras Cruisesとして金になるアメリカのクルーズ市場に参入すべく改造を望んでいた。2隻の貨物船は、Khalkisの小さなギリシャの海港に運ばれた。実際には接岸する というよりは、内港に係留され、脇に作業用の艀が着けられて、いずれも骨組みだけにされ、その後、改造された。両船とも、直ぐに豪華なク ルーズ定期船Danae(上)とDaphneとして、新しい人生を送ることとなった。
[1955年、北アイルランド、ベルファスト、Harland & Wolft Limited建造。12,123総トン、全長532フィート、全幅70フィート、喫水27フィート。Burmeister & Wainディーゼル、2軸。巡航速力20ノット。旅客定員1等424人]

6、偉大なる行進の最期

 1958年10月、商用ジェット機が北大西洋を初めて横断した。偉大な大洋の大きさを小さくするかのように思える出来事の、先触れで あった。今やロンドンへは、ほんの6時間で行くことができる。全ての技術の進歩により、前時代の驚異は、ここでは大西洋横断定期船のこと であるが、間もなく死ぬことが宣告されたのである。その昔、蒸気タービン船が、帆船を滅ぼしたのと同じことが起きたのだった。

 皮肉にも1958年の北大西洋航路は、旅客定期船で史上最も賑わっていた。30隻以上の船で100万人以上の乗客が航海をしていた。 そうした旅行者の中にギリシャの女王がおり、壮大な古い船齢31年のIle de Franceに乗船してニューヨークに旅行された。そうした出来事を見て、French Lineは、自社の豪華船の1等船室に女王のような有名人が殆ど乗船していないことを悲しくも発見したのだった。その代わりにIleのような定期船は、予算を気にする旅行 者、学生、団体客、学校教師らに頼って運航していた。かってのWindsors公や一握りの人達は別にしても、豪華定期船に映画スターや 実業界の大立者、公爵や外交官といった乗客が名を連ね、DietrichとHemingwayが1等の食堂で夕食を共にした日々は、永遠 に去っていた。ジェット機の到来後、大西洋横断旅客船の生命線は、少なくともしばらくの間は、ツーリスト・クラスの乗客だったのであっ た。

 しかしながら1年以内に(1959年)、航空会社に支配されたのである。150万人が飛行機に乗ったのに対して、海路は90万人ほど であった。その後の10年間で、大西洋を船で横断した人は、100人中、僅かに5人になったのである。徐々に、年5隻の定期船の割合で、 旅客船が姿を消し始めた。その多くは解体工場に送られた。つまり恐竜だったのであった。新時代に完全に絶滅したのである。この悲しい行進 に国境はなかった。(僅かに北大西洋の姉妹達よりも幾分遅かったとしても)直ぐにオーストラリア、南米、アフリカ、太平洋の定期船も、同 様の運命を辿った。

 最初の危機を乗り切った僅かな生き残りは、70年代初期の別の危機に直面した。1973年、貴重な燃料費がトン当たり35ドルから 95ドルに跳ね上がったのである。船で利益を出すことは、例え上級の寝台を一杯にしたとしても、不可能に思えたのだった。人件費が急騰し たこともあって、生き残った船の大半は、同様に消えたのである。

 最古の、そしてかっては最大の定期客船会社であったCunardが、生き残りの大西洋定期船を僅かに残していたことは、皮肉なことで あった。毎年6ヶ月間は、Queen Elizabeth 2が、かって最大最速そして最高に豪華な定期船で鳴らした北大西洋を航海している。今や、QE2はもうひとつの特色を加えている。すなわち、本船が正に最後の船なのである (注、2004年にQM2が就航した。)。


LIBERTE
 有名なフランスの定期船の最期は、1961年にやって来た。当初、Liberteの1962年の万国博覧会でホテル船として使用するた めに、シアトルに行くものと考えられていた。その後、博物館、移民船、熱帯のリゾートという別の提案がなされた。最後には、イタリアの ラ・スペッツィアの解体工場から、最高値の入札がなされた。フランス側は、Ile de Franceの最期のことを知っていたので(68頁参照)、厳格な契約を締結し、解体以外の目的でこの有名な定期船を使用することを禁じた。Liberteは1962年の 夏、ラ・スペッツィアの屋内停泊地で、その生涯を閉じた。

ILE DE FRANCE
 1958年10月10日、最愛のIle de Franceは、最期の大西洋横断にニューヨークを出発した。本船は、新しいジェット時代に運航から離れた最初の定期船の中の1隻であった。本船の将来については、様々な 憶測が飛び交った。フランス人は次のような提案に打ちのめされていた。すなわち、ル・アーブルで博物館になる、マルティニーク島で洋上リ ゾートとなる等。そして恐らく最も野蛮なものは、マストと煙突を切り落として、セーヌ河を走ってパリの正に心臓部に入り、恒久的な記念品 になるというものであった。
 Ileは、最終的には解体のために日本の会社に売却された。1959年2月26日、悲しみにくれた本船の崇拝者は、本船が小さな日本人 の船員に操船されて、ル・アーブルから大阪に出発する様を目撃したのだった。航海中、名前はふらんす丸に変更になった。日本で、本船の煌 くような人生は、屈辱に変わったのだった。あるハリウッドの会社が、瀬戸内海で海に浮かぶ大道具として使用するために、1日4,000ド ルで傭船し、The Last Voyage(=最後の航海)を撮影したのである。様々な場面で、船首の煙突は故意に外され、甲板室に叩きつけられた。かっては壮大だった内装品は、爆発物によって荒らさ れた。船首からこの定期船が明かに沈没するように、水密区画は特に水浸しにされた。フランス人はこうした屈辱的な扱いにあきれ果て抗議し たが、殆ど無駄であった。撮影が終わるや、Ileは海中電灯を持った解体作業員の待つ、大阪に回航されたのだった。
[1927年、フランス、サン・ナゼール、Chantiers de l'Atlantique建造。44,356総トン、全長791フィート、全幅91フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力23.5ノット。旅客定員1,345人(1等 541人、キャビン・クラス577人、ツーリスト・クラス227人)]

FRANCE
 フランス人は他と同様、大西洋定期船の時代が終わることを確信していたわけではなかった。新しいFrance(上)は、事実、de Gaulle大統領の「夢の船」であった。1957年に竜骨(キール)を横たえた時から、この定期船をフランスの技術と芸術の才を象徴するものとして、まるで国政の重要事 項であるかのように熱狂して本船の建造を推進し、任期中の不朽の記念碑ともなったのである。彼は1960年5月の進水式に出席した。本船 は大きく(史上最長)、高出力(記録破りではなかったが、超高速)、惜しげもなく装飾されていた(呆然とさせるような1等食堂、多数の スィート、素晴らしい国民的芸術の展示品)。
 Franceは、北大西洋で通年使用されるように設計された最後の偉大な超定期船であった。すなわち、ル・アーブル―サウサンプトン― ニューヨーク航路に10ヶ月、分解検査に1ヶ月、そして冬季のカリブ海行きの臨時クルーズである。計画では、年間46回大西洋を横断する こととなっていた。
 最初からFrenceは、高慢で羨ましい地位を得ていた。つまり優雅で適切で、そして素晴らしい料理が提供されていた。しかし本船の維 持費、人件費、燃料費は大変なもので、それどころか満員でも経費を負担できなかったのである。幸運なことに、本船は「国家の船」であり、 洋上のショーケースであった。フランス政府は経費を負担したのであった。
 円形の1等食堂(上)は、「世界最高のフランス食堂」と呼ばれていた。戦後の大西洋定期船の公室の中で、恐らくは最も呆然とさせられる もので、壮大な階段があった。これは初代のFrance(1912年)が乗客に対し劇的な玄関として提供していた最も人気のある設備で あった。
[1961年、フランス、サン・ナゼール、Chantiers de l'Atlantique建造。66,348総トン、全長1,035フィート、全幅110フィート、喫水34フィート。蒸気タービン、4軸。巡航速力30ノット。旅客定員 1,944人(1等501人、ツーリスト・クラス1,443人)]

LEONARDO DA VINCI
 イタリア人も、大西洋横断旅客船の将来は明るいものと見ていた。事実、60年代初期には、この考えが広まり、定期船建造のうねりが巻き 起こったのである。多くの取締役は、航空機は速力を提供するものの、遠洋定期船は、比類のない豪華さと快適さを提供するものと感じてい た。かなりの人々が船を常に好むに違いない、と考えていたのであった。
 Andrea Doriaの代船として建造されたItalian LineのLeonardo da Vinci(上)は、もう1つの美しい「国家の船」であった。本船の気前の良い、ずば抜けて近代的なラウンジと船室、閉回路テレビ機構と5つの屋外プールの他、設計者達は 推進力を原子力に転換できるようにもしていたのだった。
 当時としては目立って近代的であった1等のメイン・ラウンジ(下)には、平たい真四角の椅子があった。
[1960年、イタリア、ジェノバ、Ansaldo Shipyards建造。33,340総トン、全長761フィート、全幅92フィート、喫水30フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力23ノット。旅客定員1,326人 (1等413人、キャビン・クラス342人、ツーリスト・クラス571人)]

CANBERRAとORIANA
 英国のP&O-Orient Linesも、太平洋を「遠洋旅行の偉大なる最後の辺境の地」と考えて、旅客定期船の将来を見込みのあるものと見ていた。ここにサンフランシスコから正に航海して来たとこ ろが掲載されているCanberraは、同社によって建造された史上最大の船であるばかりではなく、北大西洋以外の運航用に建造された最 大の定期船でもあった。更に本船は、従来の煙の出る煙突を廃止し、その代わりに船尾に2本のパイプを設けたのであった。イングランド― オーストラリア航路向けに特化したものであったが、本船は東洋、カリブ海、南アフリカ、そして北米西海岸への旅行向けにも設計されてい た。竣工時、本船は当時Cunardよりも大きかった、P&O-Orientの11隻の定期船船隊のフラグシップであった。
[1961年、北アイルランド、ベルファスト、Harland & Wolff, Limited建造。45,733総トン、全長818フィート、全幅102フィート、喫水32フィート。蒸気ターボ・エレクトロニック機関、2軸。巡航速力27.5ノッ ト。旅客定員2,272人(1等556人、ツーリスト・クラス1,716人)]

 ここにまた見えるのは、P&O Orientの2番目に大きな定期船のOrianaである。本船はオーストラリア航路に就航した最速の船であり、サウサンプトンからスエズを経由してシドニーまで、3週間 で横断した。
[1960年、イングランド、Barrow-in- Furness、Vickers-Armstrong Shipbuilders建造。41,923総トン、全長804フィート、全幅97フィート、喫水31フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力27.5ノット。旅客定員 2,134人(1等638人、ツーリスト・クラス1,496人)]

Canberra
 海辺の貸間に大変に似た1等のスィート(上)は、長期滞在の旅行者を想定して作られた。大変しばしば、本船の乗客は、1ヶ月か2ヶ月過 ごしたのである。
 船尾に2本のパイプがあることで、Canberraの最上甲板にはずば抜けた空間があった(右)。ここは、地中海ではとりわけ人気で あった。本船はオーストラリアに向かう途中、しばしば紅海とインド洋に立ち寄った。

WINDSOR CASTLE(前頁)
 Union-Castle Lineは、その旅客船の内装により伝統的な様式を取り込み続けていた。Windsor Castleの1等の居間(上)は、イングランドの居間に似せて作られていた。壁はピンク色で、白い大理石の暖炉があった。窓側の席は、大きな張り出し窓の印象を醸し出し ていた。
 1等ラウンジ(下)は緑銀色で、卵型のダンス・フロアーと、ステージの後ろにはムラーノ硝子の鳥の檻があった。船主は、この部屋は過去 の調和と優雅さを保ちつつ、現代の材質と技術を用いた好例であると考えていた。

TRANSVAAL CASTLE(上)
 英国のUnion-Castle Lineは、アフリカ航路における指導的な旅客船会社からは、程遠いものであった。アフリカ大陸を完全に一周する定期運航に加え、第1の運航はサウサンプトンとケープタウ ン間の毎週の郵便船運航であって、1961年においては8隻の定期船を必要とする運航であった。
 2隻の新しい異母姉妹で最大かつ最新のCastleの定期船が、60年代初期に加わった。1番船は、37,600トンのWindsor Castleで、皇太后のElizabeth女王によって進水し、1960年8月に就航した。本船は大量の貨物の他、伝統的な2等級の旅 客を運んでいた。
 2番船のTransvaal Castleは、1962年の始めに現れた。本船は僅かばかり小型だが、重要な違いを自慢としていた。すなわち本船は、同一等級のホテル級の定期船であったのだった。乗客 たちは本船で全行程を旅した。等級の違いのある時代は、消えつつあった。
[1962年、スコットランド、クライドバンク、John Brown & Company, Limited建造。32,697総トン、全長760フィート、全幅90フィート、喫水32フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力22.5ノット。旅客定員同一等級 728人]

ORANJE(前頁、上)
 旅客運航が衰退し始めるにつれて、多くの定期船は、時に臨時の、代わりの役割を捜していた。1962年5月、かって、植民地のオランダ 領東インドの女王であったNederland LineのOranjeは、アムステルダムから北海への短距離クルーズを行うために選ばれた。この行事は、Juliana女王の銀婚式であった。オランダの女王と家族に加 え、乗船名簿には大勢の王族が含まれていた。乗船者の中には、大英帝国のElizabeth女王とPhilip皇太子、ノルウェーとベル ギーの王、イランのシャーと王妃がいた。
[1939年、オランダ、アムステルダム、Netherlands Shipbuilding Company建造。20,551総トン、全長656フィート、全幅83フィート、喫水28フィート。Suizerディーゼル、3軸。巡航速力21.5ノット。旅客定員 949人(1等323人、ツーリスト・クラス626人)]

MAURETANIA(前頁、下)
 Cunardのかっては人気のあったMauretaniaは、サウサンプトン―ニューヨーク間の運航から離れ始めた。殆ど自暴自棄に なって、Cunardは地中海で運航することを試していた。惨めな失敗に終わったのだった。Mauretaniaは乗客と仕事を待って、 サウサンプトンの船渠で係留されることが多くなり始めた。仕事はありそうもなかった。本船は遂に全時間をクルーズに任命されたものの、古 くなっており、当時熱帯に現れ始めた、新しい最新流行のクルーズ船とは対照的であった。この古いCunarderの最後の航海の1つは、 新しい石油精製所の開所式にお客を輸送するために傭船されたものであった。これがビンゴの賞品に金時計を提供していた魅力ある船の最後の 煌きであった。その後直ぐに、本船はスコットランドの船舶解体業者に売却されたのだった。
[1939年、イングランド、バーケンヘッド、Cammell Laird & Company, Limited建造。35,655総トン、全長772フィート、全幅89フィート、喫水30フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力23ノット。旅客定員1,140人(1 等470人、キャビン・クラス370人、ツーリスト・クラス300人)]

WASHINGTON(左、上)
 アメリカは、恐らくは有事に備えて、莫大な「防御虫除け玉船隊」に、多くの古い旅客船を保有していた。しかし年月が経過するにつれ、任 務に呼び出される可能性は段々となくなった。1964年、5隻の使用されていなかった老朽船が、ゴミ捨て場に送られた。すなわち ManhattanとWashington(何れもUnited States Linesの船だったもの)と、Argentina、Brazil、そしてUruguayである(何れもMoore-McCormack Linesの船だったもの)。
 ここにあるのは、灰色に塗装されたWashingtonが、強力な曳船に導かれてニューヨーク州ジョーンズ・ポイントのHudson River Reserve Fleetを1965年に出発するさま。本船はニュージャージー州のカーニーの解体工場に向かった。
[1933年、ニュージャージー、カムデン、New York Shipbuilding Company建造。29,627総トン、全長705フィート、全幅86フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力20ノット。旅客定員戦後の質素な乗客1,106人]

AMERICA(左、下)
 60年代中葉までに、国家の旅客船に対する合衆国政府の助成金の削減が熱心に始められた。ワシントンからの資金なしでは汽船会社は豪華 定期船を保有する余裕がなかったのだった。直ぐに抵当権を有する政府に移管され、次々に係船されていった。労働者を刺激し、議会は復活計 画に取り組んだが、直ぐに星条旗の下で定期船を運航することは、費用がかかり過ぎるという現実に直面したのだった。その後、これらの船は 公開市場に売りに出された。高品質で建造されたため、その殆ど全ての船は、運航を継続する新しい外国の買い手を見つけたのだった。
 United States LinesのAmericaは、引退した最初の船であった。1964年、ギリシャのChandris Linesに売却される直前、バージニア州のニューポート・ニューズの誕生地に送られた。そこでしばらくの間、航空母艦のU.S.S. Americaと並んでいた。Americaは後にオーストラリアの移民船Australisになり、収容力は新しい任務のために倍増さ れた。

1962年3月、ハドソン埠頭
 大西洋の運航は衰退し続けた。真冬のある時、Queen Elizabethは、1,000人以上の船員に200人の乗客を乗せてニューヨークに航海した。これはマンハッタン島のウェスト・サイドに世界最大の定期船が3隻並んで 停泊している最後の機会を示すもの。United Statesが一番上で、Franceが中央、老朽化した3本煙突のQueen Maryが一番下である。

NEVASA(上)
 英国が植民地を失うにつれ、巨大な軍隊輸送船を維持する必要性は消滅した。その後英国軍は、海外の任地に航空機を使用した。ユニオン・ ジャックの下の最後の軍隊輸送船、NevasaとOxfordshireは、1962年に売りに出された。Nevasaは、1964年に 教育的なクルーズ船に改造される前に係船された。Oxfordshireは外国の権益に売却され、オーストラリアの移民定期船 Fairstarになった。
[1956年、スコットランド、グラスゴー、Barclay Curle & Company建造。20,527総トン、全長609フィート、全幅78フィート、喫水26フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力17.5ノット。旅客定員1,500人 (1等220人、2等100人、3等180人、軍隊1,000人)]

QUEEN MARY(左)
 大西洋の厳しい冬になると、直ぐに古い伝統的な旅客船は、とりわけ人々から見放された。ここにニューヨークに最後に到着する模様を掲載 した老練なQueen Maryでさえ、部分的にクルーズを行い、1963年12月には初めて、最低料金125ドルのナッソーへの5日間周遊旅行を行った。しかしこの木製パネルの内装で、個人用 の船室も、配管も、屋外プールも、プール甲板もない、空調設備が制限された古い定期船は、この転換に適したものではなかった。 Cunard Queensのような船は、しばしば寒く、湿った、霧の出る、北大西洋向けにのみ建造されていたのである。豪華クルーズのデビューは、成功しなかった。

MICHELANGELO(前頁)
 ジェット機がゆっくりと現れ、避けがたいものであることは明かであった。しかし1963年、Italian Lineは1隻ならず2隻の46,000トンの超定期船を就航させたのだった。1929年―30年のドイツのBremenとEuropa以来の最大の姉妹船であった。この 新しいイタリアの定期船は、大きな熱帯の港湾にしか行けない場合であってもクルーズをするものであったが、大半の時間は、ニューヨークへ の3等級の急行船として過ごす予定であった。2年後の1965年5月と7月に、Michelangelo(上)とRaffaelloは、 最大の、きらびやかな、考えられ得る限り真っ白な2頭の象として、大西洋を横断した。それぞれ船価は6,000万ドルであり、正に最初か ら深刻な疑問のあるものであった。利益を出すことを期待することができただろうか。実は決して利益は出さずに、10年以内で引退したの だった。後に、イラン政府の兵舎船となった。
 内装はずば抜けて現代的で、1等のカクテル・ラウンジ(下)は、この定期船の最高の空間の1つであった。
[1965年、イタリア、ジェノバ、Ansaldo Shipyards建造。45,911総トン、全長902フィート、全幅102フィート、喫水34フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力26.5ノット。旅客定員 1,775人(1等535人、キャビン・クラス550人、ツーリスト・クラス690人)]

1966年、サウサンプトン(上)
 1966年春の大規模な英国の海運ストで、英国の定期船船隊の最後の一群が急速に衰退して行くこととなった。20隻以上の旅客船が、サ ウサンプトン埠頭で何週間も仕事がないこととなったのである。人件費が高騰した上に需要が減少したことで、直ぐに会社は旅客運航を放棄す ることとなったのだった。
 この航空写真では、上の左側に4隻の係船中の定期船が見える。CunardのFranconia、Shaw Savill LineのSouthern Cross、そしてUnion-CastleのS.A. OranjeとCapetown Castleである。中央の外れにあるOcean TerminalにはQueen Maryがいる。この船の下にいるのは、CunardのCarmaniaと、Royal MailのAndes。右上の近くには、CunardのCaroniaと、Union-CastleのPendennis Castleがいる。中央右手に並んで停泊しているのは、「バナナ・ボート」のFyffes LineのCamitoとGolfito。

1966年、サウサンプトン(前頁、上)
 港での帆船の競争で集まった群衆の背後で、サウサンプトンの3隻のストライキ中の船が面白い背景となっている。全ての船はUnion- Castle Lineの船(左から右へ:大型貨客船のGood Hope Castle、クルーズ船のReina del Mar、そして郵便定期船の Edinburgh Castle。)。

乾船渠のINDEPENDENCEと CONSTITUTION(前頁、下)
 冬に偉大な定期船は、毎年の分解検査の一環として、乾船渠で数週間過ごしたものだった。機会は検査され、船体はすっかり剥ぎ取られて塗 装され、旅客設備は清掃されて刷新された。
 1966年、マンハッタンの埠頭のちょうど向い側にあるホボケンのBethlehem Steel Shipyardsで、Independenceが乾船渠に入渠し、Constitutionは修理を完了して直ぐに就航しようとしていた。しかし2隻のAmerican Exportの定期船の運航は、急速に変化していた。地中海への定期運航は衰退し、代わりにカリブ海へのクルーズが増えていた。船は冬に は係船され、暇を潰してさえもいたのであった。

INDEPENDENCE(上)
 1968年の数ヶ月間、Independenceは故意に破壊されたのだった。とあるニューヨークの旅行業者が、知恵の足りない船主を 祝福して、この定期船を改装して再塗装した。映画界の女王Jean Harlowの目を描いた周りに強烈な日光の効果を施したものを、船の外観に塗装したのである。この船は独特の料金体系の下、カリブ海と地中海に同一等級のクルーズをする ため送り込まれた。すなわち船室の料金は、食事や他のサービスとは別だった。結果として、大半の定期船が200ドルから300ドルだった ときに、サン・ファンやセント・トーマスへの1週間クルーズの料金が98ドルであった。ところがこれを埋め合わせるために、本船の食事は バカ高かったのである。乗客には不評であった。計画全体は早くも崩壊し、本船は通常のAmerican Exportに再塗装された。その後間もなくして、IndependenceとConstitutionは係船され、売りに出された。70年代の半ばに遂に台湾の海運王 C.Y.Tungにクルーズ船として将来使用するために売却された。

乾船渠のUNITED STATES
 ニューヨーク港の乾船渠の大半には大き過ぎる船であったので、United Statesは、バージニア州ニューポート・ニューズの巨大なNewport News Shipyardsで、冬を過ごすことを習慣にしていた。数千人の労働者の小さな群れが、この990フィートの定期船に群がり、約4週間かけて全般的な清掃と保守を行っ た。作業は四六時中続けられ、この定期船が大西洋横断シーズンの最初の航海に準備が間に合うというのは、大変な誇りであった。この 1964年11月の光景では、53,000トンの船が、87,000トンの原子力推進の航空母艦Enterpriseの隣で小さくなって 見える。
 United Statesに残された時間は少なかった。1952年に始まったときは、利益に恵まれた10年間であった。しかしその後、満員になった場合であっても、政府の財政的援助が 必要であった。運航するには高過ぎる船であり、主な費用は燃料費と人件費であった。60年代中葉には、Unired Statesは決して訪問する予定のなかった海域であるカリブ海に、時折、冬季クルーズのために送られた。最上甲板のプールや、プール甲板はなく、乗客からの収入は急減し 続けた。
 1969年秋、最期は突然やって来た。本船は別のアメリカ海員のストが広がる気配のあったときに、慣例の分解検査のためにニューポー ト・ニューズの造船所に送られた。船主は、この赤字垂れ流しの巨船の引退を決めた。使っていないノーフォークの埠頭に係留され、最終的に は売りに出され、それ以来、本船はホテルやモーテル、会議場、展示場、マンション、あちこち走りまわる伝道教会、そしてもちろん定期船に なるかもしれない可能性に直面してきた。1976年7月4日の建国200年祭の間、ニューヨーク港にまで形式的に航海するという、熱心な 提案もあった。1981年、豪華なクルーズ船に改造する計画を持つアメリカ人企業家によって、僅か500万ドルで買収された(元々の建造 費は7,900万ドル)。しかしこれを書いている現在、何も起きていない(注、その後Norwegian Cruise Lineが買収した。クルーズ船に転用する話はあるものの、2005年現在、検討中で、何らの動きもない。)。

CARONIA(最上)
 CunardのCaroniaは、戦後、クルーズ船の流行を取り入れた最も有名な定期船の1つであったが、最も利益の出ていない船の1 つでもあった。1967年10月に英国船籍でも運航から引退すると、ユーゴスラビア人がダルマチア沿岸で洋上ホテルとして使用したがっ た。しかし財政問題が起こり、この取引は崩壊した。
 1年後、Caroniaはギリシャの権益に売却され、Columbia、後にはCaribiaに再命名された。パナマ船籍となり、修理 のためにピレウスとナポリに送られた。ニューヨークからカリブ海への2週間クルーズで、1969年2月に再就航した。2度目の旅行時、マ ルティニーク島沖で出火した。乗客は脱出して飛行機で帰国し、この損傷した船はニューヨークへとゆっくりと曳航された。そしてかっての Cunardのターミナルであった第56埠頭で、5年間もぶらぶらしたのである。本船は、殆ど全ての事柄、全ての人との間で問題を抱えて いた。資本家、保守、修理、消防局、沿岸警備隊、更には警察署。どこも本船を違法停泊に分類したのである。
 最期の日々は、この定期船の残っていた備品や家具が競売に出され、しばしば遠洋定期船の偉大な時代の愛好の手に渡った。外れるものには 全て値札が付けられた。ソファーや電話機から、深鍋や木製パネルの果てまで。1974年4月までに、本船はニューヨークから台湾の解体工 場にまで長距離曳航する準備が整った。7月、本船は浸水問題を抱えてホノルルにいた。8月、グアムに寄港したとき、荒らしのために暗礁に 乗り上げて転覆し、3つに割れたのである。地元の救難隊が残骸を片付けたのだった。
[1948年、スコットランド、クライドバンク、John Brown & Company, Limited建造。34,172総トン、全長715フィート、全幅91フィート、喫水31フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力22ノット。旅客定員932人(1等 581人、キャビン・クラス351人)]

NIEUW AMSTERDAM(上)
 美しいNieuw Amsterdamに対するオランダ人の忠誠心は、大変に強固なものであった。1967年夏、深刻な機関問題によって本船の引退が取り沙汰され、長い論争が始まった。人気 のある意見が勝利を収めた。船齢は29年であったが、少なくとも数年は救う価値のあるものであり、本船のボイラーのうち5基は交換され た。ロッテルダムから出ていたHolland-America Lineの北大西洋運航は、1971年に終わりになったが、クルーズのためにカリブ海で更に2年間過ごした。正に終わりを迎えて、未だに本船の将来については議論をした。 提案には、本船を公式の母港であるロッテルダムに戻して、この都市の赤線地帯で売春宿として使用するというものもあった。そうした考えは 実現することなく、Nieuw Amsterdamは1974年に台湾で解体された。
[1938年、オランダ、ロッテルダム、Rotterdam Dry Dock Company建造。36,982総トン、全長758フィート、全幅88フィート、喫水31フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力21ノット。旅客定員1,157人(1 等574人、ツーリスト・クラス583人)]

QUEEN MARYの最後の横断(上)
 1967年9月22日、お祭りの護衛の中で、Queen Maryは1000回目の最期の大西洋横断航海でニューヨークを出発した。船齢31歳。最も偉大な海事経歴を終えようとしていた。本船はCunardのために6億ドル以上 も稼いでいた。栄光の3本煙突(定期船の最後のもの)、伝説、アール・デコの内装、そして戦時中の傑出した記録。全ての人々には、本船の 出発は壮大な大西洋横断豪華定期船の終焉の合図に見えたものだった。他船は数年ばかり長く頑張ったが、Maryの最後の航海は、最も象徴 的なものであった。
 当初、本船の将来は不確かであった。ニューヨークの高等学校、オーストラリアの移民船、ジブラルタルのホテルになることになっていた。 最後には南米を周遊する大変に宣伝された最後のクルーズを行って、カリフォルニア州ロングビーチの新居に向かった。そこで300万ドル ちょっとで、その都市に売却されたのである。
 Queen Maryは、ロングビーチで商売を始めた(右)。ホテル、会議場、博物館、時折、映画の小道具として。大西洋横断定期船から、固定された不動産への転換は完了した。元の煙 突は、アルミ製の複製品と取りかえられた。内部の多くは置きかえられ、刷新され、復元されたが、アール・デコの内装は手を付けずにそのま ま残ったのだった。ソファー、電球、硝子製品、更には船体のボルトのようなものは、騒がしい骨董品市場に送られ、そこでハリウッドのス ターや退役軍人、パイプを取り付けたクライドバンクの造船所の退職者の果てまでの愛好家によって、直ぐに買われたのだった。Maryの分 解検査は、7,000万ドルものよろめくような港湾の石油収入から支出された。Queen Elizabethは、香港の港で焼失したものの、本船は、皮肉にもロング・ビーチで開店したのだった。

QUEEN ELIZABETHの最期
 Cunardは、35回目の誕生日を迎える1975年まで、Queen Elizabeth(右)の運航を維持していたかった。しかしMaryのように、本船も赤字垂れ流しになっていたのだった。支持者は消えて行き、上手くクルーズをすること もできず、「保守が先延ばしにされた」ために、時折、みすぼらしく見えていた。1968年シーズンは、ElizabethはCunard の毎週の急行運航をせずに、夏に(戦時中を除いて)初めて1隻だけで航海したのだった。10月、ニューヨーク港は送別会を開いた。
 Elizaberhのこの後に起こったお話は、一種の混乱であった。当初、本船はホテル・会議場として使用するために、フィラデルフィ アに行くこととなっていた。その後、本船の新しいアメリカの船主は代わりにフロリダ州ポート・エバグレーズで行うことに決定した。船は Queen Meryの計画の東海岸版になることになっていた。しかし怠慢、錆び付き、財政的な混乱以外の何者も起こらなかったのだった。1970年、本船は台湾の海運王 C.Y.Tungによって助けられた。彼は、本船を洋上大学とクルーズ船として復活させようとする野心的な計画を持っていた。
 C.Y.Tungの最初の頭文字を取って、Queen ElizabethはSeawise Universityと再命名された。香港まで退屈な航海をした後、本船は新しい経歴のために広範な修理を行った。1972年1月9日、竣工直前、本船は炎を上げて、香港 の港で燃えたのである(上)。恐らくは破壊活動の犠牲となったのであった。ちょうど30年前に破壊されたNormandieのように、旧 Queen Elizabethは、消防艇に注がれた何トンもの水によって転覆した。溶けて捻れ、本船は2年以内に現場で解体されたのだった。

QUEEN ELIZABETH 2
 1966年までに、どこの大西洋横断客船会社も厳しい状況にあり、黒字からは程遠いものであった。Cunardはその中で最大の会社で あったが、最悪のストライキの渦中にあり、年間1,500万ドル近い赤字を出していた。しかし英国政府の融資の助けを得て、この会社は古 いQueensとCunardの定期船船隊のほぼ全てを代替することとなる8,000万ドル、65,000トンの船に固執したのである。 この最後の大西洋横断超定期船である新船の建造(上、右)は、1965年に始まり、4年近くかかった。本船は代替することになっていた先 代のQueensを生産した、同じクライドバンクの造船所で建造された。
 30年代のQueen Maryの名前のように、この新しい定期船の名称は1967年9月20日の進水の日まで厳重な秘密とされていた(この2日前に、Queen Maryが最後の横断のためにニューヨーク港を離れることとなっていた。)。Elizabeth II世女王(上、左)が、1934年にQueen Maryの進水を祖母が手助けをし、1938年にQueen Elizabethを母親が命名したときと同じ黄金の鋏を使って、命名用の瓶を解き放って本船を命名した。この新船はWinston Churchill、Shakespeare、あるいはBritanniaになるかもしれないと推測されていたが、Queen Elizabeth 2になったのだった。
 後年の改造で、豪華なペントハウス・スィート(次頁、上)が増築された。居間と寝室があり、4人の乗客が眠ることができ、この宿泊設備 は1980年代始めの2週間クルーズで、1人当たり25,000ドル以上もしたのだった。
 初期の機関問題にも関わらず、Queen Elizabeth 2は、1969年5月に初めてニューヨークへと横断した。最後の大西洋横断超定期船である。5年後にFranceが引退し、本船は完全に孤独になって航海することとなっ た。毎年、約6ヶ月間は、シェルブールに寄港するニューヨーク―サウサンプトン間の伝統的な航路で過ごしていた。初期の旅行で訪れたル・ アーブル(次頁、下)。Cunardは賢くも、同一等級の船として熱帯をクルーズできるように設計していた。本船のクルーズ航海は、週末 の3日間航海から、90日間世界一周までの幅がある。一般にQE2として知られ、本船は最後の大西洋の巨船としての地位を活かして、最大 限宣伝している。
[1965年―68年、スコットランド、クライドバンク、 Upper Clyde Shipbuilders, Limited建造。65,863総トン、全長963フィート、全幅105フィート、喫水32フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力28.5ノット。旅客定員2,005 人(1等564人、ツーリスト・クラス1,441人)]

Queen Elizabeth 2(左、上)
 失われた輝かしい栄光を取り戻す機会であり、壮大な貢物である。Queen Elizabeth 2は、Elizabeth II世女王在位25周年記念の一環として、1977年6月にSpithead沖に終結した軍艦の艦隊の中を通り抜けた。

HIMALAYA(左、下)
 70年代初期において、ジェット機、とりわけ費用のかからないチャーター便がスエズの東部地方に積極的に飛び始めた。運航していた旅客 船は、突然、利益を失った。P&O Orient Linesは、ここで運航をしていた最大の旅客船船隊を有していたが、最も打撃を受けたのだった。1972年から1976年の間、この会社の定期船の6隻は、全ては 20,000トンを超えるものであったが、極東の解体業者に送られた。剥ぎ取られて、小さな船員らの手によって、Himalayaは 1974年11月、台湾の高雄(カオシュン)にある解体工場に向かった。

PRESIDENT CLEVELAND(上)
 サンフランシスコのAmerican President Linesは、1972年に旅客クルーズ部門を閉鎖した。突然、太平洋横断定期船運航は休止になったのである。その後、僅かに臨時のクルーズ船が旅行をしたものだった。最 後のPresidentの定期船のPresident Cleveland(ここにサンフランシスコを離れる様子を掲載)と姉妹船のPresident Wilsonは、アメリカ色を落とし、クルーズ船に改造するために台湾の海運業者C.Y.Tungに売却された。
[1947年、カリフォルニア州、アラメダ、Bethlehem Alameda Shipyard, Incorporated建造。18,962総トン、全長609フィート、全幅75フィート、喫水30フィート。蒸気ターボ・エレクトロニック、2軸。巡航速力20ノッ ト。1972年、1等511人のみ]

ARAGON(左)
 南米の旅客貨物貿易が衰退し、更にオーストラリア海運も衰退して、多くの海運会社はその生命線を失った。英国のRoyal Mail Linesの3隻の結合船の姉妹、Amazon、Argon、Arlanzaは、いずれも大型の冷蔵スペースを有していたが、失業した。 その旅客設備は、新しい買い手を誘惑するには十分なものとは言えなかった。その代わり、この3隻はノルウェーの船主に売却されて、劇的な 変身を遂げたのだった。完全に内部を抉り出して改造され、自動車運搬船となって、1度に3,000台の日本車を載せて世界の港を周ったの である。これによってこれらの船は、この後10年間、利益の出る運航をしたのだった。
[1960年、北アイルランド、ベルファスト、Harland & Wolff, Limited建造。20,362総トン、全長584フィート、全幅78フィート、喫水28フィート。ターボ・チャージ・ディーゼル、2軸。巡航速力17.5ノット。旅客 定員493人(1等106人、キャビン・クラス112人、3等275人)]

係船中のFRANCE(上、次頁、上、中央)
 Franceは、フランス政府の助成金削減の犠牲となって、1974年9月に最後の北大西洋横断航海を行った。本船はル・アーブルで、 以前の客船バースから遠くない使用されていない貨物埠頭で、かなりの間、ぶらぶらしていた(上)。中国人、ソビエト人、アラブ人、更には フランス人でさえ、この巨大船の新しい人生の計画を提案したものだった。実際、あるアラブ人実業家が、フロリダ州デイトナ・ビーチ沖に係 留してフランス文化を提供する名所となる洋上カジノにするつもりで、この8,000万ドルの定期船を2,200万ドルで購入したのだっ た。この計画は失敗した。この定期船はより現実的な目的で、1979年にNorwegian Caribbean Lineによって購入され、世界最大のクルーズ船に改造された。Norweyと再命名され、1980年6月に新生活を始めた。マイアミからカリブ海に週1回運航するもので ある。
 1等喫煙室(次頁、上)のような公室は、未だにあり、寂しげだ。家具の大半には布切れが被せられている。船全体がかび臭くなっている。
 5年近く、Franceは幽霊船となって、ル・アーブルの外れで静かに係留されていた。長い甲板、周回できる遊歩甲板(次頁、中央)と 切れ目無く見える廊下には人気が無い。僅かに波によって引起こされる物音と、船の静かなうめき声が、この失業中の定期船にこだましてい た。

EASTERN PRINCESS(次頁、下)
 植民地や他の主要な辺境の地を失うにつれ、更に貨物輸送の技術がコンテナ化するにつれて、フランスのMessageries Maritimesの結合船は引退に追い込まれた。そのうちの1隻、Jean Labordeは、マルセイユ―マダガスカル航路に長年就航してきたが、1970年にギリシャ権益に売却された。本船は直ぐに改造されて、Anconaというアドリア海向 けのカー・フェリーになった。1974年、本船は傭船されて、Eastern Princessという名前でシンガポールとオーストラリア間で観光客向けの航海を行った。1976年、本船は地中海に戻り、豪華エーゲ海クルーズ船のOceanosに改 造された。多くの似たような古い旅客船が、漠然と運航を継続しているかのように見えた。
[1953年、フランス、ボルドー、Chantiers de la Gironde建造。10,909総トン、全長492フィート、全幅64フィート。Burmeister & Wainディーゼル、2軸。巡航速力18.5ノット。旅客定員同一等級約500人]

NORTHERN STAR(上)
 Shaw Savill LineのNorthern Starは、皇太后のElizabeth女王によって命名された1961年6月に本船が就航した当時、かなり考え抜かれた世界クルーズ船であり、観光定期船であった。しか しNorthern Starは直ぐに不景気の中に放り込まれ、燃料費の絶え間の無い高騰と、機関不調に悩まされた。1975年12月、めぼしい買手が現れることもなく、台湾の船舶解体業者に 売却された。僅か13年間の現役であり、Northern Starは遠洋定期船の歴史において、最も短命の船の1隻となった。
[1962年、イングランド、New castle-upon-Tyne、Vickers-Armstrong Shipbuilders, Limited建造。24,731総トン、全長650フィート、全幅83フィート、喫水26フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力20ノット。旅客定員ツーリスト・クラ ス1,437人]

WINDSOR CASTLE(右)
 臨時クルーズの誘惑にもひるまず、通年定期運航を続けた最後の大手は、Union-Castle Lineのサウサンプトンと南アフリカのケープ間の郵便船の運航であった。奇跡的なことに、1977年秋まで生き残り、コンテナ船に引き継がれたのである。ジェット機に 乗って行くのが、唯一の渡航手段となった。
 Union-Castleのフラグシップ、Windsor Castleは、中東の石油施設で労働者の宿舎船として使用するためにギリシャ権益に売却された。僚船の32,600トンのS.A. Vaal(旧Transvaal Castle)は、アメリカの権益に売却され、カリブ海のクルーズ船に改造するため日本に送られた。
[1960年、イングランド、バーケンヘッド、Cammell Laird & Company, Limited建造。37,640総トン、全長783フィート、全幅92フィート、喫水32フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力22ノット。旅客定員830人(1等 239人、ツーリスト・クラス591人)]

7、クルーズ船

 クルーズ用に最初の設計された定期船は、1949年のCunardのCaroniaであった。本船の前にも多くのクルーズ定期船が あったが、その全ては周期的なクルーズと、等級に区別された乗客を乗せて北大西洋やオーストラリア、南米のようなところの定期運航を交互 に行うものであった。Caroniaは年間の大半を港湾間のクルーズで過ごし、それ自体休暇としての旅行を提供した。

 その後、定期船航路が落ち目になって消えると、大型の旅客船のすべては、そうした娯楽旅行で年間の仕事の大半を過ごし始めた。しかし クルーズ事業は、骨の折れる、要求の厳しいものだった。つまり船は単に輸送のためのものではなく、それ自体、洋上行楽地でなければならな かったのである。ある場所とある場所を結ぶ目的で設計された古い定期船は、多くのクルーズ運航には不向きであった。その多くにとって、数 字が問題となった。あるものは、カリブ海や地中海の小規模な港湾を訪問するには大き過ぎた。他のものは、空調設備や甲板のプールがなく、 配管が時代遅れなものであった。

 その後、現代的なクルーズ船隊が形成された。一部を除いて、この新世代は滑らかな白い船体で、しばしば殆ど宇宙時代の外観であった。 中型船(滅多に30,000トンを超えるものはなかった)は、大型船を運航するよりは経済的なものであった。その設備は沿岸の行楽地に匹 敵するものであり、幾つかのプール、健康センター、カジノ、劇場、売店、ディスコ、スポーツ・ゲーム区域、それにしばしばホテルの宿泊設 備に似ている広くて快適な船室を持っていた。十分なものではないとしても、船上ではクラシック音楽の公演から天文学に関する講義、ミニゴ ルフからワインの味見のゼミまでの、気晴らしや楽しみ事のためのものが、殆ど終わりなく続くのである。

 1980年代の初期までに、北米クルーズ産業は、20億ドル以上の収益を上げる、よろめくような新水準に達している。こうした現代の 女王は、初期の遠洋定期船に繋がるものであり、大変に明るい将来を持っている。ジェット機と競争はしておらず、人気のあるfly- and-sail(=空路・海路)パッケージに、賢明にも双方の努力を傾注している。毎年多くの発見や再発見があり、クルーズ船は最高の 休暇の形態の一つであることを実証しているのである。


SONG OF NORWAY
 ノルウェー船籍のSong of Norway(前頁)は、古典的な、現代的クルーズ船である。(熱帯のカリブ海の港湾に近い)マイアミに本拠を置く他の多くの船のように、本船は白く塗装され、船体の中央 部に大きな屋外プールを配す等、豊富な屋外空間が設計されている。典型的な多くのクルーズ定期船のように、本船は、上級船員は自国民が配 置されているものの、ホテルや甲板部門では30カ国以上の国籍からなる職員がおり、広く知られているように、定期運航を確立している。本 船は1970年に就航するや、殆ど瞬時に成功した。その後10年ばかりして、本船はフィンランドの造船所に戻り、85フィートの中間部分 を挿入して、クルーズ客の収容力を1,200人以上に増加させた。
 革命的で特徴あるSong of Norweyと姉妹船Nordic PrinceとSun Vikingの煙突とカクテル・ラウンジ(上)には、洋上の10本の物語がある。
 豪華な船室(左)には昼間にはソファーに兼用できるベッドがあり、組み合わせ化粧台、大きな鏡、壁から壁まで敷き詰めた絨毯があり、小 さな浴室が脇に押し込まれていた。
[1970年、フィンランド、ヘルシンキ、Wartsila Shipyards建造。18,416総トン、全長550フィート、全幅80フィート、喫水22フィート。Sulzerディーゼル、2軸。巡航速力21ノット。旅客定員同 一等級876人]

NORDIC PRINCEの延長工事
 1980年、もう1隻のノルウェーのクルーズ船で、Song of Norwayの姉妹船であるNordic Princeも「巨大化」された。ヘルシンキの造船所に戻り、本船は半分に切断された。休みなく続けられた作業は、フィンランドの厳しい冬のため、造船所の巨大な上屋の中 で行われた。
 新しく建造された85フィートの中間部分(最上)は、上屋の中に移動した。Nordic Princeの船尾部分は右。並外れた正確さを要求される作業において(上)、この新しい部分は、定期船の元々の前方と後方の間に置かれた。
 Nordic Princeは、クルーズ客400人を追加した大型船になった(次頁、上)。ラウンジ、最上甲板のプール、屋外プールの空間が拡張された。最後に、本船は造船所の上屋から 引っ張り出された(次頁、下)。上屋の天井にぶつからないよう、本船の煙突は一時的に切り落とされた。

OCEANIC(上、左)
 Home LinesのOceanicは、最も成功したクルーズ船の1隻である。年間10ヶ月間は、ニューヨーク、バミューダ、ナッソー間を、1週間クルーズで40,000人以上の 観光客を運んだ。寒い冬の時期は、カリブ海へ航海し、通常はフロリダから2~3週間の旅行を行った。ここに掲載したのは、ニューポート・ ニューズの乾船渠の本船。苛酷な天候時に2つのプールとタイル張りのプール甲板を保護するため、硝子の天井が横に滑るようになっている傑 出した設計の設備を持つ美しい船。
[1965年、イタリア、Monfalcone、Cantierl Riuniti dell'Adriatico建造。39,241総トン、全長782フィート、全幅96フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力26ノット。旅客定員クルーズ客1,601 人]

ITALIA(上、右)
 ニューヨークから出る初期の通年クルーズの1つは、1960年にスイスに本拠を置くHome Linesが、かっての大西洋横断定期船であった人気のあるItaliaを使用して始まった。毎週土曜日発のナッソーに向かう7日間クルーズが続いた。最低料金は、170 ドルからだった。
 概してItalia(Swedish American Lineの旧Kungsholm)は、北大西洋の色彩を維持していた。(船尾区画に2つのプールがある広いプール甲板が増築されていたものの)本船の上甲板は、甲板室や換 気装置で未だに散らかっており、船室の大半は個人用の配管設備に欠け、公室は木製パネルのままだった(熱帯クルーズには不適切なもの)。 しかしItaliaは、大変な成功を収めたのだった。本船は1964年に2隻の他のHomeの定期船と代替された。すなわち最初は Homeric、その後、新しいOceanicとである。Italiaは売却され、短期間、グランド・バハマ島のフリーポートで洋上ホテ ルとなり、その後、解体のためにスペインに曳航された。船歴は37年間に及んだ。
[1928年、ドイツ、ハンブルグ、Blohm & Voss Shipbuilders建造。16,777総トン、全長609フィート、全幅78フィート、喫水29フィート。Burmeister & Wainディーゼル、2軸。巡航速力17ノット。旅客定員クルーズ客680人]

NORWAY
 オスロのNorwegian Caribbean Linesは、1979年に使用されていなかったFranceを購入し、マイアミを本拠とする急騰していた7日間クルーズに投入すべく、改造のためドイツに送った。この定 期船の上甲板の大半は、カリブ海の温暖な天候向けに開放された。2つの屋外プールは、日光浴や運動、遊戯、静かに寛ぐための甲板空間とし て増築された。内部にあっては、新しい公室がクルーズ世代向きに作られた。すなわち、陽気で色とりどりのラウンジ、小奇麗なバー、食堂、 2つある商店街、屋外の朝食昼食用クラブ、広いディスコ、更にはアイス・クリーム店さえも作られたのである。Norwayと改名し (左)、1980年5月に運航を再開して世界最大の定期船となった(Queen Elizabeth 2を3,000トン上回っていた。)。クルーズ定期船として復活し、Norwayは確立された様式に従って動いた。すなわち毎週セント・トーマスに向かい、ナッソー、そし てバハマにあるこの客船会社の私有観光島に行くというものである。
 Norwayは今や全てが同一等級であり、Franceの1等公室であったClub Internationale(上)のような区画は、今、全員に開放されている。本船の現在の収容力は、2,181人(注、その後爆発事故を起こし、2005年現在、解体 が噂されているが未確定。)。

1975年の「豪華定期船通り」(上)
 初期の時代、春か夏の午後には、ニューヨークの「Luxury Liner Row(=豪華定期船通り)」では、少なくとも6隻の定期船が並んでいるのが見えたものだった。大半は大西洋横断船。しかし1970年代半ばには、状況が変化していた。年 間乗客数が250,000人に激減したのである(景気の良い時代には200万人を超えていた。)。大半はバミューダ、ナッソー、カリブ海 へのクルーズの予約客であった。
 1975年6月のある土曜日の朝、6隻の定期船が出帆の準備をしていた。全てはクルーズであり、そうした船の終結の最後でもある。ここ に見えるのは(上から下に)、StatendamとRotterdom(Holland America Cruises)、Oceanic(Home Lines)、Michelangelo(Italian Line)、Doric(Home Lines)、そしてSagajjord(Norwegian-America Line)の船首部分である。

1976年のマイアミ(次頁、上)
 1976年2月の土曜日の午後、新しく造成されたマイアミ港で9隻の定期船が並んでいる。このフロリダ州の都市のありふれた光景だが、 80年代初めには、世界最大かつ最も混雑するクルーズ港になった。ここの成長は、バハマやカリブ海の人気のある港湾に近いことに起因して いる。数字は劇的である。1950年、61,000人の乗客だったのが、1967年には187,000人。1977年には100万人であ る。この光景では、Song of Norway(Royal Caribbean Cruise Lines)、Bolero(Commodore Cruise Lines)が手前にいる。更に外側のバースには、(左から右に)Nordic Prince(Royal Caribbean Cruise Lines)、Boheme(Commodore Cruisc Lines)。Southward、Skyward、Starward(Norwegian Caribbean Lines)。そして遠くにMardi Gras(Carnival Cruise Lines)。

SEMIRAMIS(次頁、中央)
 カリブ海の人気がダントツであったことを措くと、エーゲ海もクルーズで大変な人気になった。Epirotiki Linesは、小型のSemiramisを使い、1955年にピレウス(ここに掲載)から出る最初の地方島嶼クルーズを始めた。急速に成功は広まった。20年以内に、ここ でのクルーズ船は24隻以上になった。
[1935年、北アイルランド、ベルファスト、Harland & Wolff, Limited建造。1,900総トン、全長261フィート、全幅42フィート、喫水15フィート。Burmeister & Wainディーゼル、1軸。巡航速力10ノット。旅客定員クルーズ客185人]

LAKONIA(次頁、下)
 60年代、クルーズ運航に転換された古く、時代遅れとなった、失業中の旅客船における火災は、深刻な問題であった。かってはオランダ商 船の誇りであったJohan van Oldenbarneveltは、1963年に船齢33年でGreek Lineに売却され、サウサンプトンに本拠を置くクルーズ船Lakoaiaとなった。その年の暮れ、西アフリカへのクリスマス・クルーズにおいて、本船はマディラ島沖での 火災により、128人の乗員・乗客の命を奪ったのである。火は6日間燃え続け、船は火ぶくれを作り、港にまで曳航する試みがなされた。し かし船は、その努力に耐える事が出来ず、傾いて沈没した。他の報道価値のあるクルーズ船火災も全て老朽船で発生したもので、 Yarmouth CastleやViking Princess、Fulviaの例がある。
[1930年、オランダ、アムステルダム、Netherlands Shipbuilding & Dry Dock Company建造。20,214総トン、全長608フィート、全幅74フィート、喫水27フィート。Sulzerディーゼル、2軸。巡航速力17ノット。旅客定員クルー ズ客1,186人]

GRIPSHOLM(前頁、左上)
 とりわけ合衆国ではクルーズが急騰していたものの、全ての定期船会社が上手く行っていた訳ではなかった。70年代始めに豪華な水準と宿 泊設備が優れていることで注目されたSwedish American Lineは、2隻の定期船、すなわちGripsholmと1966年のKungsholmの運航費用の増加に直面していた。運航水準を節約するのではなく、むしろこの会社 は1975年の夏にクルーズ運航から完全に撤退することを決定した。ノルウェーの買手に売却され、Kungsholmはしばらくの間、長 距離と短距離のクルーズの双方を行った。しかし本船は高齢の支持者を失って、1978年にロンドンのP&O Cruisesに売却され、Sea Princessに改装された。シドニー発のオーストラリア・クルーズをしばらくした後、英国人乗客向きにサウサンプトンに移され、地中海、西アフリカ、スカンジナビアへ の航海を行い、毎年恒例の世界一周旅行を行った。
 ギリシャのKarageorgis Linesに売却されたGripsholmは、地中海、南アフリカ、南米クルーズ向けのNavarinoとして修復された。後に本船は乾船渠で浮遊中に沈没し、船主によっ て委付された。
[1957年、イタリア、ジェノバ、Ansaldo Shipyards建造。23,215総トン、全長631フィート、全幅82フィート、喫水27フィート。Gotaverkenディーゼル、2軸。巡航速力19ノット。旅 客定員クルーズ客450人(最大778床)]

GUGLIELMO MARCONI(前頁、右上)
 1978年にヨーロッパ―オーストラリア間の移民運航から離れたイタリアのGuglielmo Marconiは、僅かな飾り付けと宿泊設備の改造を行って、ニューヨーク―カリブ海のクルーズ運航に移籍するものと見られていた。運航上及び市場での問題にしつこく悩ま され、本船は乗客を3分の1以上を乗せてニューヨークから出港することは滅多になかったのだった。本船は、競争の厳しいアメリカのクルー ズ事業において、実際上名声を博することはできず、船主たちは赤字であった。遂には6ヶ月以内に係船されて、職員らはイタリアに戻り、そ の後、挙句の果てに、船はジェノバに戻されたのであった。
[1963年、イタリア、Monfalcone、Cantieri Riuniti dell'Adriatico建造。27,905総トン、全長702フィート、全幅94フィート、喫水28フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力24ノット。旅客定員ク ルーズ客900人(最大1,700床)]

SAGAFJORD(前頁、下)
 Norwegian-America LineのSagaffordは、長距離・豪華クルーズで長年過ごしていた。すなわち世界一周、あるいは冬には太平洋、夏はスカンジナビアとヨーロッパ、そして秋には地中 海であった。本船で毎年航海をしていた王族は、しばしば旅程には興味がなく、むしろ乗客の中に何人友人を見つけることができるかというこ とに興味を持っていた。長距離クルーズの船は、まるで内密のクラブのようになっていた。数ヶ月も船の上で過ごす乗客もいたくらいだった。 Sagaffordの平均的な船室の1979年の90日間世界一周クルーズの費用は、一人当たり25,000ドルだった。
[1965年、フランス、トゥーロン、Societe des Forges et Chantiers de la Mediterranee建造。24,002総トン、全長615フィート、全幅82フィート、喫水27フィート。Sulzerディーゼル、2軸。巡航速力20ノット。旅客 定員クルーズ客600人(最大789床)]

VISTAFJORD(上)
 別のNorwegian-Americaのクルーズ船Vistafjordの主食堂。Sagafjordの僚船であり、この船を特徴付 ける洗練された簡素な気分を伝えていた。

STEFAN BATORY(前頁、上)
 ポーランドのStefan Batoryは、その運航の大半を北大西洋で過ごし、グディニア、ロッテルダム、ロンドン、モントリオール間を航海したが、定期的なクルーズもしていた。大半がロンドンか らカナリア諸島、地中海、西アフリカ、そしてカリブ海に向かうものであった。本船は通常、クルーズ客を扱っていたが、ポーランド人労働者 が本国で高い生産を行ったことの報償として、しばしば本船で航海していた。古い船であり、個人用の浴室の設備のない多くの船室を有する最 後の旅客船であった。1988年に運航から離れた。
[1952年、オランダ、Schiedam、Wilton- Fijenoord Shipyard建造。15,024総トン、全長503フィート、全幅69フィート、喫水28フィート。蒸気タービン、1軸。巡航速力16.5ノット。旅客定員同一等級 773人]

ROYAL VIKING SEA(前頁、下)
 最高に豪華なクルーズ定期船の中にあって、ノルウェーのRoyal Viking Lineの3隻の姉妹船は、世界中を旅した。太平洋、アラスカ、メキシコ、カリブ海、南米周遊、ニューイングランド―カナダ東部、地中海、黒海、スカンジナビア、そして約 100日間続く年に1回の世界一周である。Royal Viking Sea、Royal Viking Sky、Royal Viking Starも、夏のコペンハーゲン発や秋のフロリダ州ポート・エバグレーズ発の一連のクルーズを行うために、時折、大西洋を「転配」横断した。1980年までのRoyal Vikingの定期船の料金は、平均で1日当たり250ドルであった。
[1974年、フィンランド、ヘルシンキ、Wartsila Shipyards建造。21,897総トン、全長581フィート、全幅83フィート、喫水22フィート。Wartsila-Sulzerディーゼル、2軸。巡航速力21 ノット。旅客定員クルーズ客536人]

UGANDA(上)
 P&OのUgandaは、British India Lineの東アフリカの植民航路に就航していた船だったが、1967年に教育的なクルーズを行う船に改造された。元の1等の船室は大人300人を賄うものであったが、船尾 の分離された区画には600人の学生を乗せて旅をした。大半が共同寝室であった。大人と学生は講義の際にのみ、一緒になった。通常は寄港 地に関する講義であった。この様々な英国の港湾を航海した船は、通常、2週間の予定で、多くの場合、地中海、西アフリカ、スカンジナビア に向かったものだった。
[1952年、スコットランド、グラスゴー、Barclay Curle & Company建造。16,907総トン、全長540フィート、全幅71フィート、喫水27フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力16ノット。旅客定員クルーズ客900 人(大人300人、学生600人)]

GOLDEN ODYSSEY(上)
 バミューダ、バハマ、カリブ海がクルーズの目的地として超満員になると、汽船会社は新しいワクワクするような地域、例えばアラスカ、東 カナダ、ニューイングランド沿岸といった地域を物色した。考慮に値する成長が見込まれた旅程の1つは、運河通過クルーズで、フロリダかカ リブの港湾から始め、パナマ運河を通過し(通常は昼間)、ロサンゼルスかサンフランシスコで終わるもの。逆の旅程の同じ航海もある。そう したクルーズは、約14日間かかる。ここに掲載したのは、ギリシャのRoyal Cruise LinesのヨットのようなGolden Odysseyが運河の水門の1つを通過しているところ。
[1974年、デンマーク、Elsinore、Elsinore Shipbuilding & Engineering Company建造。6,757総トン、全長427フィート、全幅65フィート、喫水15フィート。ディーゼル、2軸。巡航速力22.5ノット。旅客定員クルーズ客460 人]

ISLAND PRINCESS(次頁、上)
 英国船籍のIsland Princessと姉妹船Pacific Princessは、いずれもロサンゼルスに本拠を置くPrincess Cruisesが、1976年に始まった人気テレビ番組「The Love Boat」の、海に浮かぶ小道具として来た。この番組は、アメリカの数百万家庭で視聴されたもので、北米クルーズ産業の成長の原動力となったものの1つである。それは、金 持ち老人の領域というクルーズ船の概念を破壊して、若くて元気なクルーズのイメージを広めたものだった。毎年数週間、テレビの製作職員、 常連の俳優、そしてゲスト・スターが、撮影のためにPrincessの定期船の1隻に乗船した。別の時は、番組はハリウッドの撮影所の セットで撮影された。
 Princessのクルーズ船は、ロンドンのP&O Linesの傘下にあり、夏にはバンクーバーからアラスカに航海した。別の時にはメキシコ西海岸に行き、パナマ運河を経由してカリブ海をクルーズした。
[1972年、西ドイツ、Rheinstahl、 Nordseewerke Shipyard建造。19,907総トン、全長550フィート、全幅80フィート、喫水20フィート。Fiatディーゼル、2軸。巡航速力20ノット。旅客定員クルーズ 客646人]

SANTA MARIANA(次頁、下)
 米国船籍のDelta LineのSanta Marianaが、今ちょうどGolden Gate Bridge(金門橋)を潜り抜け、南米を周遊する65日間のクルーズを始めている。パナマ運河を通過して、コロンビアやベネズエラの港湾に寄港し、ブラジル、アルゼンチ ンに航海を続けた。その後、この航海の目玉の1つである、大陸の最先端にあるマゼラン海峡を通過した。太平洋に出るや、船は北に向かい、 チリ、ペルー、エクアドル、そして再びコロンビアの港湾に寄港した。本船は貨物を積載していた(主として大量のコーヒー、バナナ、冷凍 魚)。本船の乗客は、この大型ヨット(注、帆船に限らず、娯楽のための船、一般を指す)の親密さを楽しんだ。
[1963年、メリーランド州、スパローズ・ポイント、 Bethlehem Steel Corporation建造。14,442総トン、全長547フィート、全幅79フィート、喫水29フィート。蒸気タービン、1軸。巡航速力20ノット。旅客定員クルーズ 客100人]

1966年の横浜(前頁、上)
 太平洋は、クルーズにとって、カリブ海と同じような誘惑のあるところだったことは決してなかったが、極東、オーストラリア、後には中国 の港湾が、時折、遠洋定期船の予定の呼び物とされた。この光景において、1966年(注、1964年の誤り)の東京オリンピックの期間 中、シドニーを出港した3隻のクルーズ船が、Yokohama Ocean Terminal(=横浜大桟橋)に停泊している。左からGeorge Anson(Dominion Far East Line)、中央はP&O LinesのOriana。右はKuala Lumpur(China Navigation Company)の船尾部分。

地中海クルーズ(前頁、下)
 世界の5大クルーズ海域は、スカンジナビア―ノース・ケープ、地中海―エーゲ海、カリブ海、メキシコ―パナマ運河、そしてアラスカであ る。こうした海域では、莫大な興味深い寄港地が揃い、一般に理想的な気象条件で、通常、買い物の誘惑に満ちており、主要都市との航空機の 接続が優れている。地中海とエーゲ海には、アレキサンドリア、カンヌ、イスタンブールの他、更に離れたイタリアのサンタ・マルガリータ、 ギリシャのチオス、スペインのロサスといった静かな港町がある。この光景では、マルタのバレッタ港で、ギリシャのクルーズ船 Amerikanis(左)とイタリアのEnrico C.が、乗客が浜辺で過ごしたり、バス・ツアーに出かけたり、買い物の散策に出かけたりしている間、錨を降ろして1日を過ごしている。両船とも1週間の旅程で、ジェノバを 出帆してフレンチ・リビエラ、スペイン、北アフリカ、シシリー島、そしてマルタに行く航路であった。イタリア人観光客を乗せていたが、乗 客名簿には、その他10カ国以上のヨーロッパの国籍の人が含まれていた。
[Amerikanis:1952年、北アイルランド、ベルファス ト、Harland & Wolff, Limited建造。19,377総トン、全長576フィート、全幅74フィート、喫水28フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力19ノット。旅客定員クルーズ客910 人]
[Enrico C.:1950年、イングランド、Neweastle-upon-Tyne、Swan, Hunter & Wigham Richardson, Limited建造。13,607総トン、全長579フィート、全幅73フィート、喫水26フィート。蒸気タービン、2軸。巡航速力18ノット。旅客定員クルーズ客 1,198人]

ジブラルタルへの寄港(上)
 ロンドンやサウサンプトンに本拠を置くクルーズ定期船にとって、カナリア諸島やマディラ島のような大西洋の島嶼の港湾は、理想的な目的 地であり、とりわけ乗客にとっては日光浴や買い物の点で重要であった。これらの船は、ポルトガルのリスボンや北スペインのビゴの他、カサ ブランカやダカールのような西アフリカの港湾にも寄港した。ジブラルタルは、免税の英国の港湾であったので、とりわけ人気であった。
 この写真では、3隻の船を下船した3,000人以上の英国人観光客が、ジブラルタルに日中上陸している。 Ellinis(Chandris Cruises)は左。P&O LinesのOrcadesが中央。そしてShaw Savill LineのSouthern Crossが右にいる。

SONG OF AMERICA(上)
 現代のクルーズ船の公室は、多目的空間になる傾向がある。ノルウェーのSong of America(上)のカクテル・ラウンジは、公室として利用された他、私的な会合や歓迎会にも利用された。こうした部屋は、通常、1日中貸切られた。
 別のラウンジ(=休憩室)(下)は、踊り、演奏会、実演会、講義で使用し得るものであった。
[1982年、フィンランド、ヘルシンキ、Wartsila Shipyards建造。37,584総トン、全長703フィート、全幅93フィート。Wartsila-Sulzerディーゼル、2軸。巡航速力21ノット。旅客定員1 等1,575人]

船上にて
 Holland-AmericaのNieuw Amsterdamで、乗客らが真夜中のバッフェ(注、立食形式の食事)に喝采している(次頁、上)。Norwegian-CaribbeanのStarwardのプール に隣接する屋外ラウンジ(次頁、下)。

LINDBLAD EXPLORER(上)
 全てのクルーズ船が、伝統的な陽光溢れる買い物航路で定期運航していたわけではなかった。このちっぽけなLindblad Explorerは、とりわけ「踏み均された幹線から外れた」冒険クルーズ向きに設計されたものだった。東インド諸島、中国沿岸、アマゾン河から、スカンジナビアや北極の 僻地、そして最も非凡な南極探険である。この旅行では、本船は乗客にとっての暖かい烏の巣となり、自然主義者の講師を乗せていた。真面目 な旅行であり、船上ではナイトクラブの娯楽や様々なショーのようなものは、殆どない。
 ここでは、Lindblad Explorerは南極の氷山の沖で投錨している。乗客らは、Zodiacs(注、フランス企業の商標名、「十二宮図」の意)と呼ばれる特別なゴム製の上陸用筏に乗って陸 地に向かう。
[1969年、フィンランド、ヘルシンキ、Nystad Vary Shipyard建造。2,500総トン、全長250フィート、全幅46フィート。ディーゼル、1軸。巡航速力14ノット。旅客定員 クルーズ客92人]

1980年のシャーロット・アマリー(左)
 偉大な大西洋横断定期船と他の港と港を結んだ遠洋定期船の遺産の輪が、クルーズ船の現世代や壮大な初期の船舶の後継者の中に存在してい る。
 かってはニューヨークやサウサンプトンで、定期船の大集合が見られたものだが、今や、より熱帯の環境の中で生じている。1980年2 月、米領バージン諸島のセント・トーマス島のシャーロット・アマリー港に11隻の定期船から9,988人の乗客が上陸し、1つの記録が打 ち建てられた。それは誇らしげな集合であった。手前には、埠頭に沿って、ギリシャのDaphneの船首、イタリアのCarla C.、そして英国のSun Princessの船尾である。写真中央で停泊しているのは、リベリアのFairsea。その後ろにパナマのDoric。遠く上には、ギリシャのAmerikanisがい る。

HOMERIC(上)
 1980年代初めまでに、北米のクルーズ業界は年間40億ドルになるとの勇気付けられる予測がなされ、多くの汽船会社は、新しい、より 豪華な、益々大型の船を追加し始めた。これらの定期船は、商店街から念入りに作られた健康・運動センターの果てまでの快適さ、全ての船室 にテレビを備え、甲板には渦巻き風呂(注、「ジャクージ」(商標名)のこと)のある設計で、直ぐに過去の偉大なる大西洋横断定期船の多く と同等の大きさのものとなった。例えば、Holland-America Line(ここは本店がロッテルダムからコネティカット州のスタンフォードに移転し、その後、この会社の全てのクルーズの性質上、シアトルに移転した)は、1983年から 84年にかけて、Nieuw AmsterdamとNoordamという33,900トンの姉妹船を追加した。この2隻に、Sitmar Cruisesの46,300トンのFairsky(Titanicと同じ大きさの船)とP&O-Princess Cruisesの44,300トンのRoyal Princessが続いた。両船とも1984年に就航した。恐らくは最も印象的な船といえば、フロリダに本拠を置くCarnival Cruise Lines向けの、所謂「mega cruise ships(=特大クルーズ船)」の3隻であろう。この会社は、ほんの15年以上前に、かっての大西洋横断のCanadian Pacificのフラグシップ、Empress of Canada(1961年)をMardi Grasという熱帯向けの船に改装して使用し、運航を開始したところである。Carnivalの3隻は、見たところ、マイアミから出るこれまでにない7日間カリブ海クルー ズに特化しており、1985年に46,000トンのHolidayを使って始め、1986年から87年には48,000トンの姉妹船、 JubileeとCelebrationが続いた。ニューヨークからの通年クルーズの革新者の一人、Home Linesは、同様に最大の船を加えている。大衆向けの名前Homericを付けて、1年の一定期間をニューヨークとバミューダ間で毎週運航し、残りの期間をポート・エバ グレーズからカリブ海に出る7日間旅行を行っている。
[1986年、西ドイツ、Papenburg、Joseph L. Meyer GmbH & Company建造。42,092総トン、全長669フィート、全幅95フィート。ディーゼル、2軸。巡航速力22.5ノット。旅客定員全て1等1,260人]

QE2の改造(右)
 古典的な階級に分かれた大西洋横断船から、全て1等のクルーズ船への過渡期を生き残った、最も古く、しかも最も歴史的に有名な海運会社 は、英国のCunard Lineであった。これを執筆している1987年現在、同会社は7隻の豪華船を保有している。すなわち、最後の北大西洋横断超定期船の祝福されたQueen Elizabeth 2、高く評価されているSagaffordとVistafjord(Norwegian America Lineから取得)、2隻の姉妹船、Cunard CountessとCunard Princess、そしてノルウェーの船主から取得したちっぽけな豪華ヨット・クルーズ船、Sea Goddess IとSea Goddess IIである。Cunardの年間クルーズは、「week ends to nowhere(=前人未到の地に行く週末)」から、QE2で行く郷愁の大西洋横断、そして欠点のないSagafjordで行く3ヶ月間世界一周である。別の旅行には、カ リブ海を1週間で走るものや、アラスカ、地中海、更に僅かばかり長距離のアマゾン河や紅海、グリーンランド、フィヨルド。そして東洋の港 湾に向かうものがある。
 Queen Elizabeth 2の特別の地位と名声を確立し、Cunardは、本船のやっかいものだった蒸気タービンを、新しい高出力のディーゼル・エレクトロニック機関に1986年から87年にかけ て取り替える決定をした。この改造と並行して、旅客設備の改良も行われた。それには更に上の最上甲板にスィートを設け、売店区画を増築 し、乗客用コンピュータ・センターの増設が含まれ、これにより21世紀にも生き残れることが確実になるだろう。この広範な改造は、西ドイ ツのブレマーハーフェンの昔のHapag-Lloyd造船所で行われたもので、費用は1億4,000万ドルであった。これは、ちょうど 20年前にスコットランドで本船が建造された時の8,000万ドルの費用の2倍近いものである。

SOVEREIGN OF THE SEAS
 1987年4月、史上4番目の大きさの遠洋定期船で、ノルウェー人が所有するRoyal Caribbean Cruise Lines向けに建造されたSovereign of the Seasが、フランスのサン・ナゼールにある有名なChantiers de l'Atlantique造船所で浮かんだ。本船はIle de France、Normandie、そしてFranceが建造された場所から歩ける距離に位置する、長さ2,000フィートの船渠で建造された。この大きさを超えるものは Queen Mary、Queen Elizabeth、そしてNormandieしかなく、この新しい定期船は、史上最大のクルーズ船である(注、1987年当時)。本船はまた、少なくとも予見できる将来 において、最も目を見張る定期船になることだろう。現在就航している定期船の中で最大の収容力を有し、例えば、1,138室の部屋には、 12チャンネルもある所謂「対話式テレビ」という、新奇な物を呼び物とする。乗客は、夕食時のワイン・リストを調べ、寄港地観光を調べて 申し込み、更には船上での請求書を見ることもできるようになる。
 最大の公室であるメイン・ラウンジはFolliesと呼ばれ、夕食後のショーのため、2階建ての1,050席が乗客に用意される。別の 公室には、アール・デコ調のシャンペン・バー、2つの食堂、2つの映画館、そしてブラックジャック用のテーブルが11、スロットマシンが 170あるカジノが設けられる。本船の最も注目される設備は、恐らくは中央部になるだろう。高さ5層の中央ロビーと2基の硝子張りのエレ ベータである。こうした特色を持つ旅客船はかってなかった。十分な会議場、甲板の渦巻き風呂、そして「artists' corner(=芸術家横丁)」では、職人達が作業しているのが見物できる。1988年1月にマイアミ―カリブ海間に配船される予定で、Sovereign of the Seasは世界最大の遠洋定期船である70,200トンのNorway(旧France)を超えることになる。しかし既に3,500床も有する80,000トンと 90,000トンの船の計画が進行中であり、更に「Phoenix project(=不死鳥計画)」と呼ばれる、肝を潰すような5,000人の乗客を収容する200,000トンの5億ドルのクルーズ船に関する思惑が始動しているのである (注、この計画は中止になった)。
[1987年、フランス、サン・ナゼール、Chantiers de l'Atlantique建造。74,000トン、全長874フィート、全幅106フィート、喫水25フィート。Pielstickディーゼル、2軸。巡航速力21ノッ ト。旅客定員全て1等最大2,673人]