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ウイリアム H.ミラー, Jr.,「図説英国遠洋定期船史 1900年から現在まで」

1900年―1909年 帝国の絶頂期

 夏の英国のバス・ツアーでは、チェスターの魅惑的な街で1日を過ごす旅程が組まれていることがある。こうした時に Mauretania Pubに行くことができるが、外側にはCunard Lineの黒と白の4本の煙突のネオン・サインが描かれていて、直ぐにそれと判るものだ。中に入ってみると、20世紀初頭に最も褒め称えられたCunardersである Mauretaniaの木製のパネルがある。この船は大きく立派な船で、設備は行き届き、流行の先端を行っていた。その後20年間は、大 西洋横断の速力の勝者である誰もが欲しがっていたBlue Riband(=ブルー・リボン、青い長旗)を保持していた。1954年に遂に解体業者の下に向かった時、現在は、ここのパブの壁になっている木製パネルを含む壮大な一部 分が競売に付されたのだった。Cunardファンやその他の遠洋定期船ファンが、「英国で最も愛された定期船」とその後呼ばれた船の記念 品を何とか競り落そうとしたものだった。

 1907年にMauretaniaがアメリカに向けて処女航海に出たが、それはVictoria女王の在位60年記念祭を祝ったちょ うど10年後のことであった。女王は王室のランドー馬車に乗車され、歓声で埋まったロンドンの街を6マイル、パレードされた。大英帝国の 歴史上、最大の歓声が女王に捧げられたのだった。軽騎兵はKiplingの祝われた「widow of Windsor(=ウィンザーの寡婦)」のためだけのものではなく、当時、地上の4分の1以上にも広がっていた世界で最も偉大な帝国の「帝国の使節団」でもあった。確か に、大英帝国から太陽が沈むことはなかったのだった。St. Paul's Cathedral(=大聖堂)での祝福行事に向かうVictoria女王を護衛した軍隊は、英国国旗をたなびかせていた船に乗って世界の至るところからやって来たのだっ た。パンジャブからはシク教徒が、ネパールからはGurkhasが、西アフリカからはHausasが、香港からは中国人が、ボルネオから はDyaksが、更にカナダからはフランス人が、スコットランドからはハイランダー(=高地人)が、ロンドンからはコックニー(=下町 人)が、その他あらゆるところからやって来たのだった。

 帝国は船によって維持され、大英帝国は世界最大の船団を擁していた。例えば1905年、英国汽船の数は、それぞれの船種で約1万隻を 超えており、外航船は全部で1000万総トンにもなっていた。政府から巨額の借金をして、Cunardは最大かつ最高速の定期船、 MauretaniaとLusitaniaを建造する決定をし、両船は1907年に就航した。他の海運権益も競争に参入した。1914年 までに世界の商船の半分がユニオン・ジャックとなった。英国船団の重要な戦略は、確かなものであった。海外からその国の食料の良い部分を 輸入して、海外の買い手には工業製品を何百万ポンドも売り付けたのだった。旅客船は、その殆どすべてが少なくとも何がしかの貨物を輸送し ていたのであるが、英国からの「人間」を運ぶ大切なものであった。船に乗る貴族や旅行者や移民は、大変に重要なもので、北大西洋では競争 があり、ダーバン、モンバサ、アデン、ボンベイ、シンガポール、香港、シドニー、その他の遠方の地に向かう船には「帝国臣民」である植民 地官僚、文官、移民が船室を満たしていたのだった。

 CunardとWhite Star Linesは、1900年からの英国遠洋定期船の頂点に立つものと考えられている。例えばWhite StarのOceanicは1899年に竣工し、当時、最大の船であった。17,200トンで、全長が700フィートを超える最初の船であった。驚異的な英国の工学と技術 の才を取り入れて、1,700人余の乗客を輸送できたものだった。しかし直ぐにより大型の船が行く手を阻んだのだった。1901年から 1903年の21,000トンの姉妹船CelticとCedricであり、1904年の24,000トン近いBalticと Adriaticであった。しかし北海においてはドイツが手強い競争相手であり、豪華さにおいて比類のない大型の高速遠洋船を建造してい た。英国人は「ドイツの化け物」と馬鹿にしていたが、海軍はドイツ皇帝の軍事的野望の増大を懸念していた。1906年、英国は速力と火力 では並ぶもののない革命的な戦艦Dreadnought(=怖いもの知らず)を就役させた。これで海軍力において優位に立つことができ、 ロンドン政府では巨大な旅客船の価値に疑問を感じる向きも生じたのだった。しかしWhite Star Lineがアメリカの大立者J. P. Morganに売却され、政府の大臣らは慌てて行動に出て、White Starの船がユニオン・ジャックを掲揚し続けるよう確約させたのだった。政府は、当時北大西洋において最大の運航事業者であったリバプールに本店を置くCunard Lineの方を向いて、気前良く建造することを勧め、2隻の大型高速船に運航補助金を出す提案をした。実際のところ、世界最大の最高の船 を建造したかったのだ。大英帝国の進歩と発展を最高に象徴するDreadnoughtの商船版である。巨大なCunardersである Mauretaniaと異母姉妹のLusitaniaは、最高の旅客船であり、他の船とは違って蒸気タービンの時代の先触れとなったの だった。英国の遠洋船は、その動力と名声において絶頂にあったのだった。

(この章に登場する船)
Caronia (1905)
Carmania
Lusitania
Mauretania (1907)
Campania
Carpathia
Teutonic
Oceanic
Cedric
Baltic
Virginian
Edinburgh Castle (1910)
Morea
Ruahine (1910)

1910年―1919年 悲劇と勝利

 1985年の暑い夏の朝のこと、地中海のマルタ島にあるバレッタの古い港に私達は到着した。P&Oのフラグシップである Canberraに乗船して、そこで遠洋定期船の歴史に関する一連の講義を私はしていたのだった。その港の反対側にある地中海の映画会社 の撮影スタジオを行く機会があったとは、何て完璧なことであったろうか。スタジオは古い倉庫のような建物で囲まれた屋外のよくあるセット のようには見えなかったが、海の場面の仕事で有名なところであった。地中海の直ぐ近くに群青色の水で満たされた大型の水槽がいくつかあ り、広大な公海のように見えるようになっていた。水槽のまわりにあるレールに取りつけられたカメラが動き回り、多くの違った位置から撮影 できるようになっていた。私はしっかりと鍵のかかった正門の向こうにあるものが、55フィートのTitanicの模型であることを知って いた。同名の1977年の映画で使われたものだった。

 何とかして警備員に門を通してくれるよう頼み、巨大な船台に据えられた模型のある、涼しく暗い場所に入ったのだった。その遊歩甲板に 並んで立つと、リベットの感覚を感じることができたものだった。煙突はそれぞれ6フィートの高さ。模型は製作に約750万ドルがかかった そうだが、皮肉にも70年前の1912年に建造された882フィートの定期船と同じ価格であった。この模型はマルタに計画されていた特殊 撮影博物館の展示物になる予定であったが、観光客の呼び物にはならなかった。私はこの大型模型を1990年に再び見たが、このときは外れ の浜辺に錆びたまま捨てられていたのだった。

 本物のTitanicは、Cunardが大成功を収めた1907年の31,900トンのLusitaniaとMauretaniaに 対抗として、White Star Lineが計画したものだった。この会社の経営陣はCunardの大西洋横断速力記録を争うのを避けることに決め、世界で最高の、最も豪華な船を建造することに専念するこ とにしたのだった。45,500トンのOlympicは、1911年に就航し、引き続いて46,500トンのTitanicが就航し、 1915年には48,100トンのBritannic(Titanicの沈没前にGiganticと命名されていたもの)が就航した。そ の間に45,600トンのAquitaniaが1914年に引き渡された。

 一方、Wilhelm皇帝のドイツは、英国の船に、とりわけ北大西洋の旅客運航で勝利する決心をして、Hamburg America Lineの52,100トンのImperatorで1913年に殴り込みをかけ、1914年には54,200トンのVaerlad、遂には56,600トンの Bismarckを投入した。英国もドイツもいずれも偉大なる新船であり、とびきり豪華であった。偉大なる旅行家で遠洋定期船に関する多 くの書物で喝采を浴びた作家であるJohn Malcolm Brinninは、北大西洋の運航を観察して、「こんなに無駄遣いをした、あるいはこんなにも愚かなものを沢山生み出した航路は、世界の他にはない。ビザンチン様式の礼拝 堂やらポンペイのプールやら、ベルサイユ宮殿のような食堂や偽のInigo Jonesで飾り立てて、東洋のハーレムのようなトルコ風呂のある船が、一体どこにあるものだろうか。」と書いたものだった。

 逆説的なことに第一次世界大戦前においては、巨大な船はその収益の大半を北米に向かう貧しい移民から得ていたのである。西行きの航海 においては、3等船室は一般に満員であった。英国の船舶は1911年から1913年までに、合衆国に50万人以上の乗客を運んだもので あった。同時期に20万余の人々がオーストラリアとニュージーランドに行き、30万人が大英帝国の他の土地に向かったのだった。

 1914年から1918年まで続いた戦争は、この交通量をお終いにした。軍の命令下において、英国の旅客船は多くの新しい役割を担っ た。兵員輸送船、武装商船巡洋艦、病院船、更には敵を欺くための「偽の」戦艦となったのだった。Hope and Gloryの中で、Peter Clarkeは次のように書いている。「自治領や植民地から150万人以上の兵隊が第一次世界大戦に動員された。帝国の終焉を迎える不吉な航海をして故国に戻った。」栄華 は萎んで行った。すなわち1917年までに、600万トン以上の英国の船舶(何と商船の30パーセント!)が沈没したのだった。 Cunard Lineは戦争で30隻を失った。LusitaniaやBritannic、そしてTitanicの悲劇において英雄的な救助船であった小型のCarpathiaが沈んで 行った。1917年から18年には、Cunardは保有船舶とは別に約500隻の船を運航していた。戦争で港湾設備も拡充させた。 1915年、この会社は50万近いカノン砲を製造した工場を設立し、1917年の夏にはイングランドで最大の航空機工場を経営していた。

 戦後、Cunardと他の海運会社は、刷新、再建、新造に照準を合わせた。戦争で大勢が殺された昔の商船運航を「いつもの営業」の調 子に戻す時であった。次の章で書いているように、1920年代は調整期・代替期であり、大英帝国が穏やかに変わり続けて行く時期であっ た。

(この章に登場する船)
Titanic
Aquitania
Empress of Britain (1906)
Orbita
Medina
Otway
Ceramic
Olympic
Justicia
Belgic/Belgenland

1920年―1929年 黄金時代

 1999年の夏の午後のこと、Beaufort Houseに行く途中、ロンドンのポール・モールを歩いていた。このBeaufort Houseはロンドンの大邸宅の一つであったが今では大英帝国の最も有名な海運会社Peninsular & Orient Steam Navigation Company Ltd.すなわちP&Oの所在地となっている。事務所に加えて、この邸宅は上等な絵画や賞賛される美術品で溢れている会社の博物館となっている。玄関の扉を通り過 ぎた時、1920年代の偉大なるP&Oの植民地船の一つであるRawalpindiをとりわけ念入りに再現した壮大な船舶模型に 目を留めたものだった。それから資料室に行くと、そこには過去の船舶や乗員乗客、多くの寄港地の写真が何百とあった。これらの写真の最高 のものの何枚かは、本書に収められている。

 P&Oは、Cunard、White Star、その他と並んで、第一次世界大戦中に大量の船舶を喪失した。しかし1920年代初期には回復しつつあった。第一に、多くの大型のドイツの定期船が、賠償として英 国の手に渡ったのだった。例えば、Hamburg America LinesのImperatorは、CunardのBerengariaとなり、North German Lloyd向けに建造されたColumbusは、White Starに加わってHamericに改名した。第二に、英国海運の富は、巨大な大西洋の定期船を保有している時代ではあったが、船団の刷新と再建に注がれていた。実際のと ころ、Cunardや他の会社が手に入れていた15,000トンや20,000トンの4本煙突の船の時代は終わったのだった。かっては羽 振りの良かったWhite Star Lineには不景気が襲いかかり、英国の商船で石炭を焚いて走った最後の船Laurentic (1927年)等、僅かな船しか建造していなかった。

 P&Oは調子が良かった。そしてオーストラリア航路向けに20,800トンの姉妹船、MooltanとMalojaのような 最大の船を未だに建造していた。同様の大きさの素晴らしいViceroy of Indiaが1928年に就航した。競合他社のOrient Lineは、ロンドン―シドニー航路向けに5隻の20,000トンもの船で対抗した。この船は、それぞれOrama、Oronsay、Otranto、Orford、 Orontesと命名された。より遠くでは、ロンドンに登記されたニュージーランドのUnion Steamship Companyがシドニーと北のオークランド、更に東のバンクバーに向かう航路向けに17,500トンのAorangiを建造していた。アフリカ航路を運航していた Union-Castleは、煙突が船尾に傾斜した3隻の素晴らしい動力船、20,000トンの姉妹船Carnarvon Castle、Winchestere Castle、Warwick Castleを船隊に加えたのだった。南米東海岸の英国商圏を除く全てを支配していたRoyal Linesは、まずRio de JaneiroとBuenos Airesを投入し、更に煙突が船尾に傾斜した2隻のAsturiasとAlcanotaraを投入した。Furness-Bermuda Lineは、ニューヨークを本拠にしたクルーズ事業で大成功して、大変に良い(しかし不幸な星の下にあった)19,000トンの Bermudaを投入した。

 1920年代には事業と娯楽が急成長し、より野心的で気前の良い計画が炸裂した。CunardとWhite Starは、ニューヨークへの高速の超定期船を計画し、Canadian Pacificはカナダへの大西洋横断運航と、バンクーバーからの太平洋横断運航の双方で、増え続ける乗客を乗せるために大型船を必要としていた。同じ時期、 P&Oは革新的な全て白色のStrath定期船の第1船を発注した。こうした計画の全ては、株式市場の崩壊とその後の大恐慌が世 界の大部分にもたらした経済問題によって凍結された。この世界を揺るがした出来事は、英国旅客船隊の遠洋船に影響を与えたのである。

(この章に登場する船)
Majestic
Olympic
Homeric
Berengaria
Empress of Australia
Empress of Russia
Asturias
Arundel Castle
Naldera
Rawalpindi
Victory of India
City of Nagpur
Mulbera
Rangitata

1930年―1939年 不況を生き残る

 全時代を通じて最も偉大な遠洋定期船の一つであるQueen Maryは、サービスを提供し続けている。この船は輝かしい時代の輝かしい記念品であり、カリフォルニア州ロングビーチ港に係留されている。1994年、私は1930年代 の偉大な航海の記念品が展示されているHotel Queen Maryに乗船してしばらく週末を過ごすべく、暗くなってからやって来たものだった。舳先から艫まで明かりがきらきらと輝き、上甲板は不思議に輝いており、3本の巨大な煙 突は投光照明で照らされ、何百もある船窓は照り輝いていた。私はA甲板にあるロビーに繋がる連絡通路に行くためにエレベータに乗った。直 ぐに1950年代に引き戻されてしまったのだった。その光景たるや映画のGrand Hotel(グランド・ホテル)かGinger RogersとFred Astaireの映画を思い起こさせるものであった。私は渦巻きが描かれた絨毯、磨き抜かれた木材、クロム入りの明かりとラッパ状のランプ、特大のラウンジの椅子、ふかふ かのクッションのソファ、そして昔の乗船客の写真に心を奪われた。Sir Winston Churchill夫妻、Cary Grant、Rita Hayworth、Windsor公爵夫妻、Greta Garbo等である。

 直ぐに主甲板にある以前の1等船室の一つに落ち着いた。ドレスを身に着ける部屋、2重扉の洋服箪笥、ゆったりとした風呂、居間には電 化暖炉があった。壁には電動扇風機があり、今ではもはや動いていなかったが、この偉大な古い船が冷房を完全に装備する前に航海していた 日々を思い起こさせるものである。直ぐにQueen Maryは単なる豪華ホテルではなく、素晴らしい博物館であり、世界で最大のそうした海事設備であるということが判ったものだった。展示物の中には、古い通信室、船長室、 1等のテーブルのセッティングがあり、これとは対照的に、第二次世界大戦中の兵員輸送船時代のMaryの日々を再現したハンモックで一杯 の展示もあった。機関室には目を見張るような光りと音の見世物がある。航海日誌、ポスター、多くの写真といった、お金では買えない記念品 が展示されていた。

 この81,200トンのQueen Maryは、1920年代の楽天的な時代の最中に計画され、1930年代の不況の中で建造されたものである。建造工事は1930年12月に始まったが、1年後に財政難から 中止された。3年以上も放置されて、錆びつき、船体は鳥の巣で一杯であった。同じ頃、北大西洋の交通は、約100万人の乗客が50万人程 に激減していた。1934年から1936年にかけて、Cunardは8隻以上の偉大な船を引退させることを強いられたのだった。すなわち 古いMauretania、Majestic、Olympic、Homeric、Adriatic、Albertic、Doric、そし てCalgaricである。船隊の他の船は、非能率な石炭焚きのLaurenticのような船は、長期間、係船された。

 しかし豪華市場においては未だに速力にお金出す人がおり、Queen Maryは人気を集めていた。1938年から(1952年まで)、本船は最速の船だったのである。怪しい魅力を漂わせながら走り、現役だった頃は有名人を待ち望む新聞のカ メラマンの一群を概して惹きつけていたものである。

 少なくとも定期船の仕事に就いていた人々もまた、1930年代には海に魅せられ、この不毛の時代にあってはレジャー・クルーズが人気 を集め始めていた。船は金のかからない休暇を提供し、自宅での侘しい状況から、たとえそれが短期間のものであったとしても、逃避できるも のであったのである。Cunardの壮大なAquitaniaに乗って、サウサンプトンからジブラルタルに行って戻ってくる6日間の小旅 行が6ポンド(約20ドル)であった。より裕福な乗客は、Arandora StarやAtlantisといった船に乗って地中海、カリブ海を航海し、夏にはノース岬に行ってノルウェーのフィヨルドを巡った。Empress of BritainとFranconiaは、長い豪華な世界一周航海を行い、スエズからシンガポール、サンフランシスコまでの至るところに寄港した。1930年代後期に就航し た旅客船にCunardの新しいMauretaniaがあった。Shaw SavillのDominion Monarch、Royal MailのAndes等。しかし1939年9月3日、全てが一変した。Donaldson Linesの15,400トンのAtheniaは北のヘブリディーズ諸島沖の海で、ドイツのUボートの魚雷攻撃を受け、沈没した。死者は、乗員・乗客112人に上った。英 国国旗の商用旅客船は突然休止となり、世界最大の船隊は戦時体制に方向転換したのである。

(この章に登場する船)
Empress of Britain (1931)
Empress of Japan
Queen Mary
Minnetonka
Britanic
Bermuda
Reina Del Pacifico
Stirling Castle
Orion
Arandora Star
Atlantis
Mauretania (1939)

1940年―1949年 戦時運航

 ニューヨークの西14番街に係船されていたギリシャ人の保有するクルーズ船Caribiaに乗船したのは、1974年の寒い2月の午 後のことであった。錆びついてくすんだこの老兵は、極東の船舶解体業者のところにこれから向かうところだった。しかしその前に、装飾品や 家具や内装品を売るために悲しい終わりを公衆に公開したのだった。値札を付けられていて、何でも持ち出すことが出来た。テーブルや椅子、 鍋釜類、さらに船の象げ色の電話機までも売られていた。ある2人連れは、遠洋定期船をテーマにした食堂をマンハッタンに開くために十分な ものを購入していた。

 本船は過去において卓越した存在であった。客船会社の豪華なクルーズ船であるCaroniaだった船であり、第二次世界大戦の直後ま で大英帝国における最大の定期船であった。将来女王となるべきElizabeth王女は、1947年、スコットランドのクライドバンクで の大変に宣伝された儀式において、本船を就航させた。Caroniaは1949年1月に初めてニューヨークに接岸し、直ぐに多くの船旅好 きに最も豪華な船として知られることとなったのだった。しかしながら必然的に新しく改良した競争相手が就航し、1960年代の中葉までに は、Caroniaはもはや指導者ではなくなっていた。確かに20年もしないうちに、全くだらしのないものとなってしまっていたのだ。

 第二次世界大戦で英国は荒廃した。Peter Clarkeはその著Hope and Gloryに次のように書いている。

 「英国にとって第二次世界大戦は一つの時代であった。その前の20年程の苦痛に満ちた体験で、何が必要だったのかが判ったのだった。 食料の配給、護送船団、空襲警報、そして停電、加えて徴兵である。1942年までに、約400万人が英国軍に従軍した。国内では工場労働 者が週35時間労働で、平均6ポンドを稼いでいた。」

 最も被害が大きかった部門の一つが、民間船隊の運航であった。1939年から1945年までに3万余の商船船員が命を落とし、 1942年の冬までに80万トン以上の船舶が破壊されたのである。

 偉大な英国の定期船は、灰色に塗り替えられて兵員輸送船や武装巡洋艦、小型航空母艦や洋上修理工場、病院船となり、英国海軍の作戦行 動の標的にさえなったのだった。その任務は差し迫ったもので必要なものであった。活動は様々なもので、広範囲に亘った。 Cunardersは南アフリカに現れ、Union-Castleの定期船はニューヨーク港に、ボンベイにはQueen of Bermudaが出現した。英国海軍本部は、多くの外国船籍の船を戦時中に支配した。フランスのIle de FranceやPasteur、オランダのNieuw Amsterdam、ノルウェーのBergensfjord等である。Queen MaryとQueen Elizabethは、北大西洋を横断して200万人余のアメリカとカナダの兵士を輸送した。船に押し込められて、びっくりする程の人数に達したのだった。1943年7月 のニューヨークからの航海では、Queen Maryは全部で16,685人を乗船させ、クルーズ船を「洋上都市」と宣伝している今日においてさえも、この記録は破られていない。

 両Queensとも、遠洋においては速く、十分に守られており、戦時運航において深刻な損害とは無縁であった。しかし他の多くの船は 失われたのである。例えば1940年6月にはCunardのLancastriaがフランス北西部から避難していたところ、ナチの爆撃機 の攻撃を受けた。4発命中して、うち1発の爆弾は煙突をへし折り、直ぐに沈没した。犠牲者は5,000人近かった。他の有名なものとして は、P&OのViceroy of IndiaとStrathallan、Union CastleのWindsor Castle、Orient LineのOrcadesである。他にはWhite Star LineのGeorgicとRoyal MailのAsturiasのように、まずは沈没は免れて、長く困難な修復作業に耐えたものもある。戦時中に敵によって沈没させられた連合軍側の最大の商船は、 Canadian PacificのEmpress of Britainであった。

 戦時中に国富の4分の1以上を喪失して英国経済は荒廃したが、造船においては建造ブームを巻き起こすことがまだ出来た。1948年か ら49年の冬までに、殆ど全ての英国旅客船会社が、現役の新船を保有したのである。そしてそれがその後よりはマシな日々だったとさえ言わ れたのである。国家は回復したが、海事部門は古い歌に歌われた「Britannia rules the waves(=ブリタニアが波を支配する)」という言葉に従うことが難しくなってきたのだった。

(この章に登場する船)
Queen Elizabeth
Capetown Castle
Lancastria
Caronia (1948)
Parthia
Empress of France
Edinburgh Castle
Paraguay Star
Empire Ken
Empire Medway

1950年―1959年 繁栄の10年間

 1950年代や60年代初期、学校の休み中や夏の午後に、ハドソン河をLackawanna鉄道連絡船に乗って渡り、マンハッタン島 のバークレー通りに行くことは、私にとってとっても楽しいことだった。フェリーを降りて海運街を少しばかり歩くと、ブロードウェイから 下ったところに大半の大手海運会社の事務所が軒を連ねていた。United States Linesはブロードウェイ1番地に、Cunardは25番地、Holland Americaは29番地、American Exportは39番地、そしてHome Linesは42番地にあった。それからそう遠くないところにFrench Lineがバッテリー・プレイス17番地にあり、Italian Lineはステート通り、Greek Lineはブリッジ通りにあった。それぞれの事務所に行ってパンフレットを集めたものだった。それには運航予定や船内案内図、絵葉書、時にはフル・カラーのポスターや特大 の印刷物があった。当時はローテクの時代で、コンピュータは見かけられないものであった。どこの海運会社も愛想が良く、事務所では歓迎し てくれた。受付係はとても親切で、願いを叶えてくれないことは殆どなかった。海運、とりわけ旅客事業はその全盛期であった。

 ローアー・マンハッタンの最高の事務所はCunardのものであり、1957年に大西洋航路に就航している船は12隻は下らなかっ た。この会社はニューヨークの一等地の一つであるブロードウェイ25番地に、23階建ての建物を所有していた。訪問者は回転ドアを通って 玄関に入ったが、そこには何隻かのCunardの偉大な船の、素晴らしい模型が展示されていた。15フィートから25フィートで再現され た船の中で、Queen MaryとQueen Elizabethは、とても緻密なものだった。そのそばにCunard Cavalcade(=行進)として知られていた小型の模型を展示していた部屋があった。その入り口は華麗な大ホールに繋がっていて、そこは海事大聖堂のようなところで、 色とりどりのモザイクの天井があった。Cunardは大西洋において最大の最も忙しかった海運会社であった。このホールには真鍮のランプ で覆われたマホガニーの机が並び、大きな黒電話と巨大な予約簿のある営業の場ではあったが、殆どビザンチン様式の大聖堂を彷彿させるもの だった。確かにその中央に立つと、少年であった私は、その場や海の向こうの冒険の魅力を感じることが出来たものだった。その端には色とり どりのCunardのパンフレットで一杯の棚があり、他にCunardが代理店をしていた他の英国旅客船会社のパンフレットがあった。 P&O-Orient、Anchor Line、British India、Union-Castle、Donaldson等である。ブロードウェイを横切ると、ホワイトホール通りにはFurness Bermuda Lineの事務所があった。そこの棚にはRoyal Mail、Shaw Savill、Pacific Navigation Companyのパンフレットがあった。

 1950年代は英国旅客船会社の人気急騰期であった。経営者や設計者は、将来において更に事業が成長することをも期待していたのであ る。Cunardは老朽化していたQueen Maryの後継としての「Q3」の話をし始め、一方、P&O-Orientは太平洋向けに2隻の最大の船の契約をしていた。41,000トンのOrianaは 1960年に建造され、44,000トンのCanberraは1961年に建造された。Union-Castleは南アフリカ航路向けに 3隻以上の新船の計画を立て、一方Royal Mailは南アメリカ航路向けに3隻の新船を建造した。同時期、Canadian Pacificはカナダと大英帝国間の北大西洋航路向けに3隻の定期船を建造し、Shaw Savillは、革新的で高い成功を収めたSouthern Crossよりも僅かに大きな船を発注した。戦後、多くの英国人が旅行をすることができるようになった。平均賃金は1950年代に倍増し、今や人々は余分なお金を南アフリ カへの休暇旅行に充て、地中海への短い港湾間の航海をし、マディラ諸島やカナリア諸島への安価なクルーズをしたのである。オーストラリア への移民助成金は、別の遠洋航海をする人々を生み出した。その人数は、1950年代初期には年間5万人に達し、1965年までには年間約 8万人にまで成長したのである。

(この章に登場する船)
Saxonia
Georgic
Empress of Canada (1928)
Empress of Britain (1956)
Queen of Bermuda
Ocean Monarch
Reina Del Mar
Bloemfontein Castle
Kenya Castle
City of York
Strathmore
Oronsay
Sothern Cross
Arcadia
New Australia
Gothic
Ruahine (1951)

1960年―1969年 船隊の解体

 1967年の申し分のない9月のとある1日、伝説のQueen Maryはニューヨーク港の第92埠頭から手を引き、最後の大西洋横断を行った。消防艇が放水し、ヘリコプターが上空を飛び回り、曳船が船齢31年の貴婦人を護衛すべく隊 列を組み、湾へと導いた。私は遠洋定期船愛好家の団体、World Ship Society(=世界船舶協会)の地元支部が傭船したCircle Lineの遊覧船に乗船して、この歴史的行事の目撃者となったのだった。多くの小型から中型の船舶が、最後の別れのためにこの偉大なる船の周りで唸りを立てていた。バグパ イプの物悲しげな音色が、少なからぬ人々の涙を誘った。Maryがひとり光り輝いてハドソン河を下り最後の航海をできるよう、 United StatesやIndependence等の他の大型船は埠頭で待機をして、出発を遅らせたのだった。

 港の他の船は、ホボケンの造船所で修理中のものを含めて、この偉大なるCunarderに対して最後の汽笛を送ったように見えた。こ の定期船は伝統的な長い旗をたなびかせて行き、乗員・乗客は皆、甲板に出ていた。「王族海運にお別れ」の見出しが夕刊紙に掲載されたもの である。単なる一つの出来事ではなく、Queen Maryの最後の出港は、大西洋横断旅客船の偉大な日々の終焉の知らせであった。長らく僚船であったQueen Elizabethは、そのちょうど13ヶ月後に最後の航海をしたのだった。10年程の間に、Cunardの遠洋船隊は、12隻からたったの3隻になったのである。

 大西洋を横断する最初の定期ジェット機運航は1958年10月に始まった。1960年代に入って、それほど長い時間はかからず僅か数 年で大西洋横断の旅客事業の4分の3を航空機が占めたのである。Queensは赤字を出し始め、他のCunarderである偉大なる古い Mauretaniaは、実際には航海を飛び飛びに行っていたのだが、これは航海する予約客が十分に集まらなかったからではなく、財政的 に赤字だったからである。ロンドンの船舶ブローカーが古くて時代遅れとなった英国旅客船の売買で忙しくなるのに、そう時間はかからなかっ た。多くはギリシャ人の所有する数少ない会社が、安い価格でそうした余剰船の何隻かを拾い上げたが、多くの船はその後直ぐに解体業者の下 に送られたのだった。

 新しいジェット機との競争だけが、巨大な英国船隊解体の理由ではなかった。確固たる非植民地化により、戦後、かって保有していたとこ ろの殆どの独立を英国が許したことから、貨客運航の大部分が無くなったのである。1947年、最大の変化がまず現れた。英国の統治が終わ り、インドとパキスタンが自治権を獲得したのである。「最も貴重な宝石が帝国の王冠から捻り取られ、帝国のお飾りは直ぐに少なくなってし まった」とGreat Events of the 20th Centary(20世紀の大事件)の編集者は書いた。他の植民地では指導者に自治を行うよう徐々に移譲する話し合いが初期には行われていたが、そうした動きは消えてし まった。1950年代にはアフリカ、西インド諸島、中東、極東の植民地が、次々と独立して行き、エジプトは1952年に自治権を獲得し、 1956年にはスーダン、翌年には黄金海岸(ガーナ)が続いた。この道を辿った他の国には、マラヤ(1957年)、ナイジェリア (1960年)、ジャマイカ(1962年)、ケニア(1963年)、ザンビア(1964年)、ギアナ(1966年)がある。女王 Elizabeth2世の在位25周年が1977年にあるまでに、この偉大なる帝国は、僅かな領土を残すまでに小さくなったのである。僅 かな領土とは香港、フィジーであるが、最終的には独自の道を歩むこととなったのであり、ジブラルタルとフォークランド諸島が残っていると いう有り様である。

 船舶と港湾の両方で労働問題が増加し、こうしたことが英国海運会社の状況を困難なものとした。同盟罷業(ストライキ)、怠業(スロー ダウン)がありふれたものとなって行った。最も破壊的なストは6週間もダラダラと続いたもので、1966年の春に起きたものである。サウ サンプトンやロンドンといった港湾には閑古鳥が鳴き、多くの船舶、とりわけ定期旅客船が陰気に佇み、2、3隻づつ束ねられていた。「船主 は壁に押し付けられ、多くの場合、コストが馬鹿高いものとなって、全ての会社がその事業から手を引いたのです。」とロンドンに本拠を置い ていたNew Zealand Shipping Companyの前の幹部は話していた。ストが終わった時、Cunardは混乱した運航予定を何とかしようとしたものだが、他の古くからのAnchorやBlue Funnel等の会社は、旅客事業からの撤退を決めたのである。Cunardも切り詰めることを余儀なくされた。1968年、取締役は ニューヨーク市のローアー・ブロードウェイの古い壮大な建物を売却し、遠くの山の手の平凡な事務所に引越したのである。困難な、分裂させ られた、しばしば悲しい10年間ではあったが、1969年の春にQueen Elizabeth 2 (QE2)が到来してそれは終わりとなった。当時は、これまでに建造された最後の超定期船(スーパーライナー)になると考えられていた。

(この章に登場する船)
Britanic
Oriana (1960)
Canberra
Empress of Canada (1961)
Windsor Castle
Transvaal Castle
Andes
Dara
Empire Fowey
Uganda
Dominion Monarch
Cilicia
Queen Elizabeth 2

1970年―1979年 新時代への過渡期

 1977年の3月の朝のこと、私は多くの海運業界の人々や他の賓客に混じって、モナコのGrace王妃によるCunard Princessの命名式に出席していた。この式典は造船所ではなく、ニューヨーク市のハドソン河で行われた。大勢の新聞やその他のメディアの関係者にとっては最も便利な 場所であった。群集の気分は高揚し、それどころか本船のCunardの所有者は、この17,500トンの船が最後に建造されるクルーズ船 になると予言していたのであった。洋上における周遊旅行が、偉大なる遠洋定期船向けの港湾間の古い貿易の大部分に取って代わっていたが、 多くの者は、クルーズは、とりわけ合衆国において、その頂点に達してしまったと考えていた。バミューダ、ナッソー、カリブ海の島々のよう な港を航海していた船舶は、確かに活気のある事業を展開してはいたが、将来の新造を保障するほど十分なものとは言えなかったのだ。 1975年には燃料費が法外なまでに急騰してその収益に重く圧し掛かり、多くの会社が限られた範囲でやりくりするのがやっとであった。し かし、後の章で説明するように、この悲観的な予測はここまでであった。クルーズの予約がそうした予言を否定して成長し始め、利益は強固な ものとなり始めたのである。

 しかしながら伝統的な定期船運航は、正に終わりであった。ジェット機が大西洋横断海運事業を押し潰し、1960年代までに新しい飛行 機がスエズの東から飛び出し、広い太平洋を飛んだのである。1972年から73年までには、オーストラリアの事業は、P&Oや Shaw Savillのように殆どが終了したのだった。最後の定期旅客運航を運営していた主要会社であるUnion-Castleでは、1977年にサウサンプトン―ケープタウン 特急便が崩壊したのだった。

 そうした衰退が予測され、英国旅客船の余剰船は東洋行きの古い船と代替されて行ったが、同時に外国に買い手がいなかった。例えば、 P&Oは1972年から1979年にかけて7隻の主要な定期船を引退させたが、その全ては台湾の解体業者の下に行ったのだった。 P&Oや他の客船会社の余剰船の多くは、1940年代、50年代に建造されたものであり、1980年代の水準にするためには改修 工事に多額の費用が必要だったのである。しかし市場が衰退する中で、船主には老朽化している船隊に新しい投資を行おうとする気が殆ど無 かった。

 会社の中には生き残れるところがあり、クルーズ事業に転換することで繁栄するところもあった。多くの船がサウサンプトンから地中海、 シドニーや南の島々への2、3週間の休暇航海向けに適したワン・クラス(=同一等級)の旅客設備に改造された。P&Oは新しい事 業のためにP&O Cruisesを設立した。しかし他の客船会社は経営方針を転換するのが困難なことが判ったのだった。例えばShaw Savill Lineは、燃料費と英国人労働者の高コストに直面して破産した。船齢12年のNorthern Starのような船は、1974年までに極東の解体業者の下に行ったのだった。

 1979年までにCunardとP&Oは、英国国旗の下で未だに旅客船を運航している最後の会社となっていた。そうした会社 が24社もあったのは、僅か20年間のことだった。

(この章に登場する船)
Chusan
Pendennis Castle
Arlanza
City of Exeter
Nevasa
Feodor Shalyapin
Leonid Sobinov
Cunard Adventurer
Cunard Princess
Island Princess

1980年―1989年 クルーズであらゆる場所へ

 1983年のある静かな夏の日曜日のこと、サウサンプトンの波止場をざっと見てまわっていた。広がる空気は憂鬱な感じで、港を鳥が群 れをなして飛び、通過する曳船が時折汽笛を鳴らしていた。ブルドーザーが放置され、偉大なる遠洋ターミナルを解体する厳しい仕事を1日休 んでいた。1950年に、CunardのQueensやUnited Statesのような巨大な大西洋航路就航船向けに開設されたが、事実上、殆ど空家になっていた。以前は賑わっていた港沿いの事務所には、今や板が張られていた。古いター ミナルの建物は、波止場の娯楽総合施設や海事博物館に改装されて新たに賃貸されることとなるようだったが、そうはならなかった。その広範 な空間は貨物船に必要であり、その設備や波止場の倉庫は貨物船に必要なものであったからだった。

 私は過去の記録を見る機会があって、1970年代後半に、旅客船についての本を書き始めた。今では休暇やその他手が空いている時に は、上等の写真や、こうした船に乗船していた乗客や船員からの直接の情報を探して、海を旅している。しばしば過去の栄光の見捨てられた土 地において、そうした人々に出会ったものである。しかし今日の日曜日は全く静かであった。古い建物やCanadian Pacific、Royal Mail、Union-Castleといった看板はかなり朽ち果てていたのだった。

 英国国旗の船舶が、母国から合衆国を含む以前の植民地との間を頻繁に定期に運航する時代は終わったのだった。しかし1970年代に始 まった新しい時代は、今や現実のものとなり、英国海運会社は金になるクルーズ事業に転換した。例えばCunardは、2つの豪華客船会社 のNorwegian America CruisesとSea Goddess Cruisesと合併したのだった。昔のP&O-Orient Linesは、今ではP&O Cruisesとなり、子会社のロサンゼルスに本拠を置くPrincess Cruisesがイタリア人が大半を所有していたSitmar Cruisesを買い取ったように、再び力をつけているのである。P&Oはまた、1980年代に最も技術的に進歩し、装飾的に呆然とさせるようなクルーズ船であ る、フィンランド建造のRoyal Princessを船隊に加えた。この船は実際のところ、その後20年以上に亘りP&O向けに建造された、より大型の新しい豪華船の第1船であった。これらの船の 多くは(全部ではないが)英国国旗をなびかせていたものだった。

 Cunardは、QE2の運航を継続していた。1986年10月、この偉大な船は蒸気を出して大西洋を最後に横断し、海事史の新たな マイル標石を通過した(=画期的事件となった)。新しいディーゼル電気推進機関は、建造中の新船と競争すべく装着されたものであった。よ り小さなあまり知られていない海運事業が終わりになり、大型のジェット機に適した空港を持たない僻地にある多くの小さな所が貨客船で定期 運航をしていたのだった。その一つの例がセント・ヘレナ島の植民地である。ここは南大西洋に浮かぶ島であるが、1815年に Napoleon Bonparteが最後に追放されたところとして有名になったところである。Union-Castle/Safmarineの南アフリカへの運航が1977年10月に終わ りになったとき、コーンワルに本拠を置くCurnow Shipping Companyが島の地元権益と一緒になって、St. Helena Shipping Companyを設立したのだった。カーディフから南アフリカへ、セント・ヘレナ島やその他の島々に寄港しながら行く運航は、21世紀まで継続された。

(この章に登場する船)
Canberra
Sea Princess
Vistafjord
Sea Goddess I
Sea Goddess II
Royal Princess
Dwarka
Oriana
St. Helena (1963)
St. Helena (1990)

1990年―1999年 新しい船隊とそのフラグシップ

 1999年の晴れた土曜日の午後のこと、全長963フィート、70,327トンのQueen Elizabeth 2、すなわち力強いQE2はニューヨークの第92埠頭のバースから離れた。大勢の群集がターミナルの屋根の上から手を振って本船を見送り、興奮に包まれたものだった。30 周年記念のお祝いのバミューダ、ナッソー、ニューポート・ニューズへの1週間クルーズの始まりであった。公式には600人以上に上る遠洋 定期船愛好家が、この偉大な航海で乗船していた。「1度に同じ船に船舶狂が乗船した、最大の集会でしたね。」この機会のために特別に飛行 機で飛んできた参加者のひとりは言った。「これは20世紀のすべての最も偉大な定期船の、本当に私達の祝賀会でした。 MouretaniaやAquitaniaから、Queen MaryやQueen Elizabeth、そして恐らくはQE2の後継となる、今Queen Mary計画と呼ばれている船に至るまでの、全ての船に対する素晴らしい祝砲でした。」別の会員である海事史家である野間恒は、このクルーズのために東京からやって来たの だった。Queenは舳先を南に向けてハドソン川を真っ直ぐに下って外海に向かい、お祭りが始まった。

 QE2は、最も有名な旅客船である。殆どどこでも知られていて、それと見分けがつく船である。偉大なるCunardの遺産だからであ る。Cunard Lineは、1世紀を超えて北大西洋を支配し、1990年には150周年を祝った。しかしこの10年間の終わりまでには、この会社はもはや独立した存在ではなくなってい た。アメリカに本拠を置くCarnival Cruise Linesは、皆の予言を裏切って成功し、ここの新しい所有者となったのである。QE2は1969年5月に就航したが、そのちょうど3年後の1972年4月に、 Carnivalが設立されたのである。本船は偉大な大西洋定期船の最後のものとして考えられていたものであり、航空会社が北大西洋航路 を支配するようになるにつれ、不確実になった将来に直面していた。しかしこの1,750人乗りの船は、大洋を横断することに憧れてきた多 くの旅行者を魅了してきたのだった。

 「本船は偉大な特色を持った独特の船で、とても特別な船です。」このお祝いクルーズにカナダのニュー・ブラウンズウィック州からやっ て来たFrank Lipsettはそう言及した。同じく乗船していた人に、処女航海で本船の舵を取った故William Warwick船長のご子息がいた。ガラ・パーティ(=宴会)ではRon Warwick船長を称え、処女航海の選りすぐりの写真のアルバムが贈られた。

 丸々3日間過ごした洋上では、終わりのないようなパーティーや会合、講義、記念品の展示や販売、英国海員基金のための競売が行われ た。そうした選ばれた品目の中でセリに出されたのが、Cunardの船長の雨合羽であった。作家のJohn Maxtone-Grahamは、QE2の船歴とTitanicの悲劇の話をし、造船技師のStephen Payneは、最近引退した王族専用ヨットのBritanniaの一生と時代を描写し、Queen Mary計画の話もした。遠洋定期船の収集家で販売業者であるRichard Faberは、絵葉書やパンフレット、灰皿、折りたたんだ船内案内図等の上等な品目を景気良く販売していた。そして旅客定期船についての体裁の良い新しい雑誌である Ship Aficionado(=船キチガイ)がこの旅行中に「処女航海」をし、船上で全員に創刊号が配布された。ニューポート・ニューズでは、多くの乗客が、朝に訪れた素敵な海 員の博物館に群れをなして向かった。United Statesの89歳の最後の船長、Leroy Alexanderson船長は昼食に来て、ファンとちょっとしたお喋りをした。

 QE2はこの航海を通じて一流であった。良い食事、優れたサービス、行き届いた手入れ。このワクワクするような、情報豊富な、全く楽 しい行事で満たされた1週間を終えて、ニューヨークで下船した乗船客のグループほど幸せな者はいなかったろう。「見逃すわけがないで しょ。」とシカゴから来た愛好家のひとりは言った。「QE2は偉大なる象徴です。20世紀の偉大なる全ての定期船につながる、我々の一部 なんです。」

(この章に登場する船)
Cunard Princess
Crown Princess
Star Princess
Sun Princess
Oriana (1995)
Grand Princess
Ocean Princess
Aurora