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ウイリアム H.ミラー, Jr.「図説ドイツとオランダの旅客船史」

1、1920年代:復活と再開

 海事産業博物館は、ニューヨーク市のかっては賑わったマンハッタンの埠頭からちょうど数マイルのところにあり、ブロンクスのFort Schuylerのニューヨーク州立海事短期大学にある。アメリカの船舶や船主、ニューヨーク港への遺言が大部分であるが、多くの外国船 の模型も所蔵している。こうした並外れた模型は、大きくで詳細で、今日の海事収集品市場において、極端なまでに貴重なものとなっている。 今日においては殆ど唯一のものであり、費用だけでもよろめくようなものである。例えば真鍮の端艇鈎、手の込んだ艤装、更には日除けとし て、救命艇には本物の帆布が掛けられていた。うち3隻は10フィートから15フィートの長さがあり、再現された船は本書でも取り上げてい る。Albert Ballin、Hamburg America LineのReliance、そしてNorth German Lloydが運航した最大の1929年の偉大なる記録破り、Bremenである。元のずんぐりした煙突で飛行機とカタパルトをつけたBremenの完全模型は、25万ドル であると最近言われていた。元の所有者であるNorth German Lloydはその返還を求め、代わりに博物館に5隻の模型を申し出た。いずれも現在運航中の貨物船とコンテナ船である。博物館側は丁寧に断った。他の2隻のドイツの定期船 模型のようにこのBremenの模型は、第二次世界大戦が始まってドイツの海運会社が米国事務所を閉鎖した1939年から1940年にか けて博物館にやって来たものである。模型は保管のためFort Schuylerに送られ、決してそこから離れることはなかった。

 Albert Ballin、Reliance、Bremenは、1920年代に建造されたものである。第一次世界大戦の荒廃の後の豪華旅客運航の再開は、船主ばかりではなく、ドイツに とっても新しい始まり、再開を象徴するものであった。再開は並外れたものであった。例えばNorth German Lloydは、戦前は世界最大最速の壮大な定期船を含む最大の船隊を擁していたが、最後は800トンの貨物船Grussgott、1隻に終わっていた。それが1929年ま でに50隻を超えるまでになったのである。この年、新しいBrememが投入された。本船は世界最大かつ最も豪華な遠洋定期船であるばか りではなく、当時の如何なる種類の船舶よりも最速であった。会社は当然、誇りにしていた。

 1920年代は再建の時代であった。ドイツの主要な海運会社は殆どすっかり接収され、オランダは戦時中に失った多くの船の代替をする 必要があった。20年代初期、客船会社は代替に対して控えめで用心深かった。その計画は保守的なものであり、巨大で素晴らしく非常に速い 船でないばかりか、全く地味な船であったのである。重要な考慮事項の一つは、米国政府が劇的に移民の流入を減らし始めていたことである。 例えば大西洋からニューヨークへの運航では、戦争が始まる前は年間140万人が横断していたが、1924年までにその総数は15万人ちょ うどになっていた。明らかに、最下級船室や3等船客から得ていた活気のある手軽な利益は無くなってしまったのである。改良された下部甲板 の船室は、「ツーリスト・クラス」と再命名されて整理されることとなった。

 しかし20年代の終わりまでに、この用心深い保守主義は、新しくより大型の期待のうねりに取って替わられた。例えばNorth German Lloydは、1924年に大変成功したColumbusに代わる2隻の35,000トンの異母姉妹を建造する計画をしていた。これは直ぐに2隻の40,000トンの船に 発展し、更には記録破りの50,000トンの船となったのである。これが1929年から1930年にかけての並外れたBremenと Europaである。もう一つのドイツの船主Hamburg-South America Lineは、27,000トンのCap Arconaを加え、しばしばヨーロッパと南米を結んだ最高の船の一つと言われている。同様にHolland Americaは、現在に至るまで最大の船である29,500トンのStatendamを1929年に投入した。ドイツとオランダの旅客船所有者にとって、20年代は忙し い時代であった。

(この章に登場する船)
Hansa
Albert Ballin
Hamburg (1926)
Reliance
Cleveland
Columbus
Volendam
Rotterdam (1908)
Edam
Statendam (1929)
Cap Polonio
Monte Rosa
Cap Arcona
Milwaukee
Berlin (1925)
Munchen

2、1930年代:経済、政治、そして戦争前夜

 1930年の春、殆ど無名のドイツ人女優が初めてニューヨークにやって来た。ベルリンのUFA Studioで成功していたものの、ハリウッドの、とりわけ偉大なParamount Studios(=パラマウント映画社)の不思議な魅惑に取りつかれて北大西洋を横断したのだった。直ぐに世界的に知られる主要なスターとなり、大恐慌時代の映画界の偉大 なる絶世の美女の1人となった。彼女の名前はMarlene Dietrich。その頃最速の定期船Bremenに乗船して来たのだった。当時、この船の所有者North German Lloydは、ニューヨーク港の外れのBrooklyn Army Terminal(=ブルックリン陸軍ターミナル)の第4埠頭を使用していた。振り返ってみると、魅力的なDietrichが初めてあのほっそりとした足でアメリカの土を 踏む場所としては、殆ど相応しくないところである。今やBremenは消え(1941年に火災により喪失)、そしてDietrichは亡 くなった(1991年)。物語は完結したのである。古いArmy Terminal埠頭は、長さ1,800フィートの埠頭であったが、崩壊して水没し廃墟となっていたが、1999年に取り壊されている。

 1919年に造成され、記録的な速さで完成したBrooklyn Army Terminalは、第一次世界大戦が生み出したものであり、米国政府は、戦後の海運収容力の拡大を大いに図る必要があったのである。戦争で荒廃したヨーロッパ復興に協力 すべく、多くの貨物船がターミナルを使用したのであり、事務所・倉庫からなる広大な複合施設と鉄道網があった。後にNorwegian America Lineは、BergensfjordやStavangerfjordのような旅客船と共に、この一部を転貸した。North German Lloydはマンハッタン埠頭に便利な適当なバースを見つけられず、同様に1934年までその場所を賃貸していた。1934年に北に移転することができ、西46丁目のハド ソン河の第86埠頭に移転した。1920年代のLloydの巨大船であるBremenとEuropaは、いずれも処女航海ではブルックリ ンに到着したが、Lloydの広告担当者は、ブルックリンのターミナルの不便さを克服するために頑張ったものだった。「ブルックリンから ヨーロッパ行きのNorth German Lloydの定期船に乗れば、ヨーロッパは直ぐそこです!」

 第二次世界大戦後、このターミナルはUS Military Sea Transportation Service (MSTS)(=合衆国軍海上輸送運航)によって大いに利用された。ここでは平時の兵員輸送船の大船団を運営し、サウサンプトン、ブレマーハーフェン、ロタ(スペイン)と いった大西洋横断港の他、プエルトリコ、パナマ運河地帯、ラブラドルへの輸送を行っていた。何千もの若い兵士らが、これらブルックリンの 埠頭から初めて海外に行ったのである。恐らく最も有名な出発は、G. M. Randall陸軍大将が1958年にドイツに出発した時である。若きElvis Presleyが、屋外の甲板から別れの挨拶を送っていた。アメリカは1973年までに全ての兵員輸送を航空機に切り替えたが、その直後にターミナルは閉鎖された。貨物船 会社のギリシャのHellenic Linesがこの埠頭を最後に使用し、破産したクルーズ船のVictoriaが、1975年の夏にここに繋がれた最後の船となった。70年代末まで残っていた賑やかな過ぎ 去った日々を示す唯一のものは、第4埠頭に先端にある色褪せた軍隊の標識であった。それは「Welcome Home(=お帰りなさい)」というものだった。

 1998年10月、ニューヨーク市は建築家Cass Gilbertの業績を褒め称えた。彼の作品の中には、Woolworth Building、フォーレイ・スクェアのFederal Courthouse(=連邦裁判所)、そしてBrooklyn Army Terminalがあった。ある土曜日の午後に、貸切りのフェリーに乗って古い見捨てられた埠頭を見に行ったことがある。誰が Marlene Dietrichや大きなドイツの遠洋定期船のことを知っているだろうか、と思ったものだった。

(この章に登場する船)
Bremen (1929)
Europa (1930)
Patria (1919)
Sibalak
Insulinde
Nieuw Holland
Christiaan Huygens
Johan van Oldenbarnevelt
Baloeran
Colombia
Cordillera
Scharnhorst
Gneisenau
Windhuk
Pretoria
Usaramo
Adolph Woermann
Patria (1938)
Rossia
Magdalena
Dresden
Reliance
Nieuw Amsterdam (1938)
Wilhelm Gustloff
Robert Ley
Oceana
Vaterland
Noordam (1938)
Westerdam (1940-46)
Westerland
Ruys
Oranje

3、1940年代:戦争、破壊、そして衰退

 1994年6月、ヨーロッパにおける第二次世界大戦の終結の始まりとなったノルマンディ侵攻の50年記念祭で、ノルマンディの浜辺に 12隻以上のクルーズ船が記念クルーズを行った。侵攻軍の上陸のために、何百もの船舶に混じって多くの偉大な定期船が使われていた。しか し厳しい戦時中に悲しい喪失があったことも思い出される。Nazisによって最初に撃沈されたのは、非武装の大西洋横断定期船であった。 13,000トンのAhtheniaであり、英国のDonaldson Line所有、グラスゴーからモントリオールへの通常航海で西に向かっていた。魚雷で攻撃され、1939年9月3日に沈没した。英国とドイツの間で正式に宣戦が布告され て、僅かに2日後であった。乗員・乗客の犠牲者は113人であった。このニュースは震撼させるものであり、あらゆる条約に違反するもので あった。公然とNazisは責任を否定した。このため定期船は直ぐに灰色と黒色に塗装され、夜間は照明を落としたのであった。小火器を搭 載して武装するものさえもあった。しかし数週のうちに、同様に喪失することとなったのである。その中にはNorwegian Americaの新しいフラグシップ、Oslofjordが含まれていた。高速のBremenと華麗なNormandieは、バースで火災を起こして全壊した。このドイツ の優勝者はブレマーハーフェンで不幸な船員による破壊工作に会い、French Lineのフラグシップは、ニューヨークの第88埠頭で作業員の不注意の犠牲者となったのである。

 戦争の最初の冬は大変に混乱させられたものであり、Cunardの定期船Lancastriaの喪失はとりわけ恐ろしいものであっ た。1940年6月、西フランスの緊急疎開中、サン・ナゼール沖でNaziの爆撃機の攻撃を受けた。英国兵士を含む乗客を過積載していた が、4発命中し、うち1発は煙突をへし折って20分以内に沈没した。乗船していた人の数は6,000人から9,000人と見積られている が、生き残ったのは2,500人であった。連合国の士気を低下させることを恐れて、この惨事のニュースは公式にはしばらく伏せられていた (英国政府は不明の理由により、この事件については2040年まで合法的に非公開としている。)。1ヶ月後の10月、連合国を押し潰す別 の事件があった。英国最大かつ最高の定期船、42,000トンのEmpress of Britainが、アイルランド沖でU-boatに撃沈されたのである。本船は戦時中に沈没した連合国最大の商船であった。

 他に何隻もの定期船が沈没した。特に1942年から43年にかけて戦争が激しかった時である。オランダはStatendam、 Dempo、Baloeran、Marnix van St Aldegonde、その他を喪失した。しかし連合国は同様に仕返しをしていた。直ぐにイタリア最高の豪華船が破壊されたのである。英国爆撃機は攻撃して素晴らしいRex を撃沈した。Mussoliniの大西洋横断のフラグシップであり、イタリアの唯一のBlue Ribbon保持者である。焼け爛れた残骸は戦後、切り刻まれた。実際、1945年までにイタリアの定期船は、日本の旅客船隊が1隻(注、氷川丸)を除いてすべて沈没した ように、4隻を除いて全てが喪われたのである。

 かっては巨大な旅客船隊であった殆どのドイツの船隊は、戦争の末期の命運を決した1945年の冬、春には粉砕された。1944年8月 から1945年5月の間に、14隻もの大型定期船が喪失した。Naziの労働者の元クルーズ船、Wilhelm Gustloffの最期は、遥かに悲惨なものであった。1945年1月30日、バルト海の凍てつく海域で侵攻していたソビエト軍の魚雷攻撃を受けたのである。恐ろしいほど の過積載のため、あらゆる海事史において最悪のものとなった。避難民、兵士、衛兵、船員、負傷者の5,400人が犠牲となった。この惨事 は未だに書籍や雑誌記事や、テレビの記録番組で取り上げられている。2週間後、別の元定期船Steubenもバルト海に沈み、3,000 人余が死亡した。5月初旬、ドイツ降伏(つまり捕虜解放)の僅か数日前にもHamburg-South America Lineの戦前の豪華女王であるCap Arconaが爆撃されて転覆し、5,000人以上の命が喪われた。その大半が強制収容所の収容者であった。1950年になっても、小型のHolland America Lineの50人乗りの貨客船Delftdykが、北海で触雷した。酷い損害で、完全に再建しなければならなかった。

 この戦争により、Hamburg AmericaやNorth German Lloydのようなドイツの客船会社は、長年に亘って旅客船事業から手を引くこととなった。German-AfricaやHamburg-South America Linesのような会社は、豪華定期船に関心を持つことは2度となかったのである。オランダの客船会社はゆっくりと再開し始めた。例えばHolland Americaは、1951年まで大西洋定期船を建造しなかった。一方、オランダ領東インド(現在のインドネシア)に航海していた古くか らの植民会社は既に活気がなくなり、着実に衰退していた。

 1982年の夏にブレマーハーフェン港を自動車で回った時に、Arnold Kludasは定期船Bremenの残骸の最後の残りを指差してくれた。1941年の火災の後、その大半がスクラップとなる前に、二重船殻の船底部がWeser川に曳航さ れ、ブレマーハーフェンから上流の泥の中に故意に沈められたという。その部品は好奇心を掻き立てるものであった。それから1990年代半 ばに別の友人であるドイツ人の海事芸術家のDietmar Borchertは、所謂「Bremenの死骸」と呼んでいたものの捜索を決心した。ブレマーハーフェンの海事博物館に古い鋼鉄の小さな欠片を取り戻したかったのだった。

 Borchertは遂にNordenhamから川を横切ったところに、残骸を発見した。海事記者のJames Shawは「背の高い葦と浅瀬の間にあった」と書き留めた。「引き潮の時に岸からBremenの残骸を見ることが出来ます。」とBorchertは話している。「難破ブイ が取りつけられています。Weser Dykesの頂上の有刺鉄線の垣根が気にならないのならば、その残骸に300メートルまで近づくことができます。」1996年10月、多くの興味を持ってくれた友人や地元 潜水会社の協力を得て、Borchertは成功した。船体の鋼鈑部分は切断され、今日、Bremenの「死骸」は、ブレマーハーフェンの 博物館に所蔵されている。

(この章に登場する船)
New York
Willem Ruys
Waterman
Slamat
Alnati

4、1950年代:復活と再建

 ニューヨーク港は1950年代、にわか景気に沸いていた。そこを行き交う船舶は、高揚させゾクゾクさせるものであった。精力的で熱狂 的な男子生徒であった私は、船に関するものならば殆ど全てのものに魅惑され、全く止めることができなかった。大型の定期船は定時に行き交 い(オランダの船はいつも金曜日の正午に出航しており、例えばBremenは常に真夜中であった)、少なくとも私には多彩な筋からなる広 範な長期連続放送劇のように思われたものだった。定期船はその運航予定から様々に分類できた。あるものは毎週、あるものは隔週、あるもの は3週間か4週間おきであった。これが正に豪華定期船通りでは顕著であった。40年代、50年代のマンハッタンのウェスト・サイドのハド ソン河沿いの偉大な緑の埠頭では、時折、一度に7隻から8隻の船が入り、新聞の見開きページを飾ったものだった。様々な Cunardersが現れ、しばしばそれは大型の女王Queen MaryかQeen Elizabethであり、イタリアかフランスの定期船であり、必然的にアメリカのUnited StatesかAmerica、更に、より頻繁に、IndependenceかConstitutionであった。当時のニューヨーク港の貨物船は、もっと雄大な間隔で 入って来た。ざっと見渡すと、本国行きのUnited States LinesやUnited Fruitの貨物船、あるいは出国するGraceやAmerican Export、Moore McCormackの船等があった。

 当時の旅客船事業は、まだ活気のある利益の出るものであった。ジェット旅客機は1960年代までに壮大な世界的規模の定期船運航の殆 どすべてに取って代わったのであるが、まだ大変に大きな脅威とまではなっていなかった。大西洋を飛んだのは1958年秋である。汽船会社 は積極的なままであり、利益を出し、しかも楽観的であった。オランダとドイツの定期船に限ってみると、50年代の終わりの2年間に処女航 海をした等級に分かれて大西洋を横断した4隻の旅客船を鮮やかに思い出す。堂々たるStatendamは、私の記憶では1957年2月の 酷く寒い日にやって来た。私が裏庭としていたホボケンの5番街埠頭である。接岸には時間がかかり、骨を折るものであった。ターミナルの北 側に入るのに数時間もかかったのである。というのは、ニューヨーク港の曳船がストライキ中で、この輝くような新船は歓迎会もなく、独力で ハドソン河の冷たい水面に降ろした救命艇の案内で入港しなければならなかったからだった。船は端まで飾られ、色とりどりの旗が冬の風の中 で音を立てていたことを覚えている。

 1958年の夏の金曜日の午後、すっかり改装したHanseaticが最初の外国行きの航海で第97埠頭から河を下って行ったことを 覚えている。かってのCanadian PacificのEmpress of Scotlandを特徴づけていた3本の煙突は、French Lineに似せて赤と黒に塗装し、そこに鮮やかなマルタ十字が描かれた2本の傾斜した煙突に代わっていた。大西洋の大型ドイツ定期船は未だに洒落た、誇りのある、欠点のな いものに見えていた。時に、余分なまでの旗で飾っていた。正確に1年後の1959年7月の曇った朝のこと、私はもう1隻の再建されたドイ ツ船Bremenを、ホボケンの岸壁で待っていた。この新しいフラグシップが速力を落として威厳をもってきらりと輝いてハドソン河に沿っ て港に進んで来ると、港には警笛と警報が響き渡った。North German Lloydは賢明にもこの機会を捉え、出航するBerlinと入港するBremenとがバッテリーの沖ですれ違うようにした。1939年の晩夏に戦争が勃発して以来初め て、ここの2隻の定期船が大西洋を横断するものだった。2ヶ月後、再びホボケンに、Holland Americaの革新的で印象的なRotterdamが姿を現した。学校が終わると直ぐに、私は5番街の麓にある同じ埠頭に降りて行った。本船は巨大で、とりわけホボケン の街並みと比べて大きかった。普通と違ってRotterdamは、黄色の救命艇を備えていた。また煙突がなかった。その代わり、船尾に2 本のパイプが付いていた。大西洋に就航した最初の煙突のない定期船だったのである。そして処女航海を色とりどりの旗で着飾っていた。恐ら く本船は、急速に変化していた遠洋定期船の意匠において、他の船よりも多くの暗示を将来に与えただろう。

 海外では、私が何時間も貪り読んだLaurence Dunnの著書によると、多くの新しい旅客船が1950年代に就航した。例えばオランダではRandfonteinがアフリカ航路に加わり、格好の良いOranje Nassauとその姉妹船がカリブ海を走り(注、カリブにもオランダの植民地がある)、一方ドイツは、極東への運航向けに6隻の貨客船を 建造した。また大規模な修理や改造もなされ、Johan van Oldenbarneveltの近代化、以前小型の航空母艦であったSeven Seasのグレードアップがなされた。

 悲しいことに、1960年代に全てが変化することとなった。船舶は赤字を垂れ流し、売却され、早めに解体されたのである。しかしこの 時点では、こうした結末になることははっきりとしていなかった。事業は急速に変化していた。休暇向けの、同一等級の、クルーズ用に設計さ れた旅客設備を持った旅客船の新世代に引き継がれて行ったのである。偉大な遠洋定期船を連想させる壮大な特色は消え失せた。夜間航海、紙 吹雪、出航前の宴会も殆ど消滅した。しかしそうではあったが、何人かは所謂「古い」定期船での数少ない旅をしようとしたものだった。私は 本章で述べている少なくとも4隻の船で航海をしたことがある。Hanseatic、Bremen、Rotterdam、そして(殆ど変更 なくStefan Batoryとなった)前のMaasdamである。皆素晴らしい船であり、魅力的で多くの記憶が残っている。私は特にBremenの輝くグラスと食器、そして靴を磨いても らうために深夜、船室の外に靴を出したことを思い出す。玄関の広間を取り囲む遊歩道に繋がるHanseaticの百貨店のような回転ドア や、Rotterdamの日本の漆のパネルやデルフト焼きのタイル、旧Maasdamのピカピカの化粧板や4人乗りの小さなエレベータを 思い出す。今は何れもこの世にはない。今日、クルーズ船として建造されたオランダやドイツの新世代の豪華女王で私は航海している。例えば 小奇麗で欠点のない新しいMaasdamや、超豪華で芸術的なDeutschlandである。古い船のようなものは、もう決して見ること はないだろう。

(この章に登場する船)
Maasdam (1952)
Statedam (1957)
Diemerdyk
Dongedyk
Tjiwangi
Randfontein
Oranje Nassau
Prinses Irene
Arosa Sun
Berlin (ex-Gripsholm, 1925)
Italia
Seven Seas
Frankfurt
Ariadne
Santa Isabel
Hanseatic (1930)
Bremen (1939)
Rotterdam (1959)

5、1960年代:業態転換

 オランダの21歳のBeatrix皇太子妃が、1959年9月にRotterdamの処女航海でニューヨークを訪問された際、マン ハッタン島とその周辺でご公務を務められた。そうした訪問先の中に、Holland America Lineの刷新した新しいターミナルの公式視察があった。当時はグリニッジ・ビレッジの西ハドソン通りにあるハドソン河の第40埠頭で工事中であった。この新しい埠頭は、 当時としては印象的な1850万ドルの費用をかけ、Holland Americaの旅客と貨物を扱うこととなっていた。2000年までに商用海運は長らく休止となっており、第40埠頭はニューヨーク市のウェストウェイ再開発計画の一部に 含まれていた。この巨大なターミナルの計画は未だに不透明であるが、美術館、コミュニティー・センターの他、屋根のある「浜辺」やプール さえも計画されている。

 第40埠頭はStatendamの航海に伴い、1963年3月に正式に開設された。Holland America Lineが北の西48番街と西52番街の間にある新しく統合された旅客船ターミナルに移転した1974年11月に、遠洋船は廃止となった。1950年代後半と60年代に遡 ると、ニューヨーク港にはまだ活気があり、旅客定期船ばかりではなく、コンテナ船になる前の貨物船でも賑わっていた。多くの会社は高い評 価を受けていたマンハッタンの埠頭を賃借することすら出来ず、不便なニュージャージー、ブルックリン、あるいはスタテン島で甘んじなけれ ばならない有り様であった。Holland Americaは、長いことホボケンのハドソン河の5番街ターミナルを退去したがっていた。高い税金と駐車場の問題から、この会社は9年程してニューヨーク当局に接近し、 新しいターミナルの長期賃貸借に合意した。20世紀への変わり目から40年間鉄道埠頭だったところから移転し、805フィート×810 フィートの建物に移った。これはウェスト・サイドの海事ターミナルの中でも比類のないもので、一度に3隻の定期船、あるいは2隻の定期船 と2隻の小型貨物船を扱うことができるものだった。効率的な荷役区画には125台ものトラックが止まれるところがあった。オランダの貨物 船は、当時Heinekenのビール、チーズ、そしてもちろんチューリップの球根といった大量の委託品を輸送していた。海外へはアメリカ の工業製品、重機、特に部分的に組み立てられた自動車等の一般的な貨物をヨーロッパに運んでいた。旅客用設備には、ラウンジ、税関、手荷 物扱い所、食堂、Holland Americaの事務所、そして最も親切なものとして、1,500台の乗用車を収容できる屋根付きの駐車場があった。旅行者は1月にRotterdamに乗船して90日間 の世界一周クルーズに出かけ、4月に戻ってきて、僅か数分で自分の車に戻り、自宅に帰ることができたのである。

 1960年代、Holland Americaは、1938年のNieuw Amsterdam、1952年のMaasdam、1946年のWesterdamといった船を使って、ロッテルダム、ル・アーブル、サウサンプトン、ニューヨーク間で忙 しい大西洋横断定期船運航を行っていた。冬季は、こうしたオランダの船は暖かい海域を航海し、しばしばカリブ海への2、3週間のクルーズ を行っていた。一般にヨーロッパ行きは金曜日の正午の出航であったが、クルーズの場合は夜の10時の出航予定だった。殆どの船が2、3泊 立ち寄るのが慣例だったことから、オランダ人船員はグリニッジ・ビレッジ近隣の住民と親しくなり、中には夕食の招待を受ける者もいたくら いである。後に、Holland Americaは次のような会社に転貸していた。Norwegian America Line、Grace Line、German Atlantic Line、あるいはVenezuelan Lineのような貨物船会社である。特別の訪問者としては、大西洋横断の学生の船、世界一周クルーズの他のオランダの定期船、そしてP&Oの力強い Canberraがいた。しかし1960年代は変化の時代であった。昔ながらの大西洋横断定期船運航は、航空会社の競争に直面して、直ぐ によろめいたのだった。旅客海運の将来は、クルーズであった。Holland Americaは60年代後半までに、ロッテルダムとニューヨーク間で運航していた船が、老練な、しばしばもがいていたNieuw Amsterdam、ただ1隻にまでに落ち込んだのである。1971年の秋までに、完全に全時間クルーズのみの提供になっていた。旅客産業全体が、変化によってガタついて いた。

 竣工時、第40埠頭はHolland AmericaのフラグシップRotterdamの20フィートの特製模型の栄誉を受けた。1974年に移転し、その居場所は長年謎であった。1991年に退職した Holland Americaの元事務職員が、私に模型をオランダに返還する計画があったことを話してくれたが、ニューヨークの変わりやすい天候のために酷く壊れていたということだっ た。悲しいことに、ウェスト通りの歩道に捨てられていたのが判明したのである。多分、第40埠頭が何がしかの特別の使用のために再開され るときに、誰かが過ぎ去った偉大な遠洋定期船旅行の話をすることになるのだろう。私はと言えば、今でも古いNieuw Amsterdamの轟くような汽笛が聞こえてくるような気がするのである。

(この章に登場する船)
Europa (1953)
Hanseatic (1964)
Hamburg (1969)
Volkerfreundschaft
Fritz Heckert
Regina Maris

6、クルーズの現代

 2000年7月の暖かい夏の夕方、私達はハンブルグの西のドイツの港湾、クックスハーフェンから伝説的な北大西洋を横断する郷愁的な クルーズに出発した。Albert Ballin、Reliance、Italia、Hanseaticといった有名な船が過ぎ去りし日々において使用していたターミナルである古いSteubenhoftか ら出航したのである。何千もの乗客が、出航前に玄関や廊下を通過したところである。額縁に入ったセピア色の写真が、多くの船がそこに停泊 していたことを証明している。私達は、贅沢な505人乗りのDeutschlandに乗船した。ドイツのPeter Deilmann Cruisesの所有する船であり、恐らく最も立派に装飾されたクルーズ船の1隻であろう。

 本船が出航した時、何千人もの人々が手を振り、歓声を上げていた。「ドイツ人は特にDeutschland(=ドイツ)には誇りを 持っているのです。というのは、単に本船が大変に美しいからではなく、ドイツで建造され、ドイツ人が所有し、ドイツ人が乗り組んでいる船 だからなんです。今日運航している、大変に数少ない、全く民族的なクルーズ船の1隻なのです。」とデュッセルドルフから来た乗客の1人は 言った。更に雑誌や新聞は、本船の非常に優れた内装に対する称賛で一杯であった。「今日運航している最も美しいヨーロッパのクルーズ船で す。」と乗船4回目の乗客は言った。

 この大西洋横断は満員であり、殆どがドイツ人であった。その多くは、過ぎ去りし日々の大洋横断のようなものを感じたがっていた(ある 講義は、親切にも最下級船室でエリス島に渡ったドイツ移民に関する一連の講演の嵐であり、吹き替えの「Routes of the Roots」が上映された。)。しかしこの旅行はクルーズ色の強いもので、特にマンハッタン島の岸に到達するまでに6港しか寄港しないことがそうだった。イングランドのプ リマスに寄港し(緑の多いデボン州と魅力的なコーンワルへの旅)、アイルランドのウォーターフォード、そして約4日間かけて横断し、 ニューファンドランド島のセント・ジョンズ、その後プリンス・エドワード島のシャーロットタウン、そして最後にノバ・スコシア州のシド ニーとハリファックスであった。

 全長574フィートのDeutschlandは、大変に壮大なホテルの専門の建築家によって装飾されたものであり、あらゆる点におい て壮大なものであった。所有者のPeter Deilmannは、この計画に個人的に深い関心を寄せ、貪欲な美術品収集家として、7層からなる船全体に気前良く絵画や彫刻を配したのである。ブレーメンから来た乗客の 1人は、「本船は過ぎ去った時代の追憶そのもので、恐らく1920年代が中心でしょうね。」と言った。「エドワード朝とアール・ヌーボー を取り合わせたものです。手の込んだ天井、大理石の柱、真鍮の手摺、豊富な木材、そして飾り立てたガラスの丸屋根です。」本船は本当に世 界のクルーズ船隊の誇りある会員の1人である。

 2001年初頭に本書の準備をしているが、国際的なクルーズ産業は、無限の成長に直面しているように思われる。合衆国において、ク ルーズは年間60億ドルの事業に成長している。以前にも増して多くの人々が船で旅行をするようになり、平均して月に2隻の新船が就航して いる(注、2001年9月11日以前の状況)。例えアメリカ人観光客の90パーセントがクルーズを未だにしたことがなかったとしても、あ らゆる観光のあり方の中で最も価値のあるものと広く考えられており、この言葉(=クルーズ)は広まっている。殆どの場合、初めてクルーズ をすると、もう一度クルーズをしたくなるものである。ある老練なクルーズ客は私に、「大変楽しい中毒です。」と語った。

 Holland America Lineは、今では力強いCarnival Groupの一部になっているが、米国クルーズ市場における主要な競技者の一つである。11隻の旅客船を保有して、128年の歴史の中で最大の船団を保有している。数隻の 85,000トンの船が現在建造中であり、オランダ最大の船となる。オランダ領西インド諸島やバハマといったHolland America Lineの便宜置籍船は、何年かすればオランダ船籍に戻るのだろう。

 ヨーロッパのクルーズ旅行も急速に発展しており、特にドイツは考慮に値する成長をしている。Aida Cruisesは、現在はロンドンに本拠を置くP&Oの一部となっているが(注、2003年にP&Oも含めてCarnivalの一部となった)、数隻の新 船を発注しており、例えば70,000トンの旧Crown Prinecssをその船隊に加えている。Hapag-Lloydは4隻しかクルーズ船を運航していないが、Peter Deilmannはフランスやイタリアといった様々なヨーロッパの運河での川船市場に進出している。ドイツ市場はまた、Maksim Gorkiy、旧Hamburg、Albatros、かってはCunardの定期船であったSylvaniaといった、かなり多くの傭船クルーズ船市場をも支えている。ド イツは世界の4つの指導的なクルーズ船建造者の1員でもあり、具体的にはパペンブルグの並外れたMeyer Werftの工場がそれである。ドイツの船は、高品質であることで特に有名である。

 かくしてHolland America LineやHapag Lloyd(Hamburg AmericaとNorth German Lloyd)といった会社の、オランダとドイツの旅客海運の歴史は続いているのである。

(この章に登場する船)
Veendam
Volendam (1958)
Prinsendam (1973)
Europa (1981)
Noordam (1984)
Wind Spirit
Westerdam (1986)
Maasdam (1993)
Berlin (1980)
Astor (1981)
Astor (1987)
Aida
Bremen (1990)
Hanseatic (1991)
Deutschland (1998)
Europa (1999)
Rembrant
Rotterdam (1997)