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ウイリアム H.ミラー, Jr.「図説米国旅客船史」

1、アメリカの最初の超定期船:Leviathan

 「本船は我が国の偉大なる国宝でした。」Leviathanについての5巻に及ぶ歴史的な双書の著者であるFrank O. Braynardはこう語るが、本船は1914年にVaterlandとしてドイツのハンブルグで進水したものであった。1914年8月3日に皇帝がフランスに宣戦を布告 するまでの僅か数週間、大西洋横断定期運航に就いていた。ドイツの海軍司令官の大きな計算違いから、戦争が始まった時、 Vaterlandは合衆国ニュー・ジャージー州のホボケンに停泊していた。大西洋を横断してドイツに帰ることができなくなり、合衆国が 1917年4月6日参戦して本船が接収されるまでのほぼ3年間、そこに居座ることとなった。

 この偉大な船は、最終的にはアメリカ人に多大なる価値をもたらすこととなった。「大きさ、速力、そして豪華さですね。」と Braynardは話した。「誰もが第一次世界大戦以来、本船を知ることとなりました。兵員輸送船USS Leviathanとして、英雄的記録を打ち立てたのです。本船は非常に多くの兵士、有名な「doughboys(=歩兵)」をヨーロッパに送り込んだのです。そして ニューヨーク港が歓迎のお祭りをする中、帰還しました。その若い船員の中に、Humphrey Bogartという名の下士官がいました。戦後、Leviathanは飛び抜けた人気者となりました。当時のMauretania、Aquitania、 Berengaria、Majestic、そしてOlympicといった大型定期船と本当に肩を並べることのできるアメリカ最初の超定期 船(スーパーライナー)として完璧だったのです。1920年代、本船の名前は、新聞、雑誌、ポスター等、至るところで見掛けたものです。 巨大な5万トン以上の船で、脇にいる曳船が小さく見えたものです。しかし構造的には脆弱で、2回、ひび割れ事故を起こしています。」

 戦後、合衆国政府はLeviathanを戦勝品として獲得することを強く望み、運航者はUnited States Linesとなった。戦後の観光新時代の到来により、この壮大な船の繁栄が期待された。「1920年代は、多くのアメリカ人がヨーロッパを観光地として知った時代なので す。」と作家で歴史家のJack Weatherfordは語った。「ヨーロッパは第一次世界大戦の兵士の話ばかりではなく、F. Scott FitzgeraldやErnest Hemingway等の作品によって人気となった安価でロマンチックなところだったのです。良い思いのできるところで、それはニューヨークの埠頭から始まっていたと言われ ています。」禁酒法から逃れ、合衆国の多くの地に見られた島国根性から逃れたいと思っていた者にとって、ヨーロッパへの航海は、正にその 実現だったのである。

 大西洋横断旅行が増加していたにも拘らず、Leviathanへの大きな期待は完全に実現されることはなかったのだった。1920年 代半ばの全盛期であってさえも、何百万ドルもの赤字だった。大西洋横断航海において旅客収容力の約50パーセントしか乗客を惹きつけな かったのである。米国国旗の下で航海することが、不利であることが明らかとなった。禁酒法は米国船にも拡張され、また料理やサービスにお いて米国船は劣っているとの評判が立ったものだった。これに対し、French LineやCunard Line、その他外国の会社は、ヨーロッパ風の雰囲気を売り物にしていた。別の問題というのは、Leviathanに往復運航を満たす適当な僚船を持たなかったことであっ た。精々、小型のGeorge WashingtonやAmericaが良いところであった。要するにLeviathanは、運航と維持に金がかかったのである。ヨーロッパの定期船よりも、アメリカ船の 費用の方が殆どいつも高かったのである。

 大恐慌により物事は更に悪くなった。1930年代初期には、本船は運航しているよりは遊んでいることの方が多く、直ぐにホボケンのセ コンド・ストリート埠頭に永久的に停泊(=係船)することとなった。一方、フランスのNormandieやCunarderのQueen Maryのような超定期船の新世代が、Leviathanを徐々に追い抜いて行った。Leviathanは錆びつき、ラウンジや船室は 寒々として、かび臭くなっていった。遂に1938年1月のある寒い日のこと、スコットランドの解体業者の下に出発したのだった。

 問題を抱えていたものの偉大な船であり、当時最も有名な洋上宮殿であり、多くの人々に強烈な印象を残した。「Leviathanのお かげで、私は遠洋定期船に纏わる品々を保存し始めたのです。」とFrank Braynardは言った。こうして世界最大の海事収集家の1人となったのである。「1923年、私は7歳でした。その年、私はLeviathanをスケッチしました。船 名は正確に綴っていましたが、私の苗字の綴りは間違っていたんです。」

(この章に登場する船)
Leviathan

2、獲得物、差押品、その他の戦勝品

 第一次世界大戦前、米国商船は海の底に沈んでいた。アメリカは大型の遠洋定期船を持っていなかったのであり、実際、どの大きさにおい ても注目すべき旅客船はなく、計画もなかったのだった。英国とドイツの会社は、ニューヨーク港を出入りする約75パーセントの乗客を輸送 していたのであり、大西洋運航において米国権益は殆ど人気がなかったのである。合衆国が第一次世界大戦に参戦して連合国側についたこと で、全ては変わった。ヨーロッパに人や物資を送るためには、軍は船舶を必要としたのである。ワシントンの最高司令部は、直ちに確固たる造 船計画を実行に移すよう命じた。新しい造船所で何百万トンもの船が進水し、政府の建造計画は、1918年暮れに休戦の署名がなされた後も 継続されたのである。

 幸運なことに、Hamburg America LineとNorth German Lloydが使用していた船がホボケンの埠頭で1914年に放棄され、直ぐに需要を満たすことができた。これらの合衆国によって接収された船は、1914年に存在していた 全米国商船隊よりも、トン数、価値において勝るものであった。最も偉大な戦勝品は、もちろんVaterlandであり、急いで Leviathanに改造された。別の船はKronprinz Wilhelmであり、合衆国海軍の兵員輸送船Von Steubenとなった。両船とも当時、最大、最速、そして最も豪華は遠洋定期船の1隻であった。驚くべきことに、こうした5隻の船のうち3隻が、アメリカの手中に転がり 込んで来たのである。この等級では他に2隻が接収されていた。Kaiser Wilhehn IIとKronprinzessin Cecileであり、これも兵員輸送船に改造されて、それぞれUSS MonticelloとUSS Mount Vernonになった。この2隻の怪物を戦後、旅客運航に復帰させる計画はあったが、実行はされなかった。両船とも20年以上係船されてから、1940年に船舶解体業者の 下に送られたのである。別の戦争が始まっていたが、連合軍が使用するには古すぎて使い物にならなかったのだった。

 合衆国によって接収され、アメリカ軍に使用されるために改造された他のドイツの船舶には、Amerika (Americaと再命名)、President Grant、George Washingtonがあった。ドイツを離れる移民の目を引くために、こうした名前を与えられて船は就航し、移民の多くはアメリカの感じがする名前の船に乗って行くと、エ リス島での入国が上手く行くと信じていた。商用旅客運航向けにPresident GrantはRepublicに再命名されたが、他の2隻はそのままの名前であった。3隻ともすべて第二次世界大戦で使用すべく呼び戻され、AmericaはEdmund B. Alexanderとなった。このグループの他の船は、米国以外の港湾で抑留され、あるいは戦争賠償としてアメリカの手中に入ったのだった。

(この章に登場する船)
Mount Vernon
George Washington
America (1905)
Pepublic
Reliance
U.S. Grant
City of Honolulu
Kroonland
Columbia

3、標準船

 「これらの船は、とりわけ535と502は米国商船の活力の源であり、第一次世界大戦後に米国商船は復活したのです。」とFrank Braynardは断言した。「戦時の兵員輸送船となることとされていましたが、初めから商用運航に就いたものです。戦争のための道具 が、平和のための道具となった注目すべき例ですね。」

 17隻の535と、7隻の502があった。全ての名前はその全長を表していた。すべて全く普通の船であり、戦時に急いで建造された余 計な飾りのない船である。美しい服に身をまとい、大型豪華定期船のような高級なものではなかったが、質実剛健なもので、米国海運の頼みの 綱となったのである。制限的な旅客用の設備と広い船倉という実用的な組合せで、運航されていた。最も記憶されているのが、 President HardingとPresident Rooseveltであり、両船は評判の高いUnited States Linesの下で、北大西洋に就航していた。大きな貨物収容力を有していたにも拘らず、これらの船は貨物船としてよりは旅客船として運航されるようになっていた。こうした 船を使用した他の会社には、Dollar Line (後のAmerican President Lines)、American Mail Line、Munson Lineがある。こうした標準船の多くは、長く使われ、利益をもたらした。535の最後の船はPresident Wilsonであり、1958年にスペインの船、Cabo do Hornosとして運航を終了した。

 小型の船は、例えばAmerican Merchant Line、Baltimore Mail Steamship Company、American Scantic Lineのような会社によって運航されていた。通常はワン・クラス(=同一等級)で旅客も輸送したが、しばしばむしろ貨物船のように見えたものだった。 Washington、Paris、Rexのような船の隣に接岸すると、まるで小さな玩具のようであった。大きさはどうであれ、世界中で 下士官の役割を果たした。例えば、American Bankerは1919年に12人の普通客を輸送するために建造されたものであった。American Merchant Lineによって運航され、後に74人乗りに改造された。第二次世界大戦後、Arosa LineによってArosa Kulmとなり、900人以上の旅客を輸送できるものとなった。1959年に遂にスクラップとなったが、平時に商用運航者によって上手に使用された、戦時生まれの定期船の 最後のものであった。

(この章に登場する船)
President Roosevelt (1922)
President Madison
American Legion
Zeilin
Marigold
Cabo de Hornos
American Farmer
City of Hamburg
Scanyork

4、20年代後半:新しい大型定期船

 他の多くの事業のように、海運業は1920年代ににわか景気を経験した。多くのアメリカ人が旅行に興味を持つにつれ、そして輸出入が 増加するにつれて、米国海運の収容力は最大限にまで膨らんだ。需要の増加に応えるべく、米国海運業界は収容力を増やすことを決定した。 1920年代の終わりまでに北米で建造された最大の4隻の船が進水した。1905年から1905年(注、いずれかの年号が誤りと思われ る)に建造された20,100トンのMinnesotaとDakotaと同一等級のもので、豪華で快適な船旅の新しい水準を規定した。

 これらの大型の新船の第1船はMaloloであり、Matson Lineのサンフランシスコとホノルル間を、1927年の暮れに、乗客は700人以下で、全て1等の大西洋定期船風の旅客設備を備えたものだった。「Maloloは民間の 資金で建造された最後の主要船舶でした。」とFrank Braynardは語った。「本船はWilliam Francis Gibbs(喝采をもって迎えられたSanta Rosa級やAmerica、最後にはUnited Statesを造り続けた有名な造船技師)によって設計された最初の旅客船でもありました。GibbsはMaloloの設計で安全性を向上させ、防水隔壁構造を取り入れま した。西大西洋での試験航海で貨物船と衝突し、50年前のTitanicが海の底に葬り去られたのと同じ衝撃を受けましたが、 Mololoは生き残って、5,000トン以上の海水で水浸しになりながら、ニューヨーク港に辿りついたのです。」

 Maloloは通常カリフォルニアからハワイまで5日間で横断し、乗客らはその航海を楽しんだものだった。本船は「Boat Day(=入港日)」の伝説を作り出した。すなわち旅行者は舷外浮材の付いたカヌーの護衛付きでホノルル港に迎えられ、その後、色鮮やかな花のレイを贈られ、「Aloha Oe」の合唱が切れ目なく続いたのだった。多くの旅行者がMaloloで島に渡ることを選び、島では大いに楽しみ、そして船で戻った。観 光はブームとなり、Matsonは物語で名高いMoana Hotelを買収して資本を増強し、ワイキキ海岸に400室のRoyal Hawaiian Hotelを建設したのである。

 ニューヨークに本拠を置いていたPanama Pacific Lineは、1920年代に3隻の大型定期船を建造した。姉妹船のCalifornia、Virginia、Pennsylvaniaは、すべて20,300トンであり、 世界初のターボエレクトリック機関の動力を備えていた。1本煙突の船として設計されたが、よりどっしりとして見えるよう、完成前に模造煙 突が1本付け加えられた。Panama Pacificは、1923年にパナマ運河を通過してニューヨークからロサンゼルス、サンフランシスコに行く運航を再開した。まず、ManchuriaやMongolia のような、1903年から1904年に建造された老兵の汽船が使用された。しかし直ぐにこの市場が現代的な船を喜んで受け容れることが明 らかとなった。3隻の姉妹船は、それぞれ2週間の航海で2等級で750人余の旅客を輸送した。また東海岸市場向けのカリフォルニアの果物 等の、多くの貨物も扱った。旅行会社の中には、片道は海路で、片道は陸上の鉄道で行くものとする選択権を提供したところもあった。

 残念なことに東海岸と西海岸を結ぶ運航は、長くは続かなかった。1930年代の大恐慌で旅客と貨物の双方の収益が減り、パナマ運河の 通行料金の上昇と、賃上げ要求のストライキにより運航費用は増加した。この運航は、連邦政府の運航助成金が打ち切られた1938年の春ま でもがいていた。3隻の大型船はその後係船され、米国海事委員会に移管された。大きな1本煙突に改装されて、American Republics Lineに割り当てられたが、直接の経営はMoore-McCormack Lineが行っていた。ニューヨークから南米の東海岸への運航に就き、Franklin D. Roosevelt大統領の善隣友好政策に従って、Uruguay(ex- California)、 Brazil(ex-Virginia)、Argentina(ex-Pennsylvania)に再命名された。その38日間の往復旅行では、遠くはブエノスアイレスに まで足を伸ばしたものであった。Jack Weatherfordによると、「こうした船は米国とラテン・アメリカ、特にブラジルとアルゼンチンとの関係を強固にしました。これらの船が定期に姿を現すことで、彼の 地におけるアメリカの存在感を示すことができたのです。」

(この章に登場する船)
Malolo
Santa Maria
Pennsylvania
California
Uruguay

5、戦前の小型船

 米国海事史においてしばしば忘れられている分野に、1920年代から30年代にかけての「小型定期船」の全盛期がある。その多くの船 は有名な大西洋横断定期船と同等の様式、旅客設備、サービスを提供していた。例えばIroquoisやShawneeは2本煙突の船であ り、大型船のような外観であった。

 「重要な船であり、それ自体素晴らしい船隊でした。」とFrank Braynardは記憶していた。「また第二次世界大戦中において、特に価値のあるものでしたね。あらゆる点において小型の定期船でしたが、優雅で快適で、楽しい航海を提 供していました。とりわけ不況の時代には、短期間のしばしば安価な航海は、自宅でくよくよしている時間から脱出するための理想的な「逃避 行」だったのです。しかし戦後、運航に復帰したものは殆どありませんでした。他の問題から、これらの船は過小評価されたのです。1946 年から47年までに、1939年当時よりは価値のないものとなっていました。しかし幸いなことに、外国の船会社の下で就航する船があり、 例えばIroquoisは1948年にトルコのAnkaraになったんです。」

 戦前、これらの船は、ニューヨークからポートランド(メーン州)、ノーフォーク、マイアミ、サン・ファン、ニュー・オーリンズに様々 な定期運航をしていた。1920年代、30年代の東海岸における小型定期船の大手船主は、AGWI Lines(Atlantic & Gulf & West Indies Steamship Company)(=大西洋・湾岸・西インド諸島汽船会社)であり、最終的にはWard、Porto Rico、Clyde Mallory等といった船会社を呑み込んだのだった。Clyde Malloryは1886年に設立したClyde Lineと、1876年から始まったMallory Steamship Companyとが1928年に合併した結果、生まれた会社である。その主要な船はIroquoisとAlgonquinであった。AGWIは第二次世界大戦後に運航を再 開したが、米国海運業界の経済の変化について行くことができず、1953年7月に破産した。東海岸の別の会社で同じような運命に襲われた のが、Merchants & Miners Transportation Company(=商鉱輸送会社)である。ボルチモアとボストン(当時、米国においてそれぞれ第2、第3の都会であった)間の運航は、1852年に遡るものである。もう一 つの東海岸の会社がEastern Steamship Linesであり、32頁にフラグシップの一つであったAcadiaについて詳述しておいた。第二次世界大戦が終わって数年して、ニュー・イングランドでの運航を停止し た。

 太平洋沿岸には、東海岸ほど大きなものや様々なものはなかった。そうではあったが、ロサンゼルス、サンフランシスコ、シアトル、そし て北のアラスカのような港湾間を、多くの汽船が走っていた(Alaskan Steamship Companyについては40頁参照)。西海岸のよく知られた会社はAdmiral Lineであり、1916年に設立された。他の多くの会社のように1929年の大恐慌後に財政問題にぶつかり、1933年にDollar Lineに吸収合併された。不幸にもDollarは直ぐに財政問題に直面し、1938年にAmerican President Linesとして再編された。

 多くの小型船が、第二次世界大戦中は国内で活躍した。しかし戦後、乗用車・トラックのための高速自動車道路の建設ブームが起こり、航 空会社の急速な成長と共に外国船籍の船との競争が激化して、これらの船と運航は直ぐに打ちのめされたのである。前述のAnkaraは、ト ルコのアリアガの海岸に移ったが、遠洋の小型アメリカ船の宝物の最後の生き残りとなった。

(この章に登場する船)
Iroquois
Algonquin
Acadia
Evangeline
Colombia
Arosa Star
Dixie
Berkshire
Florida
H.F. Alexander
Aleutian
Mazatlan

6、発展:船隊を築く

 1929年の大恐慌後、旅客船旅行は衰退し始めた。船主たちは収益を上げようと自暴自棄になって、しばしば安価な短距離クルーズに船 を送ったりもした。例えば、United States Linesの新船、Manhattanで行くニューヨークからハリファックス往復の1週間クルーズが、1930年代半ばにおいて49ドルであった。「その頃船に乗っていた 人は、大抵は学校の教師か、サラリーマンでしたね。」とニューヨークの遠洋定期船の観察者であるJohn Gillespieは回想した。「例え短期のものであったとしても、休暇に出かけられるくらいの安定した賃金を少なくとも得ていた人達です。ノバ・スコシアやバミューダへ の短いクルーズが理想的なものでした。そして実際、他の方法ではクルーズをしなかった人達に、旅客船の旅、すなわちクルーズが広まったの です。クルーズが一般大衆や中産階級に広まったのは、1930年代なんです。」

 非常に多くの豪華定期船が20年代のブームにおいて設計され発注されたが、ブームの萎んだ30年代に多くの船主の下に引き渡されたの である。そうしたものの中には、Canadian Pacific向けのEmpress of Britain(1931年)、Italian Line向けのRexとConte de Savoia(1932年)、French Line向けのNormandie(1935年)、Cunard Line向けのQueen Mary(1936年)があった。これらの船の多くが政府の金で建造されており、運航助成金を期待していたものであった。米国海事権力は、そのやり方が更に保守的であっ た。Leviathanが極端なまでに不成功であったことを未だに覚えていて、それを別の厄介者と取替える理由はないと考えているようで あった。アメリカ人は、1932年から1933年に、ManhattanとWashingtonという2隻の24,300トンの船を選択 した。

 「ManhattanとWashingtonという2隻の良い船は、適切なもので、実際、1930年代の大西洋横断旅行に革命を引き 起したのです。」とFrank Braynardは論評した。「キャビン・クラス(ある船では2等と呼ばれてもいた)を導入し、それは1等と殆ど変わらないものでした。これは大変な人気で、1等の船で キャビン・クラスの料金なのでした!大恐慌の時代に多くの乗客を呼び込む努力のひとつだったのです。1等料金は高過ぎるようでしたが、 キャビン・クラスの料金は手が届くように見えるものでした。これは最初、United States Linesにとって、全くぞっとさせるものでしたが、French Lineのような他の会社がこれに追随しました。「cabin liners(=個室定期船)」のLafayetteとChamplainを投入したのです。すべてはUnited States Linesの旅客輸送部門の副社長P.V.G. Mitchellの素晴らしい考えでしたが、ManhattanとWashingtonは、全ての点において豪華で、他のこれまで建造された全ての米国船を超越するもので した。」

 ニューヨークに本店を置くAmerican Export Linesは、1931年、地中海の港湾を結ぶ大西洋横断旅客運航を開始するという大胆な動きを見せた。見栄えの良い4隻の船、Excalibur、Excambion、 Exeter、Exochordaを建造し、これらは「Four Aces(=4隻のエース)」として知られたのである。風呂やその他の設備の付いた船室で、それぞれ125人の客を輸送した。

 別のニューヨークの船主であるGrace Lineは、1932年に船隊に4隻の船を加えた。Santa Rosaと姉妹船のSanta Paula、Santa Lucia、そしてSanta Elenaであった。これらの船は東海岸と西海岸を結んだが、カリブ海とパナマ運河を通過することを宣伝したのである。優れた旅客設備を有し、屋外のプールが目立ってい た。大変に珍しいものとして、上甲板の主食堂の屋根が巻き上がるようになっていた。暖かい海域に入れば、乗客は熱帯の星の下で食事が出来 たのである。

 United Fruit Companyも連邦政府の資金を利用してこれまでに建造された最高の貨客船である6隻のTalamanca級を建造した。大型の白く輝くヨット(=行楽用の船)のような 頑丈な船で、全てが1等船客で100人以上を収容した。熱帯を航海することに興味を示した別の会社がWard Lineであり、1930年に11,500トンのMorro Castle、Orienteといった最高の定期船の引渡を受けたのだった。Wardはニューヨークとキューバのハバナの間で人気のある週1回の運航をしていた。不幸なこ とに、アメリカ建造の最後の船と思われた高い安全性を誇った船は、大いに報道された悲劇に巻き込まれたのだった。ニュー・ジャージー州沿 岸を航行中に出火してこの偉大な船が全壊したとき、123人が死亡したのだった。

 競争は新船建造のもう一つの理由となった。太平洋において、日本のNYK(日本郵船会社)Lineが1929年から1930年に、そ この最高の3隻の定期船を船隊に加えたのである。浅間丸、龍田丸、秩父丸である。この挑戦に直面したサンフランシスコのDollar Lineは、アメリカ最大の印象的な定期船を発注した。これはDollarの詳しい注文に応じて設計し建造した最初の船であった。以前は、中古船を購入するか、政府の輸送 船として設計された新船を受け容れていた。新しい豪華な定期船は、President HooverとPresident Coolidgeであり、1931年の8月と11月にそれぞれ就航した。

 もう一つのサンフランシスコの会社、Matsonも急行船の拡張に飛び込んだ。Maloloの成功に味をしめ、フラグシップよりも大 型の3隻の定期船を建造すべく連邦政府建造助成金を利用した。最初の2隻のMoriposaとMontoreyは、カリフォルニアから オーストラリアに行くMatsonの南太平洋航路向けに発注されたものであった。第3船はLurlineと命名されたもので、人気が出て 来ていたハワイへのクルーズでMaloloと一緒になった。これらは例外的に優れた船で、アメリカの定期船の中で最も壮麗なものと言われ たが、それを証明した。Montereyは1999年においても現役であり、1932年に進水してから67年も経過している。 MontereyのようにGrace LineのSanta Rosa (1932年)も長命で、1989年までスクラップのゴミの山にはならなかった。しかし他の多くは、第二次世界大戦を生き残ることができなかったか、戦後時代の旅客輸送の 衰退によりスクラップとなったのだった。

(この章に登場する船)
Manhattan
Excalibur
Tarsus
Santa Paula (1932)
Santa Rosa (1932)
Veragua
Morro Castle
Oriente
President Coolidge
Mariposa
Monterey (1932)
Lurline
Matsonia

7、新しい国家的フラグシップ:America

 33,500トン、全長700フィート以上の偉大な船であるAmericaは、世界最大の造船計画の出発点であった。1936年の The Merchant Marine Act(=商船法)が、アメリカ船隊を強化するという合衆国政府の決定により制定された。ヨーロッパでの戦争の可能性が高まり、Franklin D. Roosevelt大統領は、合衆国は海上防衛の準備をしなければならないと議会を説得した。こうして1937年のAmericaの進水から約15年後のUnited Statesの完成までの間に、合わせて6,000余隻の商船が米国で建造されたのである。

 1938年に始まった建造計画の大半は、すべて米国海事委員会の監督下にあった。当時、米国には大型の遠洋船を建造できる造船所が約 12ヶ所あった。1943年までに4つの沿岸(=西海岸、東海岸、メキシコ湾岸、五大湖沿岸)のすべてで、80以上の造船工場があった。 大計画が終了するまでに、西海岸で委員会の船の45パーセントが建造され、東海岸では34パーセント、湾岸では19パーセント、五大湖で は2パーセントが建造された。戦争への動きが加速されるにつれて、すべては必要なものとなって行ったのである。委員会は年間55隻を建造 する目標で始めた。この数字は毎年倍増し、1942年までに800隻にまで上昇した。約1,000隻が就航した1943年には成長率が低 下した。1942年と43年だけで、1,800万トン余の商船が建造されたのである。この数字には、曳船さえも含むあらゆるタイプの船舶 が含まれているが、約2,800隻のLiberty(=自由の)船、約500隻のVictory(=勝利の)船、約500隻の油槽船が あった。そしてAmericaは、船体番号が1番であった。本船はこの国の最大、最速、最高の定期船であった。USS West Pointと再命名され、世界中で兵員輸送船として活躍したのである。

 「1940年代に入って狂ったように建造したのです。」とJack Weatherfordは言った。「アメリカはあらゆる物資の生産にとりつかれたのです。武器、船舶、航空機、そして軍服です。その論理は、過剰に生産すれば敵を敗北させ ることになるというものでした。多くの人々は、こうして我々が戦争に勝ったと考えているのです。つまり、工場、造船所からの軍事物資を継 続的に供給したということですね。」

 Americaは、1946年に商用旅客運航に復帰すべく修復した。全ての時代の最大の商船隊のフラグシップとして、直ぐにやって来 た戦後時代において最高に人気のあった船の一つとなった。大西洋横断旅行は再開されたが、10年もしないうちに航空機が観光市場を支配す るようになって行った。Americaは中型船であり、そうした船にはHolland AmericaのNieuw Amsterdam、CunardのMauretania、French LineのIle de Franceがあった。しかしもちろん、AmericaはUnited Statesの前触れであった。当時最新の旅客定期船がどういうものであるかを知るための、試験航海のようなものであった。大きな新船United Statesは大変な成功を収め、僚船が小さくて、のろまに見えたものだった。しかしAmericaは消えることはなかった。実際、些か 長い航海を好んだ人や、その内装や居心地の良い雰囲気を知る旅行者には好まれたのであり、大型船よりも寛げたのであった。

 1960年代初期に、Americaは大型米国旅客船の引退第1号となった。本船の係船は、壮大なすべての戦後の大西洋横断定期船の 終焉の幕開けであった。あの力強いUnited Statesでさえ、例外ではなかった。Americaは直ぐにギリシャの船主の下で新しい人生を送ることとなり、オーストラリアのようなところの世界周遊運航に就いた。 数十年間に何回か改名し、1994年にカナリア諸島で遭難した。本書に掲載されているように、本船の残骸は未だに岩肌の海岸に放置されて いるのである。

(この章に登場する船)
America

8、コンボ・シップ:旅客と貨物

 Frank Braynardによると「『コンボ(=結合)』シップ(=貨客船)はアメリカ人によって完全なものとなったものです」という。「高水準に目新しいものを加えたのです。 American Export Linesの『Four Aces(=4隻のエース)』がその好例です。『Four Aces』と呼んだことだけで、市場で大成功しました。この名前はAmerican Exportの広報担当者、Al Grahamがでっち上げたものです。戦後の最高水準の、すべてが1等の船室の船でした。そして最初の全船冷房完備の旅客船であったことで、珍しいものだったんです。実 際、『Aces(=最高、ぴか一)』は米国が建造した貨客船の中で最も成功した船だと思っています。」

 現代の結合船の概念は、第二次世界大戦中に生まれたものではなかった。両大戦の間に最初に花開いたものだった。最初の「Four Aces」は1931年に就航し、Holland America Lineの1938年のNoordamやZaandamがそうした船で、豪華なワン・クラス(=同一等級)の旅客設備で150人の乗客を輸送し、加えて、熟慮した貨物を輸 送していた。この考えは、米国の船主の想像力を益々とらえて行った。例えば、1939年、Panama Lineは3隻の素晴らしい船を建造した。Panama、Ancon、Cristobalであり、それぞれ貨物と共に200人以上の乗客を輸送することができるものであっ た。内装はもちろん、外装もアール・デコ(注、1920年代から30年代に流行した直線を基調とする装飾芸術様式)に秀でていて、呆然と させるようなものであった。「どこをとっても素晴らしい船でした。」とBraynardは注目する。「スクラップになって10年経って も、小奇麗で現代的に感じたものです。スコットランド生まれの造船技師George Sharpの作品で、1905年に定期船のDakotaやMinnesotaを建造したときには、若い助手として関わった方です。」

 他の海運会社は直ぐに「コンボ」の概念を取り込んだ。戦前、Delta、Farrell、American、Graceはこのタイプ の船の引渡を受けたのだった。その他のAmerican MerchantやMoore McCormackのようなところは、戦争関連の建造が始まって、ぎこちなく脇に除けたのだった。必然的に、時が経つと結合船は人気がなくなった。1960年代までに、旅 客と貨物を混合したものは、段々と儲からなくなって行ったのである。一つの問題は、旅客と貨物の両方を考慮して予定を立てなければならな いことだった。時折、乗客は貨物の遅れに待たされ、時には乗客向けの出発時刻に合わせるために、遅れて届いた荷物を置いて行ったのであ る。Grace LineのSanta Isabelやその姉妹船のような船は42日間の周期で運航し、President MonroeやPresident Polkのような船は、95日間の旅程で世界を航海していた。1970年までにこうした全ての船はなくなり、より高速でより効率の良い新世代と代替されたが、はっきり言っ て優雅さのないコンテナ貨物船になったのである。このタイプの旅行の愛好家は、12人かそこらの旅客設備を持った旧式の貨物船を予約した のだった。

(この章に登場する船)
Ancon
Cristobal
Delbrasil
American Endeavor
President Polk
Del Mar
Santa Isabel
Excambion
Exochorda
Alcoa Cavalier

9、軍の徴用 第二次世界大戦中と戦後

 1939年、ヨーロッパで戦争が勃発し、殆ど全ての旅客運航は休止となった。しかし、アメリカの船舶はしばらく北大西洋の運航を継続 し、不安な旅行者や米国への亡命者を輸送していた。近海運航向けに設計された小型定期船でさえも徴用されて、マンハッタンとワシントン間 のようなところを大型の遠洋船に混じって、重要な航海をしたのである。しかし早晩、こうしたアメリカ船は軍に徴用されて灰色か戦時迷彩色 に塗装され、より多くの乗客を輸送できるように改造されて、快適さはかなり失われることとなった。例えば1,046人乗りの Americaは、8,175人収容の公式兵員輸送船になったのである。食堂が散らかった広間に改装されたことを除けば、船内の役に立ち そうなあらゆる空間が、寝台だらけの宿泊設備に改造されたのである。上級船員は相部屋となり、G.I.らはハンモックに群がったのだっ た。

 建造中の多くの船舶が軍用に設計変更された。確かにこれは商用運航時代には決して見られないことであった。計画の全体は、決して実現 しなかった。その中には、American MerchantやMoore McCormackといった船会社向けの新しい結合級(=貨客船)の建造計画があった。何百、何千もの軍隊と山のような物資を海外の戦地に送る必要に迫られて、合衆国政府 は多くの外国船と旧外国船を使用した。例えば1942年、ワシントン(=政府)はスウェーデンのKungsholmを急遽購入して兵員輸 送船とし、適宜USS John Ericssonと再命名した。別のものとしては、戦闘行為の勃発後に接収又は抑留した船がある。イタリアの定期船Conte BiancamanoとConte Grandeは、兵員輸送船のUSS HermitageとUSS Monticelloになった。また旧ドイツの定期船Windhukは、USS Lejeuneになった。ドイツが1945年5月に連合軍に寄付することとなった別の船は、3番目に大きな定期船のEuropaであり、ブレマーハーフェン市を占領した際 に接収したものである。別の超定期船であるFrench LineのNormandieは、合衆国の参戦後、間もなくしてニューヨークの埠頭で接収された。この偉大な期待の星は1942年に炎上した。偉大な船は火災により事実上 破壊され、兵員輸送船として修復するという話もあった。最も偉大な船は、英国の保有するQueen MaryとQueen Elizabethであり、何百何千もの軍隊を合衆国から戦闘地域に送り込んだのだった。

 戦時中はアメリカの産業生産力が増大し、特別の兵員輸送船が数組建造された。3隻のうち最大の船は、合衆国陸軍の将軍に因んで命名さ れたGeneral class(=陸軍大将級)の船とされた。P2-S2-R2の11隻はこの時期に建造されたものであり、僅かに小型の船はAdmiral class(=海軍大将級)のP2-SE2-R1と任命された。更に船尾に機関を有するC4-S-A1級が30隻建造され、同様に僅かに 修正された同一等級が15隻建造された。「これらの船はすべて戦闘行為において、そして戦いを速く終わらせるために大変に重要なものでし た。」とFrank O. Braynardは語った。「『General』と『Admirals』は大西洋か太平洋において素早く就航できるよう、別々の沿岸で特別に建造されたんです。これら2本 煙突の船は現実の定期船に大変よく似ており、我が国の戦後の定期船、例えばPresident ClevelandやIndependenceの基礎となったものです。実際、政府は戦争終結後に、とりわけ『General』級を改造して商用に使用したかったのです よ。実は運航経費がとてもかかったからで、特に燃料の消費量が莫大だったんです。民間企業で運航されたのは、僅かに3隻だけでしたね。」

 これらの兵員輸送船の多くは、第二次世界大戦後、しばらく軍務に留まっていた。多くの船が輸送任務を続行し、兵士やその家族ばかりで はなく、亡命者や難民も輸送したのである。1949年にMilitary Sea Transportation Service (MSTS)(=軍隊海上定期便)が、世界的規模になった海運航路網を管理すべく創設された。灰色に塗装されたままで、最も速く最も安く最大の人員を移動させるよう設計さ れた、概して質素な旅客設備ではあったが、これらの船は1970年代初期まで、下士官用の運航をしていたのである。その頃までに、好まれ た輸送手段は、Air Transport Command(=航空輸送司令部)によって管理される航空機になっていた。1973年春までに、兵員輸送船団はUSS Barrett1隻になっていた。本船は直ぐに他船と同様に退役した。これらの老朽兵員輸送船で現存している僅かなものは、大半が「mothball fleets(=退役船団)」に属しており、解体業者に送られることとなる日を待っているのである。

(この章に登場する船)
George Clymer
Pvt. Elden H. Johnson
David C. Shanks
Blanche F. Sigman
John Ericsson
Hermitage
Takasago Maru
General J. C. Breckinridge
General William Weigel
General Hugh J. Gaffey
General William O. Darby
General W. M. Black
President Adams/Geiger
Empire State

10、現代アメリカの豪華船

 多くの点において米国旅客船は第二次世界大戦後、とりわけ1950年代に頂点に達した。船の旅は未だに人気があり、周期的な不景気は あったものの、戦後の繁栄は続いた。そして航空機によるピストン運航は、遠い脅威のまま留まっていたのである。「1950年代のアメリカ は軍事的超大国であったばかりではなく、産業界の力も同様だったのです。」とJack Weatherfordは話した。「記録破りのUnited Statesのような船は、このあらゆる点で優越していたことの象徴でした。本船はアメリカの科学技術ばかりではなく、アメリカ経済、そしてアメリカの生活習慣の象徴だっ たのです。もちろん、そうした船の建造を承認した政治家達は、別の戦争を心配していました。冷戦が本当の戦争になりそうだったのです。遠 洋定期船は兵員輸送船になり得るものでした。しかしこの種の船舶の最後の熱狂だったわけですね。北大西洋とその他の運航は、直ぐに衰退し ました。航空輸送が将来のものとなっていたのです。Kennedy時代には、人間を月に着陸させるような新しい計画がありました。海や船 なんかには注目しなかったのです。」

 第二次世界大戦の終わり頃、Roosevelt政権は11隻もの新しい大型遠洋定期船の計画を立てていた。再び戦時において兵員輸送 船としても使用できることは、確かに重要な要素であった。しかし1946年までにTruman政権はこの計画を見直し、6隻だけ建造する こととしたのである。1隻は北大西洋向けの超定期船(United States)、2隻は中部大西洋から地中海向けの中型定期船(IndependenceとConstitution)、そして3隻の世界周遊用の結合貨客船 (American President LinesのPresident Jackson、President Adams、President Hayes)であった。

 更に、多くの新しいアメリカの結合貨客船は、姉妹船のPresident ClevelandやPresident Wilson(1947年―48年)のような新しい定期船であった。これにIndependenceとConstitution(いずれも1951年)が引き続き、そして 最も偉大で壮大なUnited States(1952年)が現れた。「こうした船のおかげでアメリカは戦後、遠洋定期船の「A級」になれたのです。トップクラスでした。」とFrank O. Braynardは話した。「United Statesは確実に圧倒的なものでした。本船は、昔のCollins Lineの1852年の外輪汽船のBaltic以来の100年間において、もっとも偉大な新造米国旅客船だったのです。当時、最速の船でもありました。両船はアメリカの力 と権力と勝利の偉大なる象徴でした。United Statesは競争相手の英国人からも、歓呼の声をもって迎えられたのです。」

 しかしその後の多過ぎる同盟罷業(ストライキ)、人件費と燃料費の高騰、そして遂に乗客が少なくなり過ぎて、1960年代・70年代 初期に、全ての米国船籍の旅客船は絶滅したのであった。非常に多くのマイル標石を通過し、非常に多くの変化があった。United Statesは、1969年に最後の航海を行い、北大西洋におけるアメリカの運航の世紀に幕を降ろした。姉妹船のMariposaとMontereyは、1977年から 78年にかけて太平洋航海を終了した。残ったのは、老朽船のIndependenceのハワイの島嶼を巡るクルーズ運航だけである(注、 本船も2001年に係船)。1980年代、そして90年代初期を通じて、殆どの観察者は、アメリカの遠洋旅客運航の黄金の時代は正に終了 すると信じていたものだった。しかしクルーズ産業が俄か景気となり、21世紀に至るまで加速し続けていた。フロリダ州のマイアミ、ポー ト・エバグレーズといった港湾を基点に、クルーズ客船会社は増加している乗客を賄うために新船の発注をし始めていた。新しい船隊はハワイ 航海向けのもので、米国でこれまで建造された定期船の中で最大の71,000トンの姉妹船であると宣伝されていた。2003年に外洋に出 る予定であった(注、この計画は2001年に中止)。

(この章に登場する船)
President Cleveland
Constitution
United States
Monterey (1952)
Mariposa (1953)
Atlantic
Santa Rosa (1958)
Santa Paula (1958)
Argentina
Savannah