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フランク O.ブレイナードとウイリアム H.ミラー, Jr.「図説キュナード・ライン史1840年―1990年」

1、初期のCunarders:1840年―1905年

 汽船において蒸気動力を使用することと、遠洋船でそれを使用することは全く別の事柄である。最も初期の実験において、Robert Fultonや初期の発明家達は、蒸気動力を港内や河川でのみ使用する意図であったことは明らかである。1819年に300トンの Savannahで、Moses Rogers船長がやってみるまで、誰も船で蒸気を使おうとはしなかった。Savannah Steam Ship Companyの設立条項(=定款)においては、その目的は世界の大洋を航海するに際して、蒸気力が実用に適しているかどうかを決定することと述べられていたのである。そ してSavannahが、ジョージア州のサバンナからリバプール、コペンハーゲン、ストックホルム、サンクト・ぺテルブルグに行く航海で 証明できなかったことは確かである。イングランドは直ぐに、回転煙突と折畳式の外輪を有する全長99フィートのSavannahの教訓を 汲み取ることとなった。そしてイギリス海峡の汽船は、直ぐにイングランドと大陸を結ぶこととなり、汽船が大西洋を征服することとなるのは 明らかであった。未だに解決されなければならない多くの問題があった。初期の汽船は汽缶(ボイラー)で海水を使用しなければならず、この ため機関を冷却してボイラーの中に入って内部にこびり着いた塩分を削り取るため、数時間で蒸気を停止しなければならなかったのである。初 期の汽船のボイラーそれ自体にも、深刻な問題があった。完全に密閉されたものを作ることができるようになるには、時間がかかったのであ る。爆発の危険が常にあったため、初期の蒸気圧は低いものとしなければならなかった。すなわち、1インチ四方数ポンド以上の圧力は危険で あったのである。初期の汽船の配置においては動力源を分離すべく、ボイラーを載せた船と、旅客を乗せた船は、別のものとされていた。ボイ ラーの爆発と火災は、よくあることであった。

 1838年にGreat Westernを使用して、大西洋横断旅客運航が定期的に行われ始めた。本船は、驚くべき橋梁の建造業者であり、設計者、開拓者であるIsambard Kingdom Brunelによって建造された。蒸気圧は僅かに1インチ四方5ポンド。しかし750馬力を自慢とし、11ノットの速力を出すことができた。この少し前にBrunelの新 しい傑作が航海することとなっていた。小型のイギリス海峡汽船であるSiriusが現れたのである。そして誰もが驚いたことに、舳先を ニューヨークに向けて大洋を横断した。これが競争であるBlue Ribbon(=青い長旗)の始まりであり、Siriusが勝利したのである。しかし本船は、この競技場に長く留まることはなかった。Great Westernがそれを始めたのであり、1838年から1844年までに大西洋を70回横断したのである。一方1840年7月4日、カナ ダ人の船主で気骨のある男であったSamuel Cunardは、リバプールからBritanniaに乗船して初めての旅をした。これがCunard Lineの始まりであった。

 Cunardは、1787年11月に生まれた。フィラデルフィアからやってきた父親を持つカナダ人で、年少時の大半をハリファックス で過ごし、直ぐに船や海運に夢中になったのである。父親が家業であった小さな海運会社から引退すると、社長として引継ぎ、直ぐに Samuel Cunard & Companyに商号を変更した。1838年までに40隻の船を擁するまでに事業を拡大させていたが、新しい海運の蒸気技術に大いなる可能性を見出していた。汽船の安全性 と信頼性が証明され、利益を生み出すものと感じていたのである。ノバ・スコシアで十分な支援を得られないまま、1838年1月にロンドン に行き、北大西洋を横断する政府の郵便物を「steam boats(=汽船)」で輸送する提案をしたのだった。他にもこの貴重な契約に挑戦する者はいたが、遂に成功したのである。5月4日に海軍本部とCunardとの間で合意 文書に署名がなされた。報酬は年間5万5,000ポンドに据え置かれ、定期運航は1840年6月4日に始まり、少なくとも7年間は行うこ ととなっていた。この会社はBritish & North American Royal Mail Steam Packet Companyと命名されたが、直ぐにCunard Lineとして知られるようになり、時に「Cunard氏の船会社」としても知られた。

 Samuel Cunardは自分の会社が着実に成長するにつれて、幸せになることができなくなっていた。大船隊を兵員輸送船に提供したというクリミア戦争(1853年―56年)の多大 なる功績で、Cunardは準男爵(注、貴族ではない英国最下級の世襲位階)に叙された。Sir Samuelは、1865年4月28日に死んだ。

(この章に登場する船)
Britannia
Hibernia
Europa
America
Persia
Russia
Servia
Aurania
Etruria
Campania
Lucania
Saxonia
Carpathia
Caronia
Carmania

2、大型船3隻:快速船

 第一次世界大戦前にCunardは3隻の超定期船(スーパーライナー)を建造していたが、1915年にその1隻のLusitania を失っている。戦後、Cunardはドイツから別の超定期船Imperatorを獲得して、Berengariaと再命名した。 Mauretania、Aquitania、Berengariaは、Cunardの戦後の大型船3隻である。

 LusitaniaとMauretaniaは、ある意味ではMorganの広範な国際海運カルテルであるInternational Mercantile Marineの創設に直面したCunardが、英国企業として独立して留まれるよう、英国政府がCunardに与えた贈り物であると言える。Morganの野心的な企みは 成功するようであった。しかし幸運なことに、そうはならなかった。というのは、競争というものが常に大西洋横断海運に味を添えていたから である。

 英国政府の支援の結果、2隻の最優秀船が建造されることとなった。多くの観点から、Mauretaniaが最も美しく、最も成功し た、そして恐らくこれまで建造された最も偉大な定期旅客船であると言う者がいる。確かに本船は、多くの人々に愛された船である。他のどん な船よりも長く、大西洋横断速力の記録を保持したのである。第一次世界大戦中、兵員輸送船として英雄的な運航を行い、それから白に塗装し て、晩年をクルーズ船として広範に使用されて成功した。Lusitaniaが戦時中にドイツの潜水艦に撃沈されずに上手くやったことに疑 いはないだろう。海難に遭遇した他船のように、沈没ほど歴史に影響を与えるものはないのである。輪郭の美しさの点から、 LusitaniaとMauretaniaの外観やかっこよさの右に出るものはない。どの角度からみても、全く完璧であった。2本煙突よりは、むしろ等間隔の4本煙突を設 けようというCunardの決断は、優れたものであった。このデザインのおかげでドイツの4本煙突の船が古臭く見えるという点で、意見は 一致していた。MauretaniaやLusitaniaの煙突の高さを増したことが、ドイツの4本煙突の先駆者とは対照的に、好かれた 主要な点なのである。とりわけ、船首とメインのマストをそれぞれ1本しか付けなかったことで、特に遠くから見た時の基本的な輪郭が良く、 デザインを決定的に完璧なものとしていた。今日の年老いた船員たちが郷愁をもって思い出す、古典的に美しい船だったのである。

 恐らくは私達と論争になる人が多いことだろうが、私達のAquitaniaやBerengariaに対して持つ感情は、それほど熱狂 的なものではない。それぞれ壮大なもので弁護する人もいるのだが、私達はMauretaniaやLusitaniaの目も眩むような完璧 さに敵うものではないと考えている。Aquitaniaが最も偉大であるとする人達はいる。戦争を生き抜き、最後の4本煙突の船となっ た。その上Berengariaは、5万総トンを超える世界最初の船として、歴史を切り開いた。Cunardが戦後、Lusitania と代替すべく賠償として本船を引き継いだとき、R.M.S. Imperatorとしてしばらく就航した。Cunardは本船を、1920年代の「in(=流行の)」船とした。本船に乗船する犬であってさえも、名犬リン・チン・チン のような「金持ちの有名な」犬であったのである。

(この章に登場する船)
Lusitania
Mauretania
Aquitania
Berengaria

3、中間期の船:20年代の1本煙突の船

 第一次世界大戦は、とりわけCunardにとって酷いものであった。旅客船を11隻も失ったのである。すなわち、 Lusitania、Franconia、Alaunia、Ivernia、Laconia、Ultonia、Andania、 Aurania、Ausonia、Carpathia、そしてAscaniaである。

 平時運航の復活は、容易い仕事ではなかった。生き残った船隊は選別された。2隻の急行定期船であるMauretaniaと Aquitania、姉妹船のCaroniaとCarmania、それから3隻の価値の疑わしいSaxonia、Pannonia、そし てRoyal Georgeである。最後の船は、CunardがCanadian Northern Steamship Companyを取得した1916年に購入したものである。しかし既に大勢が押しかけていた北大西洋においては、更にバースが必要であった。

 1919年から20年にかけて、Cunardは様々な旅客船を傭船した。あるものは1回か2回の航海にしか使用せず、あるものは12 回かそれ以上使用した。数社の有名英国海運業者、すなわちUnion Castle、Pacific Steam Navigation、そしてLamport & Holtの船があった。P&Oでさえも、ロンドン―ボンベイ間の急行定期船が駄目になり、Kaisar-I-Hindは傭船された。この船は、船名を英語に翻訳し てEmperor of India(=インド皇帝)として宣伝された。オランダのPrinses Julianaでさえも、2隻の戦勝品であるドイツの大型のKaiserin Auguste VictoriaやImperatorも使用された。もちろん、ImperatorはCunardの船隊に留まって、Berengariaになった。

 リバプールの取締役や設計者は、新しい代船の計画で忙しい日々を送っていた。Mauretania、Aquitania、 Berengariaを使ってニューヨークへの急行運航をしていたが、Cunardは、ニューヨークばかりではなく、ボストン、ハリ ファックス、そしてケベック市やモントリオールへのセント・ローレンス海路を通る季節運航の補助運航を増強しようとしていた。また実用的 な手頃の大きさの、使いやすく経済的な船を欲していた。しかし、北大西洋のアメリカへの大量移民の時代は劇的に終わり(1922年に移民 制限が課せられた)、こうした船は次第に観光客と、そして贅沢を求める1等船客に頼らなければならなくなって行った。しかし大きな洋上宮 殿には、必ずしも乗船してはくれなかった。そこでCunardは、大変に野心的な戦後再建計画に乗り出したのである。全部で14隻の新し い旅客船を建造するというものである。

 この中で1隻「不適応」の船があった。1920年のAlbaniaである。殆ど成功してはいないものであった。本船は5隻のグルー プ、すなわち3隻の同型の姉妹船(長命の1921年のScythia、1922年のSamariaとLaconia)、2隻の刷新された 姉妹船(1923年のFranconiaと1925年のCarinthia)の次に続いた。このグループの刷新版である Tyrrheniaが、1922年に竣工した。本船は1914年に、競合他社のAnchor Lineによって発注されていた船である。船名は直ぐにLancastriaに変更となった。20,000トンのScythia級の設計は、その後変更され、14,000 トンの「A級」の6隻の船に小型化された。すなわち、Anotonia、Ausonia、Andania(1922年)、その後の Aurania、Ascania、Alaunia (1924年―25年)である。

 こうした船がCunardの「中間期の船」、すなわち20年代の1本煙突の船であった。

(この章に登場する船)
Albania
Scythia
Franconia
Laconia
Lancastria
Carinthia
Antonia
Ausonia
Alaunia
Ascania
Caledonia
Calfornia

4、合併:CunardとWhite Star

 30年代初期ほど海運業界にとって酷い時期はなかった。北大西洋において最も貴重な必須のもの、すなわち旅客が減り出したのである。 大恐慌が世界的に見られたのであった。定期旅客船は半分の客を乗せて航海をし始め、時には空船でさえあった。保守の費用を先送りした結 果、時折、錆びを付けたままで走っていた。将来の見通しというは、係船されて野晒しになるか、船員を一時解雇するか、更に酷い場合は完全 に破産し崩壊するというものであった。Cunardと、親しい英国の大西洋横断の競争相手であるWhite Star Line(実際には20年代半ばまでにアメリカ人のJ. P. Morganの権益によって保有されていた)は、いずれも酷く打撃を受けていた。船舶が多過ぎバースが多過ぎることに、両社とも突然気が付いたのだった。

 しかし別の圧し掛かっていた問題というのは、CunardとWhite Starの急行運航が、老朽した超定期船によってなされていたことであった。例えば1930年までに、Mauretaniaは船齢23年に達していたのである。会社の取締 役と英国政府は当然、心配した。大陸の会社は重要な大きな1歩を踏み出そうとしていた。フランスは呆然とさせるようなIle de Franceを船隊に加えたばかりで、更に少なくとも3隻を建造する計画を立てていた。その中には飛び切り豪華なNormandieが含まれていた。ドイツでは2隻の快速 船、BremenとEuropaを加えようとしており、「遠方のイタリア」でさえも、2隻の豪華船を有していたのである。英国は、競争に 勝つための計画を立てる必要に迫られていた。

 財政的には不健康であったにも拘らず、1928年6月、White Starはその最大の定期船である60,000トンのOceanicを発注した。本船は記録を破る意図で建造されたもので、全長1,000フィートを超え、350万ポンド の費用をかけた馬鹿でかいものであった。同時期、Cunardの設計者は、更に大型の船を計画していた。計画では75,000トンの船で あり(実際には81,000トンを超えて竣工した)、有名なQueen Maryである。必然的に、2隻の船が組むものとされた。

 しかしOceanicは実現することは決してなかったのだった。ベルファストで建造が始まって13ヶ月以内に、徐々に弱っていた White Star Companyは、発注を取り消すことを余儀なくされ、その小さな骨組みは切り刻まれたのである。しかしすべてが失われた訳ではなかった。White Starは、また同じベルファストの造船所に発注した。より適切な大きさの「cabin liner(=個室定期船)」のBritannicである。Oceanicの取消は、後に姉妹船の「cabin liner」であるGeorgeに変更された。最後のWhite Starの定期旅客船である。1930年の終わりまでに、1871年に旅客運航を開始したWhite Starは、40万ポンド近い赤字を抱えていた。更に不景気になった。1931年の暮れまでに、乗船名簿は25万人近くに落ち込んだのである。

 White Starは酷く弱体化していたが、CunardもWhite Starも援助が必要であった。英国政府は両社の訪問を受け、調査が手配され、その結果、1933年に下院をNorth Atlantic Shipping Act(=北大西洋海運法)が通過した。これによりCunardとWhite Starに950万ポンドが融資された。うち、300万ポンドがQueen Maryの竣工向け(クライドサイドで2年近くも工事が遅延していた)、500万ポンドが僚船向け(1940年のQueen Elizabeth)、そして150万ポンドが運転資金に振り向けられて、両社は合併したのである。かくして1934年1月1日、Cunard-White Star, Limitedが設立し、この商号は1950年まで使用されて、最後の船であるBritannicは1960年まで運航した。

 この競争相手同士の結婚で、15隻の定期船を保有していたCunardは、更に10隻の旅客船を獲得した。その中には当時世界最大の 56,500トンのMajesticも含まれていた。しかし大恐慌が長引くにつれ、また大西洋の運航がかろうじて進歩する中で、 White Starの船の殆どの処分が日程に上って来たのである。

(この章に登場する船)
Majestic
Olympic
Homeric
Adriatic
Britannic
Georgic

5、クィーン:MaryとElizabeth

 これまで建造された3隻の偉大なる遠洋定期船のうちの2隻は、Queen Maryと僅かに大きな僚船Queen Elizabethである(この偉大なる3隻の3隻目は、French LineのNormandie)。80,000トン級の船は、この3隻だけである。Queen Maryと僅かに若いNormandieとの競争の物語は、それだけで1冊の本になるものである。2隻とも世界最大の定期船であると主張し、いずれも大変に短い期間にのみ 就航したCunarderである(注、2隻ともCunarderとするのは誤り)。2隻とも世界最速であると主張し、代わる代わる世界最 速となり、遂にはQueen Maryがこの競争に勝利したのである。孤高だったのはQueen Elizabethである。現役の最初の時から、正に世界最大の旅客船の最後であった。これよりも大きな船を建造した者はいなかったのだった。しかし計画段階の新しいク ルーズ船が、Queen Elizabethの2倍、3倍、更には4倍のものとなることとなっている。歴史は本船には厳しいもので、香港の港で悲しい結末が降りかかったのだった。我々の時代の、あ るいは全ての時代の、本当に偉大な豪華船の幕が降ろされたのだった。

 Queen Maryは、伝統的な「ia」で終わる殆ど全てのCunardの汽船と共に、Victoriaと名付けられることとなっていた。この決定を国王ジョージ5世に伝えることと なった時、Cunard幹部の2人であるSir Percy BatesとSir Ashley Sparkesは、バッキンガム宮殿において謁見を申し出た。北米のCunardの代表者であるSir Ashleyに、国王への話は任されていた。こう話したのだった。「国王陛下、私共は謹んで、Cunardがイングランドの最も偉大なる女王に因んで最新の最も偉大な定期 船を命名することを承諾して頂きたく、ここにご報告いたします。」すると間髪を入れずに国王がこう返答された。「私の妻は喜ぶことでしょ う。」こういう次第だったのである。この逸話は、Cunardの取締役で北米のCunardの副会長になったVincent Demoが1946年にFrank Braynardに語ったものである。Frank Braynardは、1947年に出版した最初の著書、Lives of the Linersの中でこの話をした。そのため、その後42年間に亘って、「出典の疑わしい」逸話を公にしたと批判されることとなったのである。1988年になって、ロング・ アイランドでの晩餐会に出席した際、当地の貴婦人席に着く特権が与えられた。その婦人はどうやって会話を始めるか熟慮して、やがてこう切 り出してFrank Braynardを仰天させたのである。微笑みながらこう話したのだった。「私の好きな船のお話は、父が国王ジョージ5世に会いに行った時のことです。」婦人は Eleanor Sparkesであり、Vincent Demoが42年前にした話と、殆ど一言一句同じ逸話を披露したのだった!

(この章に登場する船)
Queen Mary
Queen Elizabeth

6、戦後時代:最後の大西洋横断船

 Cunardの船隊ほど我々に美しい船とはどうあるべきかを教えてくれたものはないだろう。黒炭の船体、傾斜した船首、曲がった船 尾、雪のように白い上部構造物、適切に入れ子状になった救命艇、そしてもちろん並外れた煙突である。1本か2本、あるいは3本の燃えるよ うに赤いもので、てっぺんが黒く、細い縞が入っている。全ての者に忘れられない印象を与えたものだ。

「Getting there is half the fun(=そこに出かけることは楽しみの半分)」とは単なる宣伝文句ではなく、全くの事実だったのである。Cunardは最良の、最も頻繁な、そして様々な大西洋横断運航 を、第二次世界大戦後に行っていた。1950年代、ジェット機の到来によって全てが劇的に変化する前の最後の10年間、大西洋航路の全旅 客の3分の1を輸送したとCunardは誇らしげに発表した。1955年だけでも、北大西洋の港湾から300回以上の航海をしていたので ある。

 1947年の夏、ニューヨークとシェルブール、サウサンプトン間の古い「急行運航」はその全盛期にあり、Queensの登場で初めて 2隻体制が出来上がった。毎週水曜日にニューヨークから、毎週木曜日にサウサンプトンから船が出ていた。そして北大西洋の中央のどこか で、この「王族の2隻」はすれ違ったが、合計速力は60ノット近いものだったのだ!素晴らしい2代目のMauretaniaは、繁忙期に 手伝っていた。

 Mauretaltiaの僚船は1946年に発注され、34,000トンの船とされていた。しかし特に1930年代を調べてみて、 Cunardは、将来にはクルーズという大きな将来があることを実感したのであった。そこでCaroniaは大きな緑色の「ヨット(=行 楽用の船、つまりクルーズ船)」として完成し、600人の乗客を擁する洋上カントリー・クラブを600人の職員が世話をして、長距離の高 価なクルーズを行ったのである。当時、最も重要な船の1隻となり、伝説的な名声を残した。

 戦後、間もなくしてCunardは、この会社としては異例の2隻の船を加えた。貨物船にする意図だった2隻で、全て1等船室で250 床の定期貨客船として登録した船である。Katharine Hepburnはかって、このMediaと姉妹船のParthiaが、北大西洋のお気に入りの船であったと話したことがあった。

 戦前の船隊の遺物もあった。相当に古くなっていたAquitaniaは復帰し、少なくとも数年は運航したが、質素な運航をしたばかり ではなく、しばしば実際の旅客定員より多い軍隊や戦争花嫁、難民を乗せたのである。20年代の1本煙突の4隻もまた戻ってきた。 Scythia、Samaria、Franconia、Ascaniaである。遂に昔のWhite Starの船隊の1隻が、豪華さを取り戻した。それはBritannicであり、1960年に引退するまで、Cunard-White Starの名前が10年前に消えた後であってさえも、元の煙突の色を保っていた。戦前のGeorgicもまた現れた。約6回の夏季に時代 遅れの安い運航をしていた。特別の傭船もあった。1950年にP&Oの大型のオーストラリアの定期船の1隻である Strathedenは旅行者増に対処すべく、ニューヨークに4回の横断航海を行った。

 1950年代のCunardの唯一の新船は、カナダ航路に就航していた4隻の船であるSaxonia、Ivernia、 Carinthia、Sylyaniaである。しかし潮の流れは変わり始めていた。1957年にSylvaniaがデビューした時、航空 会社は汽船会社と同じ数の乗客を輸送すると発表したのである。ジェット機は翌年に初めて登場した。災いの徴候が差し迫っていたのだった。

 1960年代はCunardにとって破滅的であった。過去の栄光がこだまする偉大なる大理石造りの会議室や事務所でふんぞり返るリバ プールの頑固で保守的な取締役らは、自らの敗北を認めようとはしなかった。連中は、一般大衆は常に速くて新しい707よりは、壮大で古い Queen Maryのようなものを好むものだと主張していた。間違っていたのである。1965年までに航空会社は、全大西洋横断乗客の95パーセント近くを輸送し、これ以上の成功は 望めないくらいであった。

 まず、Cunardの将来に対する大変革のためのおざなりの仕草として、クルーズ船としても使用できるよう、Saxoniaと Iverniaを改装した。しかし計算違いに固執しており、老朽船のMauretaniaを使って「新しい」地中海航路を開設しようとし てみたり、Queen Elizabethをまずまずの熱帯クルーズ船にすべく費用をかけて改造し冷房装置を入れてラウンジをプラスチックの造花で飾ってみたり、伝統的な真冬の横断運航を継続し たりしていた(Elizabethは一度、1,100人の船員で200人の乗客の世話をしてニューヨークに航海したことがあったの だ!)。3等級の定期船の話をすればもっと深刻で、老兵のQueen Maryに代替するには、設計が既に時代遅れであった。

 1966年の春に、遂にこの会社は厳しい現実と直面することとなった。Queensと殆ど全ての他のCunardersが引退するこ ととなった、という言葉が発せられたのだった。幕は早く降りてきたのである。直ぐにQueen Mary、Caronia、Carinthia、Sylvania、Queen Elizabethが現役名簿から去り、僅かにモデルチェンジしたCarmania (ex-Saxonia)と Franconia (ex-Ivernia)が残ることとなった。その後、新聞が「大博打」と呼んだ65,000トンの船が1965年に始まった。本船は Cunardの将来において主要なお飾りとなるもので、ある時は大西洋横断定期船として使い、ある時はクルーズ船として使う船である。こ れが3代目のQueenであるQueen Elizabeth 2(=クィーン・エリザベス2号)であった。

 1968年のQueen Elizabethの最後の数ヶ月についての心を痛ませる話がある。費用のかかる保守は大幅に減らされ、かっては一点の汚れもなかった上部構造と船体には、オレンジ色の錆 びが付いていた。皇太后のElizabeth女王は、1938年に命名した本船が直ぐに引退することとなると聞き、訪船を希望された。 Cunardはこれを受け容れたが、一体、どれほどの錆びが付いていたろうか!遂に皇太后がご覧になる船体の片側だけに、新しく塗装され ることとなったのである。その後何年かして、1984年にWorld Ship Society(=世界船舶協会)のサウサンプトン支部の会合に出席し、Bill Millerがこの話をした。退職したCunardの上級船員が、聴衆の中にいた。話の後、彼は立ち上がってこう付け加えたのである。「塗装についての興味深いお話でした が、不正確です。どんなときでも、当社では全ての定期船の乗客が見える側だけにペンキを塗っていたのです!」

(この章に登場する船)
Maretania
Caronia
Media
Ivernia
Carinthia
Sylvania

7、クルーズの時代:QE2と現代のCunarders

 1969年5月の曇った憂鬱な日であったが、ニューヨークの港では大西洋横断定期船の最後の歓迎行事が開かれた。旗で飾った曳船、消 防艇の歓迎放水、贅沢なヨット、特別に貸切った遊覧船が歓迎の小船隊を形成していた。誰もが興奮していた。べラザノ・ナロー橋の向こうか ら新船が最初に姿を現すのを待ち焦がれていたのだった。威厳のある荘厳な古いQueensが未だに鮮やかな記憶の中にあった。批評家は 思った通りの大型遠洋定期船だろうと言っていた。しかしこの新たに到着したものは、全く違うものであった。最後の大西洋横断船である Queen Elizabeth 2は、横断航海とクルーズが予定された最大級の定期船であり、「新しい」流行のCunardを代表する船であった。

 Cunardは60年代に真剣に考え直していた。両Queensの代船に、伝統的な設計をすることは放棄したのだった。全時間を大西 洋横断定期船として過ごす日々は、終わったのである。代わって、この新しい巨大船は洋上ホテル、すなわち速くて大きくて「動く行楽地」と されなければならなかったのである。つまり、北大西洋を横断する乗客を実際的かつ効率的に扱い、数時間以内に殆ど変更せずにクルーズ船と して熱帯に向かう船である。クルーズにおいては乗客は洋上での休暇を楽しんだのであり、港湾は気分転換の気晴らしに過ぎず、目的地ではな かったのだった。

 かくて5月の朝、本船が最初にローアー・ベイに姿を現した時、QE2はその前任者からの全く急進的な出発をしたのだった。1本のパイ プ状の煙突は、その違いを宣言するものであった。Cunardの販売・市場調査担当の新世代は、本船が過去のCunardを完全に破壊す べきだと感じていたのだった。そのため、飾りの付いた円柱のラウンジや暗い木製パネル、3等級、古めかしい殆ど途方もないものの代わり に、ディスコやカジノのある小奇麗なけばけばしい行楽地とし、上甲板には屋外プールや商店街を設け、夕食後には羽根を付けた踊子達のレ ビュー(=歌と踊りの時事風刺喜劇)を用意したのである。煙突の上の伝統的なCunardの色さえもなくなり、船橋近くの上部構造の上に オレンジでCunardの名前が描かれたのである。本船はどこをとっても洋上ホテルであった。

 Queen Elizabeth 2は称賛を得た。大変な人気を得て、この人気はかってないものであった。フラグシップに留まったが、Cunardは全く違ったものになっていた。この会社は今やリバプール ではなく、サウサンプトンに本拠を置く巨大なTrafalgar House Groupの一部となり、ニューヨークに事務所があるが、初期の素晴らしい環境とは到底比べ物にならないものであり、この会社は汽船会社というよりは、むしろ旅行・娯楽事 業の色合いが強いものである(注、現在はCarnival社の傘下にある)。収支は上手く行っているようである。Cunardの7隻の定 期船(英国船籍は僅かに2隻であり、費用がかかっている)は、世界中を航海して回って、大半は最大限の利益を出すことのできる乗客を輸送 して、最も効率良く経営されている。QE2は未だに陽光溢れるクルーズと、大西洋横断をしている。豪華なSagafjordと Vistafjordは、ノルウェーから取得したものである。殆ど世界中を回っている。長距離の旅程を組んでいるものとしては、2隻の豪 華クルーズ・ヨットSea Goddess IとSea Goddess IIもあり、これもノルウェーの船であった。最後に、この会社はいつでも人気のあるカリブ海を本拠とするCunard Countessを保有しており、姉妹船のCunard Princessは殆どいつも地中海で航海している。

 Cunardは、何十億ドルをも稼ぐ国際クルーズ業界で歩み続けている。もはや最大の定期船会社ではなくなっているが、業界の大手と して留まっている。非常に多くの競争相手や同業者が姿を完全に消して行った中で、Cunardはこれに耐えて生き残こり、150年間もの 輝かしい運航を達成しているのである。将来はどうなるのだろうか。しばしば新船建造や、金持ちの日本人と共同でクルーズを行うという計画 の噂さえもある。私達は目録に別のCunardersが加わり、この偉大なるCunard Lineについて、更に本が書かれることを確信している。

(この章に登場する船)
Queen Elizabeth 2
Cunard Adventurer
Cunard Countess
Sagafjord
Sea Goddess I
Sea Goddess II