HOME > コラム > 日本の遠洋定期船

日本の遠洋定期船

石山 剛

1.鎖国と開国

 日本の近代海運史を語る場合、「鎖国と開国」という歴史的背景から話を始める必要がある。なぜなら日本の近代海運は日本の開国に始ま り、その開国の前提となっている歴史的事実が、鎖国だったからである。

 1543年、ポルトガル人を乗せた中国船が、九州の南部海岸沖にある種子島に流れ着いた。これが日本に初めてやって来たヨーロッパ人 だった。この時、ポルトガル人は日本に鉄砲を伝えた。

 この出来事を契機に、ポルトガル、スペインとの貿易が始まった。そして1549年、イエズス会(Society of Jesus, Societas Iesu)の宣教師、フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier、1506―52年)が九州南部の鹿児島に到着し、キリスト教(カトリック)の布教を始めた。当時、日本人はポルトガル人、スペイン人のことを「南蛮人」と呼 んでいた。「南蛮人」とは、南方から来た野蛮人の意味である。

 日本人による東南アジア諸国との貿易も盛んになり、九州の平戸、長崎から、「朱印船」と呼ばれる日本船がフィリピン、ベトナム、カン ボジア、タイ等に向かい、日本人が住み着いて、日本人町を形成したところもあった。

 ところが遅れてアジアに進出してきたオランダ人は、ポルトガルとスペインによるキリスト教布教の目的は、日本の植民地化・侵略にある と、当時の日本政府である「幕府」に密告したのである。そこで幕府は、キリスト教を禁止して、やがてはポルトガル人、スペイン人を追放 し、長崎でオランダとのみ、制限的に交渉を持つことにしたのである(1641年)。これが、ドイツ人医師のエンゲルベルト・ケンペル (Engelbert Kaempfer、1651―1716年)が、英国で1727年に出版された著書、「日本誌(The History of Japan)」において指摘し、後に「鎖国」と呼ばれるようになった日本の政策である。幕府は、オランダ、中国、朝鮮以外の国との貿易を禁止し、日本人が大船を建造するこ とも禁止した。

 かくして1854年に開国するまで、日本という国は世界から姿を消すこととなった。この鎖国により、日本はヨーロッパ諸国により植民 地とされることを免れ、200年以上に亘って、幕府による封建的な支配体制を維持することができたのである。平和な時代が続いた、と表現 することも可能である。

 しかし貿易が制限されたために社会の進歩は遅れ、とりわけ造船・港湾・航海術の分野では、ヨーロッパ諸国から大きく遅れることとなっ た。また自給自足経済であったことから、しばしば飢饉が起こり、日本人の栄養状態は決して良くはなかったことも事実である。この時代の日 本人は全時代を通じて最も小柄であり、痛風の患者はいなかったが、脚気に苦しむ者は珍しくなかったと言われている。

 ヨーロッパでは産業革命や市民革命が起こり、やがて安い原料や市場を求めて、アフリカやアジアの植民地獲得競争に乗り出してきた。 19世紀に入り、英国、フランスは、遂に東アジアにまで勢力を拡張し、中国や日本は、西洋の強大な軍事力の脅威に直面することとなった。 1840年に始まるアヘン戦争(The First Opium War)で、中国(清)が英国に破れ、香港を奪われたという出来事は、日本に強い衝撃を与えた。

 1853年6月、アメリカの海軍提督マシュー・ペリー(Matthew Calbraith Perry、1794―1858年)が4隻の黒色に塗装された軍艦(黒船)を率いて、江戸(現、東京)に近い浦賀(現、神奈川県横須賀)に来航し、日本に開国を迫ってき た。当時のアメリカは、太平洋航路を開設して、中国と貿易を行うことを望んでいた。そのためには中継地として、日本の港湾が必要だった。 また捕鯨船の補給基地も必要としていた。幕府は悩んだ挙句、1854年にアメリカと「日米和親条約(Convention of Peace and Amity between the United States of America and the Empire of Japan (Treaty of Kanagawa))」を締結し、日本は開国することになった。更に幕府は、英国、ロシア、オランダとも、同じ内容の条約を締結した。

 開国を決断した幕府は、国防のため、武家諸法度で規定した大船建造禁止令を廃止し、長崎に西洋式軍艦の操船技術を学ぶための「海軍伝 習所」などを創設した。貿易は、箱館、横浜、長崎で1859年から始まったが、取引の相手国は英国が大半を占めていた。

 ところが幕府の決断した開国を巡っては、日本国内には反対論も根強く、外国人が殺傷される事件も相次いだのである。日本は内戦となっ たが、1867年、遂に幕府は滅亡した。そして1868年に明治天皇(めいじ・てんのう、1852―1912年)を主権者とする新政権が 誕生した。こうした一連の動きは「明治維新」と呼ばれている。「明治維新」とは、明治時代における政治体制の刷新という意味である。

 明治政府の最重要目標は、日本が国際社会において欧米列強諸国と対等の地位に立つことであり、そのための政策として、「富国強兵」 「殖産興業」が採用された。これは「近代化政策」、あるいは「西欧化政策」と言っても良いものである。そして、この「近代化政策」「西欧 化政策」の行き着く果てが、第二次世界大戦における日本の敗戦(1945年)であった。こうした視点に立つと、以下に述べる日本の近代海 運史は理解しやすい。

2. 日本郵船と大阪商船

 日本が開国するや、日本国内では西洋式の帆船や汽船が急速に増加し、1867年には138隻に達したという。ところが1859年に P&O社(Peninsular and Oriental Steam Navigation Company)が上海―長崎航路を開設して、その後、横浜にまで延航。1865年9月にはMM社(Compagnie des Messageries Maritimes)も上海―横浜航路を開設した。そして1867年にサンフランシスコ―横浜―香港航路を開設し、1870年には横浜―神戸―長崎―上海航路を開いたの は、アメリカのPM社(Pacific Mail Steamship Company)であった。そして同社のColorado(3,728gt、1864-78)を始めとする木造外輪船が日本沿岸を席巻することとなったのである。こうした 事態に危機感を抱いた明治政府は、自国の海運振興に力を注ぐことにした。

 1870年1月、明治政府は東京に「廻漕会社」を設立した。この会社は、東京―横浜―大阪―神戸間で、郵便物、米、旅客を輸送するも ので、日本の近代的な海運会社の始祖である。当時はまだ、商法も会社法も、日本には存在していなかった。しかしこの会社の経営は順調では なく、僅か1年で解散してしまった。そこで明治政府は、1871年1月に「廻漕取扱所」を設立して海運業務を引き継がせ、更に1872年 8月には「廻漕取扱所」に代わり、新たに「日本国郵便蒸気船会社」を設立した。そしてこの会社が、東京―大阪航路、函館―石巻航路、沖縄 航路を経営することとなったのである。

 一方、四国の土佐藩(現、高知県)の藩主、山内豊信(やまうち・とよしげ、1827-72年)は、地元の特産品を売って、その利益で 汽船や武器を調達するため、「開成館」を設立した。その航海・金融の担当者であった岩崎弥太郎(いわさき・やたろう、1835―85年) は、1870年に「土佐開成商社」を設立し、「開成館」の事業を継承した。そして東京―神戸―大阪―高知航路を開設した。この「土佐開成 商社」が、後の「日本郵船」に発展していくことになる。「土佐開成商社」は、「九十九商会(1870年)」「三川商会(1872年)」 「三菱商会(1872年)」と頻繁に改称した。

 こうした状況の中、1871年、琉球(現、沖縄県)の住民66人が台湾に漂着し、うち54人が台湾の住民に殺害される事件が発生し た。中国(清)は、台湾の住民は「化外の民(統治権の及ばない者)」であると主張して責任を回避したため、日本は台湾の住民を懲罰するた め、1874年に出兵した(征台の役・台湾出兵)。

 日本から台湾に出兵するためには、当然のことながら船が必要だった。日本は当初、PM社の船を使うつもりであったが、アメリカは、こ の紛争に関しては局外中立宣言を行ったため、同社の船舶を使用することは不可能となった。そこで日本政府(明治政府)は、軍隊輸送のため に外国船13隻を購入した。ところが運航を担当することになっていた「日本国郵便蒸気船会社」は、これらの船を運航することについて消極 的で、むしろ岩崎弥太郎の「三菱商会」が積極的に協力した。かくして三菱商会は、日本政府から高い評価を受けることとなったのである。

 1875年、日本政府はこの13隻の外国船を三菱商会に運航委託し、上海航路を開設するよう命令した。三菱商会は、東京丸(ex- New York、2,217gt、1864-86)、新潟丸(ex-Erie, Behar、1,910gt、1855-97)、金川丸(ex-Madras、1,185gt、1852-96)、高砂丸(ex-Delta、1,618gt、 1860-1906)の4隻を使って、横浜―神戸―下関―長崎―上海航路を開設し、PM社と激しい競争開始した。この上海航路が、日本で 最初の外国定期航路である。

 三菱商会は、日本政府から郵便物の輸送を命じられた。1875年9月18日、三菱商会は「郵便汽船三菱会社」と改称した。そして日本 政府は「日本国郵便蒸気船会社」を解散させて、その保有船舶を郵便汽船三菱会社に払い下げ、これにより郵便汽船三菱会社は日本国内の全て の大型船を保有する船会社に成長したのである。

 郵便汽船三菱会社は、日本政府の補助を受けてPM社と戦い、遂に同社を上海航路から撤退させた。そして同社の保有する4隻の木造外輪 船と上海、長崎、神戸の資産を78万ドルで買い取った。別の競合他社であるOO社(Occidental and Oriental Steamship Company)には3万ドルを贈与した上で、30年間、上海航路、沿岸航路に配船しない旨、約束させ、上海航路の権益を確保しようとした。ところが1876年2月、英国 のP&O社が、香港―上海―横浜航路を開設したのである。郵便汽船三菱会社はP&O社と激しい競争をし、8月に P&O社も上海航路から追い出すことに成功した。

 このように郵便汽船三菱会社は、英米の海運会社と戦っていたが、当時、優秀な日本人船員は非常に少なく、高級船員に多くのヨーロッパ 人(英国人、ドイツ人、スウェーデン人等)を雇用していた。日本人高級船員の信用は極めて低く、外国の保険会社は、日本人船長・機関長の 運航する船に積載する貨物の保険は引き受けなかった。これは単なる人種的偏見によるものではなく、実際に西洋流の操船技術に秀でた日本人 船員がいなかったことは、紛れもない事実であったからである。

 そこで日本政府は、郵便汽船三菱会社に日本人船員養成のための教育機関の設立を命令し、1875年11月に「三菱商船学校 (Mitsubishi Nautical School)」が設立された。操船の教科書には、英国海軍の教科書を翻訳したものが用いられた。この「三菱商船学校(Mitsubishi Nautical School)」は、後に「東京商船大学(Tokyo University of Mercantile Marine)」となり、今日の「東京海洋大学(Tokyo University of Marine Science and Technology)」に発展している。外国人高級船員が姿を消すのは、1920年のことだった。

 日本政府はあらゆる分野において、極端なまでの西欧化政策を推し進めた。この頃の日本社会の様子については、英国の女流旅行作家、イ ザベラ・バード(Isabella Lucy Bird、1831―1904年)が書いた「日本奥地紀行(Unbeaten Tracks in Japan)」(1880年)という旅行記を通じて知ることができる。

 極端な西欧化政策に対しては反発もあり、とりわけ封建的な特権を奪われた「士族」と呼ばれた元侍達の政府に対する不満は大きかった。 国内各地で士族による反乱が起き、その中でも、1877年2月に九州の鹿児島で西郷隆盛(さいごう・たかもり、1827―77年)により 起こされた反乱(西南戦争)は大規模なものだった。ここでハリウッド映画の「ラスト・サムライ(The Last Samurai)」(2003年)を連想するかもしれない。この映画はフィクションだが、こうした反乱をモデルにしたものである。

 政府は、1877年9月に漸くこの反乱を鎮圧したが、兵員5万8000人、軍馬、軍需品を大阪から九州に輸送するに際し、郵便汽船三 菱会社は、ほぼ全ての保有船を政府に提供した。この貢献により、同社は大成長を遂げ、日本海運を独占するまでの力を持つに至った。

 ところが郵便汽船三菱会社による海運独占に対しては、批判も強かったのである。1881年、それまで同社を支援してきた政治家(大隈 重信、おおくま・しげのぶ、1838―1922年)が辞職に追い込まれると(明治14年の政変)、政府は同社の独占に歯止めをかける方向 に動き出した。1882年7月14日に「共同運輸会社」という半官半民の海運会社が設立されて、郵便汽船三菱会社に対抗することとなっ た。共同運輸会社の幹部は、海軍関係者が占めていた。

 郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の競争は激しいもので、運賃の引き下げ合戦により、両社は共倒れとなりかねない状況にまでなったとい う。両社の共倒れは、日本海運の危機を意味した。そこで政府は、1885年9月29日に郵便汽船三菱会社と共同運輸会社を合併させ、設立 されたのが、「日本郵船会社(Nippon Yusen Kaisha: NYK)」である。初代社長は、共同運輸会社社長の森岡昌純(もりおか・まさずみ、1834―98年)だった。

 ここに、汽船58隻、帆船11隻、合計69隻、72,922総トンの船舶を保有する日本最大の海運会社が誕生した。社旗は、白地に赤 の2本の線が入った「二引(にびき)」であり、これは郵便汽船三菱会社と共同運輸会社という2つの会社の合併を意味し、現在でも使われて いる。

 創業時の日本郵船は、国内航路を経営の中心に据えていたが、国内の他社船との競争が激化し、更に鉄道網が整備されるにつれて、遠洋航 路への経営転換を余儀なくされることになった。

 この頃、日本では紡績産業が発展し、中国市場を開拓するためにはインドから綿花を輸入する必要があった。ところがボンベイ(現、ムン バイ)航路は、P&O社、Osterreichischer Lloyd (Austrian Lloyd)、Navigazione Generale Italiana、3社による海運同盟(Freight Conference)が高い運賃を定めて独占していた。そこで日本郵船は、1893年11月に、インドの綿花商タタ商会(Tata & Sons)と共にボンベイ航路(神戸―香港―シンガポール―コロンボ―ボンベイ)を開設して、P&O社などと戦ったのである。第 1船は廣島丸(ex-Golden Age、2,453gt、1853-90)だった。2年半に亘る戦いを経て、日本郵船はボンベイ同盟への加入を果たした。

 1893年、漸く日本で近代的な商法(いわゆる旧商法)が施行され、日本郵船は商法の規定に即して組織を変更し、「日本郵船株式会社 (Nippon Yusen Kaisha)」に商号を変更した。

 一方、1884年5月1日には、「大阪商船会社(Osaka Shosen Kaisha: OSK)」というもう1つの海運会社も誕生していた。1877年の西南戦争の際には、大阪が兵站基地となっていたが、この士族による内乱をきっかけに、瀬戸内海には海運業 を営む船主が続出した。ところが船主間の競争が激化したため、住友家の総理人、広瀬宰平(ひろせ・さいへい、1828―1914年)が中 心となって、船主55人が合同して「大阪商船会社」という会社を設立したのである。この会社は汽船93隻を保有し、日本郵船会社よりは保 有船こそ多かったが、大半が小型船であった。大阪商船は発展し、1964年に三井船舶(Mitsui Steamship)と合併して「大阪商船三井船舶(Mitsui O.S.K. Lines)」となり、更に1999年にはナビックス・ライン(Navix Line)と合併して「商船三井(Mitsui O.S.K. Lines)」となり、今日に至っている。

 日本郵船と大阪商船は、英国におけるCunard LineとP&O社に相当する船会社であると考えることができる。しかし両社は、過去において大日本帝国を支えたばかりではなく、今日においても巨大海運企業であ り続けている点が、Cunard LineやP&O社と大きく異なる点である。

 当時の日本は、朝鮮がヨーロッパ諸国、とりわけロシアの支配下に入ることを恐れていた。なぜなら、日本の近隣にある朝鮮がロシアに支 配されることになると、日本の防衛が極めて困難になると考えたからである。そこで日本は、朝鮮を日本の支配下において、欧米列強と対抗し ようと考えた。一方、中国(清)は、朝鮮を従来から朝貢国(属国)の1つとしており、そのため、朝鮮を巡って日本と中国は対立を深めてい くこととなった。

 1894年5月、朝鮮でキリスト教に反対する宗教を信仰する農民による大規模な暴動が発生した(東学の乱、甲午農民戦争)。朝鮮は宗 主国である中国に暴動鎮圧のための派兵を要請したが、日本も居留民保護を名目に朝鮮に出兵した。そして7月に日清両軍は衝突し、「日清戦 争(The First Sino-Japanese War)」が始まった。

 この戦争では、陸軍が112隻、海軍が24隻の商船を徴用した。日本郵船、大阪商船が船舶を提供したことは言うまでもない。こうした 船は「御用船」と呼ばれた。御用船は、兵員のべ63万1600人、軍馬5万6100頭、その他の軍需物資を輸送した。

 戦争は約8ヶ月間続いたが、日本は中国に圧勝し、中国に朝鮮の独立を認めさせ、台湾、遼東半島等を得た。欧米列強は、弱体化した中国 に群がり、中国は日本や欧米列強の半植民地になって行った。

 しかしロシアは日本が中国で勢力を拡大することを好まず、ドイツ・フランスと共に、日本に遼東半島を中国に返還するよう、圧力をかけ てきた。新興国家の日本は、独力でこの3国に対抗するだけの力を持っていなかったため、やむを得ず遼東半島を手放した。この出来事は歴史 上「三国干渉」と呼ばれるが、日本国内では「三国干渉」に対する憤激の声が高まり、日本政府は一層の軍備増強と国力の充実を図らなければ ならなくなった。

 一方この頃から、ヨーロッパでは「黄禍論(Yellow Peril)」、すなわち人種的に劣っているはずの黄色人種が世界やヨーロッパに災いをもたらすであろうという政治宣伝がなされ始めた。初期の提唱者は、英国のQueen Victoria(1819-1901年)の孫に当たる白人優位主義者のドイツ皇帝、Kaiser Wilhelm II(1859-1941年)であった。黄禍論は当初、中国人を標的にするものであったが、日本の台頭と共に、やがて日本人に矛先が向けられることとなって行った。

 1896年3月、日本政府は「航海奨励法」と「造船奨励法」を制定して、積極的に海運・造船を奨励し始めた。日本郵船は政府の後援の 下、「ヨーロッパ航路」、「北米(シアトル)航路」、「オーストラリア航路」の3航路を一挙に開設して、大量の新船を発注するという思い 切った決断をした。国の補助を受けていたとは言え、船舶の建造費だけでも資本金の1.5倍以上に達する大事業であった。

 1896年3月15日、土佐丸(ex-Islam、5,402gt、1892-1925)によってヨーロッパ航路(横浜―神戸―下関 ―香港―コロンボ―ボンベイ―ポート・サイド―ロンドン―アントワープ航路)が開設された。4本マストの土佐丸は、日本郵船の前身である 郵便汽船三菱会社の初代社長であった岩崎弥太郎の出身地「土佐(現在の高知県)」に因んで命名された。僚船は和泉丸(3,235gt、 1894-1904)、鹿児島丸(ex-Port Albert、4,370gt、1891-1918)、旅順丸(ex-Port Hunter、4,794gt、1892-1921)だった。この航路向けには、神奈川丸級6隻(神奈川丸(6,151gt、1896-1934)、博多丸 (6,151gt、1897-1933)、河内丸(6,099gt、1897-1933)、鎌倉丸(7,850gt、 1897-1933)、讃岐丸(6,117gt、1897-1934)、常陸丸(6,172gt、1898-1904))、若狭丸級7隻 (若狭丸(6,266gt、1897-1933)、因幡丸(6,192gt、1897-1935)、丹波丸(6,102gt、 1897-1934)、備後丸(6,421gt、1897-1931)、佐渡丸(6,219gt、1898-1934)、阿波丸 (6,309gt、1899-1937)、信濃丸(6,388gt、1900-51))が建造された。11隻は英国で建造されたが、常陸 丸と阿波丸の2隻は、三菱長崎造船所に発注された。

 1896年8月1日、三池丸(3,312gt、1888-1930)によって北米航路(神戸―横浜―ホノルル―シアトル航路)が開設 された。これはGreat Northern Railwayから日本郵船に航路開設の提案があったもので、日本とニューヨークをシアトル経由で結ぶルートだった。シアトルの街は、本航路の開設により発展することと なった。僚船は山口丸(ex-Pak Ling、3,320gt、1890-1916)、金州丸(ex-Kintuck、3,967gt、1891-1904)だった。この航路向けには、加賀丸等4隻(加賀丸 (6,301gt、1901-34)、伊豫丸(6,320gt、1901-33)、安藝丸(6,444gt、1903-34)、丹後丸 (7,463gt、1905-43))が建造された。

 1896年10月3日、山城丸(2,528gt、1884-1910)によってオーストラリア航路(横浜―神戸―門司―長崎―香港― 木曜島―タウンズビル―ブリスベーン―シドニー―メルボルン航路)が開設された。この山城丸は、日本とハワイ王国(Kingdom of Hawaii、1795―1893年)との間の約定に基づく官約移民をハワイに輸送した船として知られている。親日的なハワイがアメリカ 合衆国に併合されたのは1898年のことであり、併合以降、ハワイへの日本人移民は締め出されていった。1900年、アメリカは契約移民 のハワイ入国を禁止した。

 当時、オーストラリア北部の木曜島には、真珠取りをする日本人漁師が住み着いており、オーストラリア航路は当初、日本からの移民輸送 による収益が期待されていた。しかしオーストラリア政府の「白豪主義(White Australia policy、1901―73年)」政策により、日本からの移民は許されず、最終的には専ら貨物輸送による収益に頼ることになった。山城丸の僚船は近江丸 (2,473gt、1884-1910)、東京丸だった。この航路向けには、春日丸級、3隻(春日丸(3,797gt、 1898-1935)、二見丸(3,841gt、1898-1900)、八幡丸(3,818gt、1898-1934)))が英国で建造 された。二見丸は1900年8月にフィリピンのミンドロ島で座礁・全損したため、代船として熊野丸(5,076gt、1901-27)が 建造され、1903年にはほぼ同型の日光丸(5,539gt、1903-45)も建造された。

 また日清戦争の結果、日本は中国沿岸と長江の航路権を取得し、台湾の領有権も取得した。そこで大阪商船が、中国・台湾航路の経営に乗 り出すことになった。日本が中国への侵略を拡大させていくにつれ、中国・台湾航路は発展していくことになった。

3.東洋汽船

 1896年、航海奨励法により、注目すべき船会社が誕生した。傑出した実業家の1人として知られる浅野総一郎(あさの・そういちろ う、1848―1930年)が設立した「東洋汽船会社(Toyo Kisen Kaisha: TKK)」である。

 浅野総一郎は、富山県の寒村の出身で、少年時代から商売が大好きだったという。24歳の時、東京に出てきて、夏、通行人に一杯の冷た い砂糖水を売る商売を始めた。次に横浜で竹の皮屋を始め、薪炭商になり、石炭商になった。やがて共同運輸会社の経営に関わる一方で、セメ ント会社の経営も始めた。そして磐城炭鉱、東京ガスの経営にも関わり、日本の産業革命の進展と共に、浅野の事業は拡大して行ったのであ る。

 1886年7月15日に浅野は、英国Denton, Gray & Co.建造船のBellona(1,098gt、1872-1906)をドイツのDeutsche Dampfschiffs Rhederei Zu Hamburg (Kingsin Linie)から購入して、日之出丸に改名した。そして9月11日に「浅野回漕部」を設立した。「回漕」とは、海運業の意味である。したがって浅野回漕部とは、浅野海運部 門といった意味になる。

 日之出丸の最初の仕事は、屯田兵(1875―1904年)と呼ばれた北海道の警備と開拓のための兵士2000人を、北海道に輸送する ものだった。日之出丸は石炭、米などを輸送して、浅野回漕部は発展した。浅野は1888年、北海道に札幌麦酒会社(現、サッポロビール株 式会社)も設立している。浅野の事業欲は留まるところを知らなかった。

 日清戦争後、浅野は外国航路を経営する船会社を持つという長年の夢を実現する決心をした。その資金を捻出するため、浅野回漕部を売却 し、1896年に「東洋汽船会社」を設立した。

 東洋汽船の社長となった浅野は渡米し、ニューヨークでPM社社長のCollis Potter Huntington(1821―1900年)と面談し、香港―横浜―サンフランシスコ間に、東洋汽船の船舶3隻を配船することについて同意を得た。日本郵船でさえも進出 することができないでいたサンフランシスコ航路に、新設会社である東洋汽船の参入が許されたのであるから、これは極めて異例のことだった と言える。

 浅野はその足で英国に渡り、英国の造船所2社に、日本丸(6,307gt、1898-1929)、亜米利加丸(6,307gt、 1898-1944)、香港丸(6,364gt、1899-1935)の3隻を注文した。日本丸は1898年12月25日に、香港からサ ンフランシスコに向けて出航した。この船は、Canadian Pacific LineのRMS Empress of India(5,905gt、1891-1923)、RMS Empress of Japan(5,905gt、1891-1926)、RMS Empress of China(5,905gt、1891-1912)とほぼ同型のクリッパー型の船体で、船内で電燈が使用されていた点で、当時としては画期的な船だった。サンフランシスコ 航路は、Southern Pacific Railroadと連絡していた。1900年、P&O社から予備船として姉妹船のRohilla(3,501gt、1880-1905)と Rosetta(3,876gt、1880-1908)を購入して、それぞれ「ろひら丸」、「ろせった丸」と改名した。

 1900年、中国(清)で義和団を中心とする外国人排斥運動が起こり、ドイツ公使や日本公使館員が殺害された。そこで、日本、アメリ カ、英国、ロシア、フランスなどは、軍隊を中国に派遣して、義和団の乱を鎮圧した(北清事変)。

 ところがロシアだけは、義和団の乱の鎮圧後も大軍を満州に留め、更に朝鮮半島に勢力を拡大しようとしていた。ロシアの勢力拡大を恐れ た日本は、1902年に「日英同盟(Anglo-Japanese Alliance)」を英国と結んでロシアに対抗したが、ロシアは朝鮮に軍事基地の建設をし始めた。かくして満州と朝鮮の支配を巡って日本とロシアは対立し、遂に1904 年2月に「日露戦争(Russo-Japanese War)」が始まったのである。

 この戦争は、新興の日本が陸軍大国であるロシアに挑んだ戦争であり、日本にとっては国家の存亡をかけた戦いであった。海運会社は全面 的に国に協力し、東洋汽船は保有する全ての船舶を国に提供した。

 日本郵船は73隻を提供し、うち11隻を喪失した。陸軍に徴用された常陸丸は、1904年6月15日、ウラジオストク艦隊の砲撃によ り沈没し、乗組員・兵士約1000人が犠牲になった悲劇の船として知られている。また信濃丸は、仮装巡洋艦として使用されていたが、 1905年5月27日早朝、九州に近い五島列島沖で、北上するバルチック艦隊を発見し、「敵艦見ゆ」と打電して、日本を勝利に導いた船と して有名である。この日、対馬沖で東郷平八郎(とうごう・へいはちろう、1847―1934年)が率いる日本の連合艦隊は、ロシアのバル チック艦隊を全滅させたのである。旗艦の三笠(15,140t、1902-23)は、英国のバロー(Barrow-in- Furness)で建造された船であり、現在、横須賀に保存されている。

 日本海海戦(Battle of Tsushima)が行われていた5月27日、東洋汽船の取締役会は、天洋丸(13,454gt、1908-33)と地洋丸(13,426gt、1908-16)の建造を 決議していた。

 当時、サンフランシスコ航路には、ライバルのPM社が、KoreaとSiberiaという船を就航させ、更に Manchuria(13,639gt、1904-52)、Mongolia(13.639gt、1904-46)という大型船も投入し てきた。そこで東洋汽船は、これらの船と戦う決心をしたのである。

 天洋丸はタービン機関を採用した重油専焼船であり、当時、先端の技術を用いた客船だった。しかも建造したのは三菱長崎造船所だった。 これは日本の造船技術が、当時、世界の先端の英国の水準に近づいたことを意味した。とは言え、天洋丸に搭載されたタービン機関は英国製で あり、日本製のタービン機関が搭載されたのは、三番船の春洋丸(13,377gt、1911-36)だった。

 日露戦争における日本の勝利は、当時、ヨーロッパ人の圧制に苦しんでいた有色人種に独立への希望を与えるものでもあった(インド、エ ジプト等)。しかし欧米諸国では黄禍論が広がり、アメリカのカリフォルニア州では、1906年、日本人学童を東洋人学校(The Oriental Public School for Chinese, Japanese, and Koreans)に転校させる等の日系移民排斥の動きが始まった。中国や朝鮮では、勢力を拡大する日本に対する抵抗が強まって行くことになった。

 この戦争により、日本は、満州(中国東北部)、関東州(遼東半島)、朝鮮、樺太南部(現、サハリン南部)の支配権を獲得したことか ら、これらの地域と日本本土(内地)を結ぶ航路が整備されることになった。1907年には中国沿岸航路を経営する「日清汽船」という会社 が設立され、1910年に朝鮮(大韓帝国)が日本の植民地となってからは、「朝鮮郵船」という国策会社も設立された(1912年)。欧米 諸国の植民地の大半は、本土から遠く離れたアフリカ、アジアにあったため、本土と植民地を結ぶ航路には、所謂「遠洋定期船」が走ってい た。しかし日本の植民地・海外領土は、全て日本の周辺にあったことから、「遠洋定期船」というよりは、むしろ「フェリー」として分類すべ き船が、日本の植民地航路に就航していた。これらの船は「移民船」としての性格も有していたと言って良い。1912年には、中国では孫文 (1866―1925年)による中華民国が建国され、清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(1906―67年)は退位を余儀なくされて、中国の 王朝支配体制は終わりを告げた。1915年には、南満州鉄道の子会社、「大連汽船」が設立され、大連を基点に中国沿岸を貨客船で結び始め た。

 遠洋航路では、日本郵船、大阪商船、そして東洋汽船が、3大海運会社として発展していくこととなった。この3大海運会社の船は、当時 「社船」と呼ばれ、それ以外の船会社の保有する「社外船」とは、区別されていた。

 1905年12月、東洋汽船は英国船Glenfarg(3,647gt、1894-1914)を傭船して南米西岸航路を開設した。南 米への日本人移民は、日露戦争後に本格化し、移民会社である皇国殖民合資会社が傭船した笠戸丸(ex-Potosi, Kazan、6,167gt、1900-45)による1908年の第1回ブラジル移民は、よく知られている。ブラジルでは1888年に奴隷制度が廃止され、当時、農場では 肉体労働者が不足していた。

 1908年、日本郵船は、ヨーロッパ航路の神奈川丸等が老朽化したことから、賀茂丸級6隻(賀茂丸(8,524gt、 1908-1944)、平野丸(8,521gt、1908-18)、三島丸(8,500gt、1908-34)、宮崎丸 (8,500gt、1909-17)、熱田丸(8,523gt、1909-42)、北野丸(8,515gt、1909-42))を建造し た。

 1909年7月、大阪商船は北米(タコマ)航路を開設し、たこま丸級6隻(たこま丸(5,773gt、1909-44)、志あとる丸 (5,774gt、1909-44)、志かご丸(5,866gt、1910-43)、ぱなま丸(6,058gt、1910-44)、めき 志こ丸(5,785gt、1910-44)、かなだ丸(6,063gt、1911-43))を投入した。この航路は、大阪商船にとって最 初の遠洋定期航路であり、Chicago, Milwaukee, St. Paul and Pacific Railroadと連絡していた。1915年以降、はわい丸級6隻(はわい丸(9,482gt、1915-44)、まにら丸(9,486gt、1915-44)、あふりか 丸(9,476gt、1918-42)、あらびあ丸(9,480gt、1918-44)、ありぞな丸(9,684gt、 1920-42)、あらばま丸(9,695gt、1920-30))と入れ替えた。

 1910年、これまでの航海奨励法に代えて、「遠洋航路補助法」が制定された。同法の下で国の助成を受けていたのは、①東洋汽船、日 本郵船、大阪商船の北米航路、②日本郵船のヨーロッパ航路、オーストラリア航路、ボンベイ航路、③東洋汽船の南米西岸航路だった。

 日本郵船は、1912年、北米航路向けに横濱丸(6,469gt、1912-42)、静岡丸(6,568gt、1912-33)を建 造し、1913年にはヨーロッパ航路向けに香取丸(10,513gt、1913-41)、鹿島丸(10,559gt、1913-43)を 建造、1914年には諏訪丸(11,758gt、1914-43)、八阪丸(10,932gt、1914-15)、伏見丸 (10,940gt、1914-43)を建造した。

 東洋汽船は、1915年、PM社の太平洋航路撤退に伴い、Persia(ex-Coptic、4,381gt、1881-1925) を購入して波斯丸に改名、1916年には姉妹船のKorea(11,810gt、1902-34)、Siberia(11,790gt、 1902-35)を購入して、それぞれ「これや丸」「さいべりあ丸」に改名して、サンフランシスコ航路に就航させた。

 日露戦争後、日本はロシア、フランス、アメリカとの間でそれぞれ協約を結び、日本の韓国支配を承認させることと引き換えに、ロシアの 北モンゴル支配、フランスのインドシナ支配、アメリカのフィリピン支配を承認し、英国とはインド防衛の同盟義務を負っていた。

 ところがヨーロッパでは、日本が協約や同盟を結んだロシア・フランス・英国(三国協商)と、ドイツ・オーストリア・イタリア(三国同 盟)との間で対立が生じていた。1914年6月28日にオーストリアの皇太子Francis Ferdinand (1863―1914年) がボスニアのサラエボでセルビア人青年に暗殺された事件をきっかけに「第一次世界大戦(World War I)」が勃発した。

 日本は日英同盟に基づいて、1914年8月23日にドイツに宣戦布告し、ドイツの植民地であった中国の山東半島の青島や太平洋の南洋 諸島(ミクロネシア)を占領した。こうした作戦においては、徴用された商船が軍隊を輸送した。一方、ヨーロッパ航路に就航していた日本の 商船の中には、戦争の犠牲となった船もあった。

 1915年12月21日、ドイツ風の装飾で知られていた日本郵船の八阪丸は、ポート・サイド付近でドイツ潜水艦U-38の無警告雷撃 を受けて、1時間足らずで沈没した。しかし乗客120人、乗組員162人は全員、無事に避難した。この迅速な避難は、当時、賞賛されたと いう。

 一方、日本郵船の常陸丸は、1917年9月26日、インド洋上でドイツの仮装巡洋艦SMS Wolfの砲撃を受けて拿捕され、爆沈した。船長は入水自殺した。日露戦争で沈没した初代常陸丸に次いで、二代目常陸丸も不幸な最期を遂げたのだった。

 また1918年10月4日には、日本郵船の平野丸は、アイルランド南方で、ドイツ潜水艦UB-91の雷撃を受けて、僅か7分間で沈没 した。この時は、乗客86人、乗組員124人が死亡し、第一次世界大戦における日本商船最大の悲劇となった。

 4年に亘る第一次世界大戦は、ドイツ・オーストリア等の欧州中央勢力の敗北に終わった。第一次世界大戦は、外交や政治の手段に過ぎな かったそれまでの戦争とは全く異なる「総力戦」であった。ヨーロッパはこの「総力戦」により荒廃した。

 ところがヨーロッパから遠く離れている日本とアメリカは、少ない犠牲で戦勝国になることに成功した。とりわけ日本は、ヨーロッパ諸国 が戦争で軍需品・食料品が不足し、船舶も不足したことから、海運業、造船業が空前の活況を呈したのである。日本は、英国、アメリカに次 ぐ、世界第三位の海運国にのし上がり、造船技術も世界最高水準に近づくまでに急成長した。そして、所謂「船成金」と呼ばれる海運業で富を 築いた新興成金が続々と生まれ、その中でも内田汽船社長、内田信也(うちだ・のぶなり、1880―1971年)が有名だった。内田は当 時、30代であったが、莫大な資産を築いて神戸の須磨に豪邸を構え、連日のように大宴会を開いていた。

 日本郵船は、ヨーロッパ航路の八阪丸、宮崎丸、常陸丸、徳山丸、平野丸を戦争で喪失したことから、箱根丸級4隻(箱根丸 (10,423gt、1921-43)、榛名丸(10,421gt、1922-42)、筥崎丸(10,413gt、1922-45)、白 山丸(10,380gt、1923-44))を建造した。この4隻はイニシャルを取って「H型船」と呼ばれた。

 大阪商船もヨーロッパ航路向けに、ろんどん丸(7,191gt、1922-44)、ぱりい丸(7,197gt、1922-34)を英 国の造船所に発注した。

 しかしヨーロッパ諸国が復興するにつれて、日本製品は売れなくなり、当時、日本の主力産業であった紡績業や製糸業は不況に直面するこ ととなった。海運業も、船腹過剰、運賃・船価の下落により深刻な経営難に陥ったのである。海運不況を打開するため、日本郵船と大阪商船 は、合併を模索したものの、これは実現はしなかった。

 この不況に追い討ちをかけることになったのが、1923年9月1日に発生した「関東大震災」だった。この大地震では、東京・横浜一帯 は壊滅し、死者・行方不明者は10万人を超えた。混乱の中で、社会主義者や朝鮮人・中国人が、住民による自警団や警察、憲兵隊により虐殺 されるという事件も発生した。企業の多くと連絡が取れなくなったことから、銀行は手持ちの手形を決済することが不可能となり(震災手 形)、1927年には、多くの銀行が倒産に追い込まれる事態にもなった(金融恐慌)。

 一方、第一次世界大戦の経験を通じて、北太平洋航路の重要性を認識したCanadian Pacific LineやDollar Steamship Company (Dollar Line)は、海運不況を打開するため、同航路に大型の高速船を投入してきた。この影響を大きく受けたのが、サンフランシスコ航路を経営していた東洋汽船であった。

 たちまち経営難に陥った東洋汽船は、第二東洋汽船を設立して、サンフランシスコ航路、南米西岸航路と共に、使用船を第二東洋汽船に引 き継がせ、更に第二東洋汽船と日本郵船を合併させて、遠洋定期船の経営から手を引いたのである。日本郵船は、これや丸、さいべりあ丸、天 洋丸、春洋丸、安洋丸(9,257gt、1913-45)、楽洋丸(9,419gt、1921-44)、銀洋丸(8,600gt、 1921-43)、墨洋丸(8,619gt、1924-39)の合計8隻と、大蔵省委託船の大洋丸を継承した。

 この結果、浅野総一郎により1896年に設立された東洋汽船は、1926年に遠洋定期航路から姿を消すこととなった。もっとも東洋汽 船という会社自体は、1960年に日本油槽船(Nippon Yusosen)と合併するまで、貨物船を運航する会社として存続した。日本油槽船は1964年に日産汽船(Nissan Kisen)と合併して昭和海運(Showa Shipping Co. Ltd)となり、昭和海運は1998年に日本郵船と合併して解散した。

 日本郵船が第二東洋汽船から継承した船は、老朽船だった。そこで日本郵船は、サンフランシスコ航路用に「優秀船」と呼ばれる大型高速 船を3隻建造する計画を立てた。これが、浅間丸、龍田丸、秩父丸(後の鎌倉丸)だった。

 更に外国船会社に対抗すべく、日本郵船は、シアトル航路用に氷川丸(11,622gt、1930-60)、日枝丸 (11,622gt、1930-43)、平安丸(11,616gt、1930-44)、ヨーロッパ航路用に照国丸(11,931gt、 1930-39)、靖国丸(11,930gt、1930-44)、南米航路用に平洋丸(9,816gt、1930-43)を建造した。

 また大阪商船は、南米東岸航路向けに、ぶえのすあいれす丸(9,626gt、1929-43)、りおで志”ゃねろ丸 (9,627gt、1929-44)を建造している。これらの船は、1929年から次々に竣工することとなった。

4.豪華客船時代

 1930年代、サンフランシスコ航路には、日本郵船の大洋丸、浅間丸、龍田丸、秩父丸(鎌倉丸)の4隻の船が就航しており、この航路 は日本商船の花形航路の1つだった。

 大洋丸(ex-Cap Finisterre、14,458gt、1911-42)は東洋汽船から日本郵船が継承した船で、第一次世界大戦の賠償としてドイツから取得したものだった。 Hamburg Sudamerikanische Dampfschiffahrts-Gesellschaft (Hamburg South America Line) のCap Finisterreとして、1911年に竣工した老朽船であった。この船には温室(Winter Garden)が最上層に設置されていた。

 浅間丸(16,947gt、1929-44)と龍田丸(16,955gt、1930-43)は同型船で、三菱長崎造船所で建造された 2本煙突の、当時最高水準の船だった。この頃、「排日移民法(通称、Johnson-Reed Act)」と一般に言われる「1924年移民法(Immigration Act of 1924)」により、日本人移民は「帰化不能外国人(aliens ineligible to citizenship)」とされ、アメリカに移民することは不可能になっていた。したがって、これらの船は移民を対象にはしておらず、上級船客を対象にしていた。西洋人 を誘致する目的から、西洋人の趣味に合わせた装飾が施され、ラウンジ、読書室、ギャラリー、喫煙室、児童遊戯室、運動室、プール、カー ド・ルーム、トーキー映写室、食堂、客室等は、英国の一流デザイナーによる英国風の内装だった。理髪室、美容室、郵便局、銀行(住友銀 行)の他、日本旅行協会の職員を乗船させて、船客の旅行の相談・手配に応じ、浅間丸には松坂屋、龍田丸には高島屋といった百貨店の商品陳 列所(売店)が設けられていた。

 秩父丸(17,498gt、1930-43)だけは横浜船渠で建造された。しかも浅間丸、龍田丸とは外観が異なり、煙突は1本で、主 機関も違うものを搭載していた。船内には日本座敷が設けられ、この船の商品陳列所は大丸という百貨店の売店だった。全長177.77メー トル、幅22.56メートル、深さ12.95メートルで、現代の大型カー・フェリーよりは遥かに小型ではあったが、当時は日本最大の客船 であった。

 当初、本船の船名は「Chichibu Maru」とヘボン式のローマ字で表記されていたが、1938年に日本政府が日本式ローマ字表記法を採用し、これに従い「Titibu Maru」という表記に変更した。ところが、これが「tit(teat)」(=乳首)を連想させるものであることが判り、1939年1月 に慌てて「鎌倉丸」に変更したと言われている。

 当時のパンフレットには、白人モデルを使った写真が多数掲載されていることから、これらの船が専ら欧米人を対象にしていたことを容易 に理解することができる。日本郵船は食事にも力を入れ、フランスからコックを招き、司厨部員に西洋料理の作り方を「事務部員養成所」で教 育した。船上では、フランス料理のフルコースが提供されていた。また、サービスの質を向上させるために、船長や事務長を欧米に派遣して船 客の接待を視察させ、給仕を教育した。こうした努力により、日本郵船のサービスは西洋人乗客に好評だった。当時、日本郵船の客船に乗船し た著名人には、次のような人達がいる。

 Albert Einstein(北野丸、1922年10月)、Johnny Weissmuller(大洋丸、1928年9月)、Charles Spencer "Charlie" Chaplin(諏訪丸、1932年3月 他)、Douglas Fairbanks(秩父丸、1932年9月 他)、Efrem Zimbalist(龍田丸、1933年1月)、Guglielmo Marconi(秩父丸、1933年11月)、Helen Adams Keller(浅間丸、1937年4月)。

 このように日本の客船は黄金時代を迎えていたが、1930年代は決して幸せな時代ではなく、世界は第二次世界大戦に向かって突き進ん でいた。

 1929年10月、アメリカのニューヨークのウォール街の証券取引所で、株式相場が大暴落した。これが「世界恐慌(The Great Depression)」の始まりである。ドイツでは1930年には失業者が300万人を超え、そうした中、実施された9月の選挙で、Adolf Hitler(1889―1945年)率いる国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei(NSDAP))が大勝利を収め、1933年には一党独裁体制を確立した。公共事業や軍備拡張を進めて景気回復に成功し、ドイツ国民の多くが ナチ体制を支持するようになって行った。1936年には、ベルリンでオリンピック大会が開催された。

 日本は第一次世界大戦後、慢性的な不況状態にあり、しかも日本経済はアメリカへの輸出に頼っていたために、世界恐慌によって大きな打 撃を受け、大量の失業者が発生していた。こうした不況に対し、日本政府は十分な対応を取らなかったことから、国民の中で政党政治に対する 不満が高まり、軍部や右翼はテロにより事態の打開を目指すようになって行った。

 1930年、日本郵船は株式の配当ができないほどに業績が悪化した。そこで日本郵船、近海郵船(1923年に日本郵船の近海部門が分 離独立して設立された会社)、大阪商船の3社は、「郵商協約」と呼ばれる航路協定を1931年に締結した。これは①北米航路、南米西岸航 路、ヨーロッパ航路は日本郵船が運航する、②南米東岸航路、中国沿岸航路、大連航路は大阪商船が運航する、③その他の航路では過度の競争 を回避する、ということを内容としていた。当時は独占禁止法のような法律がなかったため、このような航路協定を結ぶことが可能だったので ある。

 1931年9月18日、満州の柳条湖で、南満州鉄道の線路が爆破された。これに対し、満州、関東州、南満州鉄道を警備する関東軍が、 中国軍が線路を爆破したものであると主張し、全満州を占領した。ところが、実は線路を爆破したのは関東軍自身であり、全満州を占領しよう と企んでいた関東軍が自作自演で始めた戦争だったのである。

 この「満州事変(Mukden Incident)」は、日本政府の方針とは無関係に、日本陸軍の出先の部隊に過ぎない関東軍が、勝手に始めた軍事行動だった。1932年、関東軍は「満州国建国」を宣言 し、清朝最期の皇帝、溥儀を執政(後に皇帝)に据えた。犬養毅(いぬかい・つよし、1855―1932年)首相は満州国の承認に消極的で あったため、1932年5月15日、海軍将校により暗殺された(五・一五事件)。この事件により、日本の政党政治は終わり、以後、軍人の 政治的発言力が強まって行くことになる。国際連盟(League of Nations)に満州事変を批判された日本は、1933年3月、国際連盟を脱退した。同年10月、ドイツも国際連盟を脱退。1936年2月26日には、陸軍青年将校らに よるクーデタ(二・二六事件)が発生し、政治家はテロによる生命の危険に絶えず晒されることとなり、陸軍の支持しない内閣の成立は困難に なって行った。

 このような状況の下、日本政府は船質改善助成を行った。これは老齢船を解体して新船を建造する場合に、補助金を支給するというもの で、1932年に「第一次船舶改善助成」、1935年に「第二次船舶改善助成」、1936年に「第三次船舶改善助成」を実施した。これに より、日本郵船が東洋汽船から継承したこれや丸、さいべりあ丸、天洋丸、春洋丸は解体された。また、日本郵船が1896年にヨーロッパ航 路、北米航路、オーストラリア航路を開設した際に建造した、神奈川丸、加賀丸、春日丸等も、同様に解体された。

 1937年、日本政府は「優秀船舶建造助成施設」を実施した。これは老齢船の解体を条件とせずに25隻の船舶(旅客船・貨物船・油槽 船)建造に補助金を支給するものであったが、軍艦への転換を予定するものであった。日本郵船はヨーロッパ航路向けに、新田丸 (17,150gt、1940-43)、八幡丸(17,128gt、1940-44)、春日丸(17,130gt、1940-44)の所 謂「NYK三姉妹船」を建造したが、これは国防強化のための国策船でもあった。内装は「新日本様式」で、外国製品は一切使用しないで国産 品だけで建造された。こうした点に、当時の日本社会の時代精神を感じ取ることができる。更に北米航路向けに、三池丸(11,738gt、 1941-44)、安藝丸(11,409gt、1942-44)も建造されたが、就航はしなかった。政府は1938年に「大型優秀船舶建 造助成施設」も実施し、日本郵船はサンフランシスコ航路向けに27,700gtの橿原丸と出雲丸を建造することにした。

 こうして景気回復が実現し、1937年には日本郵船は空前の利益を出すまでに回復した。ところが同年7月、北京郊外の盧溝橋で、日本 軍と中国の国民党軍との間で衝突が起こり、この事件をきっかけに、日本と中国は全面戦争(北支事変、支那事変、日華事変、日中戦争 (The Second Sino-Japanese War)ともいう)に突入したのである。12月には、日本陸軍は国民党政府の首都、南京を占領したが、この時、多数の中国人非武装戦闘員や捕虜が殺害された(南京事件 (Rape of Nanking))。

 1938年4月、「国家総動員法」が公布され、政府は戦争遂行のために、議会の同意なく物資や労働力を動員できる権限を持つことに なった。中国との戦争は泥沼化し、戦争収拾の目処は全く立たなかった。そこで近衛文麿(このえ・ふみまろ、1891―1945年)首相 が、1938年11月と12月に、この戦争の目的が日本・満州・中国を統合した経済圏である「東亜新秩序(円ブロック)」の建設にあるこ とを発表すると、アメリカがこれに強く反発し、1939年7月には「日米通商航海条約(Treaty of Commerce and Navigation between the United States and Japan)」の廃棄を通告してきた(1940年1月発効)。一方、1939年8月には、日本政府の主導で、日中貿易を行う国策会社「東亜海運」が設立された。また政府 は、「海運統制委員会」を発足させ、海運業界への関与を強めて行った。

 大阪商船は、1939年に南米移民船のあるぜんちな丸(12,755gt、1939-45)とぶら志゛る丸(12,752gt、 1939-42)を三菱長崎造船所で建造した。この姉妹船は、内装は日本様式で、国産品だけで建造されていた。設計者は、和辻春樹(わつ じ・はるき、1891―1952年)博士。また、アフリカ航路向けに報国丸級3隻(報国丸(10,438gt、1940-42)、愛国丸 (10,438gt、1941-44)、護国丸(10,439gt、1942-43))も建造された。

 こうした中、ドイツが1939年9月1日にポーランドに侵攻し、これに対してポーランドと相互援助条約を結んでいた英国・フランスが ドイツに宣戦布告をして、「第二次世界大戦(World War II)」が始まった。当初、日本は大戦不介入の方針を表明していた。11月21日、ヨーロッパ航路に就航していた日本郵船の照国丸は、英国のハリッジ沖で、機雷に触れて沈 没した。第二次世界大戦における日本商船の最初の犠牲である。幸い犠牲者は出なかったが、この機雷が英国のものか、ドイツのものであるか は、未だに不明のままとなっている。

 1940年1月には千葉県野島崎沖で、日本郵船の浅間丸が英国の軍艦HMS Liverpoolの臨検を受け、乗船していたドイツ人船客21人が拉致されるという事件が発生した(浅間丸事件)。当時の日本の新聞は、日本国民の反英感情を煽ったが、 公海上で交戦国の軍艦が中立国の船舶を臨検すること自体は、国際法上認められている行為であった。

 6月にイタリアがドイツ側に立って参戦し、ドイツがフランスを降伏させると、日本国内では、「英国も間もなく降伏し、ドイツの勝利で 第二次世界大戦が終結する」という誤った観測が広まっていった。ドイツ熱に浮かれた日本は大戦不介入の方針を大転換し、1940年9月に は、ドイツ・イタリアとの間で軍事同盟(日独伊三国同盟(Tripartite Pact))を締結して、東アジア・東南アジアに「大東亜共栄圏」を建設することに乗り出した。これにより、英国を支援するアメリカとの対立は、決定的なものとなった。 ヨーロッパ航路は、全面運休するに至った。

 1941年7月に日本軍が仏領インドシナ(現、ベトナム)のサイゴン(現、ホー・チ・ミン市)に進駐すると、アメリカは8月に日本に 対する石油輸出を全面的に禁止した。こうして経済的に追い詰められた日本は、アメリカ・英国との開戦を決意することになる。

 1941年7月26日、アメリカ・英国・オランダとその植民地における日本資産が凍結されたことから、1941年9月から11月にか けて、在外邦人は引き揚げを余儀なくされた。北米からの在外邦人引き揚げには、龍田丸、氷川丸、大洋丸が使われた。また英国の植民地だっ たインドからの引き揚げには日枝丸が使われ、シンガポールからの引き揚げには浅間丸、アメリカの植民地であったフィリピンからの引き揚げ には箱根丸が使用された。北米航路、インド航路、オーストラリア航路、南米西岸航路等は、次々に休止に追い込まれて行った。1941年8 月には、政府は「戦時海運管理要綱」を決定した。近衛首相は日米開戦を躊躇っていたが、もはや開戦は時間の問題だった。

 12月2日、日本郵船の龍田丸は、本国に帰国する米軍将兵を含む141人の船客を乗せて、横浜を出航した。出航直前、木村庄平(きむ ら・しょうへい)船長は、海軍省軍務局の大前敏一(おおまえ・としかず)中佐から、小さな手箱を渡され、日本時間の12月8日午前零時に 箱を開けるよう言い渡された。手箱を開けてみると、中には拳銃1丁と即刻帰航を命じる指令書が入っていた。この時、龍田丸は既にミッド ウェイ島の近くにまで達していたが、急転して14日に横浜に無事戻って来た。この龍田丸の航海は、実は開戦時期を隠匿するための一種の囮 としての航海だったのである。

 1941年12月8日(現地時間7日)、日本海軍の機動部隊は、ハワイの真珠湾の合衆国太平洋艦隊(The U.S. Pacific Fleet)を奇襲した。一方、4日前に海南島三亜港から出発していた陸軍部隊も、同日、英領マレー半島に上陸して、英国軍との戦闘を開始した。こうして日本側が「大東亜 戦争(The Great East Asia War)」と呼称する3年8ヶ月余に亘る「太平洋戦争(The Pacific War)」が始まり、ヨーロッパでの戦争と連動する文字通りの「世界大戦」に発展したのである。

5. 太平洋戦争

 当初、日本は香港、フィリピン、シンガポール、オランダ領東インド(インドネシア)、ビルマ(ミャンマー)などで、アメリカ、英国、 オランダを破り、100日ほどでこれらの国の東南アジア支配を崩すことに成功した。そして日本の戦争目的は、アジアを欧米の帝国主義から 解放し、日本を盟主とする「大東亜共栄圏(Greater East Asia Co-Prosperity Sphere)」を建設することにあると主張した。1943年11月には、中国の南京政府、満州国、タイ、ビルマ、フィリピン、自由インド仮政府の代表者を東京に集めて 「大東亜会議」を開き、欧米からの植民地支配からの脱却や人種差別撤廃を謳い、この戦争への協力を求めた。しかし日本の東南アジアでの真 の占領目的は、石油等の重要資源の収奪にあり、実は欧米諸国に代わってアジア諸国を支配しようとするものであった。当初、東南アジア諸国 は日本を歓迎したものの、やがて抗日運動が組織され、抗日ゲリラ戦が展開されることとなった。

 1942年3月、「戦時海運管理令」が公布され、4月に海運の国家管理を行う特殊法人、「船舶運営会」が設立された。初代総裁には、 日本郵船社長の大谷登(おおたに・のぼる、1874―1955年)が就任した。船舶・船員・造船の全てが国家管理となり、海運の自主性は 事実上、失われた。かくして戦時中の日本の商船は、「陸軍徴用船(A船、519隻)」、「海軍徴用船(B船、482隻)」、そして「船舶 運営会使用船(C船、1528隻)」の3種類に分類されることになり、陸海軍と船舶運営会が船舶を管理・運航することになった。

 「戦時標準型船(戦標船)」と呼ばれる船質の劣る貨物船・油槽船等も、敗戦までに1,036隻建造された。また外国船を取得すること により船腹不足を解消するために1940年7月に設立された国策会社「帝国船舶」が使用していた船が30隻、更にアメリカ、英国、オラン ダ等の敵国の「拿捕船」も123隻あった。

 「優秀船舶建造助成施設」や「大型優秀船舶建造助成施設」により、有事の際に軍艦に改造することを前提に建造された豪華客船は、軍に 買い上げられて航空母艦に改造され、建造中だった日本郵船の橿原丸と出雲丸は、それぞれ「隼鷹(じゅんよう)」「飛鷹(ひよう)」として 竣工した。

 しかし日本の連合艦隊が敗北した1942年6月のミッドウェー海戦(The Battle of Midway)を境に、戦局は大きく転換することになる。

 ミッドウェー海戦で日本は空母を4隻(赤城・加賀・蒼龍・飛龍)失ったため、新田丸、八幡丸、春日丸の所謂「NYK三姉妹船」は、そ れぞれ「冲鷹(ちょうよう)」「雲鷹(うんよう)」「大鷹(たいよう)」という空母に改造された。大阪商船のあるぜんちな丸は、「海鷹 (かいよう)」に改造された。姉妹船のぶら志゛る丸も、空母に改造することが予定されていたが、1942年8月、USS Greenling (SS-213)により雷撃され、沈没した。また、日本からドイツに帰国できなくなっていたNorddeutscher Lloyd(現、Hapag-Lloyd AG)のScharnhorst(18,184gt、1935-44)は、「神鷹(しんよう)」に改造された。

 この頃、日本政府は敵国に抑留されている日本の外交官、在留邦人、友邦国人と、日本やその友邦国(東亜と呼んだ地域)に抑留されてい る敵国の外交官、敵性国人を中立国で交換して帰国させるため、スイス政府の仲介で「交換船」を差し向けている。いずれも徴用が一時的に解 かれた船が使用され、日本郵船が運航を委託された。

 「第一次日米交換船」は、1942年6月から9月にかけて実施され、浅間丸、イタリア船Conte Verde(18,761gt、1923-45)の2隻は、駐日アメリカ大使や駐日ブラジル大使らを乗せて東アフリカのポルトガル領(現、モザンビーク)ロレンソ・マルケ ス(現、マプート)に向かい、アメリカ側の交換船Gripsholm(17,993gt、1925-66)に乗船してきた野村吉三郎駐米 大使(のむら・きちさぶろう、1877―1964年)、来栖三郎(くるす・さぶろう、1886―1954年)遣米大使ら日本の外交官や在 留邦人と交換した。

 「第二次日米交換船」は1943年9月から11月にかけて、帝国船舶の帝亜丸(ex-Aramis、17,536gt、 1932-44)を使って実施された。アメリカ側の交換船は同じGripsholmだったが、インドのポルトガル領マルマゴア(ゴア)が 交換地とされた。

 一方、「日英交換船」は1942年7月から10月にかけて、龍田丸、鎌倉丸を使って行われた。City of Paris(10,902gt、1922-56)、El Nil(ex-Marie Woermann, Tjerimi、7,690gt、1916-53)、City of Canterbury(8,439gt、1923-?)に乗船してきた日本人、タイ人、ドイツ外交官らと、駐日英国大使や駐日ベルギー大使ら敵性国人をロレンソ・マルケス で交換した。

 1943年2月、日本の陸軍部隊はガダルカナル島から退却することを余儀なくされた。ヨーロッパでは、ソ連(ロシア)のスターリング ラード(現、ボルゴグラード)で、30万のドイツ軍は殆ど全滅した。9月には、イタリアが連合軍に降伏した。

 1944年6月、連合軍は、ノルマンディーに上陸した。一方、アメリカ軍は1944年7月にサイパン島に上陸、10月にはフィリピン のレイテ島に上陸した。12月7日には、名古屋沖を震源とする大地震(昭和東南海地震)が発生して、多くの軍需工場が壊滅した。

 1945年2月、ソ連(ウクライナ)のクリミア半島のヤルタでアメリカ・英国・ソ連の間で「ヤルタ協定(Yalta agreement)」が結ばれた。ソ連軍はベルリンを包囲し、追い詰められたHitlerは4月30日に自殺した。そして5月にドイツは無条件降伏し、ヨーロッパでの戦 争は漸く終結した。

 アジアでは、アメリカ軍が3月に硫黄島に上陸、4月には沖縄本島に上陸して凄惨な地上戦を繰り広げ、民間人10万人、日本軍兵士10 万人が死亡した。日本の都市は空襲に晒され、東京は3月に焼夷弾による無差別攻撃を受けて、約10万人が焼死した。

 5月には大本営に「海運総監部」が設置され、全船舶が軍の管理下に置かれたものの、日本の敗戦は目前に迫っていた。

 戦時海上輸送任務に当たった日本の商船のうち、100総トン以上の鋼船の太平洋戦争による喪失隻数(普通海難を除く)を一覧にする と、次のようになる。

 1941年 9隻
 1942年 204隻
 1943年 426隻
 1944年 1,009隻
 1945年 746隻
  合計 2,394隻

 また船員の戦死者・戦病死者・行方不明者は、30,592人に上り、戦時海上輸送任務に当たった船員の43%を占めた。日本郵船だけ でも、船員の犠牲者は5,157人に及んだ。因みに陸軍兵士の消耗率は20%、海軍兵士の消耗率は16%であった。これらの数字から、徴 用された商船員の命がどれだけ軽視されていたかが、容易に理解することができる。

 戦時海上輸送任務に当たった日本の商船は、連合軍捕虜からは「地獄船(Hell Ship)」と呼ばれていた。より正確に言えば、連合軍捕虜を輸送した日本の捕虜運搬船(軍艦・客船・貨物船等)が、「Hell Ship」ということになる。

 太平洋戦争中、日本軍は連合軍兵士約35万人を捕虜にしたが、このうち占領地の現地兵を除く白人捕虜14万人を「捕虜(俘虜)」とし て俘虜収容所に抑留した。占領地の現地兵は、アジア人労働者として使役した。タイ―ビルマ間の泰緬鉄道(Thai-Burma Railway (Death Railway)、415km)の建設では、過酷な労働のために、連合軍捕虜が約13,000人、アジア人労働者が数万人死亡し、国際的に非難されたことは広く知られてい る。

 当時、日本では大量の成人男子が兵士として招集されたことから、労働力不足が深刻になっていた。そこで中学生以上の生徒や女性が軍需 工場に動員され、更には多数の朝鮮人、中国人が強制的に日本に連行されて、炭鉱や鉱山、あるいは土木工事等で働かされていた。この労働力 として連合軍兵士を活用するため、シンガポール等の南方の占領地から、日本に続々と連合軍捕虜が送り込まれたのである。太平洋戦争中に日 本に送り込まれた連合軍捕虜は、約36,000人と推定されている。

 捕虜は船で輸送されたが、この日本への船旅は実に悲惨なものだった。捕虜は船室ではなく、船倉に詰め込まれた。当然のことながら、船 倉には便所は無かった。そこで便所としてバケツが用意されていた。船が揺れてバケツが倒れると、床には汚物が広がった。捕虜はそうした不 衛生な床の上で寝ることを余儀なくされた。たちまち赤痢等の伝染病が蔓延して死者が続出し、中には、あまりの臭気と熱気の中で発狂する者 さえいた。更に捕虜輸送船は、捕虜にとっての友軍である連合軍の機雷・雷撃・空爆による沈没の恐怖にも晒されていた。日本への航海中に戦 病死した捕虜の数は、約11,000人と言われている。

 日本の輸送船は、九州北部の門司を本拠地にしていた。したがって多くの捕虜は、門司港に到着した。現在のJR門司港駅近くの埠頭であ る。日本の内地には、1942年1月から、のべ130ヵ所に及ぶ俘虜収容所が設けられていた。捕虜たちは門司から鉄道により、各地の俘虜 収容所に送られ、炭鉱や鉱山、造船所、工場、港湾などで奴隷労働者して働かされた。陸軍大臣、東條英機(とうじょう・ひでき、 1884―1948年)が示達した訓令「戦陣訓」(1941年1月)によると、日本軍は敵軍の捕虜になることは最大の恥辱として厳禁して いた。したがって当時の日本の軍人の間では、連合軍捕虜に対する蔑視の感情が強かったものと想像される。しかも日本は、捕虜の人道的待遇 を定めた「ジュネーブ条約(The Convention relative to the Treatment of Prisoners of War, Geneva July 27, 1929 (Geneva Conventions、Genfer Konventionen))」に調印はしたものの、批准はしていなかったのである。

 太平洋戦争初期に沈没した捕虜輸送船では、大阪商船の「もんてびでお丸」(7,627gt、1926-42)が知られている。船名か ら明らかなように、元々は南米航路に就航していた移民船であり、同型船には「さんとす丸」(7,267gt、1925-44)、「らぷら た丸」(7,267gt、1926-45)があった。戦時中は海軍に徴用され、輸送船として使われていた。

 1942年6月22日に「もんてびでお丸」はオーストラリア人捕虜1,053人を乗せ、中国の海南島三亜に向けてラバウルを出発した が、7月1日午前3時26分、フィリピンのルソン島北方でアメリカの潜水艦USS Sturgeon (SS-187)の雷撃を受けて沈没し、捕虜は全員死亡した。ところが本船の遭難事故報告書には、捕虜についての記述は殆どなく、日本人乗組員・兵士の消息に終始してい る。それによると、救命艇は3隻全てが転覆したが、日本人乗組員らは2隻の救命艇を起こしてこれに分乗したものの、「もんてびでお丸」は 午前3時34分に沈没。この時点で乗組員9人、兵士11人が行方不明になったという。生存者らは行方不明者の捜索を諦めて、7月2日夕 方、ルソン島に漕ぎ着き、露営。翌日、島民を見つけて、日本の陸軍部隊に連絡するよう頼み、集落内の空き家で休養を取ったが、翌7月4日 に島民や敵敗残兵の襲撃を受け、戦死するものが続出。生存者16人が、何とか陸軍部隊に辿り着き、救助された、という内容になっている。

 このように、捕虜輸送船についての日本側の記録は思いの他少ない。敗戦直前に軍が証拠隠滅を図ったために多くの記録が喪われており、 断片的な情報はあるものの、網羅的な資料や研究書のようなものは存在していない。また捕虜輸送船の被害は、主としてアメリカ軍の雷撃・空 爆によるものであることから、戦後しばらくの間、連合国でもタブー視されてきた。冷戦時代、極東の日本を所謂「西側」に引き込むため、連 合国、とりわけアメリカが日本の戦争責任を曖昧にしたことも影響しているかもしれない。いずれにしても「Hell Ship」は、歴史の闇の中に消えかかっている。

 捕虜輸送中に沈没し、捕虜の犠牲者が多かった船としては、日本郵船の「りすぼん丸」(1942年10月1日沈没)、栗林商船の「す江 ず丸」(1942年11月29日沈没)、会陽汽船の「玉鉾丸」(1944年6月24日沈没)、拿捕船の「真洋丸(ex-Clan Mackay, Ceduna, Tung Tuck, Chang Teh, Pananis)」(1944年9月7日沈没)、拿捕船の「勝鬨丸(ex-President Harrison)」(1944年9月12日沈没)、南洋海運の「楽洋丸」(1944年9月12日沈没)、馬場商事の「順洋丸」(1944年9月18日沈没)、大阪商船の 「豊福丸」(1944年9月21日沈没)、三井船舶の「阿里山丸」(1944年10月24日沈没)、大阪商船の「鴨緑丸」(1944年 12月14日沈没)、日本郵船の「江ノ浦丸」(1945年3月21日沈没)等がある。

 また捕虜は輸送してはいなかったが、連合軍捕虜に対する救援物資の輸送の任務についていた緑十字船の「阿波丸」(11,249gt、 1943-45)が、アメリカの潜水艦USS Queenfish (SS-393)の雷撃を受けて、1945年4月1日に沈没した事件は、「阿波丸事件」として、戦後、大きな政治問題になった。緑十字船として連合国から航行の安全を保障 されていたにも関わらず、阿波丸はアメリカ側の過失によって雷撃され、2,129人が死亡したのである。日本政府の抗議に対して、アメリ カ側から戦争終結後に損害を賠償する旨の連絡があったが、1949年4月、日本の国会は本件に関する請求権放棄の決議を行い、アメリカ側 には損害賠償請求を行わなかったのである。日本郵船には1950年に日本政府から見舞金が支払われ、「阿波丸事件」は一応の決着がつけら れている。

 1945年7月、ドイツのベルリン郊外のポツダムで、アメリカ、英国、ソ連の3首脳がドイツの戦後処理問題等について会談し、7月 26日、日本の戦後処理と日本の無条件降伏を呼びかける共同宣言(ポツダム宣言、The Potsdam Declaration)が発表された。ソ連を和平仲介者とする望みを持っていた日本は、このポツダム宣言を黙殺した。日本は、2月のヤルタ会議において、ソ連がドイツ降 伏の数ヵ月後に日本に参戦することが極秘のうちに取り決められていたことを全く知らなかったのである。

 8月6日に広島に当時の新兵器、原子爆弾が投下されて約20万人が死亡し、8日にはソ連がヤルタ協定に基づいて、日本に宣戦布告し、 満州・南樺太・千島に軍を進めた。翌9日には、長崎にも原子爆弾が投下され、約7万人が死亡した。

 軍部は本土決戦に望みを託して、なおも戦争継続を主張したが、8月10日、昭和天皇(しょうわ・てんのう、1901―89年)は遂に ポツダム宣言受諾を決断し、14日にスイス政府を通じて連合国側に通告して日本は無条件降伏した。日本国民にはラジオにより、15日に日 本の降伏が伝えられた。そして9月2日、東京湾に停泊中のアメリカのUSS Missouri (BB-63)の艦上で降伏文書調印式が行われ、ここに史上空前の惨事となった6年間に亘る第二次世界大戦は終わったのだった。

 この戦争での日本側の兵士・民間人の死者・行方不明者は、約300万人と推定されている。そして日本の遠洋定期船で生き残ったのは、 病院船として使われていた「氷川丸」、ただ1隻に過ぎなかった。日本郵船の氷川丸は、現在、横浜港に保存されている。

Information

本稿は、2014年に私がドイツの雑誌に書いた第二次世界大戦前の日本の遠洋定期船に関する記事(Japanische Ocean Liner- Teil I & II)の日本語での草稿に加筆したものです。所謂「コピペ論文」等への盗用を禁じます(笑)。