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太平洋フェリーの新たなフラグシップ「いしかり」

石山 剛

1、2011年3月11日

「―金曜日、マグニチュード8.4と推定される地震が日本の北部沿岸沖で発生し、東京の建物は揺れ、津波警報が発令された(中略)日本 の気象庁は、震源地は東北地方の宮城県東方であるとしている。地震は午後2時46分に発生し、その後、強い揺れを観測した。―」(朝日新 聞(英語版)号外、2011年3月11日金曜日)

 日本をマグニチュード9.0の巨大地震が襲った時、太平洋フェリーの新しいフラグシップである「いしかり」は、東京港で、メディアや 招待客向けの内覧会を終えた直後だった。船舶愛好家として知られる画家の柳原良平氏が招かれ、彼はプロムナードの壁に即興で船の絵を描 き、署名した。署名の日付は、2011年3月11日だった。

 12日に仙台、13日に苫小牧で同様のメディア向けの内覧会が開催され、3月13日に「いしかり」は就航する予定になっていた。しか しこの地震により、全ての行事は中止となり、全便が欠航を余儀なくされる事態となった。「いしかり」は直ちに東京港を出港し、津波による 被害を受けることはなかった。

2、太平洋フェリー

 太平洋フェリーの前身である太平洋沿海フェリーは、1970年10月20日に、日本の中部にある4番目に大きな都市、名古屋市に設立 された。名古屋鉄道という鉄道会社の関連会社であり、太平洋沿海フェリーとは、太平洋の沿海のフェリーという意味。1972年に第1船の 「あるかす(9,779総トン)」が、名古屋と日本の南部の九州という島にある大分との間で運航を開始した。

 1973年には「あるびれお(9,779総トン)」、「あるなする(6,934総トン)」、「あるごう(6,949総トン)」が相次 いで名古屋―大分航路に就航した。

 名古屋―仙台―苫小牧航路が開設されたのは、1973年4月。「あるびれお」が名古屋―大分航路から同航路に移り、名古屋と東北地方 の中心都市である仙台、そして日本の北部にある北海道という島を結ぶこととなった。6月には「あるかす」も僚船として同航路を走り始め た。

 1代目の「いしかり(11,880総トン)」が名古屋―仙台―苫小牧航路に就航したのは、1974年12月23日のことだった。 1975年6月には姉妹船の「だいせつ(11,879総トン)」が就航した。いずれも内海造船瀬戸田工場の建造で、あるかす級を拡大改良 したものだった。「いしかり」も「だいせつ」も、北海道の地名に因んで命名されたもので、1980年には両船とも船体を12.5メートル 延長し、総トン数は12,853総トンに増加した。

 一方、名古屋―大分航路では、1975年5月に「あるなする」と「あるごう」が、紀伊半島にある那智勝浦への寄港を開始した。

 ところで1973年と1978年の2度の石油危機は、日本のフェリー業界にも大きな影響を与え、太平洋沿海フェリーも、その影響から 免れることはできなかった。1975年12月、「あるなする」は日本カーフェリーに売却された(「えびの(6,916総トン)」に改 名)。そして1980年4月、太平洋沿海フェリーは遂に赤字航路になっていた名古屋―那智勝浦―大分航路を休止し、「あるごう」を係船 し、11月に関西汽船に売却した(「フェリーこがね丸(6,949総トン)」に改名)。

 そして経営再建を果たすために、1982年4月8日に名古屋鉄道の子会社として新たに太平洋フェリーが設立され、太平洋沿海フェリー の船舶、航路等の資産が太平洋フェリーに営業譲渡された。太平洋フェリーは、「あるかす」「あるびれお」「いしかり」「だいせつ」の4隻 の船を使って、名古屋―仙台―苫小牧航路の経営に専念することとなった。

 1985年1月、太平洋フェリーは「だいせつ」を、札幌に本拠を置く東日本フェリーに売却した(「ばるな(12,855総トン)」に 改名)。この1985年という年は、日本経済の転換点となった年であり、9月の「プラザ合意」以降、経済は急騰した。そしてベルリンの壁 が崩壊した1989年には、日本のバブル経済は頂点に達した。

 こうした世相を反映して、太平洋フェリーは豪華なクルーズフェリーを投入することを決意した。手本としたのは、バルト海のクルーズ フェリー。1987年10月26日に「きそ(13,730総トン)」を就航させ(「あるかす」はStrintzis Linesに売却)、1989年10月21日には更に豪華な「きたかみ(13,937総トン)」が就航した(「あるびれお」はStrintzis Linesに売却)。そして1991年3月25日には、最も豪華な「いしかり(14,257総トン)」が就航した(「いしかり(I)」は Strintzis Linesに売却)。「きそ」と「きたかみ」は三菱重工下関造船所で建造されたが、「いしかり(II)」は、「ふじ丸」と「にっぽん丸」というクルーズ船を建造した三菱重 工神戸造船所で建造された。「いしかり(II)」の内装は「カリブの風」をテーマにしており、巨木のある三層吹き抜けのエントランス・ ホールは、とりわけ印象的なものだった。たちまち多くの船舶愛好家の心を掴み、日本の「クルーズ」という雑誌の読者投票で「フェリー・オ ブ・ザ・イヤー」を1992年から2004年まで連続して受賞した。

 ところが1991年には株価や地価が暴落し、バブル経済は崩壊した。日本は長い不景気に突入した。更に2008年9月にリーマン・ブ ラザーズが崩壊し、世界中が不況に苦しむこととなった。

 こうした状況下にあっても、太平洋フェリーは、2005年1月に「きそ(15,795総トン)」を建造し(「きそ(I)」は Hellenic Seawaysに売却)、2月には約3億円をかけて「きたかみ」を改装した。そして2009年11月24日、三菱重工下関造船所で新たな女王の建造が始まった。船は 2010年8月26日に進水し、太平洋フェリー社長、渡邊哲郎が「いしかり」と命名した。この「いしかり(III)」の就航日は、 2011年3月13日と発表された。古い「いしかり(II)」は中国権益に売却され、2011年3月6日夜、苫小牧港から最後の営業航海 に出発した。

3、いしかり

 「いしかり(III)」の建造費は、約115億円と言われている。基本設計は「きそ(II)」と同じであり、外観もほとんど同じ。し かし両船は全く同じものではない。

 「きそ(II)」の内装のテーマは「南太平洋の調べ」であり、タヒチを想い起こさせるものだった。これに対して「いしかり (III)」のテーマは「エーゲ海の輝き」であり、ギリシャの青い海と空、白い家々を連想させる青と白を基調とする内装となっている。こ の内装を担当したのは、日建設計の内装部門、日建スペースデザインの2人の女性デザイナー、三沢里彩と九十九優子だった。この2人は、こ れまでに日本国内のホテルの内装を手がけていた。

 第1甲板から第4甲板までが車輌甲板で、トラック184台、乗用車100台を収容できる。第5甲板から第7甲板までが旅客用の区画、 第8甲板が船橋を含む船員用の区画となっている。

 船内(第5甲板)に入ると、まず目引くのは、三層吹き抜けのエントランス・ホールにそびえる展望エレベーターだ。まるで大理石ででき たギリシャの神殿のようであり、一目で本船の内装のテーマが判ることになる。

 この第5甲板には、案内所の他、売店、大浴場、カラオケスタジオ、ゲームコーナー、キッズルーム、マッサージ機コーナー、ランドリー ルーム等があり、船首に1等船室と特等船室、S寝台、船尾にB寝台とドライバー室がある。

 第6甲板には、船首にロイヤルスイート、スイート、セミスイート、一等船室、特等船室があり、船体中央から船尾にかけては公室となっ ている。軽食コーナー「ヨットクラブ」、「ピアノステージ」、「グリーンステージ」、展望通路「プロムナード」、レストラン「サントリー ニ」、そして船尾にラウンジ「ミコノス」という劇場がある。

 そして旅客にとっては最上階となる第7甲板には、船首に特等船室と一等船室、船体中央部に二等船室がある。旅客定員は777人であ り、個室(スイート、特等船室、一等船室)を前の「いしかり(II)」の72室から147室に倍増させている。絨緞敷きの大部屋の二等船 室は、船会社にとっては繁忙期と閑散期の旅客数の増減に対処するための調整弁の役割を果たし、旅客にとっては、とりわけバックパッカーに とっては、安く旅行できる点で便利なものである。しかし近時は個室を希望する客が増えてきているため、4室ある二等船室の定員は、合計で 68人に抑えられている。

 また、身体障害者や高齢者のために、バリアフリーに対応した一等船室を2室用意している。エレベーターも、前の「いしかり(II)」 が1基しか有していなかったのに対して、新しい「いしかり(III)」には展望エレベーターを含めて4基用意された。

 ロイヤルスイート、スイート、セミスイートは全て洋室であるが、特等船室、一等船室には和室も用意されている。船全体が現代的な西洋 風の空間であるのに対して、この和室の中だけは日本の中世のような空間になっている。こうしたことは日本の現代的なホテルや住宅などでも ごく普通に見られることだが、外国人の中には珍しいと感じる人もいるかもしれない。特等船室と一等船室には、トイレとシャワーが用意され ているが、一等船室にはバスタブがない。

 「いしかり(III)」の特徴として、徹底した防振対策が取られている点が挙げられる。採用したのは、JFEエンジニアリングの 16PC2-6Bエンジン。低振動であるばかりではなく、前の「いしかり(II)」よりも二酸化炭素の排出量を10%、窒素酸化物の排出 量を30%削減している。また、フィン・スタビライザーを強化して、横揺れも逓減している。

 以上が、新しい「いしかり(III)」の客観的な解説である。「プールはないが大浴場のある豪華クルーズ船」と描写することが可能 だ。

 しかし前の「いしかり(II)」と新しい「いしかり(III)」を比較すると、私の意見では、新しい「いしかり(III)」は、何だ か簡素になった印象を受けることを否定できない。例えばレストランは、前の「いしかり(II)」では船尾にあり、広々としていたのに対 し、新しい「いしかり(III)」では右舷にあって細長い。そのために壮大な印象は受けないものとなっている。また劇場は、新しい「いし かり(III)」では船尾にあるものの、無駄をそぎ落としたために、キリスト教の質素な教会の礼拝堂のような作りになっている。以前の 「いしかり(II)」の劇場は、ナイトクラブ風の豪勢な内装だった。

 要するに、前の「いしかり(II)」は20年前のバブル景気を反映した豪華なフェリーであったのに対して、新しい「いしかり (III)」は、現在の日本社会を反映していると言えるのかもしれない。

4、エピローグ

 2011年3月11日に巨大地震と巨大津波が発生し、そして12日から15日にかけては、東京電力福島第一原子力発電所の4つの原子 炉建屋が相次いで爆発した。3基の原子炉はメルトダウンし、大量の放射性物質が放出され、日本の国土と太平洋は汚染された。

 太平洋フェリーは、3月23日から「いしかり(III)」と「きそ(II)」を使って、名古屋と苫小牧の間で貨物のみの取扱を開始し た。これが「いしかり(III)」の事実上のデビューとなった。震源地に近い仙台港は、津波により大きな被害を受けたために、当初は寄港 することができなかった。通常運航を再開したのは、6月5日。しかし福島第一原子力発電所の沖では、船舶は大きく迂回して運航することを 余儀なくされている。

 不況、地震、津波、そして核の危機。これらが「いしかり(III)」に暗い影を落としていることは否定できない。太平洋フェリーは現 在、正に正念場に直面しており、日本国民もまた正念場に直面している。こうした中で、「いしかり」は毎日、名古屋―仙台―苫小牧航路を走 り続けている。

以上

Information

 本稿は、2012年3月にドイツの雑誌「Ferries」に発表した記事の日本語の草稿です (ISHIKARI- Das neue Flaggschiff von Taiheiyo Ferry, FERRIES, Marz 2012, Duetscher Fahrschiffahrtsverein e. V., 2012)。日本語として多少ぎこちない文章になっていますが、これは欧文で書くことを予定して書いた下書きであるためです。ご了承ください。

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