HOME > コラム > 英国フェリー事情 ドーバー海峡のフェリー

英国フェリー事情 ドーバー海峡のフェリー

石山 剛

島国である英国に親しみを感じている船舶ファンは少なくないことだろう。島国である以上、当然のことながらフェリー航路が発達してい る。日本とは異なり、英国のフェリー航路網は英国本土から放射状に伸びている点が特徴となっており、次の4つに分類することができる。イ ギリス海峡東部(ドーバー海峡)、海峡西部、アイリッシュ海、そして北海である。今回は「イースタン・チャンネル」あるいは「ショート・ シー」等とも呼ばれる、ドーバー海峡のフェリー事情を概観してみることとしよう。

鉄道連絡船の時代

 ドーバー海峡に面する英国側の港町には、東からラムズゲート、ドーバー、フォークストン、ニューヘブンがあり、大陸側にはゼーブルー ジュ、オーステンド(ベルギー)、ダンケルク、カレー、ブーローニュ、ディエップ(フランス)が対峙している。この中で最も狭くなっている 部分がドーバー・カレー間であり、古くから様々な船が英国と大陸とを結んできた。

 鉄道連絡船(トレイン・フェリー)は19世紀から既に始まっていたが、20世紀に入り、SE&CRが運航したザ・クィーン (1676総トン、1903年)の就航は特筆すべき出来事だった。この世界最速の海峡横断汽船は大成功を収め、同一等級の船がウイリア ム・デニー&ブラザーズのダンバートン造船所に次々と発注された。1905年にはオンワード、インビクタ、1907年にはエンプレス、ビ クトリアが就航し、外輪汽船に取って代わって行った。実は同時期、この造船所では日本の青函鉄道連絡船向けに2隻の姉妹船、比羅夫丸、田 村丸(いずれも約1480総トン、1908年)を建造していた。青函連絡船が英国生まれの船から始まったという事実は興味深い。

 当時の船は、昔ながらの階級制度を反映したものとなっていた。召使を従えた王族や貴族、政府高官、ロンドンの劇場のスター達が、大陸 連絡船特急(コンチネンタル・ボート・エキスプレス)という列車に乗ってドーバーに到着し、豪華なホテルのロビーで船が出るのを待ち、そ して乗船するや1等の豪華な設備を利用したものだった(約1000人収容)。2等(約400人収容)は、主として召使や使用人、労働者階 級向けのものだった。

 第一次世界大戦を経て、1927年からはSE&CRの後身サザン鉄道とフランスのノ―ル鉄道が共同で、ロンドン(ビクトリア 駅)とパリ(ノ―ル駅)との間で「ゴールデン・アロー」の運行を始め、ドーバー海峡をカンタベリー(1929年)という名の英国近海で最 も豪華な客船が結んでいた。第二次世界大戦後、1946年就航のインビクタ(4178総トン)が引き継ぎ、1972年の「ゴールデン・ア ロー」廃止まで、ドーバー・カレー間を結んでいた。

カー・フェリーの出現

 ところで現代において客船の主流となっているカー・フェリーがドーバーに出現したのは、何時頃のことだろうか。映画『タイタニック』 (1997年)の中で、大西洋横断定期船だったタイタニック(1912年)に自動車が積み込まれる場面があったが、実は20世紀の初頭か ら、船は例外的に自動車を輸送していた。しかしこの海域で自動車輸送が注目されたのは、第一次世界大戦後のことである。

 カー・フェリーの萌芽は、スチュワート・M・タウンゼント船長が、1928年7月に石炭船アーティフィサー(386総トン)を使って ドーバー・カレー間で自動車所有者のための運航を特別に始めたことに始まると言って良いだろう。運航初年に80ポンドの利益を出したとい う。これにサザン鉄道が対抗して、海峡横断用の車輛フェリーとして特別に建造したオートキャリアー(1931年)をドーバー・カレー航路 に投入し、カー・フェリー時代が始まった。しかし本格的なカー・フェリー時代の到来は、第二次世界大戦の終結を待たなければならなかっ た。

 1946年から50年にかけて、フランスはニューへブン・ディエップ航路にリフト・オン、リフト・オフの3隻のカー・フェリーを投入 した。ナント、レンヌ、ブレストである。これらのフェリーは60台までの乗用車を積載することができたものだが、運転者が乗船することは 許されず、別の旅客船で海峡を横断しなければならなかったという。

 夏の繁忙期には、鉄道連絡船が臨時カー・フェリーとして使われることが少なくなかったが、SNCF(フランス国鉄)が1958年に カー・フェリー運航に本格参入し、1962年からはタウンゼント・カー・フェリーズがドーバー・カレー間に、フリー・エンタープライズを 投入した。この船は、キュナードのクルーズ船、カロニアの影響を受けて青緑色に塗装したものだったが、船尾から荷役し、また貨物車輛の利 用を見越して、車輛甲板の頭上高が高いことを自慢としていた。1965年にはロール・オン、ロール・オフのフリー・エンタープライズⅡが 就航した。

 60年代に入り、海峡トンネルの建設の是非を巡って議論がなされるようになり、英国、フランス、ベルギーの3カ国ではフェリー建造へ の投資が抑制されるようになっていた。しかし鉄道連絡船は次第に時代遅れのものとなり、一方、交通量が増大していたことからカー・フェ リーの建造が次々と進められた。

海峡フェリーの新世代

 海峡フェリーの新世代は、いずれも2層のトラック用甲板を持ち、十分な頭上高を持っていることを自慢としていた。「フラグシップ・ サービス」を謳い文句にするシーリンクが運航するセント・アンセレム、セント・クリストファー、「ブルーリボン・サービス」を謳い文句に するタウンゼント・ソーレセンのスピリット・オブ・フリー・エンタープライズ、プライド・オブ・フリー・エンタープライズ、そしてヘラル ド・オブ・フリー・エンタープライズ等がそれであった。

 海峡トンネルの建設が確実となり、シーリンクは1984年の民営化後、シーリンク・ブリティッシュ・フェリーズとなり、1990年に はスウェーデンのステナ・ラインに2億5900万ポンドで買収された。この価格は簿価を著しく超過するものであり、更に新航路の開設や シーリンクの多額の負債の弁済に巨費を投じたため、ステナはたちまち経営危機に陥り、約1000人の従業員が整理解雇され、フォークスト ン・ブーローニュ航路が閉鎖される騒ぎとなった。

 1992年、シーリンク・ステナ・ラインはステナ・シーリンク・ラインに改称したが、経営方針を巡ってシーリンクの流れを汲むフラン ス側と対立し、フランス側はシーフランスという新会社を設立した。そこでステナ・シーリンク・ラインは「シーリンク」の名称を外して、ス テナ・ラインという商標を用いることで対抗した。

 一方の海峡フェリーの雄、タウンゼント・ソーレセンは、親会社のヨーロピアン・フェリーズ・グループが石油価格の暴落した米国で投資 に失敗し(1986年)、英国の最大手P&Oに助けを求めることとなった。ところがP&Oグループの傘下に入った 1987年、悲劇が襲ったのだった。ヘラルド・オブ・フリー・エンタープライズの転覆沈没事故である。

 この船は上に跳ね上がる普通のバウ・バイザーではなく、水平に開く扉を船首に装着した最初の船だった。1987年3月6日早朝、ベル ギーのゼーブルージュからドーバーに向けて出港した時、ヘラルドの船首の扉は広く開いたままだったのである。速力を上げたところ、すぐさま 海水が車輛甲板に流れ込み、安定を失った船はゼーブルージュ港の外で転覆・沈没した。乗員・乗客193人が死亡し、英国海域における最悪の フェリー事故となった。

 事故後の調査では、安全性を軽視して利益を追求する会社の経営姿勢が厳しく批判された。船体からは「タウンゼント・ソーレセン」の名 が消し去られてP&Oヨーロピアン・フェリーズに改称し、船体塗装も派手なオレンジ色から真面目な群青色に変更された。

 1994年の海峡トンネル(ユーロトンネル)の開通は、予想通り、海峡フェリーに大打撃を与えることとなった。ベルギーは古くから高 速船をオーステンド・ドーバー間に就航させてきたが、1981年に米国ボーイング社のジェット・フォイル、プリンセス・クレメンタインと プリンセス・ステファニーを就航させ、同航路を100分で結んでいた。運航当初より費用がかかり過ぎ、政府の多額の補助金なしでは運航継 続が難しいと言われてきたもので、1997年、遂に運航を停止してしまった。しばらくオーステンドに係船されていたが、現在、日本の東海 汽船がそれぞれ「虹」「夢」の船名で東京と伊豆諸島を結んでいる。

 一方、P&Oヨーロピアン・フェリーズとステナ・ラインは、海峡トンネルに対抗すべくP&Oステナ・ラインを 1998年3月に設立した。P&O側は8隻のフェリー、ステナ側は6隻のフェリーを提供し、それぞれ4人の役員を出すというもの だったが、6対4の比率による合弁事業はP&O側に有利なものだった。しかし両社の船員は使う用語も異なり、決して顔を合わせる こともない有様で、当初からこの合弁事業の成功は疑問視されていた。2003年、合弁は大方の予想通り解消され、P&Oフェリー ズがドーバー・カレー航路を運航することとなり、ドーバー・ゼーブルージュ航路は廃止となった。1500万ポンドの経費節減となったとい う。

現在の海峡フェリー

(1)ラムズゲート港

 ケント州南部のラムズゲートは、以前はサリー・バイキング・ラインの本拠地として知られていた。しかしサリーは、オーストラリアの高 速船事業者のホリーマンが経営参加してホリーマン・サリーの商標で運航していたことがあったものの、事業不振から1998年に脱落した。

 サリーが抜けた後、トランスヨーロッパ・フェリーズが参入し、6隻の船でラムズゲートとベルギーのオーステンドを4時間で結んでい る。しかし旅客は扱っていない(貨物フェリー)。年間10万台以上の貨物自動車を輸送している。

(2)ドーバー港

 海峡トンネルの開通、免税販売の終了、英国での口蹄疫騒動と、海峡フェリー業界には逆風が吹いていたが、2002年は回復し、フェ リー輸送量はかってない最高の数字を記録した。ドーバー港の乗降客数は1640万人、貨物自動車は180万台以上、乗用車は260万台以 上、バスは14万7,000台であった。もっとも2003年度においてはイラク戦争の影響が懸念されている。一方、海峡トンネルの利用者 は10%以上も落ち込んでおり、フェリー会社との競争が熾烈を極めている。

 現在、ドーバーからはフランスのダンケルク、カレーに航路が伸びている。有名なシリヤ・ライン等を所有するシー・コンテナーズの子会 社ホバー・スピードが、ベルギーのオーステンド航路を運航していたが現在は廃止となり、一方、ダンケルク航路にはAPモラーの子会社、 ノーフォーク・ラインがサリー・ラインの崩壊で空いたドーバーに出現した。この会社はIZAR建造のノーザン・マーチャント、ミッドナイ ト・マーチャント等を使用して、この3年近い運航で50万台の貨物自動車、16万5000台の乗用車を輸送している。旅客の収容人員は制 約されてはいるが(約400人)、開業当初に既存のフェリー会社による妨害があったにも拘らず、見事に発展している。

 競争が最も厳しいカレー航路では、ホバー・スピードの他、P&Oフェリーズ、シーフランスがしのぎを削っている。

 P&Oフェリーズはこの海域の最大手であり、2002年10月には合理化策を発表し、今後は「P&Oフェリーズ」と いう単一の商標の下で英国・大陸間のフェリー運航をすることになった。ステナと分離した直後の2003年4月、28559総トンのプライ ド・オブ・プロバンスが、ドーバー港入港時に防波堤に衝突する事故を起こしたことは記憶に新しい。この事故では乗員・乗客28人が怪我を した。

 フランスのSNCFの子会社シーフランスは、船名にフランスの芸術家の名前を付していることで知られている。2001年に33796 総トンのシーフランス・ロダンを就航させて会社の収容力を25%増加させ、2002年の収益は1000万ユーロ以上に伸ばしている。ロダ ンと同型の姉妹船建造に踏み切るのは時間の問題である。古いシーフランス・セザンヌ(1980年)、シーフランス・マネ(1984年) は、代替が検討されることだろう。

 2000年9月にホバー・スピードがフォークストン・ブーローニュ航路から撤退して以来、ブーローニュはフェリー港の復活をかけて必 死の努力をしてきた。その努力が実り、デンマーク系のスピードフェリーズが、2004年3月31日からドーバー・ブーローニュ間で、イン キャットが建造した高速船を使用したフェリー運航を再開する。一方、エメラルド・ラインズがラムズゲートとブーローニュを高速船で結ぶ話 は立ち消えとなった。

(3)ニューへブン港

ニューへブン・ディエップ航路は、ロンドンとパリとを最も直線的に結ぶ航路であり、歴史は鉄道連絡船の時代にまで遡ることができる。現 在、ホバー・スピードが季節運航(4月~9月)をする他、トランスマーシュ・フェリーズがフランス海事当局の支援を受けて運航している。 しかし2002年5月までに650万ユーロの赤字を出しており、成功しているとは言い難い。

(2003年8月現在)

Information

本稿は、「英国フェリー事情 ドーバー海峡のフェリー」、フェリーズvol. 2(海事プレス社、2003年)に加筆・訂正したものです。古くなっている情 報もありますが、記録として掲載することにしました。