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ヨーロッパフェリー事情 イギリス海峡のフェリー

石山 剛

英国とヨーロッパ大陸とを隔てるイギリス海峡は、東のドーバー海峡と区別して、「ウェスタン・チャンネル」と一般に呼ばれることが多 い。この海峡西部航路には、かっては鉄道連絡船が運航していたものの、現在は巨大な民間のカー・フェリーが就航しており、20世紀の 100年の間に劇的な変化を見せている。

今回は離島航路(チャンネル諸島・ワイト島航路)を除くイギリス海峡のフェリーについて、その歴史を振り返ってみることにしたい。便宜 上、西からプリマス、プール、サウサンプトン、ポーツマスの順に見ていくこととしよう。

プリマス港

 1972年、フランス北部のブルターニュ(ブリタニー)地方のカリフラワー生産農家のグループが、ロスコフ(フランス)とデボン州プ リマス(英国)の間にフェリーを運航する計画を立てているというニュースで海運業界は仰天した。1964年に英国国鉄がサウサンプトン/ サン・マロ航路を閉鎖して以来、農民たちは生産物を短時間で英国に輸送する手段を模索してきたのだった。確かにシェルブールやル・アーブ ル経由では、便利とは言えないものだったろう。

 こうして1973年の元旦に、ブリタニー・フェリーズが誕生した。元旦の寒々としたロスコフのターミナルの開所式には、3000人近 い人々が集まり、出席者を前にブリタニー側は初年度には15万トンの貨物を扱うと発表したものだった。当初は貨物のみの扱いであり、ブル ターニュ地方の村の名前に因んだ船名のRORO船、ケリスネル(2293総トン)が使用された。最初の3ヶ月間は目標の4万トンには遠く 及ばず、1万7000トンの貨物を輸送しただけであった。しかし間もなく旅客輸送の需要があることが判り、7月にはバルト海で使用されて いた旅客フェリー、ポセイドンを就航させた。こうして今日の発展への道のりが始まったのだった。

 1974年、77年には、相次いで新船を投入し、75年に傭船(チャーター)したプランス・ド・ブルターニュと合わせて、プリマス/ ロスコフ間の航海は1日3回にまで増加した。1977年には画期的な事業拡張計画を発表し、その中でブリタニーは、スペイン(サンタンデ ル)航路、アイルランド(コーク)航路を開設することを明らかにした。

 1978年4月、ブルターニュ地方の古称に因んで命名されたフェリー、アルモリカは、プリマス/サンタンデル航路を切り開いた。当初 は季節運航であったが、翌年からは通年運航となり、大発展の結果、増大する需要に見合う大型船が必要とされるようになってきたのだった。

 そこでクルーズ船の建造でも有名なフランス西部のサン・ナゼールにあるアルストムのアトランチック造船所で建造されたのが、ブルター ニュである(1989年就航)。本船はクルーズ船の水準の2030人乗りのカー・フェリーであり、海峡横断航路に新しい水準をもたらした クルーズフェリーであった。この船はその後、ポーツマス/サン・マロ航路に転配となり、代わりに就航したのがバル・ド・ロワール。ドイツ のTTラインから購入した巨大なクルーズフェリーであった。

 注目されるのが、2004年3月に就航する1億ポンドのクルーズフェリー、ポン・タベンである。本船は海の見えるバルコニー付きの船 室を備え、北ヨーロッパのフェリーでは初めて、カフェのある屋外プールが用意されるという。日本でも近時、新日本海フェリーがバルコニー 付きの豪華な船室を備えた大型のカー・フェリーを相次いで就航させているが(らいらっく、ゆうかり、はまなす等)、こうした動きはフェ リーとクルーズ船との境界を更に曖昧なものとさせていくことと思われる。

 こうしたブリタニーの成功に対抗して、P&Oフェリーズは、1993年4月からプライド・オブ・ビルバオを英国(ポーツマ ス)からスペインのビルバオに向けて就航させている。この船は元々バイキング・ライン向けに建造されたオリンピア(1986年就航)であ り、アイリッシュ・フェリーズから傭船したものである。最近、傭船契約を2007年にまで延長した。

プール港

 プリマスから東に200キロ程のところにプールという港町がある。1972年、ここを本拠に設立されたのが、トラックライン・フェ リーズ。商号から連想されるように貨物のみを扱う会社であり、プールとシェルブールを結んでいる。

 設立当初、使用船舶が需要に比して小さ過ぎ、運航開始2年後の1975年に大型船と交替するという投資の失敗があって、経営がつまず きかけたことがあった。しかしその後は順調に発展し、1985年にはブリタニー・フェリーズに買収されて今日に至っている。1980年代 半ばに、飾り気のない安価な旅客運航を行った時期もあったが、現在は貨物フェリーに徹している。なおブリタニー・フェリーズが旅客を扱っ ており、夏季にはコンドル・フェリーズと高速船を共同運航している。

サウサンプトン港

 今回登場した港町の中で、サウサンプトン港は最も有名な商港であるかも知れない。かっての大西洋航路の遠洋定期船(オーシャン・ライ ナー)は、この町から新大陸に大量の移民を輸送していたのであり、2004年1月に就航した現代の遠洋定期船、クイーン・メアリー2も、 ここを船籍港としているからである。しかし、フェリー港としてのサウサンプトン港を見たとき、その栄光は既に過去のものであり、近隣の ポーツマス港との競争に完全に敗れてしまったと言っても言い過ぎではないだろう。実はこの港からは、ワイト島のカウズとを結ぶフェリーが 出ているだけという有り様なのである。

 第二次世界大戦以前は、サウサンプトンとフランスのル・アーブル、サン・マロを結ぶ航路を鉄道会社が運航していた。1948年に鉄道 会社の資産がすべて英国運輸委員会(BTC)に引き継がれてからは、英国国鉄がシーリンクの商標で鉄道連絡船(トレイン・フェリー)を運 航していた。ところが1960年代に入り、英国国鉄は長年赤字を垂れ流してきたチャンネル諸島航路、ル・アーブル航路、サン・マロ航路の 廃止を検討し始め、それぞれ1961年5月、64年5月、64年9月に廃止したのである。国鉄はル・アーブル航路で100万ポンドの赤字 が生じていたと主張して、120年の歴史を持つ同航路を廃止したのだった。

 こうした動きを見ていた人物が、ノルウェーにいた。実業家オットー・ソーレセンは、ル・アーブル航路、シェルブール航路を開設する決 心をしたのだった。こうして始まったのがソーレセン・カー・フェリーズによる、バイキングⅠ、Ⅱ、(65年より)Ⅲによる週3回の運航で ある。このソーレセンの運航は、スカンジナビア風の内装の新船を使用して人目を引き、しかも運賃が国鉄よりもかなり安かったため(大人 2.87ポンド、子供1.50ポンド)、たちまち人気を集めて、1964年には19万2274人の乗客、5万5139台の乗用車を輸送し たのだった。

 P&Oは、こうしたソーレセンの成功を黙って見てはいなかった。子会社のGSNCと、フランス企業のSAGAとの合弁で、早 速ノルマンディ・フェリーズを立ち上げ、新船のドラゴン(1967年就航)、レパード(1968年就航)を使用して、ル・アーブルとロス レア(アイルランド)を結ぶ航路を開設した。この航路はその後、ルーアン(フランス)、リスボン(ポルトガル)、カサブランカ(モロッ コ)を結ぶ航路にまで発展し、1971年4月にはクルーズフェリーのイーグルが就航したが、天候がこうした航海をするには適さなかった。 1975年10月には廃止となっている。

 因みに1967年にスウェディッシュ・ロイドがパトリシアを使ってスペインのビルバオへの運航を始め、アンザー・ラインがモンテ・ト レドを使ってサンタンデルへの第二のスペイン航路を開設し、更にP&Oがサン・セバスティアンへの運航を始めたこともあった。し かしこうしたスペイン航路の競争はすべて過去のものとなっており、最初の2つは1977年、P&Oは1976年に、いずれも廃止 している。

 1968年7月、サウサンプトンのソーレセンと、ドーバーのタウンゼントが合併してタウンゼント・ソーレセンが誕生した。ヨーロッパ 最大の民間カー・フェリー会社の出現である。この会社は1970年12月に2000万ポンドをかけた5隻の新船による5ヵ年拡張計画を発 表した。ドーバーには2隻のフリー・エンタープライズ級の船、サウサンプトンには3隻のスーパー・バイキング級の船が就航するというもの だった。こうしてサウサンプトンに配船されたのが、バイキング・ベンチャラー、バリアント、ボイジャーの3隻であった。1970年の暮れ までにサウサンプトンでは年間13万500台の車両、47万5000人の乗客を扱った。

 しかし記憶すべきなのは1976年である。この年、サウサンプトン港にとって重大な転機となる出来事があったのだった。ここの東側に 位置するポーツマス港がRORO船に門戸を開いたのである。

 英国の地図を広げてみて欲しい。サウサンプトンは、イングランド南部とワイト島とを隔てるソレントと呼ばれる海域から、さらにサウサ ンプトン水道を遡った奥に位置している。これに対してポーツマスは、イギリス海峡に面していると言っても良く、大陸に行くには航海時間を 大幅に短縮できる絶好の位置にある。さらに高速27号線に繋がる素晴らしい道路網を有しており、運送業者には魅力的であった。しかし何よ りも最大の、そして本当の理由は、ポーツマスにはサウサンプトン港にいるような好戦的な労働組合がいなかったという点にあった。フェリー 会社は、未だに別の時代を生きているサウサンプトンの港湾労働者には手を焼いていたのである。

 かくして、まずタウンゼント・ソーレセンが徐々にポーツマスに移動し、その後P&Oフェリーズ(旧P&Oノルマン ディ・フェリーズ)が続いた。1984年、旅客フェリーは完全に移転し、ここにおいてフェリー港としてのサウサンプトンは終焉の時を迎え たのである。

 もっとも、1991年にシーリンク・ステナ・ラインがシェルブール航路を開設したことがあった。同社はタブロイド紙の特別割引券と値 引き運賃で、ポーツマスのP&Oやブリタニー・フェリーズと猛烈な価格戦争を展開した。しかしこの運航は1996年に廃止となっ ている。また2004年にチャンネル・フレイター・フェリーズがルーアン航路を開設したが、これは貨物フェリーであり、残念ながら旅客は 扱っていない。

ポーツマス港

 1976年6月、タウンゼント・ソーレセンのバイキングⅠは、1805年のトラファルガー沖の海戦で活躍したネルソン提督の有名な旗 艦、HMSビクトリーに因んで、バイキング・ビクトリーと再命名された。1977年から試験的にル・アーブルに運航し、ここからフェリー 港としてのポーツマスの発展が始まった。

 1984年、タウンゼント・ソーレセンは、貨物フェリーのバイキング・トレーダーだけを残して、サウサンプトン港からのカー・フェ リー運航を廃止した。P&Oフェリーズもこれに続いたが、実はこの後、両社間で興味深い動きが見られたものだった。1985年、 P&Oはタウンゼント・ソーレセンの親会社、ヨーロピアン・フェリーズ・グループにイギリス海峡の権益を1250万ポンドで売却 したが、その直後にヨーロピアン・フェリーズは米国での投資に失敗し、救済を求めて皮肉にもP&Oに買収されることとなったので ある。さらに1987年3月、タウンゼント・ソーレセンがドーバー海峡で沈没事故を起こしたことを契機に、「タウンゼント・ソーレセン」 の商標は廃止され、P&Oヨーロピアン・フェリーズに統一された。ノルウェー人のオットー・ソーレセンによって導入された派手な オレンジ色の船体塗装も消え、すべてはP&Oの群青色の装いとなったわけである。船名も、これまでのバイキング・ベンチャラー、 バリアント、ボイジャー、バイカウントから、それぞれプライド・オブ・ハンプシャー、ル・アーブル、シェルブール、ウィンチェスターに変 更となった。

 その後P&Oは、オラウ・ラインから2隻の大型船を傭船してル・アーブル航路に就航させ(プライド・オブ・ポーツマス、ル・ アーブルと再命名)、1998年5月にはマレーシアのクルーズ客船会社、スター・クルーズからオースタル建造の高速船、スーパースター・ エクスプレスを傭船することに成功して、シェルブール航路に投入した。この38.5ノットの高速運航は大成功であった。現在、この船はア イリッシュ海に転配となり(2000年)、代わってアルゼンチンのブケバスから傭船したエクスプレス(5902総トン)が就航している。 また2002年にはアイリッシュ・フェリーズから傭船した1995年建造のプライド・オブ・シェルブール(22365総トン)を投入し、 それまで使用していたプライド・オブ・ハンプシャー、旧シェルブールの2隻と交替した。

 さて、ポーツマスのフェリーで忘れてはならないのは、海峡西部航路の王者、フランスのブリタニー・フェリーズである。

 プリマス/ロスコフ航路の開設に成功したブリタニーは、1976年、新しく出来たポーツマスのフェリー港とサン・マロとを結ぶ航路 を、アルモリカを使用して開設した。運航開始当初は、座礁事故等のトラブルがあったが、アルモリカは1992年まで使用され、その後、極 東に売却されている。代わってクルーズフェリーのブルターニュが、サン・マロ航路に就航した。

 ブリタニーは、1985年にプール港のトラックラインを買収して事業を拡大させたが、同じ年にオランダから1隻のフェリーを新航路向 けに獲得したと発表した。獲得した船はドゥ・ド・ノルマンディと再命名され、ノルマンディにあるカンとポーツマスとを結ぶ航路に就航した (1986年6月)。カンは新しいフランスの港であったが、この会社は新港の可能性に賭けて、ル・アーブル航路、シェルブール航路を運航 していたタウンゼント・ソーレセンとの戦いに挑んだのだった。

 1990年、ブリタニーはカン航路を拡張すべく、新船建造計画を発表した。フィンランドのマサ・ヤードに発注された船は、ノルマン ディであった。かってのフレンチ・ラインの有名な遠洋定期船と同じ名前を持つ新船は、この会社の設立当初には考えられない位の豪華客船で あり、全長161メートル、総トン数は27541トン。旅客定員は2120人であり、2層の車両甲板には630台の乗用車を収容できるも のであった。クルーズ船のような水準でデザインされた船は、1992年5月に就航し、カン航路の収容力を40%も増加させたのである。

 2002年には35586総トンのモン・サン・ミッシェルを就航させ、ブリタニー・フェリーズは海峡西部において圧倒的な勝利を収め ている。

 こうして発展してきたイギリス海峡のフェリーではあるが、2003年度は記録的な猛暑とイラク戦争により旅行を手控える人が増えたた めに観光客が減少し、フェリー業界は大打撃を受けている。ポーツマス港のフェリー利用者数は319万人で、2002年度より8%も減少し た。さらに近時、強力なライバルとして格安航空会社が登場している。遠洋定期船はその昔、ジェット機に滅ぼされてしまったものだが、フェ リーの将来はどうなのだろうか。もっとも、福岡(博多)と釜山(プサン)とを結ぶJR九州の高速船ビートルのように、航空会社との競争に 勝利したフェリーの例もある。今後の動きに注目したいところだ。

(2004年1月現在)

フェリーって何だ!

 「私には良くわからないので、私のレベルに合った表現で解説して欲しい。」これはパソコン雑誌ばかりではなく、フェリーズ編集部にも 届く読者からの葉書とのこと。とは言え、難しい話を自主規制していてはいつまで経っても世の中進歩がないし、第一、書いている方が気が引 ける。そこで簡単な用語の解説を少々。

 そもそもフェリーって何だろう。のっけからアホ臭い話を始めるけれど、実はもう、ここからして混乱している。漠然と「カー・フェ リー」をイメージしてはいないだろうか。そんな新聞記事もある。「フェリー」とは、渡し舟、渡船、連絡船のこと。あの何とかの渡しも、鉄 道連絡船も、ついでに高速船もジェット・フォイルもホバー・クラフトも、もちろんカー・フェリーも、みんなフェリー。これが英語本来の意 味。僕らには「フェリー」という言葉はとても近代的に聞こえてしまう(西洋礼賛!)。しかし英語では、元々は川を渡る木造の川船をイメー ジする言葉だったというから驚いてしまうね。以前は「スチーム・パケット(汽船、郵便船)」という言葉が一般的だったらしい。

 次にRORO船という言葉。もうこの辺から逃げ腰になってしまうかな(笑)。船に荷物を積むときに、デリック(クレーンの一種)を 使って吊り上げて載せる船があるけれど、これをリフト・オン、リフト・オフの船、略してLOLO船と呼ぶんだ。しかしこれじゃ、車が積め ても時間がかかって仕方がない。そこで出てきたのがロール・オン、ロール・オフの船ということになる。これはランプウェイ(あるいは単に ランプ)と呼ばれる道坂を船と陸地の間に渡して、車がそのまま船の中に入って行けるようにした船のこと。英国では「ドライブ・スルーの 船」とも呼ばれている。こっちの方がわかりやすい。

 RORO船は、一般にそうした方式の貨物船の意味で使っている。貨物フェリーと呼ばれることもある。しかし旅客を13人以上乗せる 「旅客船」の場合は、英語圏ではRO-PAXと呼んでいるんだ。PAXとは乗客(パッセンジャー)のこと。しかし「ロ・パックス船」なん て言葉は日本では聞いたことがないし、言葉としても洗練されていない。実はこれが僕らの言う「カー・フェリー」に当たる。要するに RORO方式の旅客船ということ。これで頭の整理はついたよね。ということで、今回の補講はおしまい。

 そうそう、「客船」をクルーズ船の意味に限定して使っている人がいるけれど、これは言葉の誤用。第一、フェリーズに失礼ですね (笑)。

Information

 本稿は、「ヨーロッパフェリー事情 イギリス海峡のフェリー」、フェリーズvol. 3(海事プレス社、2004年)に加筆・訂正したものです。古くなっている情報もありますが、記録として掲載することにしました。