誰かの声が、聞こえた気がした。
何を言っているのかは、よくわからなかった。
視界には何も映らない。
ただ闇があるだけだ。
自分も他人もそこにはない、そのことを考えている意識しかない。
だから無ではないが、実質的には無と同じだ。
意識だけがあったとしても、モノとして存在する世界が無ければ、それは在ることにはならない。
イリアとして闇を漂泊する、泡のようなものでしかない。
これが死か。
それとも、死に至る過程の、刹那の断片か。
わからない。
わからないと考える意識だけは、確かにここにあった。
そのことだけは、疑いようの無い事実だった。
聞こえたはずの声も、もはや事実か幻覚か判別はできない。
だから考えるのはやめた。
始まりはいつだったのだろう。
ぼんやりと思った。
黒い髪の少年を、イメージすることが出来た。
中学校の制服を来ている彼が、笑って立っていた。
雪が降っている。
粉雪が降る道を、彼と並んで歩いていた。
自分も中学校の制服を着ていた。
この道は、祖母と住む実家へと続く道だ。
ほとんど変わらない身長、時折腕が触れる。
その度に自分の頬が赤くなるのがわかった。
彼も、そうだった。やさしく笑っていた。
でも、そんなはずがないと思った。
こんな記憶は無い、無いはずだった。
こんな男の子は、中学にはいなかった。
こんなふうに笑う少年と、こんなふうに歩いたことなどなかった。
幻だ。それとも嘘だ。
疑問が伝わったように、突然、彼が消えた。
歩いていたはずの道も消えていた。
雪だけが降っている。
あたりを埋め尽くすように降り積もっていく。
立ちつくす自分の姿は、いつのまにか白衣を着ていた。
中学校の制服はもう似合わない、だからそれでよかった。
白い闇の中にいる。
雪かどうかはわからない。
冷たくも寒くもない。
歩いてみようと思った。前に進んだ気が、確かにした。
どこへ向かっているのかはわからなかった。
十分、数時間、どれくらい歩いたのか。
時間の感覚は最初から失われている。
進んでいるという感覚はあるが、もしかしたら足を踏み出さなくても変わらないのかもしれない。
それでも、足を止める気は無かった。
どこに行こうというのか。
何をしようというのか。
何を求めているのか。
わかるわけがない。
さっきの少年のことを、少し考えた。
呼応するように、歩く先に彼の姿が現れた。
白く染まった世界に、浮かぶように現れた。
笑っている。これも嘘だとわかった。
だからすぐに彼は消えた。
碇シンジ。
それが彼の名だったと、唐突に思い至った。
そんなことすら、自分は忘れていたのか。
先を急ぐように、足を速めた。
どこに行こうとしているのか、すこしだけわかった気がした。
潰された渚カヲル。
分断されたリリス。
殲滅されたエヴァ弐号機。
屠られたエヴァシリーズたち。
右腕とレイを失いうずくまるゲンドウ。
そして自らを滅したエヴァンゲリオン初号機。
少年の願いは果たされた。
全ては終わった。
見るべきものはすべて見た。
それで、もういいはずだった。
けれど、それこそが嘘だ。
自分の願いは、叶えられてはいない。
足を踏み出す。
道は無い。
だからこれは儀式だ。
白い闇。
これも嘘だ。
世界は赤い。
それが自分の見た最後の景色のはずだ。
赤い世界にうずくまる初号機。
それが目に焼き付けた景色だった。
世界は赤い。
赤くなくてはならない。
ここが生と死の狭間にあるなら。
雪も祖母も平和も笑うシンジも白い闇もあるはずがない。
だから意識がある。
自分はここにある。
そう願ったから。
彼に会いたいと、そう願ったから。
そうだ。
白い闇などない。
世界よ赤く染まれ。
そうして、踏み出す。
光を突き抜ける。
また、誰かの声が聞こえた。
知っている声。
誰かはわからない。
一瞬視界がブラックアウトし、感覚が反転する。
上下と左右が際限なく変わっていく。
思わず悲鳴をあげた。
それをきっかけに目が開いた。
徐々に焦点が合う。夜空が確かに見えた。
全身の感覚が戻る。
自分が倒れているのがわかった。
腕をついて身を起こす。
周囲に人の気配は無い。
ただ波の音がするだけだ。
砂に足をとられながも立ち上がり、周りを見渡した。
そして絶句する。
巨大なレイの顔が、はるか向こうに見えた。
もういちど周りを見る。すぐ近くまで寄せる波が、白い泡をたてている。
疑う余地はなかった。
ここは、
ここは赤い海のほとりだった。