見えない明日で

終章 最終話

Written by かつ丸






 自失していたのは、いったいどれくらいだったろう。
 波の音だけが、あたりに響いている。
 海を目の前にしながら、潮の香りはしなかった。これがリツコの知る海ではない、その証拠なのかもしれない。

 遥かかなたに見える白い塊。
 右半分だけになった顔を海に没している綾波レイ。
 いや、それともあれが、顕現したリリスの姿だろうか。
 目をむいて笑っている。
 その歓喜の表情は、シンジの願いを叶えたその悦びゆえなのだろうか。

 終わってしまった世界。

 ここがそうだと、リツコにはわかっていた。


 ゲンドウに撃たれ気を失った間に補完計画が発動された、とは考えなかった。
 あの世界でシンジが成し遂げたこと、それが確かだという確信がある。
 今こうして砂浜に立ち、風を感じている自分自身の存在そのものより、確信を持って言えた。
 初号機が自らを滅っしたあの時、補完計画の発動は、人の世の滅びは回避されたと。

 だから、ここが終わった世界であるならば、リツコの知る世界ではありえない。
 死後の世界なのか、狭間で見る夢なのか、さきほどまで見ていた幻の続きなのか、それはわからないが、リツコが生を受けたあの世界とは別のどこかだということ、それだけはわかった。

 波沿いに歩いてみた。

 砂の感触が、確かにする。
 素足でいる自分に気づいた。

 服は着ている。白衣ではないが、普段着姿だ。
 最期のあの時に着ていた服なのかどうかは覚えていないが、かつて着た記憶はある衣服だったので、リツコのものであるのは間違いあるまい。
 だから、気にしないことにした。

 波の音が、やけに大きく響く。
 人の気配は無い。
 海と反対方向、陸地の方を見ても、街の灯りらしきものは見当たらなかった。
 ただ、闇だけが稜線を形作っている。
 ところどころに人工物らしき形も見えるが、そこも暗く染まっていた。


 空を見上げてみる。
 星が瞬く夜空を裂くように、大きな赤い河が流れていた。
 初号機が流していた血が、そのまま空に上がったかのような、そんなふうにも思えた。

 赤い空。
 そして足元では赤い海。
 夜の底で、水面が仄かに赤く光っている。

 成分に興味を持ったのは、科学者の性だろう。
 遥か上空にあるものには手が届くすべは無いが、リツコの足に寄せてくるものは腕を伸ばせば手に入れることが出来る。
 しゃがんで、すくってみた。光の加減か、手のひらにたまったそれは赤というよりも橙色に澄んでいる。顔に近づけ臭いを嗅いでみた。
 知るはずもない、けれど、知っているような気もした。さすがにそれ以上分かりはしないが。

 もと来たところに水を戻し、リツコは立ち上がった。
 もう一度歩き出すために。
 どこまでも続く浜辺、その先に、小さな人影があることに気づいていたから。



 胸が高鳴っていることを、自覚していた。
 心臓が動いている、その事実は、自分が確かな実体をもってここにいる証明でもある。
 何故なのか、その理由は考えなくてもいいように思えた。
 今、自分がここにいいる、それが全てだ。
 一歩一歩踏み出し、あの人影へと近づいている事実、それが全てなのだ。

 波が打ち寄せている。
 リツコの足にまとわりつく。
 湿った砂にバランスを失いかけながらも、リツコの歩みは止まらない。
 視点はひとつところから動かない。
 表情は、ずっと笑顔のままだった。


 数百メートルも歩いたろうか。
 そしてやがてたどりつく。

 彼は、そこにいた。
 海辺に、倒れていた。

 闇の中、海の赤に仄かに照らされている。もしかしたら普通なら遠目には岩か流木にしか見えないかもしれない、けれど、リツコには最初からそれが彼だと、碇シンジであると確信できていた。

 近づく。早歩きになる自分を抑えることは出来なかった。
 プラグスーツ姿ではなく中学校の制服を着たシンジは、仰向けで目を瞑っている。
 死んではいない。
 息があるのは、上下する胸でわかる。
 彼の顔をのぞくようにすぐ脇で立てひざになった。

 苦悶はしていない。
 静かに、けれどほんの少しだけ眉間に皺をよせた顔で、彼は眠っていた。

 しばらく、そうして見ていた。
 高鳴る胸は、いつしか落ち着いていた。

 そっと、我知らず手を伸ばす。
 シンジの頬は、リツコのてのひらよりも冷たかった。


「………」


 驚いたのか一度だけ小さく痙攣した後、シンジの表情は徐々に穏やかになっていった。
 そのまま何度か頬をなでる。

 ひげはまだ生えていない。
 彼はまだ本当に若いのだと、なんとなく思った。
 そう、子供なのだ。リツコが14歳のころ、そうだったように。
 シンジと、最初に話したあの病室を思い出した。


 あの時よりも、シンジに近づいている。こうして彼に触れようとは考えなかった。
 頬に伸ばしていた手を、そのままシンジの額に移動させ、前髪をかき上げてあげた。
 このほうが彼の顔がよく見えるからだ。

 けれど、少しやつれているようには見える。頬もこけているようだ。
 暗くてよくはわからないが、栄養失調の兆候のような気もした。

 立ち上がる。
 ポケットには何も入っていない。
 あたりを見渡しても、商店も民家も見えはしなかった。砂浜と赤い海と、はるか遠くにある建物らしき影。ここから数百メートルほど向こうかもしれないし、数キロ、いやそれ以上離れているかもしれない。
 なによりリツコは彼を置いてどこかにいく気にはなれなかった。

 思いついて、海に、打ち寄せる波へと近づいた。
 泡をたてて砂浜に寄せかえるそれは、暗い夜の底でもリツコのよく知る普通の海ではなく、別の何かだと知れている。
 変容している。
 沖に沈む巨大な女神、レイが溶け出したのか、それとも、世界がここに溶けてしまったからか。 さきほどと同じように、手のひらにすくう。
 少しだけ躊躇した後、リツコは橙色の海水を口に含んだ。

 塩辛くはない。
 味を感じないようにしていただけかもしれない。

 駆け寄るようにシンジに近づき、彼の首に手を回した。
 今度は全く躊躇はしなかった。
 抱き上げるようにシンジの身体を起こし、わずかに開いている唇を己が唇でふさぐ。
 そうして、口に含んでいた液体をリツコはゆっくりと注ぎ込んだ。

 シンジののどが動くのが気配でわかる。
 閉じていた瞳を明け、リツコは唇を外した。


「……う……うん」


 小さなつぶやきが聞こえた。
 目が覚めたようだ。
 うっすらとシンジはまぶたを開いている。


「…………ん…、…え、えと……」

「…大丈夫?」


 リツコが与えたのがまるで魔法の水であったかのように、その時すでにシンジのやつれは治まっていた。
 生気はまだあまり感じられはしなかったが。


「……リツコ、さん…?」

「…ええ、私よ」


 シンジに動揺した様子は無い。しかし声には疑問の響きが含まれている。
 それに答えたリツコの声は、どこまでも甘く優しかった。
 抱き上げていた腕の力を緩め、彼から離れる。シンジはまた、静かに横臥した。


 まだ目が覚めきってはいないのだろう。シンジの瞳はどこか虚ろだった。その彼の黒い瞳を見つめる。
 いつかのような強い光はもうない。なにか憑き物が落ちたよう穏やかさが、そこにはたゆたっていた。

 わずかにシンジの瞳が動く。
 呟くように、彼は言った。


「……髪、」

「えっ?」

「髪、どうしたんですか?」


 その言葉に頭に手をやる。カールしているはずの前髪を引っ張ると、見慣れないものがそこにあった。
 力を入れて何本か抜いてみた。
 やはり色はついていない。本来の黒髪に戻っている。
 大学入学前以来、久しぶりに見る、自分の髪の色だった。

 頬に指をあて少しこすってみた。感触も、指の表面を見ても、予想通り素の肌であることを示している。
 突き抜け、再構築された名残だろうか。
 しかし、リツコはちゃんと服を着ている。下着も含めて身に着けたまま生まれなおしたというのか。

 思い悩みかけ、シンジの視線に気づき苦笑した。
 深く考えても、そこに意味などは無いのだろう。

 どんなかたちにせよ、ここにいる。今はそれだけが真実だからだ。


「…立てる?」


 彼の問いかけは無視し、そう訊いてみた。
 特にこだわりは持っていないようだ、シンジもそれ以上聞き返す様子は無い。


「はい」


 そう言って静かに身体を起こす。
 ややふらつきながら、それでもシンジからはさきほどのやつれはほとんど消えているように見えた。
 彼が立ち上がる、そこでまたリツコは違和感を覚えた。


「…ねえ、あなた、背が伸びたの?」


 そうだ、視線の位置がよく知っていたそれとは少し違う。まだリツコのほうが上ではあるが、もっと彼の身長は低かったように思える。
 戸惑うようにシンジが答えた。


「えっ、そ、そんなことないと思いますけど……むしろリツコさんの方が…なにか可愛くなっちゃったみたいな」

「…可愛いって、それ、褒めてるつもり?」

「あ、い、いえ、ご、ごめんない。…でも、ほんとです。僕が知ってるリツコさんとは、どこか違うような気が」

「…ふうん」


 どういうことだろうかと、もう一度頬に手をあててみた。
 確かめてみたいとも思ったが、手鏡もコンパクトもない今の状況ではいかんともしがたい。シンジも手ぶらなのは見ればわかった。
 とりあえず日が昇ればその手のものを探しにいけるかもしれない、だから気にするのをやめた。

 もう一度シンジを見つめる。


「ひさしぶりね。ようやく、あなたに逢えたわ」


 困ったようにシンジが目を伏せた。


「…ごめんなさい、怒って、ますよね?」

「もういいのよ、もういいの」


 微笑んで言った。嘘ではない。
 シンジがずっと真意を話さなかったことなど、気にしてはいない。
 彼に逢うことなど、すでにほとんど諦めていたのだ。
 だからどんな不思議が今のこの瞬間を招いたのだとしても、リツコの中にあるのはただ喜びだけだった。


「…シンジくん、あなたはちゃんとやり遂げたわ。あの世界でサードインパクトは回避された。こんな風に世界が壊れることは、もうないでしょう」

「はい…」


 伏せていた顔を上げ、シンジが海の方を向いた。
 並んでリツコも沖を見る。そこには赤い海と、巨大なレイの顔がある。まるで壊れた世界を象徴するオブジェのように、淡く光っている。


「リツコさん、これが、ここで僕が招いてしまったことです。僕以外のみんなが空と海に溶けてしまった、滅びの世界です」

「サードインパクトね。でも、一つになって溶けた人たちは幸せなのかもしれないわよ。ずっと、誰も帰ってきてないんでしょう? どれくらいになるのかは知らないけれど」

「何日か、何十日か。何も食べてなかったから、そんなに時間は経っていないのかもしれません。でも、アスカが消えてしまったのがずっと昔のように感じます。…あの世界で過ごしていた数ヶ月は、ここではどれくらいだったんでしょうか」

「…初号機の中にいたあなたは、さっき、目が覚めたの?」

「はい…」


 リツコとほぼ同時にあの世界を離れたのだとすれば、それは嘘ではないのかもしれない。
 今のシンジにケガをした様子はない。だからいくら意識を同一化していたとはいえ、あの初号機とはリンクしているわけではないのだろう。
 シンジの本体は、だから、きっとずっとここにいたのだ。生きたまま。魂だけを持たずに。
 それがこの世界では幾日かだったか、それとも数時間、一瞬だったのか、それはわからない。
 胡蝶の夢のように。
 もうここからは届かない遠い場所での出来事なのだ。

 海を眺めたまま、呟くようにリツコは問いかけた。


「…最初からああする、初号機の中に溶けるつもりだったの?」

「使徒との戦いで初号機の中に溶けたのは、前の、ここでの戦いでも同じだったんです。その時はただわけもわからないままにサルベージされました。一ヵ月後ですけど。だからあの時暴走させれば…」

「その時は同じ結果になるとあらかじめ知っていた、そういうことね。…あなたは、コアの中のユイさんを排除し、初号機を乗っ取った、そして不要となったぬけがら、元の碇シンジだけを戻したのね」


 誰もそのことに気づきはしなかった。想像すらできなかった。
 レイと初号機のシンクロが出来なくなったことが、その傍証ではあったのかもしれない。
 だが、たとえ思い至ったとしてもどうすることもできなかったろう。
 なんの確証も無しに初号機のコアを毀すことなど、ゲンドウも認めなかったはずだ。そして中にユイがいるかどうかは、もはや確認するすべはなかった。
 それこそ、コアに入り込み中にいる魂とコンタクトを取りでもしない限り。

 内部に入らなければ毀せない。初号機がシンジの人質だった。


「元の僕を戻したのは、僕ではなく母さんが、いえ、あの女性が消滅するその前に最後の力でしたことです。もちろん、そのことについて僕に異論はなかったんですが…」


 苦さが混じった声でシンジが言う。


「だけど、それ以外はあの人のことはまるで理解できなかった。何を考えてあんなことをしようとしたのか…、僕や父さんを捨ててエヴァになんか入って何がしたかったのか。そんなに大事なことだったのか、なにも…」

「…ユイさんと話は出来たの?」

「いろいろと。…会話とは、少し違いますが、コアの中で共存することであの人の意識と記憶が僕と共有されていた時期はありました。だからあの人も知ったはずです、世界がどこにいきつくのか。ですが…」


 シンジが歯噛みをした音が聞こえたような気が、リツコにはした。
 ユイのことを話すその口調には憎しみすら込められているようだ。
 母としては見ていない、実質的には彼の母親ではない、だからだろうか。


「彼女は、むしろそれを、世界が滅ぶことを望んでいるようでした。…こちらの世界で母さんが初号機と共に宇宙に去ったことを喜んでもいた。そう、それが本当の望みだったとでも言うかのように」

「初号機が…宇宙に?」

「あの綾波の中から脱出した後、僕を切り離して母さんは旅立ったんです。…もしかしたら、最初からそのつもりだったのかもしれない。使徒が滅びをもたらそうと、人が自滅しようと、母さんだけは初号機の中で、人を超えたモノとして生き続けようとしたのかもしれない」


 その可能性は、確かにゼーレも言っていた。
 冬月あたりは知っていた様子すらある。


「…司令は、ユイさんにもう一度会いたかったみたいね。そのためにレイを使おうとしたわ、最後も」

「父さんも僕も母さんに捨てられたんです。父さんは、そのことを認めたくなかっただけなのかもしれません。…綾波は、どうなったんですか?」

「…あの子は、自分で進むべき道を選んだわよ。あなたがレイに言ったことは、だからムダではないの」

「……そうですか。…よかった」


 彼の視線は沖に沈む巨大なレイに向かっている。
 しかし見開かれた彼女の瞳とそして口元は笑っているように、リツコには思えた。
 こうして世界を壊したことが、彼女にとってはけっして不幸などではないのかもしれない。
 この世界でシンジとレイの結びつきがどうだったのか、リツコは知らない。しかし、これがレイがシンジを選んだ結果なのなら、それも一つの正しい答えだったのだと、この世界のレイにとっては揺るぎのない必然だったのではないかと、あの笑顔は言っているかのように見える。
 ただの錯覚、なのかもしれないけれど。


「レイは、最後に司令を選ばなかった。もちろん、そのまえに初号機が変質していたから、どのみちあの人の望みはかなわなかったでしょうけど、…あなたにはわかっていたのね、…渚くんが弐号機をあやつることも、リリスの元に向かうことも、全部」

「………」

「最後の使徒と、リリスと、弐号機のコアを壊す、それもひと時のうちに。渚くんのATフィールドによってターミナルドグマは封鎖され、意思を持ち暴走する初号機の、あなたの邪魔をできるものはもはや誰もいない。その瞬間を生み出すために、あなたはあの世界に帰って来たのよ、時空をも超えて」

「はい…そうして、僕は再びこの手にかけたんです、…カヲルくんを」


 こわばった声でシンジが言う。
 リツコは彼の方を見た。赤い海の光が淡く照らす少年の横顔は、まるで生気を失ったかのようだ。
 うつむいて、シンジが両手のひらを広げて見ている。
 何もないそこに血でもこびりついているように、凝視している。


「…カヲルくんを助けられないわけがなかった。綾波にそうしたように、リツコさんに頼むことだってできたんだ。…だけど、彼が滅びを目指さなければ、あの時でなければ、白い巨人も、弐号機も、壊すことはできなかったから…」

「…シンジくん」

「だから、僕はカヲルくんを利用したんだ。分かり合おうとする努力すらせずに、彼を説得することさえせずに、ただ世界を壊さないためだと考えて、自分の罪をはらうことだけ考えて、そうして…そうして…彼を握りつぶしたんだ。…あの時と同じように…カヲルくんを……殺したんだ。…せっかく…また逢えたのに……せっかく…」


 シンジは泣いていた。
 肩を震わせて。開いた手はそのままに。


「それに彼だけじゃない…結局、加持さんも見捨ててしまった。やっぱり、あの後消えてしまったんですか」

「ええ…」

「…加持さんだって、本当のことを打ち明けていたら救えたはずなんだ。でも僕は歴史が大きく変わるのが怖くて言えなかった。母さんが目覚めて、そして僕を取り込むまではって…。でも、それも嘘だ。僕は加持さんに打ち明けることで、ミサトさんやアスカと向き合うことになるのが怖かったんだ。いつだって自分のことだけしか考えてなかったんだ」


 流れる涙は止め処もない。
 自分の手のひらを睨みながら、己への呪詛のように言葉を綴り続ける。
 いつかの、そう、シンジが初号機に消える直前に会話した時と、ほとんど変わらないように思える。


「僕は、僕はもしかしたら間違っていたのか。最初のあの時にミサトさんに話して、そして謝って、協力を求めていれば……、いや、違う、僕は父さんにちゃんと話さなけりゃいけなかったんじゃないか、そうすれば何もかも…」

「シンジくん…」

「リツコさん、リツコさん教えてください。僕が最初から全てを、必要なことの全てを打ち明けてさえいたら、あんな初号機に溶けるなんてひとりよがりな手段を使わずにいたら、もしかしたらカヲルくんや、加持さんは助けられたんでしょうか。みんなを傷つけずにすんだのでしょうか。僕が…僕がこんなに苦しい思いをせずに…」

「シンジくん、もういいのよ…」


 正面から向き合い、そっとシンジを抱きしめながらリツコは言った。
 一瞬、驚いたように彼女を見、その後リツコの胸に顔をうずめると、堰を切ったようにシンジは大声で泣き出した。

 シンジは甘えているのかもしれない。欺瞞だと、ミサトなら一喝していたかもしれない。
 けれどリツコはシンジを責める気にはなれなかった。

 彼もまた心弱い一人の人間なのだ。
 万能などではなく、臆病で、ずるくて、惰弱で。
 けれどそうでありながら、シンジは全てを背負ってきたのだ。
 世界の、この世の罪の全てを。

 リツコたちの世界を救ってもなお、今も、彼の重荷は消えてはいないのだろう。
 いや、新たな荷物を背負わせる結果にしかならなかった、今のシンジの姿はその証ともいえる。

 この滅びた世界を、自らが死なせたヒトを、見捨てた人たちを、罪として背負いただ泣き続ける。
 赤い絶望の海の淵で。


「…してしまったことは、もう取り返せはしないわ。たとえどんなことでも、あなたが良かれと思って選んだことなら、それがあなたにとって必然だったのよ。あなたはあの世界を救いたかった、そして願いどおりに世界を救った、そうでしょう?」

「でも、僕は…僕は…」

「過ぎたことをやり直したいと思い悩んでも意味は無いのよ。その結果だけを思いなさい。結果がイヤだと思うなら悲しめばいい、間違いだと思ったならただ悔やめばいい。どうしたって変わりはしないけれど、泣いてあなたの気が済むのならいくらでも涙を流せばいい。それでも…」


 俯いて嗚咽を続けるシンジを抱きしめながら、その耳元で言った。
 囁くように、諭すように、そして優しく。


「それでも、あなたがどれだけ後悔しても、あなたがやり遂げたことが無くなるわけじゃないわ。たとえここではない、遠い世界であっても、そこで多くの人を犠牲にしていても、あなたがあの世界を救ったことは、滅びへと歩もうとしていた人類を救ったことは、決して無かったことになったりしない。少なくとも、私はそのことを知っているわ。あなたに感謝している」

「………リツコさん」

「…だから、今ぐらい笑ってちょうだい、シンジくん。…せっかく…ようやく、こうしてもう一度逢えたんだから、あなたと」


 そうして、シンジの両頬に手を添えると、リツコは顔を上げさせた。
 とまどったような表情をしつつまだ涙を流し続けている彼に、かまわず身を寄せる。
 背徳的な気分は無かった。年齢差など、この世界でどんな意味があるだろう。
 ここにいるリツコはあの世界のリツコではない、いるはずもない、まぼろしのようなものなのだ。

 今はただこの少年を感じていたい、彼の孤独を、罪を、何もかもを、分かち合っていたい、それだけで、全てが許されると思えた。































「……過ぎたことをやり直したいと思い悩んでも意味は無い、そう言いましたよね、リツコさん」

「ええ…」


 ぼんやりとした調子で投げかけられた問いかけに、リツコは静かに応えた。

 波の音がずっと響いている。
 リツコの太ももを枕にしてシンジは浜辺に寝そべっている。目は閉じられてはいない。その瞳はリツコを見上げている。
 何時間経ったのかわからないが、夜はまだあける様子は無い。赤い海と空の星だけが、淡く世界を照らしていた。


「…じゃあ、やり直せないなら、僕があの世界でしたことは、いったいなんだったんでしょう」

「そうね、…この世界を救うことにはならなかった。ただあの世界を救うだけだった。そういうことでしょうね…」

「……やっぱり、そうなんですよね」


 シンジが呟く。寂しそうな、そして何かを諦めたような、そんな口調だった。


「この海に溶けた人たちは、もう帰ってはこないんでしょうか?」

「おそらく、ね。…自我を完全に失い、お互いに溶けきってしまったのなら、自力で自分の形を取り戻すことはたぶん不可能でしょう」

「…アスカも僕もエヴァに乗っていたからそれができた、そうなんでしょうか」

「その可能性は高いわね。…そういえば、アスカはどうなったの?」

「息を引き取った後、すぐに消えました。はじけるようにして」


 言いながら彼が顔を歪ませているのは、記憶をさかのぼることに平静ではいられないからだろう。
 アスカはLCL化しこの海に還った、そういうことなのだろうか。


「その後、僕はアスカのお墓だけ作ったんです。ここから少し離れた、みんなと同じ場所に」

「そう…」


 そこにリツコの墓があるのか、興味はあったが尋ねないことにした。
 この世界にいたリツコと自分とは、きっとシンジにとっても別人なのだ。


「そうして、あとはここに、砂浜に寝ていたんです」

「それからあなたの意識があの世界に飛び、私がここに来たということね。…シンジくん、あなた、それまで何も食べていなかったの」

「はい…」


 最初に見た時衰弱していたのは、きっと飢えが原因だったのだろう。
 だが、今のシンジは普通に話している。何かを食べた様子は無いのに。
 そして、その理由は、すでに推測できていた。


「この海…」

「…はい」

「この赤い海の水を、あなたに飲ませたわ…」

「ええ、わかっていました」

「そう……謝らなくちゃいけないのかもしれないわね」

「……いいえ、いいんです。確かに、ずっと拒んでいたんだけど、でも、きっと逃げちゃいけなかったんだと思います。だから…」


 だから、と言ったシンジの、その先の言葉は続かなかった。
 リツコには想像がついた。だから尋ねることはしなかった。
 ただ考える。なぜ自分がここにいるのかと。なぜシンジがあの世界に来たのかと。

 打ち寄せる波のはるか向こうに、巨大なレイの姿がある。
 息もせず動くこともせず、右半分だけの笑顔がこちらを見ている。

 その手前、海の上に、一瞬だけ浮かぶ姿が見えた気がした。
 中学校の制服を着た、リツコのよく知る綾波レイ。
 まばたき一つした次の瞬間、もう彼女はどこにもいなくなっている。

 錯覚だとは考えなかった。補完された人々とともにあの白い巨人がこの海に溶けているのなら、彼女の意識や魂もここに溶けているのかもしれない。
 その残像なのだろうと思った。

 もうこの世にはいない神の、その残り香だと。

 神と使徒とヒトが溶けた赤い海。命の木の実と知恵の木の実が混じりあった水。
 最後に残った一人のために湛えられた、呪いの泉。


「…この世界はこの海からはじまるのね、新たな神を作って」

「もしかして、僕が全部飲み干さなくちゃいけないんでしょうか」


 冗談めかしてシンジが言う。
 やはり彼にはわかっているのだ。自分が何に選ばれたのか。


「飲み干さなくても、すでに繋がってしまっているのでしょうね。この海の力は、すでにあなたの中にあるんだわ。 …ここが滅びた世界のままなのを望まないなら、誰かが新たに世界を創るしかないでしょうから…そのためには…」


 そのためには、選択の余地は無いのだ。ただ一人残ってしまった以上、あとは世界を捨てるか、もしくは再び創られる世界の核に、新たな神になるかしかない。
 いや、シンジには世界を捨てることは許されない。それを告げる使者がリツコだった。
 この海を、命と知恵の水をシンジに飲ませるために、リツコはここに来たのだ。

 そしてリツコをこの世界につなげるために、シンジはあの世界に呼ばれたのだ。

 二人ともくぐつのように操られている。それは復活しようとする世界自身の意志なのだろうか。
 それともあの白い巨人となった少女の。


 考えながら、突然、一瞬、気が遠くなるような感じがした。
 これは予兆だと、自分の中で誰かが告げた。


 こちらを見上げるシンジを見る。受け入れたのか、落ち着いた様子だった。
 彼はもう泣いてはいない。


「……あの、もう、タイムリミットみたいね」

「…そう、なんですか」

「…ごめんなさい。なんだか、とても無責任な気がするわ」

「いいんですよ。…これで、いいんです」


 シンジが微笑む。
 いつかの、あれは浅間山の戦いの帰りだったか。そこで見せたのと似ている笑顔。
 胸が詰まる。
 思わず彼を抱き寄せていた。


「ごめんなさい、シンジくん、ごめんなさい…そんなつもりじゃなかったのよ」

「いいんです、ホントに。…あの、もしできれば、向こうの僕の面倒見てあげてください。彼にはたくさん迷惑掛けちゃったから…」

「バカなこと、人のそれより、あなたが、ここで一人になるでしょうに」

「それは…しょうがないことですから、誰でもない、…僕のせいだから。あの世界を助けられたことだけで、それだけで僕は…」


 シンジはいつのまにかまた泣いていた。リツコも、シンジを抱きしめながら泣いている。
 一人で永遠に生きろと、彼にそんな運命を与えてしまった自分が果てしなく呪わしく感じた。
 もしかしたら今からあの赤い水を飲めば間に合うのかもしれない。シンジと同じ境遇に堕ちることができるのかもしれない。
 だが、その時間すらもうないことをリツコは知っていた。


「…私は、私はきっと帰ってくる。あなたをこのままには絶対にしておかないわ。だから…」


 だから待っていてくれ、そう言う前に世界が大きく揺らいだ。
 抱いていたはずのシンジの身体の感触が薄れ、周囲の光景とともに渦の中に消える。

 それでも、リツコは最後にシンジが頷いたのが見えた。
 世界と世界の狭間に己が消えてしまう寸前、確かに彼が見えた。











 







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