二組のコーヒーカップがテーブルに置かれている。
一つはブラック、もう一つはミルク入り、リツコが入れたものだ。
外は暑いがダイニングにはクーラーが利かせてある。
リツコの向かいに座ったマヤは、茶色の液体が入ったカップを手に取りおいしそうに飲んだ。
そんな様子を見るのも、なんだか久しぶりのような気がする。
「…ありがとう、助かったわ」
「いいんです、これくらい。…先輩、他になにかお手伝いできることはないんですか?」
「今のところ、これで充分よ、あなたたちだって大変なんでしょう? ごめんなさいね、無理をいって」
「……そんなこと、…私は先輩が帰ってきてくれたら簡単に楽になるのに」
「もう決めたことよ。それに、私なしでも、あなたならひとり立ちできるわ」
「だって…」
すねたような声で、マヤが恨みがましい目をする。
半ば裏切ったに等しい自分をこうして慕ってくれるのはありがたいと思う反面、少し後ろめたくリツコは思った。
彼女に事後処理を押し付けてしまった上に、まだ先輩風を吹かせてあれこれと頼みごとをしている。
ろくなものではない。
「大丈夫よ。あなたの力は私がよく知っている。マヤなら大丈夫」
「先輩……」
「それに、今の私では、正直体力的にネルフはきつすぎるわ。いくら使徒がもう来ないといっても、組織の改変というのはそれだけで大仕事ですもの」
「…先輩、お身体の調子は、まだ…」
「完璧、にはならないでしょうね。生きているだけでも半ば奇跡のようなものだったらしいから」
弾丸は左肩近くに命中していた。あともう少しずれていれば即死だったと医師には言われた。
もっとも、リツコがそう聞かされたのは意識が回復してからなので、撃たれてから数日たった後のことだ。
その時には、ほとんど全てが終わっていた。
委員会により全権限停止処分を受けたネルフは、実質的に解体されることとなっていた。
何十名かの調査団が派遣され、マギをはじめ施設内の調査をしているという。本来ならリツコの役目だったのだろうが、冬月が対応していると聞いた。
病室で、リツコのベッドの脇に座り、そう教えてくれたのは、ミサトだった。
組織がなくなると決まっても混乱は少なかったという。国連職員である個人個人の身分は基本的に保障される、それが理由らしい。自分の明日さえ確保できれば、慣れ親しんだ職場が消えることも感傷だけですむ、そんなものかもしれない。
ミサトはどうするのか、そう聞いてみた。
まだ首を持ち上げることすら難渋するリツコに、ミサトは笑って答えた。
辞めることになるだろう、と。
それは納得ができる答えだった。
使徒を全て倒した今、彼女にはもうここにいる理由が無いからだ。
リツコに構わずに去っていても不思議には思わなかっただろう。
そう口に出してリツコが言うと、ミサトは少しバツの悪い顔をして、「あんたと、もう一度話したかったからよ」と呟いた。
それも、納得できる答えだった。
「ありがとう」と、笑いながらリツコは言った。その言葉は、心からのものだった。
まだ機能していたネルフ本部の病室で、リツコは数週間入院した。
退院するその日まで、ミサトは毎日見舞いに来てくれた。
話すことは、とりとめもないことがほとんどだった。共通の友人の噂話や、本部職員のゴシップ、そして学生時代の思い出。いろいろなバカ話を、加持のことすらもあたりまえのようにこだわりなく話していた。
そして午後に病室を出るという日の朝、ミサトが最後に病室を尋ねてきた。
もうとうに立ち上がり歩けるようになっていたリツコは、給ってしまった見舞い品の整理をしつつ、十年越しの友人を招きいれた。
普段着ではなく、スーツ姿で、傍らには大きめのボストンバッグが置かれている。すぐに出るからと、そう言ってミサトは座りもせずにリツコに近づき、しばらく押し黙った後、静かに微笑んで、「じゃ、私行くから」と言った。
それが何を意味するか、わからないわけではなかった。
「そう」とだけ答え、そしてリツコは何も言えなくなった。
ミサトは一瞬だけ目を伏せ何か言いかけたが、結局彼女も何も言えなかったようだ。
ほとんど泣き出しそうな顔をしたまま「それじゃ」と言うと、そのまま後ろを向いて出て行った。
それっきり、ミサトには会っていない。
ネルフを辞め、マンションも引き払い、アスカをドイツに連れ帰った後、彼女の消息はぷっつりと途絶えてしまっていた。
毎日病室に通い、ミサトが本当に言いたかったことはなんなのか、リツコはすでに知っていた。
彼女は自分に謝りたかったのではないかと、そう思う。
初号機から噴出す血の雨に打たれつつゲンドウと対峙していたあの時、リツコは結局拳銃の引き金を引かなかった。
ユイもシンジもレイも、愛情の対象となるもの全てを失ったゲンドウの姿を一瞬哀れに思った、だからかもしれない。
もはやぶつけるあいてがリツコしかいないというなら、受け止めてあげてもいいと、刹那、そう思った。世界を壊す代わりに、意味の無い生贄として差し出してもいいと。
それも、やはり嘘だったのだけれど。
リツコは最後の最後にシンジを求めた。思いを込められた銃弾を身に受けながら、ゲンドウを忘れていた。
だから「あの世界」にいったのだろう。
ゲンドウはもうこの世にいない。
一度だけ見舞いに来た冬月から、そう告げられた。
表向きは爆発に巻き込まれた事故死。
実際は、リツコと同じように初号機の赤い血にまみれて倒れていたという。
頭を撃たれ、すでにこときれていたらしい。
その実行者が誰なのかということに冬月は言及しなかったが、おそらくミサトだろうとリツコは想像がついた。
あの時、彼女がリツコを追ってきていたとすれば、リツコとゲンドウとの会話を聞いていたとすれば、それはありえることだと思った。
きっと冬月も同じ答えを持っているはずだ。
だが、もうすんだことだと、彼もそう思っているのだろう。
シンジのことをいつから知っていたのかと、リツコは冬月に尋ねた。
停電の後からシンジの周辺調査を始めたと、躊躇することも無く落ち着いた口調で彼は答えた。
すでに数ヶ月以上前だ。確かにアレはあまりにも都合がよすぎたのだろう。
背後の視線に全然気づかなかった自分に、リツコは苦笑する。
もちろん会話の全てが筒抜けだったとは思わないが、ゲンドウたちがシンジの秘密をある程度掴んでいた、そのことを知っていればリツコの行動は根底から変わっていたかもしれない。
なぜゲンドウは、リツコやシンジに直接訊かなかったのだろうか。
信じていたから、などではないだろう。
裏切られるその先に立ちふさがり、逆襲するつもりだったのだろうか。
冬月に尋ねると、彼は苦笑しつつ言った。
「碇は怖かったんだよ」、と。
聞かされて、リツコは、その意味を掴みかねた。
何が怖かったというのだろう。
未来のことなど信じる必要はない。
なんであれ後戻りできないところまで、もう来てしまっている。
何があっても目的は変えられない、ならば障害にならない限り、無理に顕わにしなくてもいい。
初号機がシンクロし、ユイがシンジを受け入れているなら、彼女が自分に反することを許すはずが無い。
だから、今は放っておけばいい。
ゲンドウは、そう考えたのだろうか。
あの時彼が言ったように、ユイが自分を導くはずだと。
けれどそれは認めたくないだけではないのか。逃げているだけではないのか。
妻の裏切りを。捨てられたことを。
自分が間違っていると。
もう一度問い直そうとしたが、冬月の目を見て思いとどまった。
優しい色をした瞳は、逝ってしまったゲンドウを悼んでいる、そんなふうに見えた。
リツコもわかっていたはずだ。
ゲンドウは弱い男だった。世界を壊してでも一人の女性を求めねば生きていけないほど、弱い男だった。
愛人が自ら命を絶てば、その代わりをすぐに求めずにはいられないほど、弱い男だった。
そんな彼には、真実を知ることは耐えられなかったのだろう。
幻滅はしない。
弱い男だから、リツコは彼を愛したのだと、今ならば思える。
一筋の涙がリツコの瞳から零れていた。
ゲンドウのために流す、最後の涙だった。
お互いしばらく押し黙り、ようやく落ち着いた後、リツコはこれからのことについて自分の考えを話した。
レイのこともシンジのことも、冬月はこれ以上関わる気は無いという。
当面は司令代行として組織を率いざるを得ないが、自分も落ち着いたらネルフを去るつもりだと、冬月は言った。
激務のせいか疲れた顔をしながらも、彼の表情から憂いは見えなかった。
回想から頭を引き戻し、心配そうにこちらを見ているマヤに視線を向ける。
「冬月さんは、何か言っていた?」
「先輩によろしくって。たまには顔を出すようにも言ってましたよ。…やっぱり寂しいんですよ、私もですけど」
「なかなか時間がとれなかったのよ。私たちも、ようやくここの暮らしに慣れたところだし」
「…あの子たちはどうです? 元気にやってますか?」
「ええ、もうチルドレンじゃない普通の中学生だもの。三年だけど部活にも入ったって言ってたし、順応しつつあるみたいね」
「ああ、だからまだ帰ってこないんですね。…でも、良かったです、それなら」
心底安心したように、しみじみとマヤが言う。
子供たちを戦わせることに罪悪感を持っていた彼女なのだ、自然な反応だと思う。
もっとも、マヤが心配していたほど、シンジもレイもネルフでのことを引きずってはいないようだ。
それはここ数ヶ月生活を共にしてきたリツコには、よくわかっていることだった。
目覚めたその日、ミサトの少し後にマヤがリツコの病室を訪れた。
半べそをかいている彼女をなだめながら、リツコは尋ねたのだ、シンジとレイはどうなったのかと。
ゲンドウの元から彼らが逃げたあの時からすでに数日経っている、なんらかの決着は着けられたはずだからだ。
少し戸惑った顔をした後、二人とも保護されているとマヤは答えた。
レイは病室で安静にされており、シンジは拘束こそされていないものの本部内で監視下に置かれているという。
ただ、二人とも命に別状はないそうなので、少し安心した。
他にも何か言いたそうな素振りを見せていたので若干不審にも思ったのだが、疲れていたのでそれ以上は尋ねなかった。あとで思えば、あれはゲンドウのことを言いそびれていたのだろう。
こちらの状態が安定したら、二人にそれぞれここに来るよう言ってくれと、マヤにそう頼んだ。
「なぜですか」、と珍しく問い返した彼女に、
「…大事な、話があるの。…あの子たちにとっても、私にとっても」、と
微笑みながらリツコは言った。
シンジが病室に来たのは、その3日後だった。
すでに冬月からゲンドウのことは聞いていた。
怯えたような表情のまま入ってきたシンジに、傍らの丸イスに座るように言い、リツコは上半身だけをベッドの上で起こした。
あの時、ゲンドウに対して反抗をしてみせたとはいえ、リツコの言うことに素直に従う彼は、やはり少しも変わっていないように思える。
シンジを見たまま、しばらく何も言わずにいた。
落ち着かず目を泳がせている少年を、ただ見つめていた。
懐かしい顔がそこにある。
心は違っても、別人だと知っていても、胸からこみ上げる何かがあった。
表に出すことはしない。だからシンジにとっては睨まれているように感じられたかもしれない。
むしろ彼のほうが、緊張を増していっている、それが判った。
小さく苦笑した。結果的に苛めているようなものだからだ。もちろん、シンジを呼んだ目的はそんなことではない。
最初に言ったのはレイのことだった。あの時よく連れて行ってくれたと、リツコはシンジを褒めた。
別にシンジは喜びはしなかった。顔を伏せ、あの時は夢中だったと、あれで本当によかったんでしょうかと、呟くように答えただけだ。
なぜそう思うのかと尋ねたリツコに、自分は何も知らなかったからと彼はそう言った。
ゲンドウがしようとしたことも、リツコがあそこにいた理由も、赤い血を初号機が噴出させていたその意味も、レイのことも、ネルフの真実も、シンジは知らなかった。
ただレイを使ってゲンドウがしようとしているのは良くないことだと、なぜだかそう思えたという。
だからわからないと。
良かったのか、悪かったのか。
結果として現れたのは、ケガをし倒れたリツコと、そしてゲンドウの死体だけだった。事後処理の過程で、シンジが変わり果てた父と対面させられた時、撃ったのはリツコではないと、弾痕は別人のものだったと、係官から彼は聞かされたそうだ。
かつてシンジを捨てた父だが、死んで欲しいとまでは思っていなかったろう。
自分がしたことを彼が疑問に思ったとしても、それは無理も無いのかもしれない。
もし殺したのがリツコであれば、シンジが恨みか、少なくとももっと大きな隔意を持ったであろう事は想像できる。病室にも来ることはなかったに違いない。
気に病むことは無い、そうリツコは言った。
「あなたが正しかったことをあなたが知らなくても、私は知っているから」と微笑んでみせた。
どういう意味かと、シンジは訝しい表情をしていたが、それ以上彼に説明はしなかった。
いつか彼が全ての真実を受け入れるだけの強さを得たならその時に話せばいい、そう考えたからだ。
もう一人のシンジのことも滅びた世界のことも、何もかもを。
ネルフから離れたいか、とリツコはシンジに尋ねた。
不意を疲れたのか驚いた顔をしながらも、シンジはできるならと同意した。
いくあてはあるのか、とも訊いてみた。
今度はしばし考えた後、悲しそうに首を振った。ここ数日の間に以前いたところにも連絡してみたが、すでにもぬけの空だったそうだ。ゲンドウがいない今、彼を保護してくれる者はもういないという。
私と一緒に暮らさないかと、リツコは切り出した。
この街とネルフから離れて。
普通の中学生として。
こんどこそ驚愕したのか、シンジは半ば放心したように口を開いたままだ。
彼が自分を取り戻すのを待ちながら、リツコは彼の顔を眺めていた。
ようやく己をとりもどしたのか、「で、でも…」と反論しようとしたシンジを、「あら、私に不満でもあるの」と揶揄してみた。案の定「い、いえ、そ、そうじゃなくて…」と頬を赤らめる。
さらにリツコが畳みかけようとしたその時、病室のドアが開いた。
「ああ、レイも来たのね。ちょうどいいわ」
シンジとリツコを見比べてやや眉を顰めている蒼い髪の少女に、リツコはこちらに来るように呼びかけた。シンジはうろが来たのかただおろおろしている。
もっとも、そこからは話が早かった。リツコがレイに同居を提案すると、ほとんど悩む様子を見せずに彼女が同意したからだ。
リツコと二人きりでないから、というわけでもないだろうが、そんなレイを見てシンジも今度は頷いた。
それでも、「いいんですか?」と問いかけてきたシンジに、「私は一人暮らしだし、レイも一人だから、三人一緒に暮らしたほうが効率がいいの。…それにあなたたちの本来の保護者は、私にとっても大切な人だったから」と、そうリツコは答えた。
せめてあなたたちがひとり立ちするまでは面倒をみて遺志を継ぎたいのだ、そう説明した言葉にシンジも納得したのだろう。「わかりました」と言ったときは晴れやかな顔をしていた。
レイとはまだ話があるから、そう言ってシンジだけを先に返した。
それまで彼が座っていた丸イスにレイを掛けさせて、彼女の様子を観察してみた。
寝込んでいると聞いていたが、顔色は悪くは無い。むしろ白一色とも言えた以前よりも肌色に近くなっているような気もする。熱でもあるのかと訊いてみたが、レイは平気だと答えた。
「体調はどう?」
「なんの問題も無いです」
答える赤い瞳に揺らぎは無い。
「同居の件、本当にいいのね?」
「はい、赤木博士がよろしいのなら」
命令ならば、というわけではないようだ。
すでにリツコにそのつもりはないことを彼女はわかっているのかもしれない。
家族になれるかどうかはわからないが、レイに対しては責任を取らねばならないとリツコは考えていた。シンジに対しては違う、あの彼が望んだからだ。
「いやなら提案なんかしないわ。…そう、それじゃ退院までに新しい家を探さなくちゃいけないわね。住みたいところはある?」
「いいえ、…この街を出るんですね?」
「ええ、そうなるでしょうね」
レイは生まれてからずっとこの偽装された都市で暮らしてきた。他に行くのが不安なのかと思ったが、そうでもないらしい。ゲンドウがいないのなら、もしくはエヴァがないのなら、彼女にとっては同じことなのかもしれない。少なくとも彼女を縛っていたものは、もうここにはないのだから。
「レイ……私のことを恨んでいる?」
前置きも無くそう尋ねた。
思わず口から出ていた。
「……かつてはそうかもしません。でも…」
「私も、変わりましたから」、と微笑みながら彼女は答えた。カヲルを追って地下に共に向かったあの時からそれはわかっていたのかもしれない。それに確かに今のレイは雰囲気は以前とどこか違う気もする。
「そう…、そういえばレイ、あなたATフィールド…」
そうだった。リツコはレイの力のことを思い出していた。倒れている間に精密検査でもされれば、その正体がさらされる可能性もあったのではないか。冬月がいるとはいえ、マギを抑えられた今は委員会側に情報は筒抜けなのだから。
「ああ、大丈夫、だと思います。もう力はありませんから」
なんでもないようにレイが言う。「いらないから、無くしたんです」と付け加えて。
そのことで、リツコにもわかった気がした。レイが望んだことが。
肩を竦めて苦笑する。
「じゃあこれからは、博士じゃなくて、リツコと名前で呼んでちょうだい。それを私たちの最初の一歩にしましょう、レイ」
「…はい、リツコさん」
そう言って笑ったレイの顔は、あたりまえの少女と同じようにあどけなく、可愛く思えた。
すぐにまた来ますから、と名残惜しそうに言ってマヤは帰っていった。
今リツコが住んでいるこの街からネルフ本部まで何時間か掛かる、帰ったら夜になるだろう。それでも足蹴く通ってくれることが嬉しく、そして申し訳なかった。
勝手をやっているのは自分だと、リツコにも自覚があるからだ。
今は個人請負でシステムエンジニアの真似事のようなことしている。口コミだけだが、業界での知名度が高いからか主に相談役的な形でいくつかのプロジェクトに関わっていた。リツコが出向くことは無い、相手がこの辺鄙な街までやってくる。いつまで続くのかはわからないが、資産という面で蓄えは豊富なせいか、さほど不安はなかった。
医者の真似事もしている、医師免許は持っているが開業はしていない、それでも近隣の者を善意で診療しているうちに口コミで伝わったのか、週に何人か患者は訪ねてきた。
マヤに手配を頼んだのも医薬品がほとんどだ。正規ルートの繋ぎだけでもよかったのだが、彼女が自分で動いてくれたようだ。それもいつまでも甘えるわけには行くまい。
しがらみをそぎ落とすつもりでも、生活と共にまとわりつくものは生まれる。
近日中にまだ元気な祖母を呼んで4人で暮らすつもりだが、そうすれば家事は楽になる反面、さまざまな点でリツコの負担も増えることになるのだろう。
もっとも、今現在赤木家の家事はシンジがほとんどこなしているのだが。
首を一度大きく回して、リツコは裏庭に向かった。
テラス状に小さなテーブルと数脚のイスが置かれたそこには、今は誰もいない。
イスには座らず、立ったまま白塗りの柵ごしに風を浴びてみた。
丘の上にあるここからは海が間近に見下ろせる。潮風は必ずしもよくはないのだが、海岸に近い家を探して選んだのだ。砂浜はない、小さな漁港と、それを隠すように堤防が海と陸地とを区切っている。
水平線が遠くに見えるこの風景にもそろそろなれつつはあったが、やはり好ましく思えた。
いつのまにか時間は夕刻になっている。
ネルフにいた時とは全く違う落ち着いた日常の一つが、当たり前のように暮れようとしている。
退院する三日前、ゼーレという組織からの使者が、リツコを訪ねてきた。
黒服にサングラス、かつてリツコを拉致したうちの一人だったのかもしれないが、判別はつかなかった。
もっとも主に言葉を交わしたのはその男ではない、おそらく彼が装置を持ってきたのだろうが、明かりが落とされた病室内に浮かび上がるモノリスのホログラフが、リツコの相手だった。
あの時とは違い現れた黒石板は01と書かれた一つだけだが、威圧するような空気の重さは変わらなく思えた。
補完計画の妨害を糾弾しようというのか、そうも思ったが、抗うすべはリツコにはない。
それゆえか、逆に恐怖は感じなかった。
全てはもう終わっている、彼らにもどうすることができないところで。
リツコの心の動きなど気にしないように、モノリスからしわがれた声がした。いつか聞いた、キールの声だ。
恨み言などではなかった。彼が問いかけたのは綾波レイの正体、それだけだった。
「…マギに記録が残っていたのではないのですか?」
偽装はしていたが、ターミナルドグマでの実験データは消す暇などなかったのだ。それなりの技術を持つものが詳しく調べれば、わからないはずはないだろう。
『タブリスがアダムから生まれたように、彼女がリリスから生みだされた、それは分かった』
タブリスとはカヲルの使徒名だろうか。
キールの声には苦味が含まれているような気がする。レイが持つリリスの力を利用し再び補完を図る、そういうわけでもないらしい。
もしそうならリツコのところに来る理由はないだろう。レイを連れて行けばそれで終わる。
「彼女を調べたのではないのですか?」
『数度にわたり精密検査をした。しかし結果は同じだ。今の綾波レイはただの人間でしかない、とな』
それはおかしい。
綾波レイは遺伝子レベルでは人間ではなかったのだ。その元となるリリスから生み出された段階で、エヴァと同じく、99.89%の同一性しか持たなかった。
そのデータも彼らは手に入れているはずだ。
「人間、だったのですか?」
『100%そうだ。 形成の元となったはずの碇ユイの遺伝子とも違う、彼女独自のヒト遺伝子を持っていた。いずれにしても残っていたデータとは大きく食い違う。…赤木博士、彼女は何者なのかね』
「レイは……」
問いかけの意味を一瞬掴みかねる。まさか別人とすり替えたとそう考えているのだろうか。
確かに状況だけを見ればそれが一番論理的だが、リツコにそんな余裕など無かったことは彼らもわかっているだろう。
分かっていてその上で問いかけているのだ、彼女の、綾波レイの真の姿を。
「レイは、あの子は神です」
『しかし今の彼女はリリスではない。使徒ですら、ない』
「リリス本体とクローンたちと零号機、そして初号機が失われ、残ったのは今のレイのみです。…想像ですが、彼女は発見された当時のリリスとも違う、意志ある存在としてリリスの力と魂を全てその身に宿したのだと思います。初号機が自らを滅したあの時に」
さらにアダムすらも、レイは取り込んでいる。
アダムとリリスをあわせることがゲンドウの補完へのステップであったのだとすれば、今のレイはリリス以上に完全な存在と言えるはずだ。
『ならば今の綾波レイはなんだというのだ』
「擬態、でもありませんね。おそらく…」
何らかの手段を用いてセンサーや検査器をごまかす目くらまし、そんなものではないだろう。
いろいろな角度で繰り返し調べたなら、数値に整合性がなければどうやっても歪みが表れると思う。
それに、レイにそんなことをする理由があるとも思えないのだ。
そう、彼女が完全な神だとすれば。
「おそらく…レイは人間になることを望んだのだと思います。だから、今の彼女はただの人間なのです」
『…どういう意味だね?』
「神光あれと言給ひければ光ありき、…願うだけで現実化できる、そういうことでしょう」
『……まさか、まさか全能神だというのか!』
「はい」
そう、それが答えだ。
新たな世界を創るほどの力を、その魂に内包した存在。
しかし創生でも補完でも滅亡でもなく、彼女は継続を望んだ。この世界に生き続けることを望んだ。
ユイのクローンではなく、人と違う何かでもなく、特別な力を持たないただの少女として、それでも他の誰でもない綾波レイとして、生きることを望んだ。
それこそが、ゲンドウを切り離してレイが選んだ道だったのだ。
遺伝子レベルで己の組成を組み替えただの人間となったのなら、もはや特別な力は持つまい。全ての人類がそうであるように、ATフィールドなど使えはしまい。
だが肉体はそうでもレイの魂は違うのだ。
神である彼女が真に願えば、やはりそれは叶うのかもしれない。
「…今のレイをコントロールする術は、もはや人類にはないでしょう。私たちに出来ることは…」
『見守るだけ、か。…少なくともあと数十年を待たねば答えは出ないということだな』
レイが人間としての天寿を全うするのか。不死となり生き続けるのかはわからない。
けれどそれは彼女の意志しだいだろう。
望めば自分の存在を消すことすらもできる、だから全能なのだ。もちろん自分以外の存在を消すこともできる。
世界を操る者からすれば、この上なく危険なことに違いない。
アダムやリリスがそうされていたように、封印する手段があれば別だが。けれど今のレイの肉体は人間でしかない。
「人間」を封印することなど、はたしてできるものだろうか。たとえばロンギヌスの槍を使い、もしも死なせてしまえば、その瞬間彼女は世界を滅ぼすかもしれないのだ。
レイが壊れやすい人間の器である限り、むやみに手出しは出来ない。
逆に言えば人間である限り、レイの力は開放されないとも言える。
下手に刺激すれば崩壊の危機すらある。それはキールにもわかったのだろう。
力なき人類としては、神の自由意志にまかせるしかないのだと。
レイのことは監視するにとどめると、彼は言った。
彼女を説得すれば彼らの求めた補完計画の実施は可能になるかもしれない、などとは、やはり考えなかったようだった。
夕日が沈んでいく。
リツコは右手に持ってきていたタバコを口にくわえ、火をつけた。
テーブルの上にある灰皿を引き寄せる。
リツコとレイが暮らすことに、結局邪魔は入らなかった。
監視は続いているのだろうが、気にしないことにした。彼らの対象はレイであろうし、リツコも目の一つだと認識されていると思う。
レイに異常があれば最初にリツコが動く、キールとの会話の中で、そんな黙契はあった。
裏切るつもりはない、そうなる心配をしていないだけだ。
レイは今を楽しんでいる。人としての生を謳歌している。何も無ければ、何も起こりはしまい。
数十年先のことなど、今は考えることはない
どのみちそのころいないリツコには、どうでもいいことだろう。
タバコを一度吹かし、灰皿においた。夕焼けから視線を移すと、はるか遠く、堤防沿いの道を歩く二つの人影が見えた。
遠目でもわかる。蒼い髪と、黒い髪。レイとシンジだ。
部活が終わったのだろう。いつもの、地元の中学校の制服姿だ。
寄り添うようにではないが、並んで歩いている。
恋人同士ではないが、ただの同居人でもない。今並んでいる数十センチの距離が二人の関係を表している。
この数ヶ月の間に、徐々に近くなっているのがわかる。シンジもレイもリツコと家族として慣れつつあるが、明らかにそれとは違う近づき方だ。いずれ、そう遠くない時期に二人が結びつくのが予感されるような。
邪魔をするつもりも、嫉妬心もなかった。
ただ、一度だけレイには訊いたことがある。
今のシンジで、いいのかと。
何も気になどしていないと、笑って彼女は答えた。
「私も、二人目ですから」、と。
以前も今も本質は変わらないと言いたかったのか、いなくなった人はもういないのだから今のシンジが全てだと言いたいのか、それとも今のシンジだからいいのか、リツコに判別はつかなかった。
けれどレイがこだわっていないのなら、それ以上訊こうとは思わなかった。
タバコに手をやり、もう一度ふかした。
まだ距離があるからか、レイとシンジがリツコに気がつく様子は無い。
途中で買い物もしたのだろう、買い物袋とかばんでシンジの両手はふさがっている。歩くペースはレイに合わせたのかゆっくりだ。
この数ヶ月で背が伸びたシンジは、それなりにたくましさもましつつあるように見える。レイより頭半分ほど高い。
いずれ彼も大人の男になる。その時には真実を受け入れる強さを持っているだろうか。
だが、レイが彼を信じたのだ。すでに答えは出ている気もする。
リツコは見守ればいいのだ。
二人の行く末を。
夕日が沈もうとしている。
夕焼けがオレンジ色から黒みがかった赤い色に変わる。
初号機の血の色。
世界を染めていた赤い色。
ここから見る世界も、空も、海も、シンジやレイたちも、赤く染まって見えた。
二人並ぶ姿もずいぶん近くなった。
会話を交わしながらどちらも笑っている、それがよくわかる。
普通の、あたりまえの少年と少女のように。
チルドレンであったことなど、嘘のように。
なんの邪心もなく。
これが、これこそが、あのシンジが望んだ世界なのだろう。
滅びた赤い世界からは、見ることも触れることも出来ない未来。
シンジのいるところからは、もうけっして到達することのない明日。
それでも、確かにここにある。
彼が守った世界が。
守りきった世界が。
もうしばらく、二人を見ていよう。
そして、いつか伝えに行くのだ。あの赤い世界へ。シンジの元へ。
取り残された孤独な魂を少しでも癒せるように。
方法はわからない。見当もつかない。
それでも、もう一度あそこにいくこと、その手段を探すこと、それがこれからの自分のすべきことだとリツコには分かっていた。
今まで蓄えた知識は、全てそのために使われるものだったのだ。
何年かかるかはわからない。
けれど不安は無かった。一度は行っている、また行けないわけは無い。
もう夕闇になろうかという空に、鳥が一羽飛んでいるのに気づいた。
かなり近づいてきたシンジたちの頭上はるか高くを、二度、三度と大きな弧を描いて飛んでいる。
逆光だからか、広げた翼の形からは何という鳥なのかは判別はつかなかった。
「リツコさあん!」、とこちらに気づいたシンジたちの声が聞こえた。
シンジは買い物袋を持った手を上げ、レイはリツコに向かい小さく手を振っている。
二人ともなんのわだかまりもない、笑顔だ。
手を振り返すと、もう一度満面の笑みを浮かべて、すぐご飯にしますと言って二人は足を速めた。建物の影に入ったのか姿が見えなくなる。
リツコは視線を空に戻した。さっきの鳥はまだ飛んでいる。
名残を惜しむように、赤黒い空にもう一度だけ、ひときわ大きく弧を描く。
それで気が済んだのか、その鳥は次に海のほうに頭を向けた。
暮れる日に、沈み行く太陽に向かって、滑るように飛んでいく。
まっすぐに。
鳴くこともせず。
ふりむくこともなく。
やがて豆粒のように小さくなる。
鳥の姿が赤い空に溶けていこうとしている。
そのまま夕陽の奥に消えていく。
時の流れに抗い、はるかな昨日へ帰るかのようだ。
あの鳥は、もしかしたらシンジのもとへと行くのかもしれない。
彼を慰めに、同じ色をした赤い空に向かったのかもしれない。
リツコに翼は無い。
だから今は追えないけれど。
哀しくはない。いつかまた逢える、そのことを信じていたから。
タバコの火を消して、部屋の中へと入った。
ハンカチを取り出して、流れた涙を拭いた。
もう、すぐにドアをあけて帰ってくるだろうレイとシンジの二人を、
今日の日をともに暮らす、大事なリツコの家族たちを、
微塵も憂いのない、笑顔で迎えるために。