この街で初めて会った人。
この人に引きずられるようにここに連れて来られ、
それから長い時を一緒に暮らし、
そして今も隣にいる。
自分のために怒りでくちびるを震わせ、
自分のために涙を流し、
自分のためにその手を血で染めた人。
そうしてもらう値打ちなど、なにももたないというのに。
SR −the destiny−
〔第20話 夜を往け〕
Written by かつ丸
青い自動車。ルノー・アルピーヌ、確かそんな名前だった。
ネルフ構内に張りめぐらされた作業車両用の道を、車は走っている。運転しているのはミサト。この車の持ち主。
助手席で、シンジは身体をドアに押しつけて座っていた。少しでもミサトから離れようとするかのように。それを気にした様子も無く、ミサトは前を見ている。
これからどうしろというのか?
いや、答えは分かっている。
再びエヴァに乗れというのだ。そして今度は人を・・・・今まで守ってきたはずの人間たちを殺せと言うのだろう。ミサトがやってみせたように。
カヲルを殺した。どうせ血塗られた手だ。けれど自分に人の生命を奪う権利があるのか。ただ己の欲望を満たすことしか考えない薄汚れた魂、存在する価値もない、消えてしまったほうがいい醜い生き物。
あのまま殺されていればきっと楽だったろう。レイやカヲルのいるところにいけたとは思わない。自分が行くところはきっと地の底だろうから。
レイとの約束を果たせず、カヲルを己の憎しみゆえに殺し、そして自分の大事なものを穢した。
もう何も残っていない、守るものもない。
エヴァに乗る資格など、自分にはもうないのだ。
「サードインパクトを起こすこと、それが人類補完計画の本当の目的だったの」
前を向いたままミサトが話しだす。
「群生として行き詰まっていた人類を単体の完全な生物として進化させる、それでどうなるかは知らないけど。加持が残したものからそこにたどりつくことができたの、マギのデータをたどってね。セカンドインパクトは、実験の過程で暴走を始めたアダムを押さえるため強制的に胎児までもどした、その時のエネルギーの放射が原因らしいって」
紡がれるその言葉も、シンジの頭にはほとんど入ってこなかった。
構わずミサトは続けている。
「だから、全ては仕組まれたことだったのね。なぜそんなことをする必要があったのかしら・・・」
口ごもるように、ミサトの言葉の語尾があいまいになった。
彼女もシンジにではなく、自分自身に言い聞かせているのかもしれない。
「・・・使徒は私たちの別の可能性だってマギの記録にはあった、けれど、ホントのところはよくわからないわ。この星が持つ記憶が生み出した幻のようなもので、補完計画を選んだ人類を押し止め、そして試すための存在だって、ナオコさんは言ってたけど・・・・詳しいことは聞けなかったから」
カヲルは使徒だった。彼は自分を試したのだろうか。ならば人類の先行きは暗いに違いない。
「でも、一つだけはっきりしてることがあるわ。本当の敵は委員会そのものよ。補完に使われるのは彼らが造った9体のエヴァシリーズ、これを全て倒して、そして初号機と弐号機を含めエヴァをこの世から無くさないといけない。わかるわね、シンジくん」
一瞬だけミサトの視線がシンジの方を向いた。厳しい瞳。それに何の感慨もいだけないまま、シンジは目を伏せていた。
人類を救うことなど、出来るわけがない。ちっぽけな自分自身すら救えないのだから。
「弐号機起動しました!!」
銃弾が飛び交う発令所、前部モニター映像の異常に気づいた青葉が叫んだ。日向も端末の画面に目をやり、驚いた顔をする。
「・・・・シンクロ率400%、あの時と同じだ」
「伊吹一尉と連絡はとれないのかね?」
「パイロットの反応消えています!!」
後ろに立つ冬月の問いかけに悲鳴のような声で答える。正面のモニターでは金色の機体が宙を飛んでいた。戦闘ヘリからの水雷攻撃にさらされていたはずだが傷ひとつついているようには見えない。装甲の故か、それともすでにATフィールドは出ていたのだろうか。
発令所の思いなどまるで意に介さないように、地上に降り立った弐号機はその両腰につけられ剣を抜き取った。
飛来するミサイル群。それを一気に両断する、その動きは剣豪もかくやというほど素早い。勢いをつけたまま向かってくる戦闘ヘリ数機も真っ二つにし、ただの瓦礫として地面にたたき落とした。
突然のエヴァの出現に驚いたのだろう、群がる戦車から狂ったように砲弾が撃たれる。それを小うるさそうに一瞥すると、金色に輝く巨人は左肩に抱えた砲塔を戦車群に向けた。
轟音。
閃光がジオフロントを照らす。
そしてそれが消えた時、地面が抉り取られ砲塔が向いた先には巨大な穴があいていた。何千人もの部隊が展開していたそこには息をするものはひとつもいなくなっている。
「な、なんてことだ・・・」
あまりのことに青葉が呆然とする。普段のマヤならこんなまねができるわけがない。
残ったヘリが弐号機の背後から攻撃を加える。直接ダメージを与えるのは無理と判断したのだろう、両翼から発射された機関砲は弐号機背後の地面を叩き、そして弐号機とネルフ本部を結ぶケーブルを切断した。
それがわかったのだろう。意味のなくなったケーブルを弐号機が切り離す。そして同時に肩口に背負ったバスターランチャーもかなぐり捨てた、もう用などないと言ったように。
再び剣を構える。遥か上空に逃げようとするヘリたちに向かい一閃すると、剣先からオレンジ色の光が伸びた。
まるで紙細工のように、鋼鉄の鳥達が焔に包まれていく。
ひとつ、またひとつと黒煙を吹き上げて落ちていくヘリを、地上に僅かに残った迷彩服姿の人間たちはただ見つめていた。
人の力で抗することなど出来ようはずの無い、黄金色に輝く魔神に怯えながら。
「やはり毒には毒をもってあたらねばならん」
「全ての災いの元たるエヴァシリーズを」
「今こそ我等のしもべとして解き放とう」
ジオフロントの天井に空いた大きな穴。それを窺う上空に。9機の輸送機が飛来していた。まるで蛾のように平坦で広い翼、その胴体には白い巨人が繋がれている。
大きく開かれた口からは鋭い牙がのぞいている。しかしどの巨人もぴくりとも動いてはいない。
巨人の脊椎にあたる部分に棒状のもの、「KAWORU」と書かれたエントリープラグが挿入され、それを合図に一斉に輸送機から切り離された。
生命を注がれたように喚くような鳴き声をあげ、白い翼を広げる。右手には雲形定規のような形をした大剣。
大鷲が獲物を狙うように、9機のエヴァはネルフ本部の上空で弧を描いていた。ゆっくりとゆっくりと降下してくる。
地上では両手に剣を持った金色の巨人がそれを見上げていた。まるで待ち受けるように。
その様子に恐れなど、微塵も感じられはしなかった。
「エヴァシリーズ9機が全て投入されたか・・・・老人たちが本格的に動いたな」
モニターを見ながら冬月が呟いた。その顔には焦りの色が見える。
「弐号機一機では止まるまい ・・・碇、時間は残り少ないぞ」
オレンジ色の水槽の前に、蒼い髪の少女が一人佇んでいた。
その紅い瞳はやはり肉塊を見つめ続けている。
先程までこの部屋にいたもう一人の蒼い髪の少女、黄色い瞳を持つ彼女の話に何の感慨も抱かなかったように、レイの顔には感情が現れてはいなかった。
ただLCLをたゆたう肉片、かつては己の身体と同じ形をしていたモノを見ている。身動き一つせずに。
「・・・やはりここにいたのか、レイ」
かけられた声に振り向く。視線の先にいたのは彼女を造ったヒト。
「・・・・行こう、約束の時は来た。今日、この日のためにお前はいたのだ」
その言葉にもレイは表情を動かすことは無かった。肉塊を見ていた時とその様子は何も変わらない。ただ小さく頷いた以外は。
何も言わず、ゲンドウは踵を返した。そしてレイもゲンドウの背中を見ながら歩きだす。
その先にあるのが何か、問いかけることもしないで。
銃撃を受け横転し、大破したルノー。その影に隠れるようにしながらミサトは通信機を握っていた。
すでに襲ってきた数名の敵は撃ち殺した。しばらくは大丈夫なはずだ。
「そう、S2機関搭載型が9機、総力戦ってわけね。・・・・マヤとはまだ連絡取れないの?」
『はい、すべての信号は遮断されています。暴走にしてはあまりにも理性的な動きですから無事だとは思うんですが・・・』
弐号機が動くはずはない。ファティマが乗っていない今、チルドレンでもないマヤに動かせるはずがないのだ。
だが目の前にある事実を否定するわけにもいかないだろう。発令所の日向たちが夢を見ているわけがないのだから。
「・・・・様子を見るしかないわね。どのみちあの子一人じゃきついわ。第7ケイジへの通路はどうなの?」
『そこからなら非常用のリフトが使えます。電源も3重に確保してますからあと5分以内に行っていただければ。施設内の敵は退避を開始しています、ケイジにはもう残っていません』
「わかったわ・・・・それじゃ」
エヴァシリーズの出現と戦自の撤退は関係があるのだろうか。地上の部隊は弐号機がほとんど殲滅したということだから、指揮系統を建て直すためかもしれない。
だが、それはミサトたちには好都合だろう。いくら地の利があったとはいえ、ここまで来れただけでも僥倖といえるのだから。
通信機のスイッチを切り、ミサトは立ち上がった。
「行くわよ、シンジくん」
傍らに座り込んでいる少年を見据える。
やはり動かない。
ミサトの声など聞こえないかのように、その空ろな瞳は無残にへこんだ車のボンネットを見ている。
腕を掴み、引きずりあげるように引っ張る。それに抵抗することもなくすんなりと立つのはその気力すらないということだろうか。
顔を伏せたままミサトの方は見ようとはしない。自分を恐れているのかと思っていた、手に持った銃で人を殺し続ける姿を。
けれど兵士たちを撃つミサトのそばから逃げ出すこともせず、こうしてついてきている。まるで心を失った人形のように、倒れゆく兵士の死体を見つめるシンジの視線は乾いていた。
ときおりミサトを見る視線もまた。
そこには恐怖など見えない。
ミサトにはわかっている、そこにあるのは絶望だと。
15年前、父に運び込まれた脱出カプセルから見た天空に広がる翼、あの時は意味など分からなかった。
この世のものとも思えない不思議な光景、いつしか意識は薄れ再びそのままカプセルの中に倒れこんでいた。
しばらく漂った後船に拾われたのは、カプセルから救助信号がでていたからだろう。その船に乗っていたのが前日に南極を発ったはずのゲンドウ達だった。
事故で受けた傷から大量の出血をし生死の境をさまよっていた自分が目覚めた時、そのことを知った。
船室に備えつけられた簡素なベッド、しかし治療に当たっていた船医は一流だったようだ。設備が不十分だったため傷は残ったが、ミサトの生命が助かったのは奇跡といってもいいだろう。
嵐の中、激しい上下動をくり返す船室。その時考えていたのは父のことだけだった。ミサトたち家族を研究のために放置し、けれども最後の最後に自らを顧みずにミサトを助けた父。
この船は父たちを救いに来たのだろうか。爆風で吹き飛ばされたとはいっても、そう遠くでは無かったと思う。この嵐が収まれば、再び基地に向かうのだろう、残されたみんなを乗せるために。
そう思っていた。けれども、嵐は止まなかった。何日も何日も。
このことを予想していたのだろうか、時折様子を見に来る船医や女性スタッフたちに不安の色は無かった。
しかし、南極の基地があの後どうなったか訊ねても、口を濁してミサトには教えてくれなかった。
一度だけミサトの船室に来た男、六分儀ゲンドウ、数少ない日本人スタッフだったため、南極で話こそしていなかったが顔は覚えていた。暗い瞳で何も言わずミサトの方を見ている彼に同じ質問をした時、ゲンドウは言った。
南極にはもう誰もいないと。
突き放すような短い言葉、しかし冷たさは感じなかった。
それに本当は自分でも気づいていたのだ。おそらく、父はもうこの世にはいないだろうことに。あの巨大な羽根が父たちを遠くに運び去ってしまったことに。
激しい波に揺られながら過ごす日々が術後の身体にはいいわけがない。目覚めたあともミサトは何度も昏睡状態に落ちた。だからずっと知らなかったのだ、この船の外で何が起こっているのか。
セカンドインパクト。それは後にそう呼ばれた。
船から降ろされ収容された病院で、ミサトは事実を告げられた。
すでにゲンドウ達はどこかに行ってしまっていた。見知らぬ外国の小さな病院の一室。
地軸の変動、世界中で起きた群発地震と潮位の上昇、そして気候の急変。なぜか平穏だったその病院の中で、その話を聞かされた時ミサトは作り話をされているのかと思った。
しかし担当医師の厳しい表情とその話をした黒づくめの見知らぬ男の事務的な口調に、それが冗談ではないと知った。病室のベッドの上で見せられたのは下界の状況。災害と暴動による混乱、そして食料不足による奪い合い、それらによって死にゆく人たちのこと。
窓一つない病室、しかしこの外では今も嵐が吹き荒れているのをミサトは知っている。あの日から一日も止むことは無かったのだ。
まだ怪我も直らず、病室から動くこともできない。いったい自分に何を言おうとしているのか。黒づくめの男にそう問いかけようと見上げた時、逆に男のくちびるがうごいた。
ミサトは南極で何を見たのか、と。
あの日父は何をしたのか、と。
その時分かった。いや、本当は最初から分かっていた。
この事態をひき起こしたのはミサトの父だと。
彼が開けてはいけないパンドラの箱のふたを開いたが故に、結果多くの人が死んでいるのだと。
唯一の南極の生き残り。調査責任者の娘。真実の最も近くにいた者。
それがミサトにつけられた称号だった。
ミサトを救ってくれた父への愛、勝手さゆえに多くの人を殺したことへの憎しみ、その狭間でミサトの心は揺れ、そして壊れた。
愛情だけなら嘘をついてでも父を庇うことも出来たろう。憎しみだけならすべて知らないといい、父になすりつければ良かった。
父を信じることも断ち切ることも出来ずに、問い詰める声をただ聞いているしかない。ただの十四歳の子供でしかなかったミサトには、厳しい問責は自分への罵倒にしか聞こえなかった。
なぜ、お前は生きているのか。
なぜ、娘であるお前が止めなかったのか。
なぜ、お前は何も知らないのか。
直接そう問いかけられたことはない。ただミサトにはそう聞こえていた。
それは自分自身に浴びせた言葉なのかもしれない。
何もできなかった、そして今も何もできない自分に。
あのカプセルに自分でなく父が乗っていれば、原因もわかり事態への対処ももっと出来たかもしれない。
これだけ多くの人が死んでいるというのに、なぜ自分に生きる資格があるというのだろう。
それは自分への絶望。
再び南極へ行ったあの時まで、2年間ミサトを縛り続けていた負の感情。
今のシンジも同じなのだ。
「・・・・急ぎましょう、みんなが待ってるわ」
手を引くようにしてシンジを連れ、リフトに向かう。残された時間は少ない。
空には9羽の鳥が白い翼を広げ舞っている。それを見ているこの目はいったい誰のものだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えながら、マヤは天を見上げていた。
モニター越しにではない、確かに直接見ている。けれどもどこかおかしかった。
「こわいのかい?」
傍らに立つ銀髪の少年が問いかける。その優しい微笑みにマヤは笑って否定した。
「カヲルくんがいるもの。こわくなんかない」
「気にならないのかい? 自分がどこにいるのか」
その言葉に初めて気づく、弐号機のプラグの中にいるはずだった自分が、ジオフロントにいることを。
いや、そこにいるのはカヲルだけだ、マヤには自分の姿が見えなかった。
「・・・・あれ?」
こちらを見ているカヲルの顔が弐号機の顔と重なる。そして再び周りを見渡すとそこはジオフロントですら無かった。
いつか来たことのある、何もない場所。カヲルと初めて話した所。
「カヲルくん?」
「僕はここにいるよ」
弐号機が再びカヲルの姿に戻る。
「・・・・どうなったの? 私」
「ここは弐号機の中だよ。あの時初号機に滅ぼされることで、僕はこの身体を得た。もともとこれはアダムから生まれしもの、僕と同じだからね。綾波レイと零号機のような関係さ」
「レイちゃんと?」
「彼女は僕とは違う存在だけどね。・・・・アイツがここに眠っていた魂を殺したことで、あの時すでにこの機体はただの入れ物でしか無かった。シンジくんに殺された時、僕の魂はこの身体に入ることが出来たんだ。ドイツにいる僕の分身達よりも、ずっとこれに馴染んでいたからね、僕は」
ではあれからずっと弐号機の中にカヲルはいたのか。触れるのがつらくて整備作業は他の技術部員に任せていたため、マヤはデータを見ることすらしていなかったのだ。
「ごめんなさい、気がつかないで」
「謝ることはないさ。また逢えると僕は知っていたから」
その言葉と共にカヲルが空を見る。また風景が変わり、そこにはジオフロントの上空が写っている。宙を舞うエヴァシリーズがゆっくりと降りてくる。
「・・・・敵なの?」
彼らの手に剣が握られているのに気づいたマヤがカヲルに訊ねた。
「違うよ・・・・あれは僕のしもべ達さ」
背後から突然銃声がした。脇腹が熱い。
とっさにシンジを庇うように駆け出す。
「急いで!!」
目の前にあったリフトへの通路、その扉をくぐり抜ける。敵も退却途中だからだろうか、追ってくる気配は無い。
血がにじむ傷跡に服の上から触れながら、ミサトは思わず壁際に座り込んだ。
深いのかもしれない、動けなくなるのもそう遠いことではないだろう。けれどここまでたどりついた、あとはシンジをリフトに乗せればいいだけだ。
気配を感じ顔をあげる。シンジがこちらを見ている、どうしていいのかわからない、そんな顔をして。
「・・・・・だいじょうぶ、たいしたこと・・・ないわ」
無理にでも笑った顔を見せる。心配してくれるのが少しだけ嬉しかった。
壁に身体を預けるようにしてミサトは立ち上がった。シンジは視線を逸らそうとはしない。
彼の腕を掴み、リフトの入り口へと向かう。日向の言ったとおり、電源はまだ生きていた。
怯えた顔の少年を見つめる。偽りの、いや、たった一人のミサトの家族。
別れの時が来たのだ。
「シンジくん、ここから先は一人で行きなさい、だれの助けも無く」
そう、彼を助けることはもうできない。発令所まで戻ることも叶わない今、たとえシンジがエヴァに乗ってもそれを見ることすら自分にはできないだろう。
この少年の小さな肩に全てを委ねなければいけないのだ。
人類の未来を、この絶望だけしか持っていない傷ついた魂の持ち主に。
その自覚があるのかもしれない、拒絶するように、シンジは俯いて下を向いた。
シンジの顎を掴みむりやりあげさせる。目をそむける彼を睨みつけながらミサトは言葉をふりしぼった。
「逃げ場は無いのよ。たとえつらくても、それがあなたの運命だもの、同情はしないわ」
望んでそうなったわけでも無い。責任はシンジよりも彼の父にあるのだろう。けれども彼は選ばれてしまった。代わってやることはできないのだ。
ミサトに出来ることはかれの背中を押してあげることだけだ。
「・・・・いつかあなたは言ってたわね。この街に来てから得ることが出来た、いろいろなモノを守るためにエヴァに乗るって」
シンジの肩が震える。思わず彼の両肩をミサトは掴んだ。
「それをあなたは全て失ってしまった、そう思っているのかもしれない。守るものなど無いと、そう思っているのかもしれない、きっとそれは間違っていないわ、でも・・・・・」
肩を掴む手に力を込める。
「あなたは、まだ、生きているわ。あなたがいる限り、あなたが覚えている限り、失われるものなど何も無いの。あなたが守れなかった少女も、あなたが殺してしまった少年も、抱えたままで生き続けなさい、生きようともがきなさい。もがいて、苦しんで、生きられるだけ生きて、それから死になさい」
そう、どれだけ生きるのがつらくても、人はそれをやめてはならないのだ。
生命は自分一人のものではない。記憶と同じだけ、思い出の数だけ、背負っているものがある。託されていることがある。ミサトがそうだったように。
「もし、このまま何もしなかったら、私あんたを許さないからね。一生、絶対に許さないからね」
シンジは選ばれた存在なのだ。手段を持っている、それにさえ気づけば彼は前に進めるのだ。
それはどれだけ羨ましいことだろう。
二度目に訪れた南極、連れて行かれたといったほうが正確だろう、唯一の生き証人として調査船に乗せられ送られた場所で、ミサトは基地の残骸を見た。
南極大陸で発見された巨大空洞、かつて世界中の科学力の粋を集められていたそこは、ガラクタとなった機械類と科学者たちの死体が転がる墓場と化していた。
微生物すら存在しないため、焼けただれた死体たちは腐敗すらしていない。まるで宇宙服のような防護服を着せられ、ミサトは大人たちに連れられていった。
父には会えなかった。もしかしたら黒こげになった死体のどれかがそうだったのかもしれない、けれど見つけることはできなかった。
父の姿を見れば、何かが分かるかもしれない、その期待が無いわけではなかったが、すでに心を壊して久しかったミサトは落胆の表情を浮かべることすらしなかった。ただ空ろな目で周りを見ているだけ。
覚えているかといろいろ訊いてきた大人たちも、返事をしないミサトに諦めたのか。やがてなにも言わなくなった。
ただ一人を除いては。
案内されたそこはミサトが父と別れた場所の近くだった。実験棟、彼はそう言っていた。
壊れた壁の隙間から中に進んだ時、ミサトにはわかった。ここにヤツがいたのだと。
屋根は裂かれ、二つに割れ空が見えている。地下奥深くに続く空洞の底には長大な棒のようなものが突き刺さっている。
あの翼持つ巨人はここで目覚めたのだ、父の実験によって。
「第一使徒、アダム。それがお前が見た巨人の名前だ」
声の方を見る。ミサトをここに連れてきた男がこちらを向いていた。
碇ゲンドウ、今はそういう名前だと聞いた。
「・・・・・し・・・・と・・・?」
「滅びを司るものだ。あの事故はその目覚めによって起きた。そしてそれは始まりにすぎない」
見上げるミサトを見ながら言う。その口調は子供に対するものではなかった。
「再び使徒は来る。今度こそ人類を滅ぼすために」
「・・・・ま・・た・・・?」
何年も使っていなかったせいだろう。ミサトの喉はうまく動かなかった。
「使徒から人類を守る組織、それがゲヒルンだ。望むならくるがいい、力が必要だがな」
そのゲンドウの言葉が、ミサトを目覚めさせた。使徒を倒すために、自分は父に生かされたのだと。
ゲンドウはミサトを利用しようとしただけなのかもしれない。同じ生き残った者として思うところがあったのかもしれない。それはわからない。
たとえ利用されているだけでも、ミサトはそれを責めることはできないだろう。彼の息子に対して同じことをしているのだから。
使徒を倒すために入ったゲヒルン、けれども真に選ばれたのはミサトではなかった。唯一使徒に対抗できる力、それを得たのはシンジでありレイでありマヤだった。
そして今、隠された真実を知った後も、やはりミサトにはどうする手だても持っていない。
たとえ生命を投げ出しても、何も変えることはできないのだ。
それはなんと歯がゆいことだろう。どんなに哀しいことだろう。
怯えた目でミサトを見るシンジには、きっとわからない。選ばれなかった者の気持ちは。
「シンジくん、もう一度エヴァに乗って、そして確かめてきなさい。あなたがここに来た意味を。レイを愛し、そして失った意味を。なにもかも無くしてもあなたがこうして生きている意味を。あなたならきっと掴めるわ」
そう、彼こそが掴めるのだろう。なぜ使徒が現れたのか、なぜエヴァが造られたのか、なぜ人類を補完するのか。ミサトがたどりけなかった真実を全て。
「だから、もう一度前に進みなさい。誰のためでも無い、自分自身のために。なにも出来なくなってから、後悔しないために」
その言葉と共に、ミサトはシンジのくちびるを奪っていた。
考えてのことではない。胸からこみ上げる何かが思わずそうさせていた。戸惑う少年にくちびるを絡ませ、しゃぶるようにねぶるように味わう。子供という意識は無い、そこにいるのは一人の男だと、そう思えた。
レイと経験が無いわけではないだろう。されるがままになり、けれどほとんど反応をみせない彼にかまわずミサトはそれをやめなかった。
これが最後と知っていたから。
シンジの中に少しでも自分を残しておきたかったから。
時間さえあれば、無理やりにでも抱かれようとしたかもしれない。
使徒が初めてこの街に現れたあの日、始めて出会った時から、自分はシンジに惹かれていたのだろう。自分とどこか似ている境遇、放っておけずに同居を申し出たのもそれゆえだ。
戦闘に傷つき前向きになれないシンジに苛立ったのは、それだけ期待していたからだ。
マヤにつらくあたったのは、レイへの嫉妬の裏返しだった。
そんな自分が彼の母親になどなれるはずがなかった。
「・・・これで、もう私達は家族じゃないわ。次に会う時は、そのつもりでいてね」
ゆっくりとくちびるを離し、ミサトは潤んだ目で言った。己の首にまかれたペンダントの紐を引きちぎり、シンジに渡す。
父の形見。最後の場所にはつれていってあげて欲しい。ミサトができなかったことだから。
そして忘れないで欲しい。
シンジと共に暮らした、ミサトという女性がいたことを。
「・・いってらっしゃい」
リフトのドアを開き、シンジを突き放す。
閉じる扉の向こう側で、彼は目を見張っていた。
自然にこぼれる笑顔でそれを見送る。泣き顔は見せたくなかった。
ドアが閉じきった時、張りつめたものが全て切れ、ミサトはその場に崩れ落ちた。
託せただろうか、父から、そして加持から受け取ったものを。
きっとシンジは先に進んでくれるだろう、ミサトが行き着けなかった高みに。
「これでよかったのよね・・・・加持くん・・・」
薄れていく意識、暗くなる視界、ミサトは加持の笑顔を見たような気がした。
8年前にも見せなかったような、優しい笑顔を。
〜つづく〜
かつ丸にメールを送る
katu@osaka.104.net
解説:
第20話、「夜を往(ゆ)け」です。
シンジとミサトの別れは映画を通してワシ的には一番好きなパートですので、それを崩したくなかったってのが第一ですね。
自分的には「レイの自爆」と並んで「書ききった」かな、と思ってます。(自画自賛(笑))
原作と同じやんけ、と言われればそうなんですけどね(^^;;
でも、たとえば今回加持を出そうと思えば出せたわけで、それをしなかったのは選択の結果なわけです。
ミサトの過去については種々の考察の末。
ゲンドウいい人過ぎるって意見もあるかもしれないけど、ワシとしてはなぜゲンドウが「鬼畜」や「外道」扱いされるのかよくわかんなかったりしてます(^^;
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