Ghost Hunt
FRIDAY MIDNIGHT BLUE
#1 |
(いったい何時になったら不況の世が終わるんだ) 心底疲れた顔で男は10年ほどローンの残っている我が家に向かう。 一文の得にもならない残業と言えど、イヤとは言えない。何の理由があるにしろ一度イヤと言ってしまえば彼を待つのはリストラの4文字でしかあり得ない。 不況の世で小遣いも大幅縮小。家では娘があからさまに自分を嫌い、稼ぎの少なさに妻は自分を見下している。会社では年若い上司に詰られ、少しばかり女子社員にぶつかろうものなら「セクハラ!」と叫ばれる。 そんなストレスからか彼は日々の電車で痴漢行為に走っている訳だが、そんな事は被害者からすれば「ザケんじゃねぇ!」と一言だった。 どんな理由があろうとも他人を害する権利なんて有る筈ないのだから……。 (しかし昨日は危ないところだったなぁ) と男はその時を顧みる。 (やっぱり好みで触るより抵抗しなさそうなのを狙わないと……。本当に危ないところだった) などとふざけた事を反省しつつ家へと続く路地を曲がる。 「?」 ふと見れば電信柱の陰に踞っている人影が見えた。 「??」 見たところ年若い女のようである。腰まで伸びた艶やかな黒髪に春らしい花柄のワンピース。少し距離をあけて見守っていると微かにうめき声が聞こえてくる。 「だ、大丈夫ですか?」 男はとりあえずそういってみた。だが女は小さく頭を振ると更に俯いて荒い息をつく。 「て、ててて、手をお貸ししましょうか?」 女は今度は小さく頷いた。 「んじゃあ、失礼しますよっと」 内心(ラッキー!)と思いながら男は女の腰に手を回す。その拍子に覗き見た女の顔は美人と言って差し支えないものだった。 年の頃は30前だろうか? 控えめな化粧がより儚さを醸し出しているのか男の脳裏に不埒な考えがわき起こる。 (こんなに辛そうにしてるんなら多少触ったって気がつかないだろう) と……。 そして女がふらついた瞬間──。
「きゃあああああ!!!!
チカンよぉ──っ!!」
それこそ近所中に響き渡る大声で女が叫びだしたのだ。 「!!!!」 男は内心を見透かされたのかと思わず立ちすくみ辺りをキョロキョロ見回した。すぐ側の家の窓ガラスが開き家人が顔を出した。 「誰かー! 警察呼んでー!!!!」 「!」 その声に家人は姿を消した。 「ちちち、違う! わわわわ、私は断じて違うぞ……」 あたふたしながら男は後ずさりし始めた。その肩を後ろからガシッと捕まえる者が居た。 「ヒィッ!」 震えながら振り向くと30前後の男──勿論物陰でスタンバイしていた滝川が怒りに燃えた目で男を睨み付ける。 「こ……んのチカン野郎が! ざけんじゃねえぞ!」 怒鳴りつけて滝川は男の腕を捻り上げた。 「いいいいい、痛い痛い!」 「お嬢さん大丈夫かい?」 滝川はトーンを落として女──綾子に尋ねてみた。綾子は激しく頭を振ると真に迫った涙声で、 「こ、この人がむ、胸を……」 とだけ言って泣き崩れた。 「おーっし、警察に突きだしてやるぜ。覚悟しな!」 滝川はそのまま大通りの方へと歩き出す。そうされて漸く我に返った男が騒ぎ出した。 「ちょっ、ちょっと! ままま待ってくれ! 誤解だ! わわわ、私はチチチ、チカンなんかしていない!!」 「なんだとー?」 「そそそその女がううう嘘を言ってるんだ!」 綾子泣き崩れている綾子を指さして男は声を限りに叫んだ。だが綾子も負けじとキッと顔を上げて男を睨み付けた。驚いたことに本当に涙を流している。 滝川は内心(こいつ嘘泣きで涙まで出せるのかよ?)と怯んでいたが気を取り直して予定通り問いただしてみる。 「嘘だとぉ? ……お嬢さん、このおっさんこんなこと言ってるけどどうなんだ?」 「そんなの言い逃れに決まってるでしょう?! そいつ、貧血でしゃがみ込んでいた私に親切を装って近づいてきたのよ。私、自分一人で歩けなかったから肩を借りたの。そうしたら腰の辺りを支えてた手が段々上に上がってきて……」 「ううう、嘘だ! 事実無根だ!」 だがその声音は明らかに狼狽していた。 「偉く焦ってるじゃねえか、おっさんよぉ」 「チカンなんかに間違われたんだ! ああ、焦りもするに決まってるだろう?!」 「……まあ、どっちが嘘ついてるかなんて俺には判断つかねえからな。とりあえず警察行こうぜ。おっさんも無実だってんなら問題ないだろうよ」 「ふふふふざけるな! なんだって私がそんなところに行かなきゃならないんだ! 私は行かんぞ!」 男は滝川の手を振る払うと素早く離れた。 「大体なぁ! 近頃の女は自意識過剰なヤツが多いんだ! そそそ、その女にしてもそうだ! 一体自分にどれほど価値があるって言うんだ! 自惚れるにも程がある! お前なんか頼まれたって誰が触るもんか!」 その凶悪な言葉に綾子の顔色が赤を通り越して真っ青になり、滝川は胸ぐらをグイッと掴み上げ拳を振り上げ、 「こんのゲス野郎が……」
ガコン!
どこからともなく飛んできた缶コーヒーのロング缶(勿論スチール缶)が男の顔面にのめり込んだ。 「……?」 一瞬何が起こったのか判らず綾子と滝川は顔を見合わせた。そうしている間に缶コーヒーは男の顔から剥がれ派手な音を立てて地面に転がり落ちた。 男の顔は見事なまでに陥没しており、そのまま勢いよく後ろにぶっ倒れた。完全に気絶しているようで目は白目、鼻からは鼻血、口からは歯が何本かこぼれ落ちた。 「……何事?」 事態が飲み込めず二人はしばらく男を見下ろしていたが遠くにパトカーのサイレンが聞こえてくると、 「……とりあえず退散しようぜ」 「う、うん」 釈然としないまま現場を後にし、二人は角を曲がったところで待機していたナルと落ち合った。 「ご苦労さん」 相変わらずの無表情で労われて二人は疲れた様子で「どういたしまして」と答えた。 「では撤収しよう。面倒な事は御免だ」 言い捨ててナルは踵を返して駅に向かって歩き出す。 「……」 二人は心底疲れたように溜息を吐くとその後をゆっくりと追い始める。ふと滝川がナルの手に握られているモノに気づいた。 ミネラルウォーターのペットボトルである。その中身は半分ほど減っていた。 「……もしかして」 「どうしたの?」 滝川は立ち止まるとナルが立っていた辺りの地面を見た。 「やっぱりな……」 「何がどうしたのよ」 滝川はペットボトルと地面を指さした。 「? 何よあれ。水たまりが出来てるけど」 判らないと言う様子で首を傾げる綾子にニヤリと笑みを返すと、 「あの缶コーヒーはお前がぶつけたんだな? PKで」 前を歩くナルに向かって話しかけた。綾子は驚いてナルと滝川を交互に見る。 だがナルの歩みは止まらない。仕方なく二人はナルに小走りで近寄り並んで歩き出す。 「大丈夫なのかよ? まあ顔色は悪くねーけど」 「ぶっ倒れないでよね」 「……チャージしたから問題ない」 あくまで前しか見ないナルに二人は苦笑する。そして改めてあの男の話になった。 「しっかしまあ、どうしようもねえ野郎だったな」 「本っ当に最低なヤツだったわね。どういう神経してんのかしら。逆ギレして喚き散らすなんてさ」 「今までも同じ様なこと言ってきたんじゃねーの? それで相手がショック受けてる最中にトンズラしてたとか。ほら、お前だって真っ青になって固まってたじゃねーか」 「……だってあんな事言われるなんて思ってもみなかったもの……。なんか思い出すだけですっごい悔しい。今更だけどぶん殴ってやれば良かった」 唇を噛み締める綾子を盗み見てナルは小さく呟いた。 「麻衣も同じ事を言われていた。ぼーさんの言うとおりあの言葉が唯一あの男の武器だったんだろうな」 「……麻衣も?」 「ああ」 「言いたくないって言ってたけど、あんたには言ったんだ」 綾子の言葉にナルは応えない。 「何黙ってんのよ。……あんたまさか読んだの……?」 「……」 やはり沈黙は肯定の証か? 「だからあのおっさんの顔が解ったのか?」 「……」 「ったく、あんたの前じゃプライバシーも有ったもんじゃないわね」 よそを向いて大きく溜息をつく綾子の言葉をさすがに聞き逃せなかったのかナルは不愉快そうに振り返った。 「僕が意識して読んだ訳じゃない。……他人より接触する機会が多いんだ。しょうがないだろうが」 そう言うとナルは今度こそ二人をおいて人混みの中へと姿を消した。 「……苛めすぎたかしら?」 「気になるんなら明日でも謝っとけよ」 「やーよ。別に間違った事言ってないもの」 「素直じゃねぇな相変わらず」 「うっさいわよ!」 振り上げられた手をよけて滝川は綾子の顔をのぞき込んだ。 「んでどーする? ナルみたいに直帰するか?」 「……憂さ晴らしに付き合いなさいよ」 ブチブチと小声で呟く綾子に滝川は苦笑するとスッと腕を差し出した。腕を絡めながらの綾子は 「……あんたの奢りだからね」 と言い切った。
明けて翌日の晩。 「ちょ、ちょっとナル! これ見て!」 握りしめていたその日の夕刊を麻衣はナルに手渡した。麻衣の手が空くまで優人の相手をしなければならないナルは面倒くさそうにそれを受け取り、指された箇所を読んでみた。 事件欄に書かれたその記事は兼ねてから警察にマークされていた痴漢が逮捕されたとの記事だった。普通そのような事件がわざわざ新聞に載るはずもないが逮捕時の奇妙さから記事となったらしい。 「これが?」 すっとぼけるナルに麻衣はその男が先日の痴漢だと興奮気味に話す。ナルは麻衣に気づかれないように小さく皮肉めいた笑みを浮かべた。 「良かったじゃないか、捕まって」 麻衣はナルの言葉に鼻息荒く頷いて、 「こう言っちゃ何だけどザマーミロ! だよ。ホント」 「そうか……麻衣、お茶」 「はーい、ちょっと待っててね」 上機嫌でキッチンに戻って行った麻衣の後ろ姿を見送ったナルはその新聞をもう一度見た。 記事では全治2ヶ月の怪我と書いてある。 (もう2〜3本ぶつけてやれば良かったかな?) などと物騒な事を考えながらナルは優人を抱き上げ立ち上がった。もうその新聞には何の興味も示さない。 いつもの明るい笑顔を取り戻した麻衣と暖かなお茶の待つダイニングへと向かって行った。 |
おわり |
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