正月騒ぎも一段落し、漸く身体と頭が休みボケから立ち直り始める頃、渋谷サイキックリサーチことSPRは只ならぬ不穏な空気に包まれていた。
その不穏な空気の発生源は言わずと知れた美貌の所長様である。
と言うのも先日、来月の学会で発表する筈の、仕上がったばかりの資料がノートパソコンのクラッシュと言う笑えない事態で消し飛んでしまったのだ。
推敲に推敲を重ね、準備万端に仕上がっていただけに、ショックの度合いは計り知れないものだった。
当にその瞬間に立ち会わせた滝川は、
「ナルのヤツがさぁ、漫画みてーに真っ白に燃え尽きてんだよ! 顔面蒼白だし、目ぇ見開いたまんま固まってるし、何てったらいいのかね、ヤツはこの世の終わりを見たに違いねぇよ」
と、のたもうた。
しかしまあ、そこは各方面に置いて抜かりのないナルのこと、10分ほど放心した後、取ってあったバックアップデータの存在を思い出した。すぐさま所長室に飛び込み、CD−Rを取り出したナルはリンのPCで中身を確認した。
結果、中のデータは一世代前のものだった。
どうやらナルは完成品のバックアップを取っていなかったらしい……。
「……」
「あ、ほ、ほら! 一世代前でもあって良かったよね! 一から打ち直しする事に比べれば……」
無言で冷気を発し続けるナルに麻衣は取り繕うように努めて明るく言った。だがナルの視線を受けてその声は尻窄みに小さくなってゆく。
「誰が打ち直すと思っているんだ?」
「え……と、ナル、です」
「所詮、麻衣にとっては他人事だからな」
吐き捨てるように言うナルの言葉に麻衣は当然カチンときた。
「ちょっと! 何よ! その言い方は! 他人事の訳無いでしょう?! どれだけナルが頑張ってたのか誰よりも知ってるのはあたしなんだからね!」
「……ふん。ここで麻衣と言い合っていても時間の無駄だ」
ナルはそう言って視線を外すとコートを羽織って出かけてしまった。
「で、即行パソコン買いに行ってそれから博士はずぅ〜〜〜〜っとここに泊まり込んで資料の復元に励んでるって訳?」
自分専用のカップを優雅な仕草で持ちあげ彼女は麻衣に尋ねた。
キャリアを感じさせるグレーのパンツスーツ。
片側に纏められ右肩に垂らされている緩やかに波打つ金髪。
ナルと同様、周囲の人間に感嘆の溜息を洩らさせる美貌。
天使の顔をした小悪魔ちゃんこと、シェリー=フレデリックは初めて来日した時以来、日本支部には頻繁に訪れていた。……そう、ナルがあからさまに顔を顰め、頭痛を覚えるほどに。
今日も近所の知人が家にやって来るが如く、「明けましておめでと〜ございま〜〜す。 今年もよろしくお願いしま〜〜す!」と、さも当たり前そうにSPRの扉を開いたのだった。
さておき、麻衣はシェリーの問いに頭を振った後呆れた表情を浮かべた。
「ん〜〜〜、一昨日までは泊まり込んでたんだけどね。うん、でもあれからいつも以上にピリピリしてるし、眉間には皺が入りっぱなしだし、目の下にはクマが出来ちゃってるし……。ったく唯一の財産って言っても良い美貌が台無しだよ……」
「……エラく呑気だね」
「だって、あたしは手伝わせて貰えないんだもん。あたしがやると後の確認に時間が掛かるんだって」
ぶーっと脹れて麻衣はお茶を飲む。そんな麻衣をシェリーはおやおやと言う風に眉を上げた。
どうもお手伝いさせて貰えない事に腹を立てているらしい。
「そりゃあさあ、あたしはお馬鹿で要領もよかないけどさ、ちょーっと位はお手伝い出来ると思うんだよね?! それなのにさ、頭ごなしに『一切触るな!』ってさ、一体なんなのよ!」
グビッとお茶を飲み干した後、麻衣はぼそりと「あたしだってナルの役に立ちたいのに……」と一人ごちた。
「ごちそうさまでした」
肩をすくめながらシェリーがそう言うと、麻衣は目をパチクリとさせて。
「え? お代わり要らないの?」
「いや、そうじゃなくって……」
(やっぱり天然だわ……)
そう思いながらシェリーがカップを差し出してお代わりのおねだりをすると麻衣はすぐさ給湯室の方へと姿を消した。
その時資料室の扉が開かれ酷く憔悴した様子のリンが姿を現した。
目が痛むのか目閉じ、目頭をマッサージしながら歩いてくるリンにシェリーは、
「随分とお疲れのようですね」
と声を掛けた。
「!」
「もしかしてリンさんも博士の復旧作業手伝ってるんですか?」
「……」
「リンさん?」
「え? 、そうです。一昨日から。……いつ日本へ?」
夢現の状態から漸く脱したリンは少し頭を振ってから答え、そして尋ねた。
「小一時間程前ですよ。新年のご挨拶ついでに博士への定期連絡をと思いまして」
ちなみに定期連絡とは例のトーマス=ウォルターに関する報告書である。
「……後者が本題なのではないのですか?」
怪訝に眉根を寄せるリンにシェリーは少しさめた表情で、
「蛇よりしつこい男の我が儘の為に大陸越えるなんて真似したくないですよ。私は」
と応えた。リンはやはり感心しないと言う表情を浮かべたが口ではここの女性陣に勝てる筈もない。言葉を飲み込むとあたりを見回し、
「谷山さんは?」
と話を変えた。
「麻衣なら今私のためにお代わりを用意してくれてます。リンさんも食べませんか? 疲れている時には甘い物摂った方がいいですよ」
言ってシェリーはテーブルの上に置かれた皿を指さした。見ればスコーンが山積みになっている。ご丁寧に脇にはイチゴやアプリコットと思しきジャムにクリーム、それにメープルシロップが満たされた瓶が揃えられていた。
「どうしたんですか? それは」
「勿論私が作ったんですよ」
「……と言うことは少なくとも焼き上がりから1日が経過していると言うわけですか?」
「……リンさん変わりましたね。昔はそんな細かいこと気にしない人だったのに。まあ、安心してください。本当はここに来る途中に寄ったホテルのティールームで買って来たんですよ」
天使の微笑みを浮かべるシェリーにリンは苦笑すると、
「折角ですから御馳走になります」
言ってシェリーの横に腰掛けた。背もたれに深く背を預けると天を仰いで大きく息を吐く。
「……リンさんも大変そうですね」
「いえ、私はそれ程でも。実際の所、もうナル一人でも何とかなるのでしょうが少しでも負担は取り除いた方がいいから手伝っているだけです」
「お優しいことですね」
「……情けは人の為ならずです」
「なんですか? それは」
シェリーがリンの横顔を見ていると給湯室から麻衣が戻ってきた。手にしたお盆には陶器のポットとガラスの急須、それにカップが二つずつ有った。
「お疲れさま、リンさん」
はい、どうぞ。と麻衣はリンの前に小さな器を置いた。それは中国のお茶器だった。
ガラスの急須の中で次第にほころんでゆく蕾を見ながらリンは尋ねた。
「菊花茶ですか?」
「はい、このお茶は眼精疲労に効くから。……本当にリンさんには迷惑掛けてしまってごめんなさい」
向かいのソファに座った麻衣は深々と頭を下げた。
「気にしないでください、私は私のやりたいようにやっているのですから」
リンは急須から茶杯に注ぐと目を閉じて少々きつ目の香りを楽しみ、そして口に含むようにして飲んだ。柔らかな甘みが胃の腑に染みて心から大きく息を付いた。
「本当に疲れてますね」
その様子を見てシェリーはしみじみと呟いた。それを聞いた麻衣がいたたまれないように頭を下げた。
「……何があったんですか? さっき一昨日から手伝い始めたって言いましたよね。リンさんが手伝わずには居られなくなるような何かが起こったんですか?」
「う……、そ、それは」
麻衣が口ごもってリンを見た。見られてリンも慌てたようにシェリーを見た。
「気になって眠れなくなるかもしれないので教えてください」
「別に大した事は……」
「だったら話せますよね」
あっさりと切り替えされてリンは大きく溜息をつくと「実は……」と話し出した。 |
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