君のうちまであともう少し
坂を登って 雲を追いぬいて さよならなんてすぐに言わないで
さよならしたら 僕はどうなるだろう?
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初めて訪れた街、初めて見た風景の中をナルは走り続けていた。最寄りの駅を降りた後から沸き上がる衝動に任せて走り続けていた。未だかつてこんな長距離を走ったことのないナルはそんな自分に苦笑を漏らす。
冷静に考えれば走る必要などどこにもない。ゆっくり歩いて、そして麻衣に自分の心の内をどう伝えるか考えていればいい。
だが確かに自分は考え過ぎなのだろうとナルは思う。どうせあれこれシミュレートしても麻衣を前にすれば消し飛んでしまうのだ。下手の考え休むに似たり。それならばあれこれ考える暇を与えなければいいと走り続けているのだ。
ナルは周囲の風景をチェックし、方々でサイコメトリを行いながら着実にゴールへと近付いていった。
そして店を出てから小一時間が過ぎた頃、ナルは麻衣の自宅前に到着した。
弾む息を数度の深呼吸で無理矢理押さえ込み、流れ落ちる汗を乱暴に拭ってナルはインターホンを押した。
耳に優しい控え目なベルの後、少し沈んだ声が流れてくる。
「どちらさまですか?」
「僕だ」
「えっ!? ナ、ナル!? どーしてここに!? ってゆうか、どうやってここに!?」
「言い忘れた事があったんだ。問答は良いから早くあけろ」
「は、はい!」
昔の癖かナルの命令に思わず応えて麻衣は扉を開けた。
心底驚いた顔。既に泣きやんではいたものの、目はまだ充血したままだし、頬も瞼も腫れたままだった。
ナルが手を伸ばし、そっと頬に触れると麻衣は慌てて笑顔を取り繕った。
「あ、あたし今酷い顔してるでしょ? さっき夕飯の支度にタマネギ切ってたらね涙が止まんなくってさぁ、もうぼろぼろ泣いちゃったよ」
「馬鹿者、底の浅い嘘をつくな」
言ってナルは深々とため息をついた。一方馬鹿者呼ばわりされカチンときた麻衣はふくれてナルを睨み付けた。
「何が嘘だってのよ!」
「たかが玉葱を切ったくらいで嗚咽が止まらないほど泣くわけ無いだろう」
まるで見ていたかのような(見ていたのだが)ナルの口振りに麻衣は困惑の表情を浮かべた。その視線には応えず、ナルはジーンに向けて言ったあの疑問を口にした。
「どうして僕を必要ないなどと言った」
その問い掛けに麻衣は息を飲んだが答えられる筈もなく、俯いて黙秘を続けた。
「あくまで言わないつもりか? それなら僕も僕のやりたいようにやらせて貰う」
「え?」
驚いて顔を上げた時には既にナルの腕の中だった。
「は、放して!」
慌ててもがくがナルの戒めは殊の外きつく、身体をよじるどころか息も苦しくなるほどだった。
「ナル……、苦しいよ」
麻衣がそう訴えても力は一向に弛まない。麻衣が諦め、力を抜いてナルに身体を預けるようなると、ナルは漸く力を抜いた。だが依然として黙したままである。
「………ナル、どうしたの? 大丈夫なの? 凄く、震えてるよ?」
「………」
ナルには答えられなかった。答えられるはずもなかった。麻衣をこの腕に抱きしめただけで嬉しくて涙が零れそうになったなどと。
「ナル、大丈夫だよ。落ち着いて。あたしはここにいるから」
ナルの背中に手を回し、ポンポンと軽く叩く。理由は分からないがこんなに震えているナルは初めてで麻衣は何とかしてあげたいと思い、優人を抱きしめるようにナルを抱きしめた。
ナルは震えを押さえるために何度か深呼吸をし、麻衣の耳元に口を寄せた。
「あ…………」
「あ?」
「あ…………」
「あ。何?」
訳が分からず麻衣は聞き返したがナルはまた深呼吸を始めた。麻衣が根気よく待ち続けるとナルは意を決したように小さく囁いた。
"I love you"
「……え?」
あまりにも小さな囁きに自分の耳を疑って麻衣はナルの顔を見ようとした。だがガッチリと頭を押さえられていた為それは叶わなかった。しかしながら視線をずらして視界に入ったナルの首筋は驚くほどに真っ赤だった。重なった胸から伝わる鼓動は激しく速い。
ナルは大きく息を吸い込むと再び囁く。
"And all I need is your love. Please stay by my side."
それから耳の痛くなるような沈黙が続いた。
「麻衣?」
まるで反応のない麻衣に不安を覚えてナルは声を掛けた。
「もう一回言って」
「は?」
「お願い、もう一回言って」
「………まさかあれしきの英語が聞き取れなかったとでも言うのか?」
「し、失礼な。確かにセサミストリートのオープニングは未だに分からないけど、今のぐらいは聞き取れるっての!」
「どうだか」とあきれた様子でナルは呟いた。先程までのあの緊張はどこに行ってしまったのやら……。
「うっさい! そうじゃなくって、聞き違いじゃないんだって思いたいの」
麻衣はナルのジャケットの背を握り締めてナルの言葉を待った。
「……麻衣には僕は必要ないかも知れないが、僕には麻衣が必要なんだ」
「………どうして今度は日本語なの?」
「………どうしてそこに着眼するんだ?」
「だって、なんか馬鹿にされたみたいなんだもん」
「よくわかったな」
「何だとぉ!」
「………そう何度も言えるか。あんな恥ずかしい言葉」
「………けち」
くすくす笑って麻衣はナルの背中をつねった。
「返事は聞かないの?」
「ああ」
「どうして?」
「yes以外聞く気はないから」
飄々としたナルの言葉に麻衣が吹き出した。
「麻衣」
「なに?」
「どうして僕を必要ないと言ったんだ?」
「………やけに拘るね。そんなにショックだったとか?」
「……目の前が真っ暗になる程度にはね」
肩を竦めるナルに麻衣は腑に落ちないと言う顔をする。
「その割には全然無表情だったよ?」
「麻衣ほど表情豊かでないもので」
「言ってろ」
べぇ〜っと舌を出した後、麻衣はこつんとナルの胸に凭れ掛かった。
「やっぱりさ、無かった事にしようって事になったのに妊娠したから責任とって下さいなんて言えなかったんだ」
「馬鹿者」
「人が胃が痛くなるまで悩んだってのにその一言で片づける訳? ったく、今度茶々いれたら絶対に言わないからね!」
「…………」
憮然と黙り込むナルによしよしと肯いてから麻衣は話し出す。
「えーっと、だってそれってナルの優しさにつけ込むような気がしたんだもん」
「僕の優しさ? 冷血漢だの何だのとはよく言われましたが、優しいというのは初耳ですね」
嫌みを言うナルに麻衣は苦笑を返した。
「やっぱり気が付いてないんだ。……ナル本当は優しい人なんだって事」
「………」
「孤児で苦学生だったあたしをバイトに雇ってくれたのはナルの優しさでしょう?」
「………」
「調査中に落ち込んだあたしを、言葉少なだけど励ましてくれたのもナルの優しさ。そして『あの時』、無かった事にしようって言ってくれたのもナルの優しさ」
「………」
「あたしだけじゃない。みんな知ってるんだよ。知らないのは多分ナルだけ」
ニッコリ笑う麻衣にナルは困惑の表情を浮かべた。
「その分だと気付いてないみたいだから言うけどナルが『優しい人』なの。だから優人って名前を付けたの」
「………ジーンじゃないのか」
「え?」
ナルが音読みの話をすると麻衣は感心したように頷いた。
「ああ、そう言う読み方も出来るんだ。なぁんか一粒で二度美味しい名前だね。音読みだとジーンで意味だとナルだなんて……。でもやっぱナル考えすぎだよぉ」
そう笑う麻衣にナルは苦笑する以外出来なかった。
「そうだな……」
ナルは少し身体を離すと麻衣の両肩に手を置き、そっと顔を近づける。麻衣も応えて目を閉じた。
「ふ……、ふああぁぁ〜〜!」
「ありゃ? どうしたのかな」
優人の泣き声がするや麻衣は身を翻して奥に入っていってしまった。一方寸前で肩透かしを喰らったナルは大きなため息をつくと靴を脱いで「お邪魔します」と断ってから家に上がった。
数瞬の既視感。
初めて訪れた家なのに妙に懐かしさを覚えるのは、ずっと優人の目を通して見てきたからなのだろう。
リビングに入ると麻衣は床に座っておむつを替えていた。
「はい、おしまい!」
手際よく終わらせて麻衣は優人を抱き上げると、横にゆらゆら揺らして寝かしつけている。
ナルはすぐ側のソファに腰を下ろしてなんとなくやり取りを見ていると、喉の渇きを覚えた。そう言えば喫茶店で僅かな水を飲んだ後何も口にしていない。30分近く走りつづけてきたのだから喉が渇くのも当たり前だろう。
「麻衣、お茶」
「!」
驚いて麻衣が振り返った。
「………どうした?」
「だって、久しぶりに聞いた言葉だから……」
少し目を潤ませて麻衣が笑った。ナルも小さく笑った。
「よぉっし! それじゃとびっきりの美味しいお茶をお入れしましょうか。って訳で優人見ててね」
言うなり優人をナルの膝の上に座らせた。一瞬にしてナルが固まった。勿論ナルに赤ん坊をあやした事などある筈無い。ナルの驚愕を感じ取ったのか優人もびっくりして目を真ん丸にしている。それから徐に泣き出してしまった。
「ちょっとそんなに緊張しちゃ駄目だよ。赤ちゃんってね言葉が分からない分気持ちにすごく敏感なの。だからね、無理に笑わなくっても良いから気分は落ち着けて。大丈夫、ちょっとやそっとじゃ壊れたりしないから。結構丈夫なんだよ? 赤ちゃんって」
だがそんな事を言われたってナルにはどうしようもなかった。固まったまま優人と目も合わせられない。麻衣はため息を吐くと優人を抱き上げて立ち上がった。途端に泣き止む優人にナルは憮然とした表情をする。
「ほら、ナル。立って。座ったまんまで子育てなんかできっこないんだからね!」
促されてナルは深いため息と共に立ち上がった。
「両手を差し出してみてよ」
「僕のところに来ると思ってるのか?」
「つべこべ言わないの!」
「…………」
ナルが手を差し伸べると優人はまず手を見て、それからナルの顔を見た。ナルなりに笑顔を浮かべていると、優人は身を乗り出してナルへと両手を伸ばした。驚いているナルに優人を預けて麻衣は親馬鹿な笑みを浮かべた。
「優人は全然人見知りしない良い子なの。誰にでもすぐ懐いて笑顔を見せてくれるの。この子、外見はナルに似てるけど性格はあたしみたいなんだよね」
言って麻衣はキッチンに向かった。残されたナルは正直優人を持て余していた。泣かれたら困るので平常心を保とうとするが、そうすればする程焦ってゆくはどうしようもないだろう。だがナルの焦りなどつゆ知らず優人はぽてんとナルに凭れ掛かると指を吸って目を閉じた。
カウンターキッチンの向こうからそれを見た麻衣が微笑んだ。
「…………」
何やら妙に感動している自分に気がついて、ナルは苦笑した。安心しきって自分に身を委ねている存在に対してじわじわと愛しさが込み上げてくる。自然と笑みを浮かべてしまう。自分の中に父性愛と呼ばれるものが有ったのかと更に苦笑を深くした。
(外見は僕で、内面が麻衣。まるでジーンのようだな)
ナルは小さく笑って、そして自分の考えにふと引っ掛かりを覚えた。
ジーン以外に繋がらない筈のチャット。
麻衣から無条件に愛される居場所は確保させて貰うと言ったジーン。
最後にジーンがナルを『お父さん』と呼んだこと。
でもまさかとナルは頭を振った。
優人は実子なので血の繋がりからチャットが成立したとも考えられるし、居場所に関しては、これは麻衣の心の中、又は褪せる事の無い思い出の領域を指しているのかもしれない。『お父さん』云々はただ単にナルをからかっただけかもしれない。
だが優人=ジーンの構図は根拠の無い確証で以ってナルの中に根づいた。
(……そう言えば後で嫌でも解ると言っていたな。……そう言う事なのか? ジーン)
眠っていた筈の優人が目を開いてナルを見た。問い掛けるようなナルに優人は全開の笑顔を浮かべた。 |
言葉一つ足りないくらいで 笑顔一つ忘れただけで
ほんの少しのすれ違いだけで 全部あきらめてしまうのか
愛されるばかりが能じゃないだろう
さあ見つけるんだ 僕達のHOME
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ジーンがナルの歌だと笑った歌。
(いまやっと解った。これは僕の歌じゃない。僕達の歌なんだ。僕もお前も、見つけたんだ。還えるべき場所を……、僕達のHOMEを)
「? どしたの? すっごい嬉しそうだけど」
お盆にティーポットと2脚のカップを載せて麻衣が戻ってきた。テーブルの上にお盆を置くとナルの傍らに立って優人の顔を覗き込んだ。
ナルは身を屈めて麻衣の肩に額を預けると、小さくでもはっきりと言った。
「ただいま、麻衣」
「……おかえりなさい、ナル」
太陽のような笑顔で応えてくれた麻衣にキスをして、ナルは優人の額にもキスをする。
そして―――――。
おかえり、ジーン
ただいま、麻衣
おかえり、ナル
ただいま
僕たちのHOME |
おわり |