巷は夏真っ盛りの8月。Second Impactより7ヶ月経っており、つまりは臨月である。
麻衣のお腹はもう何時生まれても不思議でないほど、それこそはち切れんばかりに膨らんでいた。
幸運な事に、今回も悪阻は至極軽く、食が進むせいか医者から体重を減らせと注意されるほどだった。優人の時も同じく軽い悪阻で同じ位に食べていたのだが注意されるほど体重が増えることは無かった。なんと言ってもサポーターの数が多すぎるのだ。今回は……。
ぼーさん・綾子は言うに及ばず、真砂子にタカに恵子達。安原もジョンもリンまでも頻繁に訪れては麻衣の仕事を取り上げる。そして臨月にも入ればイギリスからデイビス夫妻が満面の笑みと大荷物を抱えて現れた。
手作りの産着に晴れ着、靴下にベッドカバー……麻衣は狂喜乱舞で、ナルはぐったりとしながら受け取っていた。
この一台イベントにやたらと人口密度が増えて不機嫌絶好調なナルだったが流石に両親に対して邪険に出来る筈も無くその逗留にも口を出さなかった。
そしてこの夏一番の猛暑を記録したある日の夕方。とうとう麻衣の陣痛が始まったのだ。そんな訳で麻衣は先ほど分娩室に移動した。
ベンチに座る面々。ナル、優人、ルエラ、マーティンは勿論のこと、リン・安原・イレギュラーズに加え、麻衣の知人数名。
ぶっちゃけ廊下があふれ返る程の大人数である。はっきり言って普通一人の出産にこんな人数は集まりません。
通り過ぎる看護婦も、他の出産待ちのご家族も物凄く異様なものを見る目つきでこの集団を見ていた。
そんな中でナルは涼しい顔……をしながら拳を強く握り締めてベンチに腰掛けている。
「やっぱ付き添わなかったのか?」
問う滝川にナルは、
「気が散るから来るなと言われた」
と返した。滝川は肩をすくめて隣の壁に凭れ掛かった。
「すげー痛そうだったよな」
「……」
「大丈夫なのかな、あいつ、あんなちっちゃい体で……」
「……」
「こう言う場に立ち会うの俺初めてで……」
「うっさいのよ、クソ坊主! こっちまで不安を伝染させんじゃないわよ!!」
綾子の一喝にオロオロし始めていた滝川がしゅんと静まった。
ナルは大きな溜息を1つついた。
「お父さん」
「……なんだ?」
「お母さん、可哀想だよ。痛い痛いって言ってるよ」
扉の向こうからは看護婦の大きな声援に負けず劣らずの音量で麻衣の悲痛な呻き声が漏れ聞こえて来るのである。
子供に聞かせて良いものかどうかの是非はナルには下せず、「そうだな……」と応えた。不安げな顔で手を握り締めてくる優人を抱き上げ、ナルは向かい合うように膝の上に座らせた。優人はナルのシャツを掴むとピトッと胸に凭れ掛かった。
一際高い悲鳴が起きる度にビクリと振るえる小さな体を抱きしめる事でナルは自分の中の不安から逃れようとした。
不意に思考が過去を遡り、麻衣の声が甦ってくる。
そう……それはあの日の事───。
家に帰った後、麻衣による召集が掛けられ急遽家族会議が開催されることとなった。
何事かと訝しげな面々(って言っても二人きり)を前に、麻衣はコホンと咳払いをし、徐に告白をはじめる。
「谷山麻衣、現在、妊娠2ヶ月と3週目であります」
「……………」
〜〜〜衝撃の告白より20秒経過〜〜〜
「……ちょっと、ナル?」
「…………………………」
おずおずと声を掛けるがナルの反応は返ってこない。
〜〜〜衝撃の告白より3分経過〜〜〜
「もしもぉーし! 聞こえてる〜〜〜??」
「………………………………………」
目の前でヒラヒラと手を振ってみるが…(以下同文)
〜〜〜衝撃の告白より5分経過〜〜〜
「エイ!」
業を煮やした麻衣は気合と共にナルの頭にチョップした。
「…………………………………………………………………」
途端、ナルの目に不穏な光が宿り、麻衣は無理やり笑顔とポーズを決めながら
「エヘッ! 目が覚めた?」
等と可愛い子ぶってみると……。
「麻衣……」
「ん?」
「何を考えてるんだっ、お前は!」
「ひゃっ!」
いきなりの怒号に麻衣はとっさに頭を抱えた。勿論ナルが手を上げるとかではないので誤解の無いようにお願いします。
「なんでそんな大事な事をもっと早く言わないんだ!」
「だって…」
「だってじゃない! こんな大事な時に風邪なんか引いて……。お腹の子に何か有ったらどうするつもりだ!」
「う〜〜〜〜」
「大体麻衣はいつもそうだ。どうしてきちんと報告できないんだ! 社会人として恥ずかしくないのか!?」
「あう…………」
妊娠の報告を会社の連絡事項と同列に扱うのは如何なものかと、麻衣は心の底でボソッと思った。何故にわざわざ『心の底でボソッと』思ったのかと言うと、物事をはっきり考えると顔に出てしまう麻衣故の苦肉の策なのだ。
それはさておき、ナルの説教は優に1時間にも及んだ……。最初は殊勝げにしていた麻衣もいい加減飽きてきたのか返す言葉がなおざりになってくる。そうするとその態度にナルが怒って新たな説教が始まるのだ。
(ヤブヘビ……)
と舌を出しかけたその時。
「お母さん、ちゃんと『ごめんなさい』しなきゃダメだよ?」
一応その場は家族会議だった為、ダイニングテーブルの一端に座っている優人がそう言った。それまで一言も口を挟まなかったので危うくナルも麻衣も存在を忘れかけていた。
「え? あ、優人……。あ、あのね、だって…」
「ぼくもお父さんも心配したんだよ?」
「………」
言われて麻衣はナルの顔を覗き見た。美麗ながらも相変わらずの表情の薄い顔。だがそうでなければあれ程までには怒るまい。優人の顔を見てみれば可愛い眉が少しばかり八の字になっている。
「……ごめんなさい」
漸く麻衣は小さな声で自らの非を認めた。途端に優人は破顔して麻衣に飛びついてくる。それはナルがギョッとするような勢いだった。
「お母さん! ぼくお兄ちゃんになるの!?」
「……」
「赤ちゃんは男の子? 女の子?」
「え、あ、えと」
「ぼくね、ぼくね、ぼくね、女の子がいいな! お母さん! 女の子の赤ちゃんにして!」
「女の子? どうして?」
「だってね、だってね、女の子はフワフワでヒラヒラでキラキラで……」
「…………………………」×2
「プヨプヨでホヨホヨで……」
「ちょっと待て優人」
我が子が使う形容詞の異常さにナルは待ったを入れた。
「なぁに?」
「フワフワやヒラヒラやキラキラまでは何となく判るが……。何なんだ、そのプヨプヨでホヨホヨって言うのは」
「あのね、あのね、芙美ちゃんはねプヨプヨでホヨホヨですっごく可愛いの! だからぼく芙美ちゃんみたいな赤ちゃんが欲しいの!」
芙美ちゃんとやらが誰が誰だか判らないナルは麻衣に怪訝そうな目を向けた。返す麻衣はため息混じりに「あんたって人は……」とこぼした。
「何言ってんのよ! 芙美ちゃんって言ったら先月生まれだばっかのお隣のお子さんでしょうが! あんただって奥さんと芙美ちゃんが退院してきた日にあったでしょ!? あれ2週間前のことだよ!?」
と言い切られてナルはしばし思案する。
「……」
だが結局『そんな事もあったかな』程度の記憶でしかなく、とりあえず芙美ちゃんは隣の子供であり、生後一月足らずの新生児である事をインプットした。
それはさておき、ナルは麻衣を見て感情無さげに尋ねる。
「で、どっちなんだ?」
「え…と、今はまだ判んないんだ」
「そうか……」
「ナルはどっちがいいの? 女の子? 男の子?」
訊かれてナルはまたしばらく思案する。その脇で優人は麻衣のお腹に額を擦り付けながら「女の子〜女の子〜」と念を送っている。
それを見て珍しくふっと柔らかな笑みを浮かべた後「とりあえず」と呟いた。
「元気な子」
「…………! 了解!」
麻衣は破顔して敬礼した。そして悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「あのね、ナル、優人」
「なんだ?」
「なぁに?」
「実はね、すぅ〜〜っごいビッグニュースがあるんだよ?」
それが一体何なのか判らないという風の良く似た容貌の二人を満足げに見回して麻衣は話し始める。
「実はね…………」
ふ……ああ〜〜〜〜!
にゃあああ〜〜〜〜〜
猫の鳴き声にも似た泣き声。それこそがナルの第二子の産声であった。
一瞬の静けさと、そして歓声。
「Jesus!」
「産まれた!」
「産まれたよ!」
「産まれたわよ!」
ある者は座り込んで泣き出し、ある者は肩を叩き合って寿ぎ、そしてある者は胸で十字を切った。
皆が扉の前に勢揃いで立っていた。しばらくして年若い看護婦が顔を出した。額にびっしりと玉のような汗を浮かばせているがその表情ははち切れんばかりに明るかった。
「おめでとうございます、えーとデイビスさん。元気な女のお子さんです!」
「……」
言われても呆けてしまっているナルはウンともスンとも言わない。と言うか言えなかった。ドンッと滝川に背中を押され漸く「あ、ありがとう…ございます」と呟いた。
ナルの余りの美麗ぶりに年若い看護婦は面食らいつつも中に招き入れる。戸惑いつつもナルと優人、デイビス夫妻が中へと入っていった。
隣室が分娩室なのか麻衣の姿は見当たらず、未だ麻衣の呻き声が聞こえてくる。
中で白衣に着替え帽子にマスクと万全の体制を整えると看護婦が産まれたばかりの赤ん坊を抱いて現れた。
「どうぞ」
声と共に赤ん坊は差し出され、ナルはおっかなびっくり抱き受けた。
「……!」
思った以上に軽くて小さい。 でもはっきりと生きている。
ぴったりと閉じられた目。でも時折うっすらと瞼が開く。
怖いほどに小さな手。でもしっかりとした爪を覗かせている。
喉の奥が言い様も無く熱く痛む。こみ上げて来るものをねじ伏せてナルは小さな額にそっと唇を寄せた。
「見えない!! 見えない!!」
その下で優人がぴょんぴょんと跳ねているとマーティンが抱き上げて赤ん坊の顔を覗き込ませた。
「うわ…あ…おさるさん」
優人の素直な感想に皆が思わず吹き出した。
期待とのギャップが激しすぎたのかショックを受けているようで涙目になっている。
「優人だってこうだったのよ?」
「えー?」
苦笑しながらルエラが取り成すと優人は自分の顔をぺたぺた触りながら「そうかなぁ」と真剣に悩んでいた。
そんな4人に看護婦はカルテを読み上げる
「身長47cm、体重2395gです。血液型は……」
ふ……ああ〜〜〜〜!
にゃあああ〜〜〜〜〜
「やった! 産まれた!」
優人の興奮した声が響いた。
その場にいた全員が隣室を見て固まっていた。
またしばらくして、今度は医師と思しき男性が大仰そうに出てき、ナル達を認めると「おめでとうございます」と笑顔を向けた。
「二人目も女の赤ちゃんです。……母子共に大変元気ですよ」
「……ありがとうございました」
ナルは心から頭を下げていた。
「5分ほどでしたら面会可能ですよ。お会いになりますか?」
「お願いします」
再度、ナルは頭を下げ、一同は隣室へと入っていった。
見れば診台の上、ぐったりとしながら麻衣は二人目を胸に抱いていた。
酷く焦燥していたが大業を成し遂げた達成感からか晴れ晴れとした表情だ。ルエラは駆け寄るとその手を額に押し頂いた。
「麻衣さん! お疲れ様!」
「あ……、お…母さん」
「しゃべらなくてもいいんだよ」
億劫そうな麻衣を押し留めてマーティンがそう言った。
「お母さん、大丈夫?」
「あ、優人……。お母さん大丈夫よ……ふう。赤ちゃんどうだった?」
「……おさるさんだった」
「ありゃ……い、たたたた」
思わず笑いかけた麻衣だが腹部が痛み出したのか小さくうめいた。
「ああ、あまり長居は出来ないわ。ナル。何をやっているの? ほら、おいでなさいな」
言われて後ろからナルが歩み出た。腕には第二子を抱いて。
「……お疲れさん」
「……ん」
「こっちの子も抱くか?」
「ん」
ナルはそうっと赤ん坊を麻衣の傍らに横たわらせた。麻衣は両方の顔を見やってからナルに問う。
「……どっち似だろ?」
「……さあ」
ナルは小さく笑った。そして身を屈めて麻衣にキスすると耳元で、
「ありがとう」
とささやいた。
「どう、致しまして」
「しっかり休んでくれ」
「ん、って言いたいけど無理だろうな……。まだこれから色々あるし……」
「そうか……」
「ん」
「判った。……じゃあ、また後で」
もう一度キスをしてナル達はその場を後にした。廊下に出るとアレだけ居た人達が消えていた。
「?」
「あ、お連れの方達なら新生児室の方へ行かれましたよ」
看護婦の言葉に礼を言って4人は新生児室へと向かう。遠くからでも判る人の小山が出来てる。ナルは苦笑しながら歩いていった。
「おう! どうだった!? 感動のご対面は」
「真っ赤なおさるさんだったよ」
優人の言葉にやはり皆が微笑ましいと笑い、ナルに祝辞を述べていると……。
「あ、出て来はりました!」
ジョンの言葉に皆が一斉に窓に張り付いた。
衝立の陰から二人の看護婦が現れ、あまりのギャラリーの多さに一瞬戸惑っているようだ。それでも気を取り直し胸に抱いた赤ん坊をそっと新生児ベッドに横たわらせた。
「……………………」×α
その様を皆固唾を呑んで二人を見守っている。
「か、可愛い〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
そう切り出したのはタカだった。それを口火に皆「眉は麻衣よね」とか「口の感じはナルだ」とか言い立てている。
ナルは一人その人だかりから離れていた。
嬉しいのは当たり前だがやはり、あの輪に入って騒ぐのは無理らしい。そんなナルの元に真砂子が歩み寄った。
「おめでとうございます。ナル」
深々としたお辞儀にナルも軽くお辞儀した。
「双子と聞いた時は何やら因縁めいたものを感じましたけど、二人とも無事で産まれて何よりですわ」
「……ええ。本当に」
「……」
「? 何か?」
顔を覗き込む真砂子にナルは怪訝な顔をする。
「双子の女の子と云うのは前々から伺ってましたけど、名前はもう決めてらっしゃるの?」
「……はい」
「お聞きしても差し支えなくて?」
真砂子の聞きようにナルは流石に苦笑した。そこまで秘密主義とでも思われているのだろうか?
「勿論ですよ……。優衣と……優麻です」
「ゆいちゃんと……ゆまちゃん? 可愛らしいお名前ですわね。どの様な字をお当てになったんですの?」
問われてナルは手帳に書いて見せた。見た真砂子をはあらあらという顔をした。
「麻衣の命名ですの?」
「いえ。お互い使いたい字を出し合ってたんです。それで組み合わせたらこの名前になりました」
「そうでしたの。あたくし、ナルがそんなに漢字について造詣が深いとは思ってませんでしたわ」
「……でしょうね。実際僕が出した字は2文字だけですし」
「2文字?」
「『麻』と『衣』です」
「…………………………………………」
いけしゃあしゃあと言うナルに真砂子は砂を吐きたい気分になった。
「ごちそうさまでした。惚気は滝川さん相手になさいませ。あたくしは優衣ちゃんと優麻ちゃんにご挨拶して参りますわ」
疲れた様子を装って真砂子はその場を離れた。
誰が来る出もなくナルは手帳の字を眺めていた。
優衣と優麻。
それらは成る可くして成った名前。
なんと云っても麻衣が出した文字は『優』だったのだから。
ここは似た者夫婦と笑うべき所なのだろうか?
そんな事を思いながらナルは今新たに産まれ出でた命に心からの感謝と願いを捧げた。
願わくばいついつまでも健やかであるように……と。
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