ソフィーの髪が星色の髪に染まり、ハウルが心臓を取り戻し、カルシファーが自由に宙を飛び回れるようになり、カブが隣国の王子に戻ってから一月もたった頃の事です。長く続いた戦争はあれよあれよと言う間に終わり、もうすぐ隣国と和平条約が結ばれようともしています。
そしてハウルとソフィーの動く城では血の繋がりなどほんのこれっぽちも無い皆が仲睦まじく暮らしていました。
そしてある朝の事です。ハウルは小鳥のさえずりで目を覚ましました。これはとても珍しい事です。と言うのもハウルはいつも寝坊しているからです。毎朝毎 朝いつも陽が高く昇ってからしか目を覚ましません。毎朝毎朝業を煮やしたソフィーがブランケットを引っぺがしてそれから漸く起き上がるのです。
何が理由かは分かりません。ただ唐突に目が開いたのです。
まだまだ早いのでしょう。早起きのソフィーもハウルと向き合う姿勢で穏やかな寝息を立てています。
愛しいソフィーの寝顔にハウルがふんわりと微笑みます。
(早起きは三文の得って言うけど本当だ)
毎朝毎朝、ふくれっ面のソフィーに起こされている訳ですからこんな穏やかな寝顔は初めてといって良いでしょう。
(怒った顔も可愛いからいいんだけど……でも)
ハウルはクスリと笑ってソフィーにキスするために身体を寄せました。その時です。
「ん……」
とハウルの後ろでソフィーが寝返りを打ちました。
「……え?」
ハウルが首をひねって後ろを見ました。ソフィーが居ます。穏やかな寝顔でスヤスヤと眠っています。
「え?」
ハウルはもう一度正面を向きました。やっぱりソフィーが居ます。さっきと同じ穏やかな寝顔でスヤスヤと眠っています。
「え? え? え? え?」
ハウルは声を上げるたびに前と後ろを見ます。ですが何度見ても、どちらを見てもソフィーが居るのです!
「!!!!!!!!!!!?」
叫び声にならない叫び声を上げてハウルは飛び起きました。ブランケットが捲れあがっても二人のソフィーすやすや眠っています。
同じ夜着を身につけ、同じ格好で眠るその姿はまるで鏡に映したかのような完全なシンメトリーでした。
(落ち着け、落ち着くんだハウル)
寝起きでクシャクシャの髪を更にクシャクシャに掻き乱しながらハウルは二人のソフィーを見つめていました。
同じ髪の色。
同じ顔。
同じ服。
同じ指輪。
そして─────。
「「くしゅん!」」
同じくしゃみ……。
二人のソフィーは無くなったブランケットを探して手であちこち探っています。そしてお互いの手が触れあった時、無意識にかぎゅっと手を握り合いました。
ハウルはただじっと見ているばかりです。それから二人のソフィーは同時に眉根を寄せました。そしてうっすらと目を開けたのです。
「「……」」
二人のソフィーは寝ぼけ眼を凝らしてお互いを見合っています。
「「まあ、あたしがいるわ」」
完全に重なり合った声は一人分にしか聞こえずハウルはとても不思議な感じでいっぱいになりました。そして一人分にしか聞こえないせいでしょうか? 二人のソフィーは互いが夢の産物であると思ったようです
「「変な夢……」」
言って二人のソフィーはお互いの頬に手を伸ばします。ハウルはやはりじっと見ているだけです。
「「いったぁ〜〜〜〜い!!」」
何をするかと思いきや二人のソフィーはお互いの頬をぎゅ〜〜〜〜っとつねったのです! 全く容赦のないつねり方だったのは、夢だと思ったからに違い有りません。
案の定、飛び起きた二人のソフィーはお互いを穴が開くほどにマジマジと見つめています。
「「夢じゃないの!?」」
頬に手を当て、叫び声を上げた二人のソフィーはまたしばらくマジマジと見合った後、突然ぐるりと背を向けました。
完全なシンメトリー。完全なシンクロナイズ。
「「お、落ち着かなきゃ〜、落ち着かなきゃ……。落ち着くのよソフィー。慌てちゃだめ。何でもない、何でもない……」」
「何が何でもないのさ! 何でもないわけないだろ!? 何のんきな事言ってんのさ! ソフィーってば!」
漸く言葉がハウルの口をついて出てきました。
「「ハウル!」」
二人のソフィーはその時ようやくハウルの存在を思い出したみたいでした。
「「ハウル! 一体全体あたしどうしちゃったの!???」」
互いに先を競い合うようにハウルに詰め寄り説明を求めます。ですがそんな事ハウルにだって分かる訳がありません。
「僕だって起きたらソフィーが二人も居てびっくりしてたんだ!」
「「だったらすぐ落ち着いて原因を調べてちょうだい!」」
確かにハウルのびっくりより二人のソフィーのびっくりの方がもの凄い筈です。
「うっ……」と詰まったハウルは考える振りをしました。ちらりと二人のソフィーを盗み見します。でも、寸分違わぬその姿、その雰囲気に混乱は深まるばかりです。ハウルの目を見てその混乱を読み取ったのでしょうか、二人のソフィーも自分に何か原因が無いか考え始めました。
ですが何も思い当たりません。
「こうなったら……」
「「こうなったら?」」
「マダムに相談しよう」
目に強い力を込めてハウルが言いました。
「「おばあちゃんに?」」
「そう、ちょっとばかり耄碌しちゃいるけどマダムの知識は驚くほどのものさ。なんてたって先生と張り合う程の魔女だったんだからね。悔しいけど僕が知らない事でも知ってる筈だよ」
二人のソフィーは内心で「「あの、おばあちゃんがねぇ」」と思っていましたが口にはだしませんでした。
「僕がソフィーの役に立てないなんて酷く悔しいけど、僕のちっぽけなプライドに拘ってる場合じゃない。さ、ソフィー。マダムを起こそう」
言ってハウルは軽やかな身のこなしでベッドから降り立ち、右手を差し出しました。
「「「………………」」」
同時に手をだした二人のソフィーはハウルとお互いに視線を彷徨わせながら気まずげに腕を下ろしてしまいました。
ハウルにしてみてもどちらの手を取れば良いのか全くわかりません。でもほんの少し躊躇った後、片手ずつ二人のソフィーの腕を掴んで扉に向かいます。
「「「………………」」」
閉じた扉。塞がった両手。どちらも放す事が出来ないハウルは扉に息を吹きかけました。すると扉は独りでに開きます。戸惑っている二人のソフィーを連れてハウルは階下の荒れ地の魔女の部屋へと足早に向かいました。
「マダム! 起きてますか!? 起きてなくても起きて下さい! ソフィーの一大事なんです!!」
とハウルは声高に言いました。ややして中から「お入りよ」と答えが返るとハウルはまた扉に息を吹きかけました。そしてベッドの上で起き上がっている老いた魔女に向かって二人のソフィーを引き合わせます。
流石に驚いたのでしょう。垂れ下がった瞼が大きく持ち上がりました。そして大きく疲れたように息をつき、ふかふかの枕に背を預けると呆れた声で言いました。
「サリマンの奴、何を考えているんだい」
「「「サリマン!?」」」
ハウルも二人のソフィーも素っ頓狂な声を上げて荒れ地の魔女に詰め寄りました。
「こんな厄介な呪いを掛けるのはあたしの他にはあの女なくらいなものさ」
至極当たり前そうに言われればハウルも二人のソフィーもなるほどと納得しています。
そして荒れ地の魔女はおやおやと呆れたようにハウルを見つめました。
「なんですか? マダム」
「あなた、あの女に育てられたのに気づかなかったのかい?」
荒れ地の魔女の言葉にハウルの表情が厳しくなりました。でも荒れ地の魔女は全然意に介さず話を続けます。
「それにあの女はこの呪いが特に得意なのよ。ほら、あなた達だって見てるじゃないのさ」
「「え?」」
「あ!」
二人のソフィーは首を傾げ、ハウルは合点がいったように目を見開きました。
「先生の……小姓達だ」
「「あ!」」
「そのとおりよ」
荒れ地の魔女は満足げに頷きました。
「「でも一体何故……」」
二人のソフィーの疑問は当然の事でしょう。ソフィーは勿論の事、ハウルにしても、荒れ地の魔女にしても何故サリマンがこんな事をしたのか分かるはずもありません。
「こうしちゃ居られない。ソフィー! サリマン先生に会いに行くよ!」
「「ええ!?」」
「『ええ!?』 って何なのさ」
「「だってハウル、あなた……」」
「確かに先生には二度と会う気はなかったさ。でも、今はそんな事いってる場合じゃないだろ? さあ、ソフィー。用意をして。僕は急いで風呂に入るから!」
「「………………お風呂には入るのね」」
ハウルの言葉に呆れ果てている二人のソフィーにハウルは「当たり前じゃないか!」と目を見開いて言い返しました。
「サリマン先生はね、僕以上に外見に拘る人なんだよ! 寝起きの格好で行ったって追い返されるのが落ちさ」
二人のソフィーは「本当にそれだけの理由でお風呂に入るのかしら?」と思いましたが口にはしませんでした。
「良いかい、二人とも、しっかりおめかしするんだよ。 いいね? じゃあ、行きたまえ!」
言ってハウルはパッと二人の手を放し、軽くその背を押しました。
二人のソフィーは視線を合わせると思わず吹き出してしまいました。でもハウルに追い立てられて荒れ地の魔女の部屋を出て行きます。
「……」
二人の足音が遠ざかったのを確認してからハウルは荒れ地の魔女に向き合いました。
「マダム……」
「あの女が国のため以外に動くと思ってるのかい?」
「……」
「それとも言う事を聞かなかったあなたへの嫌がらせだとでも思った?」
ハウルの心の内が分かっていたのでしょうか? 荒れ地の魔女はそう言いました。
「さっきも言ったとおり、サリマンが何を考えてるかなんてあたしゃ知らないよ。でも国が絡んでる事は確かだね。そして、国が絡んだサリマンはこの上もなく冷徹で冷酷だってことさ」
「……」
ハウルはぎゅっと唇を噛み締めました。そんなハウルを荒れ地の魔女は慈愛に満ちた目で見つめました。
「ソフィーを守っておやり。二人ともあなたを愛し、あなたが愛してるソフィーである事には代わりがないんだからね」
「それはもう」
言われるまでもないと言った感じでハウルは頷きました。
「助言、ありがとうございます。マダム」
それからハウルは優雅な仕草で身を屈めた後、風のように部屋から出て行きました。
「……愛の試練だよ。二人とも」
閉じられた扉を眺めた後、窓の方を向いて晴れ渡る青空を見つめながら荒れ地の魔女はそう小さく呟いたのでした。
それから2時間近くが経過した頃。……ハウル達はまだ動く城に居たのでした。
勿論ハウルがいつも通り身支度に時間を掛けていたからに他ありません。一方10分ほどで支度を終えた二人のソフィーはもう一度普段着に着替え直し、分担して家事をしていました。でもソフィーが二人も居るわけですからいつもの半分の時間で終わってしまいます。
二人のソフィーが忙しなく働いている間、カルシファーは黙って二人を見ていました。きっとカルシファーには分かっているのでしょう。それでも何も言わずに二人を見守っています。
起きてきたマルクルは腰を抜かすほど驚き、どちらが本物かを見分けるために色々質問したりしていました。でも二人のソフィーは間髪入れずに同じ答えを答えるのでマルクルはどんどん分からなくなりました。でもでも、しばらく考えた後こう言ったのです。
「大好きなソフィーが二人もいるんだから嬉しい気持ちも二倍だね」
二人のソフィーは嬉しくなって順番にマルクルを抱きしめました。
そうしておしゃべりをしていてそろそろハウルの支度が終わる頃、二人のソフィーはまた着替えに行きました。
風呂から上がり、輝くばかりに着飾ったハウルにマルクルは「ハウルさん、本当に大変なんですか?」と尋ねました。
「大変に決まってるだろ! マルクル!! この僕が先生に会うのにたったの1時間45分しか身だしなみに時間を掛けなかったんだよ!?」
ハウルは心外だとばかりに鼻を鳴らしました。でもそんな事はカルシファーも、マルクルも、荒れ地の魔女も、二人のソフィーも、ヒンでさえも信じていません。そんなみんなに酷く憤慨しながらもハウルは二人のソフィーの前に立ちました。
二人のソフィーは今はもうシンメトリーではありません。
向かって右のソフィーは澄み切った空のような青いドレスを、向かって左のソフィーは小春日を思わせるような淡い黄色のドレスを身にまとっています。いずれもハウルがプレゼントしたものです。
家事の邪魔になるからと滅多にも着てくれないドレスを着てくれたのが嬉しくてハウルの不機嫌はどこかに飛んでいってしまいました。
「すっごくよく似合ってるよ。二人とも」
「「ありがとう、ハウル」」
嬉しげに賛辞するハウルに、二人のソフィーも頬を染めてお礼を言いました。
「じゃあ、行こうか」
にっこり笑ってハウルは扉に向かい、くるりと取っ手をひねりました。そして扉を開けると紳士的に二人を誘います。頷いた二人のソフィーは順に階段を下りて表に出ました。
「行ってらっしゃい!」
見送るマルクルとカルシファーに二人のソフィーは笑顔で手を振りました。
「カルシファー、後を頼むよ」
「わかったよ」
ふよふよ宙を漂いながらカルシファーが頷きました。いつもの元気は見られず、心なしかいつもより弱々しい火勢です。
「ハウル、大丈夫かい」
「お前こそ」
軽口を返してニヤリと笑うとハウルは扉を閉めたのでした。
つづく