「お待たせ」
言ってハウルは二人のソフィーに腕を差し出しました。青いドレスのソフィーはハウルの右腕に、黄色いドレスのソフィーはハウル左腕に自分の腕を絡めて歩き出します。
やはり異様な光景なのでしょうか? どの人も3人を凝視しています。
元来目立つ事が苦手なソフィーは俯いていますがハウルはご機嫌な様子で鼻歌まで歌っています。どうやら両手に花の状態が嬉しくて溜まらないようです。
そうこうしているうちに3人は王宮へとたどり着きました。思い出深いあの長い階段を軽やかに上っていける事に二人のソフィーはくすくすと笑ってしまいました。そうして長い階段を登り切ると召使いがすぐさま現れました。
「魔法使いハウル様。並びにご婚約者ソフィー・ハッター様。どうぞこちらへ」
「「婚約者!?」」
「妻の方が良かったかい?」
からかうように笑うハウルに、二人のソフィーは顔を真っ赤にして睨み付けますがハウルはどこ吹く風と言う風です。涼やかな表情でサリマンが待つ温室へと向かいます。一方歩くごとに二人のソフィーの不安は増して行きます。
サリマンに会えば全てが分かる。
つまりそれはどちらかのソフィーが偽物の烙印を押されてしまうのです。
それは自分なのかもしれない。
自分こそが本物であるという気持ちは時が経つごとに曖昧になっていました。
本当は逃げ出したいくらいに怖くて仕方がありません。
でもこのままで居られる筈もない。それも二人のソフィーには分かっています。
二人のソフィーは涼やかに、優雅に微笑んでいるハウルを憎らしく思いながら歩きます。その時です。
「ソフィー!」
と、誰かがソフィーを呼び止めました。
3人とも立ち止まり辺りを見回すと、王宮の奥から一人の若者が駆けてきます。
「「「カブ!!!?」」」
そう、その若者とはカブ頭のカカシだった隣国の王子だったのです。王子は近寄るなり二人のソフィーに気づいて目をまん丸に見開きました。
「ソフィーが二人も!? 一体どういう事です!?」
「君こそ一体どうしてここへ。戦争を止めさせるために隣国に帰ったんじゃなかったのかい?」
ハウルは心なし二人のソフィーを後ろに隠して問い返しました。はぐらかされた王子は気にする風もなくハウルの問いに答えます。
「実は私は皇太子だったのです。でも死んだものと思われていたらしく、帰って見れば弟が皇太子に就いていました。今更弟と諍うのもいやだったので僕は特使として我が国とこの国の仲立ちになろうと決めたのです。そして今日は来月締結される和平条約の確認に訪れたのです」
一息にそれだけを説明すると王子はにこっと笑ってハウルを見ました。さあ、次はあなたの番ですよ。と言わんばかりです。
「朝起きたらソフィーが二人居たんだ。理由はマダムサリマンだけが知ってる。だからこうして聞きに来たのさ」
「サリマン殿が?」
「そう。だから先を急いでるんだ。失礼」
素っ気なく言い捨ててハウルは立ち去ろうとします。そんなハウルの背中に向かって、
「愛するソフィーの一大事に蚊帳の外だなんて!」
と、王子は大仰な身振りでと言いました。勿論ハウルが聞き逃す筈がありません。
「愛するだって!? 良いかい? カブ頭だった王子様、ソフィーは僕の婚約者なんだ! 君の入る隙間なんか全くないんだからね!」
「勿論承知してますとも! とりあえず今は……とだけ申し上げておきましょうか」
「現在過去未来に渡ってあり得ないとも言っておくよ」
ハウルはそう言い捨てると二人のソフィーを連れて温室へと足早に向かいました。背後では王子が大きく手を振りながら「条約が結ばれたらまた会いに行きまーす!」と言っています。二人のソフィーは王子に手を振り返しながらハウルの早足に懸命について行きました。
そしてとうとう温室に到着してしまいました。
すぐさま小姓の一人が現れ、3人を奥へと誘います。3人はそれぞれの表情を浮かべて小姓の後に付いていきました。
鮮やかな緑が目に飛び込み、窓ガラスからは柔らかな日の光が降り注いでいます。椅子に腰掛けたままのサリマンが穏やかな微笑を湛えて3人を見つめていました。
「お久しぶりです、先生。お元気そうで何よりです」
「ありがとう。そなたも相変わらずなようですね」
「はい」
ハウルは油断無く会話を続け、サリマンの真意を測ろうとしています。ですが穏やかな微笑は崩れることなく曖昧に3人を捉えています。
「とりあえずは礼を言わねばなりませんね」
次に口を開いたのはサリマンの方でした。ハウルは目に力を込めて問い返します。
「何に対しての礼でしょう」
「勿論、そこにいるソフィーさんの影を連れて来てくれた事に対してですよ」
「「!」」
「お認めになるわけですね」
ハウルの言葉にサリマンは微笑を浮かべたままです。でもこの場合、沈黙は肯定の意味なのでしょう。
「実際の所、どう呼び寄せるか思案していたのですよ」
「……」
「正攻法にそなたの家に向かえに出向いたとしても追い返されるのが落ちでしょうし……。お陰で手間が省けました。ありがとう。ハウル」
結局はサリマンの思惑通りになってしまったという事でしょうか? ハウルは僅かにしかめっ面になり、二人のソフィーはハウルの腕を強く握りしめました。
「サリマン先生」
「なんですか? ハウル」
「3つ質問があります」
「答えられる質問ならば答えましょう」
ゆったりと頷いたサリマンにハウルは小さく頷いて返しました。
「まずは……いつソフィーに呪いを掛けたんです?」
「3日前のお昼ですよ。……ソフィーさん覚えてらして? 買い物の途中で人とぶつかり、足をくじいたあなたを手当てした老婆を」
「「……」」
二人のソフィーが小さく頷きました。ハウルにも思い当たる節があります。なんと言ってもその捻挫を治したのはハウル自身なんですから。
「その老婆にどうしても礼がしたかったあなたは老婆何か出来る事はないかと尋ねました。すると老婆は若者が集まるカフェに行きたいと言いました」
「「一人だと若い人ばかりで気後れするからって……」」
「そうね、そしてあなたは老婆が進めるままに一杯のお茶を飲みました」
「そのお茶に呪いを掛けていたって訳ですか」
「正確にはお茶に浸したレモンに、です」
押し殺した声音でハウルが尋ねてもサリマンは微笑を浮かべたまま訂正を入れます。
「でも不思議な事が起こりました。その呪いは私の合図によって発動するものでした。ソフィーさんが老婆と別れた後、私はすぐさま合図をしました。それなの に5分経っても、10分経っても手応えがありません。何度も何度も合図をして、そして私は気が付きました。ハウルがソフィーさんに守りの呪いを掛けていることに」
サリマンの言葉にハウルはうっすら笑みを浮かべました。
「恐らく、ハウルは私がなんらかの形で干渉する事を見越していたのでしょうね。見事なものです」
「お褒めにあずかり光栄です」
恭しく礼を取ったハウルにサリマンは少しだけ笑みを深くしました。
「ですが今日になって突然呪いが発動しました。理由は分かりませんがハウルの守りが緩んだのでしょうね」
「……」
「正直困りました。ハウルに事を知られては厄介な事この上ありませんからね。でも、どうしようかと思案している内にハウルから火急の知らせが届きました」
「……では次の質問です。何の目的があってソフィーに呪いを掛けたのですか」
「今隣国からお越しの特使殿のサポートをお願いしたかったのですよ」
またも意外な言葉に3人は驚いてあんぐりと口を開けました。特使と言えば先程あったばかりの王子に他なりません。ハウルの表情はすぐさま不機嫌になり「冗談じゃない!」と言いたてました。
「分かっていますよハウル。そのような事、そなたは決して許さないでしょう。だからしばらくの間、影を拝借する事にしたのですよ」
「「でも、どうして私が?」」
その問いには答えずサリマンは静かに微笑むばかりです。ですがハウルには理由がわかりました。
恐らくサリマンは王子がソフィーに対して好意を抱いている事を知っているのでしょう。だからこそソフィーを人身御供にし、特使に働きかけさせ、少しでも有利な条約を結ぼうと画策していたのです。
「では最後の質問です」
サリマンは鷹揚に頷きました。
「ソフィーを特使のサポーターにする事は諦めたのですか?」
サリマンは少し微笑みを深くした後こう言いました。
「いいえ」
「「「!」」」
途端ハウルは二人のソフィーを自分の背後に押しやり、強い視線でサリマンを見据えました。
「無駄です」
「何がです」
「ここから逃げる事も、ソフィーさんの影を救う事もできませんよ」
言ってサリマンはトンと杖で床を打ちました。途端ハウル達の周囲に魔法陣が光を放ち出しました。手も足も全く動きません。唯一動くのは首から上だけでした。
「「!」」
「しまった!」
動きを奪われたハウルはギリッと歯を食いしばりました。でも二人のソフィーは感情の針がとうとう振り切ってしまったのかキッとサリマンを睨み付けたのです。
「「いい加減にして下さい!」」
「ソフィー!?」
「「あなたは人をなんだと思ってるの!?」」
サリマンはまるで幼子を見つめる母親のような穏やかな眼差しで二人のソフィーを見ています。
「全ては国の為ですよ」
「「国の為に人がいるんじゃ無いわ!」」
「勿論です。国は人の為にあります」
「「分かってるならどうして!」」
「国の為に尽力する事、ひいてはそれが人の為になる事だとどうして分からないのですか?」
逆に切り替えされて二人のソフィーは言葉に詰まりました。
「国は今まで人の為に……ソフィーさん、あなたたちの為に尽力してきました。あなたたちはその様な事など気に掛けることなく日々の安定した暮らしを享受してきました。そのくせその暮らしが潰えるや国を糾弾し、再興の為に協力を請えば国の為に人がいるのではないと言う始末。……本当に、なんて勝手な言い分なんでしょう」
「「……」」
「ソフィーさん、国は人が形作るものです。決して領土などではありません。そして王と国政を担う者達の所有物でもありません。あなた方が協力してこそ国が成り立つのですよ」
「「……」」
揺るぎないサリマンの視線と言葉と意志を受けて二人のソフィーは黙り込んでしまいました。サリマンの言っている事は正論に他ならず、なんと言って言い返して良いのか分からなかったからです。
「惑わされるな、ソフィー」
その時、ハウルが押し殺した声で言いました。
「「ハウル?」」
「ああ言うのを詭弁って言うんだよ」
「……聞き捨てなりませんよ、ハウル」
「多くの魔法使いを怪物に変えて、それ以上の人間を殺しておいて国の為だなんて言葉で終わらせないで下さい。そしてそれがぼく達の為だなんて責任転嫁も良い所です」
「……」
「それに正しい事をしていると思っているならどうして正面から協力を申し出なかったんです」
「それはそなたが反対するから……」
「違います、先生はご自分のなさる事に疚しさがあったんです。だからこそ秘密裏に呪いを掛けソフィーを政治の道具に仕立てるつもりだった」
「……」
「カブのソフィーに対する好意を利用して少しでも国に有利な条約を結ばせる。……やる事全て卑怯です」
「世の中綺麗事だけでは済まないのですよ。残念ながら」
「開き直るわけですか」
ハウルの言葉にとうとうサリマンの顔をから笑みが消えました。そして瞑目して大きくため息を吐き、「無理強いはしたくなかったのですが……仕方ありません」と言って目を開きました。たった一人を見据えて。
「こちらにお出でなさい。”ソフィー”」
黄色いドレスを着たソフィーに向けてそう言ったのです。
「「「!」」」
「さあ、来るのです。”ソフィー”」
突然、黄色いドレスを着たソフィーがサリマンに向かって歩き出しました。
「な!? あ、足が勝手に!」
「私の命令に逆らう事はできませんよ。”ソフィー”」
「あ、あたしが! あたしが偽物なのっ!?」
必死に抵抗しながらも黄色いドレスを着たソフィーが唇を戦慄かせながらサリマンに問い糾しました。
「そうです、そなたがソフィーさんの影です」
サリマンの言葉に黄色いドレスを着たソフィーは真っ青になりました。身体が自由に動いたならその場にしゃがみ込んでいた事でしょう。青いドレスを着たソフィーだってショックで真っ青になっています。
「先生! 止めて下さい! ソフィーに酷い事をしないで下さい!」
「そなたのソフィーさんは隣にいるではありませんか」
「ソフィーの姿をしていて、ソフィー声を持っていて、ソフィーの心を持っていて、僕を愛してくれていて、僕が愛してる。彼女もソフィー以外の何者でもありません!」
「「ハウル……」」
ハウルの言葉に二人のソフィーは少し悲しげにハウル名前を呼びました。
「そなたの言う定義に当てはまる限り、何人いようともそなたのものと言うのですか?」
「勿論です」
「まあ、なんて欲張りな子かしら」
ヌケヌケというハウルにサリマンは心から呆れてそう言いました。
「ならばその定義から外してあげましょう。”ソフィー”の心を封じます」
黄色いドレスを着たソフィーの顔色が真っ青を通り越して紙のように白くなってしまいました。
「先生!」
「元々そうするつもりでしたから」
「先生!」
「諦めなさい、ハウル」
「先生! お願いです! 止めて下さい!」
サリマンは杖を掲げ、空中に何やら紋様を描いていきます。
「僕に、僕に出来る事があるならなんでもします! 隣国の王の首が望みなら取ってきます! だから! だから……!」
「「ハウル!!?」」
突然のハウルの言葉に流石のサリマンも目をまん丸にしました。勿論二人のソフィーの目もまん丸です。
「そなた……」
「交換条件です。聞き入れて下さい。僕は、僕はソフィーが僕を置いて他の男の元に行くなんて何があって許せない。例え相手が”僕”だったとしてもです」
「「!」」
「……本当に、なんて我が儘な子なんでしょうか」
些か情けない理由にサリマンは呆れたように、疲れたように背もたれに背を預けました。ですがまた微笑を湛えるとハウルを一見柔らかな視線で捉えます。
「では、ハウル。そなたに王室付き魔法使いになってもらいます」
「! 僕がですか!?」
「そうです。私亡き後、そなたには私の跡を継ぎ、王室付き魔法使いとなって貰います。……これが交換条件です」
さあ、どうするのです? と言わんばかりにサリマンはハウルを見据えました。ハウルは厳しい顔でサリマンを見つめます。歩みを止めた黄色いドレスを着たソフィーも、ハウルの隣にいる青いドレスを着たソフィーも心配そうにハウルを見つめています。
そしてハウルが口を開こうとした時です。
「私、なります! カブの、特使のサポーターになります! だから、ハウルは自由で居させて下さい!」
「ソフィー!!」
黄色いドレスを着たソフィーがサリマンに向かって叫んだのです。ハウルも青いドレスを着たソフィーも驚いて彼女を見つめ、サリマンはおやおやと意外そうに片眉を上げました。
「ソフィー! なんて事を言うんだ!」
「ハウルは黙ってて!」
「黙ってなんか居られないよ! ソフィー、他の男の元に行くなんて君は僕の事を愛してないのかい!?」
「愛してるわ! 誰よりも愛してるわ! でも、だからこそあなたのそばに居られないのよ!」
まるで血を吐くような叫びです。でもハウルはメチャクチャに頭を振ってソフィーの言葉を否定します。
「分からないよ! どうしてなんだ!」
「……ハウル、あなたさっき言ったわね。たとえ相手が自分でさえも許せないって」
「ああ、言ったさ。それがどうだっていうんだ」
「私も、……いえ、私たちもそうなんだって事にどうして気が付いてくれないの?」
「ソフィー?」
「私だって、そこにいる”私”だって、自分以外にハウルを渡したくなんてないの! 自分以外がハウルのそばになんて居て欲しくないの!」
「!」
まるで雷に打たれたかのような衝撃がハウルの内を駆け抜けました。隣にいる青いドレスを着たソフィーは辛そうに唇を噛み締めています。そして「ごめんなさい、ハウル」と、そう小さく謝りました。
「ソフィー?」
「ごめんなさい……」
両目から大きな涙をこぼしながら青いドレスを着たソフィーは謝りました。黄色いドレスを着たソフィーもぼろぼろと涙をこぼしています。
「誰にもハウルを渡したくなんかない。でも、私は偽物だから、本物じゃないからハウルの傍には居られない……」
そう言って涙を流したままサリマンに向き合いそのまま歩いていきます。
「お願いです。どうかハウルは自由に……」
「分かりました」
サリマンは頷いてもう一度杖でトンと床を突きました。途端に魔法陣が効力を失い、ハウルと青いドレスを着たソフィーはガクンとその場にしゃがみ込んでしまいました。
「”ソフィー”では……」
「お待ち下さい」
その時です、誰かが朗々たる声で割って入りました。
「カブ!」
そう、間違いなくカブ頭だった王子です。王子は初めて見るような厳しい顔でサリマンを見つめています。サリマンも驚きを隠せず隣国の特使を見ています。
ツカツカと歩いてきた王子はしゃがみ込んでいるハウルと青いドレスを着たソフィーにニコッと笑みを見せました。そしてそのまま通り過ぎ、サリマンと対峙します。
「侮られては困りますサリマン殿。如何に若輩と謂えども色に迷って道を見誤る事は、私は致しません」
「……」
「勿論、彼女が心から私をサポートしてくれるのであれば話は別です。でも今の彼女を見る限りそうでは無いでしょう」
「……」
「私が特使となったのは両国を平和に結びつける為です。決して我が国の優位の為に来たわけではありません。このような小細工を労しても無駄である事を申し上げておきます」
最早これまでと言った所でしょうか? サリマンは一つため息を吐いた後、色々溢れ出た疑問を投げかけました。
「人払いをして於いたはずですが」
「ああ、あの小姓の少年達ですか? 彼らは魔封じの札で足止めさせてもらっています」
「……魔封じをお持ちで?」
「ええ、魔法には痛い目にあっておりますので護身用に持ち歩いているのですよ」
「今は王を交えての会議中の筈……」
「愛するソフィーの一大事に蚊帳の外など我慢が出来なかったものですから!」
したり顔で言う王子にサリマンは深々とため息を吐き、そして言いました。
「特使殿、此度の非礼、このサリマン心より謝罪申し上げます。どうか寛大なるご配慮で以て条約に臨んで頂けるよう切にお願い申し上げます」
「それは勿論」
「痛み入ります」
「では私は会議に戻ります。失礼!」
言って王子は風のように去っていきました。
「美味しい所を攫っていくなぁ」
「「ハウルったら!」」
感嘆するハウルに二人のソフィーが呆れたように肩を下ろしました。ですがハウルは気にせず軽やかに立ち上がり、青いドレスを着たソフィーに手を貸して立ち上がらせます。
「サリマン先生」
「なんです」
些か疲れた様子でサリマンはハウルに目を向けました。
「ぼく達は失礼します」
「勝手になさいな」
背もたれに深くもたれてサリマンはそう言うと目を閉じてしまいました。ハウルはその様子にクスリと笑うと黄色いドレスを着たソフィーに向かって手をさしのべました。
「帰ろう、ソフィー」
黄色いドレスを着たソフィーは辛そうにハウルともう一人の自分を見つめた後、小さく首を振ります。
「ソフィー!」
「ハウル、駄目だわ。”私”たちは一緒に居られない」
「ソフィー」
「一緒に居たらきっと嫉妬で気が変になっちゃう。幸せになんか暮らせっこない」
「……ソフィー」
「私は……居てはいけない存在なのよ」
最早ハウルは黄色いドレスを着たソフィーの言葉に首を振る事しかできません。青いドレスを着たソフィーも心境は同じなのでしょう。譲りたくても譲れない物の為にぎゅっと唇を噛み締めてもう一人の自分を見つめました。
「マダムサリマン」
「……何ですか。”ソフィー”」
「私の呪いを解いて下さい」
きっぱりとした声です。サリマンは小さく頷きました。杖を高々と振り上げます。
「ソフィー!」
我慢が出来なくなったのかハウルは青いドレスを着たソフィーを連れて黄色いドレスを着たソフィーの元へと駆けつけました。黄色いドレスを着たソフィーは穏やかに笑ってハウルの頬に手を当てます。
「ハウル、さようなら。元気でね」
「さよならなんて言わないでよ! 僕から離れて行ってしまわないでよ!」
ハウルの目から止めどなく涙が流れ落ちます。とてもとても綺麗な涙に二人のソフィーは顔を見合わせて困ったように笑いました。
「泣かないでハウル」
黄色いドレスを着たソフィーがハウルの頬にキスをしました。
「そうよ、泣かないで、ハウル」
青いドレスを着たソフィーも反対の頬にキスをしました。
突然のキスに驚いて涙が引っ込んでしまいました。
「そうね、さよならは間違いだわ」
「ええ、だって私たちは二人から一人に戻るだけなんだもの」
「ソフィー?」
「「今ようやく分かったわ」」
「私はおばあちゃんに魔法を掛けられて90歳のおばあちゃんになったわ。でも魔法は解けてまた少女に戻った」
「「そう、今回だって同じ」」
「私たちはマダムサリマンの魔法で二人に分けられてしまったの。そして魔法が解けてまた一人に戻るの」
「「ただそれだけなのよ」」
「……」
「「ハウルは私が一人だと満足できないのかしら?」」
いたずらっぽく笑って首を傾げる二人のソフィーにハウルは勢いよく首を振りました。そんなハウルに二人のソフィーは愛に満ちた笑顔を送ります。
「ハウル、愛ってきっと増えるものよ」
「ソフィー?」
「そう、二人に分かれたからってあなたへの気持ちが二分の一になってしまうことはなかった」
「だからきっと、私たちが一人に戻っても私の愛と」
「私の愛が足されて前よりも強く深くあなたを愛してしまうわ」
熱烈な告白にハウルは目を丸め、そしてようやく笑みを浮かべました。
「マダムサリマン、早く呪いを解いてください」
「そうよ。 二人で居る時間が勿体ないわ」
二人に詰め寄られてサリマンは苦笑して頷きました。なにやら聞き慣れない言葉を発して杖でトンと床を打ちます。途端二人のソフィーは淡い光に包まれました。とても柔らかくて暖かくてソフィーそのものの様な優しい光です。ハウルはとても気持ちよさそうに光を浴びています。次第に二人の輪郭が崩れて混じり合います。光は螺旋を描いたり、拡散したり、収縮したりを繰り返しています。そして一気に弾けた後、一人のソフィーが穏やかな微笑みを湛えて立っていまし た。
青いドレスでもなく黄色いドレスでもありません。まるで新緑の若葉の様な鮮やかな緑のドレスを纏ったソフィーが立っていました。
ソフィーはうっとりと自分を見つめているハウルを見つめ返すと隣に並んで立ち、ハウルの左腕に自分の腕を絡め、ハウルを見上げました。ハウルはすかさずソフィーの唇を奪いました。
「ハウルったら!」
ソフィーの顔は真っ赤ですがハウルはしれっとしたものです。
「いちゃつくなら自分の城でやってちょうだい。私にはこの後も仕事が控えているのですからね」
パンパンと手を叩いてサリマンはさっさと二人を追い出しに掛かります。実際、目の前で当てられるのは溜まったものではないでしょう。
ハウルとソフィーはサリマンに挨拶をして、そして踵を返して歩き出します。しかし何かを思い出したのかハウルは立ち止まり振り返りました。
「なんです。まだ言い足りない事があるのですか?」
少々やけっぱちになっているんでしょうか? サリマンはそんな風に言いました。ハウルは苦笑するとこう言ったのです。
「先生、どうか存分に長生きして下さい。王室付き魔法使いなんて堅苦しいもの、まだ当分はしたくありませんからね!」
言ってハウル達は今度こそ帰って行きました。
残されたサリマンはとんでもなく我が儘で、とんでもなく素直でない最後の弟子にこう呟きました。
「そなたがもう少し大人になったら考えるとしましょうか」
◇ ◇ ◇ ハウルとソフィーの動く城ではカルシファーとマルクルが落ち着かない様子でうろうろしてます。ただ荒れ地の魔女はカウチに腰掛けながら軽くいびきをかいていました。
「ただ今! 諸君」
突然扉が開いたかと思うとこの上もなく上機嫌のハウルがソフィーを伴って帰ってきたのです。
「ハウルさん! ソフィー! お帰りなさい! ……あれ? もう一人のソフィーは?」
マルクルの質問にソフィーは「ちゃんと居るわよ」と微笑んで答えました。マルクルは訳が分からず頭を抱えています。
カルシファーはじっとソフィーを見ていました。でもソフィーが「カルシファー、ただいま」ととびきりの笑顔で言うのだからカルシファーも嬉しくなって火勢を増し、「お帰り、ソフィー!」と宙を飛び回りました。
「カルシファー、僕には言ってくれないのかい?」
「しょうがないから言ってやるよ。お帰り、ハウル」
「しょうがないから僕も言ってやるさ。ただ今」
二人のやりとりにソフィーもマルクルも笑い声を上げています。
「……愛の試練には打ち勝ったようね」
見れば荒れ地の魔女が身を起こして二人を見ていました。ソフィーは駆けより荒れ地の魔女をぎゅっと抱きしめます。
「ただ今おばあちゃん」
「お帰り、ソフィー」
荒れ地の魔女はマジマジとソフィーを見つめます。
「おばあちゃん?」
「……ソフィー、あなた、また強くなったわねぇ。それにとっても素敵になったわ」
ウインクする荒れ地の魔女にソフィーは頬を赤らめながら礼を言いました。
「ハウル、あなたまた惚れ直したんじゃないの?」
「それは勿論」
臆面もなく答えるハウルに、ソフィーの方が照れてしまって逃げだそうとします。
「わ、私着替えてくるわ!」
「あ、ソフィー!」
足早に階段を駆け上るソフィー。勿論ハウルもその後を追います。ですがソフィーが向かったのは自分の部屋ではなく、城のてっぺんの塔にあるテラスでした。ハウルは途中でソフィーを捕まえ、そのままテラスへとエスコートします。ようやくテラスに落ち着いた二人はどちらからともなく抱きしめ合い、そしてキスを交わしました。
唇を離すとハウルはもう一度キツくソフィーを抱きしめます。
「ん……ハウル、苦しいわ」
ですがハウルは力を緩めるどころか逆に強めてしまいます。
「僕は……更に臆病者になってしまったよ」
「ハウル?」
ハウルは愛おしそうにソフィーを見つめ、柔らかく暖かな頬を両手で包み込んで額をコツンと合わせました。
「分かるかい、君に。……君にさよならと言われた時の僕の気持ち。折角君が取り戻してくれた心臓が止まるかと思った……」
「ハウル……」
「君が僕の前から居なくなるなんて……」
ハウルは言葉を切るとソフィーの肩に顔を埋め、「魔物に成り果てた方がマシだ」と言い捨てました。
「ハウル!」
「その方がよっぽどマシだよ。だって泣く事も悲しむ事も忘れられる……」
「……」
ソフィーは震えるハウルを抱きしめ、背中をポンポンと叩きます。
「ハウル、私はあなたの傍にいるわ」
「今はね」
ハウルは強い口調で返しました。
「そうね、普通未来の事は分からないわ」
でも……とソフィーは続けます。
「あなたは私があなたと出会う事を知っていた。あなた私が知らない未来を知っていたわ」
「でも……」
「聞いて。ねえハウル。それと一緒だと思わない?」
「ソフィー?」
ハウルは身体を離してソフィーの顔を覗き込みました。
「私たちが知らない未来を誰かが知ってるの。私たちの幸せな未来を」
「……」
「私は信じるわ。私たちの幸せな未来を」
「ソフィー……」
「私たちが出会って、愛し合う事がまるで約束されていたみたいに、きっと私たちの幸せな未来も約束されているわ」
言ってソフィーはハウルにキスをします。そして微笑んでこう尋ねました。
「ハウルは信じられない?」
「……」
ハウルは魅入られた様にマジマジとソフィーの瞳を見つめ、そして小さく首を振りました。
「信じられるよ」
「よかった!」
「わ!」
ソフィーは勢いよくハウルに飛びつきました。危うく柵を乗り越えそうになったハウルですが長い足を柵に引っかけて踏ん張ります。体勢を戻してハウルはギュッとソフィーを抱きしめます。
「ソフィー、愛してる」
「私も愛してるわ、ハウル」
ソフィーも抱き返します。しばらく抱き合っていた二人ですがハウルは苦笑するとソフィーの顔を覗き込みました。
「やっぱり言葉だけじゃ足りないね」
「ハウルったら……」
ソフィーは頬を染めながらも目を閉じ、ハウルはそっと顔を寄せました。
唇から伝わる愛情を等しく分け合いながら二人はやがて訪れるだろう幸せな未来に思いを馳せます。
時の初めからの世界の約束を信じて……
おわり