あの大掃除から五日が過ぎた日の朝です。
ピッカピカに磨かれた窓から差し込む朝日でハウルは目を覚ましました。でも目を差す光が鬱陶しいのでしょう。ハウルはシーツを巻き込んで窓に背中を向けました。
「はぁ────」
そして大きな大きなため息を吐きました。
「ソフィー………………」
情けない声でハウルは愛しいソフィーの名前を呟きますが返事はありません。
今ハウルの隣にソフィーが居ないからです。と言ってもソフィーが早起きだからって訳でもありません。
ソフィーは一度もこの部屋で眠った事が無いからです。
「ソフィー………………」
何度囁いても返事がある筈ありません。この場に居たとしてきっとソフィーは返事をしなかったでしょう。ここ数日ソフィーはハウルと話すどころか顔を合わせようともしなかったのですから。
それは何故なのでしょうか? そんなの勿論ハウルのせいに違いありません。
「ソフィー………………」
それが分かっていてもハウルはうじうじとベッドを端から端へと転がっています。
「なんだって毎日毎日朝は律儀にやってくるんだ。僕は起きたくなんか無いって言うのに。起きたってソフィーは僕におはようとも言ってくれないし僕の顔も見てくれないんだ!」
ハウルは髪をかき乱しました。
「………………でも起きなきゃ僕がソフィーに会うことすら出来ないじゃないか」
そう言うとハウルは渋々起き上がりました。ふらふらとした足取りで部屋を出て階段を下ります。
「……ソフィー?」
居間に下りて恐る恐る声を掛けますが勿論返事はありません。
「ソフィー?」
狭い城の事、辺りを見回さずともソフィーが居ない事は間違い有りません。その時です、煙突からカルシファーが姿を現しました。
「カルシファー、ソフィーは?」
「よぉ大将。今頃お目覚めかい?」
「ご託は良いよ。ソフィーはどこなんだ?」
「なんだい、挨拶もできないのかよ」
「ああ、もう! おはよう! これで良いかい!? 青瓢箪!」
「ちぇ、なんだい。ソフィーが居ないからってオイラに当たらないでくれよな」
カルシファーの言葉にハウルは目をまん丸にしました。
「ソフィーは居ないのかい!?」
「居ないからオイラに聞いたんだろ?」
「……」
確かにその通りなのでハウルは目を眇めてカルシファーを見ました。
「ああ、そうさ、その通りさ。それでカルシファー。ソフィーはどこなんだい?」
「知らないよ。オイラが散歩に出掛けるまではソフィーは掃除して洗濯して朝ご飯作ってたんだ。居ない間の事なんか分かるもんか」
「お前が動かしてる城だろっ?」
ハウルの言葉にカルシファーは大きくべぇーを出しました。
「ここに縛り付けられてた頃ならいざ知らず、今じゃオイラは自由の身なんだ。誰がどこに行ったかなんて分かるもんか!」
「ああ、そうかい!」
ハウルはぷいっと膨れてそっぽを向くと階段を上がっていきます。
「風呂にお湯を送ってくれよ。せめてそれ位は出来るんだろ!?」
「オイラやソフィーが居なきゃ何にも出来ないくせに、なんだいその言いぐさは! お望み通り熱いお湯を送ってやるよ!」
カルシファーも大きく燃え上がってそう言いました。その時取っ手の色が変わり、扉が開きました。
「ソフィーかい!?」
扉が開く音を聞きつけたのでしょうか? ハウルは風のように居間に舞い戻ってきました。
「あ、ハウルさんおはようございます。ただいま帰りました」
帰ってきたのはマイケルでした。マーサに会いに行っていたのでしょう。チェザーリのケーキの箱を抱えています。ハウルは見た目にもガックリと落ち込んで肩を落としました。
「なんだマイケルか……」
と失礼な事を言ってハウルは重い足取りでまた風呂場に向かったのでした。その様子を見ていたマイケルはカルシファーに何があったのかと尋ねました。
「どうしたのハウルさん。それにソフィーさんは?」
「ハウルはソフィーの姿が見えないから拗ねてるだけさ。ソフィーの事は知らないよ。オイラマイケルが城を出るよりも早くに散歩に行ったんだからさ。それに帰ってきた時にはもう居なかったよ」
「へー、どこにいっちゃったんだろ? せっかくチェザーリのケーキを買ってきたのに。僕がマーサの所に行く時には出掛けるなんて言ってなかったのに」
マイケルは首を傾げました。
「そのうち帰ってくるだろ?」
「そうだね。……でも、今日も
ああなのかなぁ?」
途端にマイケルの顔色が曇り出しました。
「そりゃそうなんじゃないか? なんたって、あちこちで手を出してたんだから。ハウルは」
カルシファーの言葉にマイケルは深々とため息を吐きました。
「ホントにもう、その所為でソフィーさんの機嫌は悪いし、ハウルさんの顔も見ようとしないし、いつハウルさんが緑のネバネバを出すか気が気でないよ」
「案外、ソフィー愛想尽かして出て行ったのかもしれないな」
とカルシファー。
「笑えない冗談は止めてよ……」
でも心配になってきたのでしょうか? マイケルはきょろきょろと辺りを見回しました。勿論居間のどこにも隠れる場所などありません。
「城の中にはいないさ」
「じゃあ、買い物なのかな?」
「オイラ分かんないけど昼には帰ってくるさ。なんたってソフィーはどんなに腹立てててもハウルのためにご飯を作ってるだろ?」
「うん多分そうだよね」
頷いてマイケルは自分の部屋に戻りました。ハウルから出された課題に取りかかるためです。居間ではカルシファーがフライパンの歌を歌いながら宙を漂ってます。そして3時間が経った頃……。
「ハウルの奴。何やってるんだ? お湯も使わないでずっと籠もってるぜ」
「うーん、確かに変だなぁ。それにソフィーさんもまだ帰ってこないし」
ハウルとケンカしていたのに心配そうにしているカルシファーに追い立てられてマイケルはハウルの様子を見に風呂場に向かいました。コンコンとノックをしますが返事はありません。
「ハウルさん?」
マイケルはもう一度ノックしてみました。ですがやっぱり返事はありません。
「ハウルさん、開けますよ?」
断ってマイケルがノブを回したその時です! もの凄い勢いで扉が開いたかと思うと緑のネバネバが激流となってマイケルを押し流したのです。
「うあああああああ!!!!」
マイケルの叫び声にびっくりしたカルシファーですが突然緑のネバネバが襲ってきた事に硬直してしまいました。
「た、助けて! カルシファー!」
その声に我に返ると魔法でマイケルを救い出し、取っ手を荒れ地に合わせて扉を開きました。緑のネバネバはもの凄い勢いで荒れ地に流れ出しました。
そしてしばらくして流れが収まった頃、カルシファーは緑のネバネバでベトベトになっているマイケルを床に下ろしました。ですが下ろした途端にツルンと転んでしまったのでカルシファーはまたマイケルを持ち上げました。
「マイケル、大丈夫かい?」
カルシファーの言葉にマイケルはうんうんと何度も頷きます。そして風呂場の方に顔を向けました。
「ハウルさんに何か有ったんだ! カルシファー、僕をこのまま風呂場まで運んで!」
「わかったよ」
カルシファーもいっしょにふわふわと階段を上がります。床だけでなく壁も天井も緑のネバネバで覆い尽くされています。
「もしかして3時間前からネバネバを出してたのかな? ハウルさん」
「この量だとそうかもしれないな」
天井からポタリと落ちてくるネバネバを慎重にやり過ごして漸く二人は風呂場の前に到着しました。扉は勿論開かれています。
「ハウルさん?」
「ハウル?」
二人はそーっと顔を突っ込みました。
風呂場ではハウルが鏡に両手をついた格好で立ちつくしています。
「ハウルさん?」
「ハウル?」
二人はもう一度呼びかけましたがハウルはピクリとも動きません。二人は心配になってハウルに近づきました。マイケルがそっと手を伸ばし、指先がハウルの肩に触れるや否やハウルの身体はぐしゃりとその場に倒れ込んでしまったのです。
「ハウル!」
「ハウルさん!」
マイケルは床に下りたってハウルの身体を揺さぶりました。勿論、何の反応もありません。
「心臓はちゃんと動いてるよ」
「良かった!」
カルシファーの言葉にマイケルは心からそう言いました。
「でも、何が有ったんだろう」
マイケルはきょろきょろと周囲を見回します。ですがこれと言って何もありません。
「マイケル! 大変だ!」
突然カルシファーが大声を出しました。見ればカルシファーは先程までハウルが手をついていた鏡を見つめています。
「鏡がどうしたんだい?」
マイケルはそーっと立ち上がって鏡を覗き込みました。おかしな事に鏡には緑のネバネバが少しも付いていません。それよりも何よりも、鏡にあるモノにマイケルの目がまん丸になりました。
「これってソフィーさんが?」
「ソフィー以外の誰がこの城で口紅を使うって言うんだい!」
間抜けなマイケルの問いかけにカルシファーが怒って言い返しました。
「……大変だ」
「大変だよ……」
「大変だ」
「大変だ!」
「ソフィーが!」
「ソフィーさんが!」
「「出て行っちゃったんだ!」」
そうです。そうなのです。ハウルが覗き込んだ鏡には口紅でこう書かれていたのです。
So long!
つづく