「本当にもう、ハウルなんか金輪際知るもんですか」
ソフィーはぷりぷりと怒りながら舗装された道を歩いています。空は気分を更に陰鬱とさせる曇天模様でソフィーは空に向かって怒鳴り立てました。
「ちょっと、雲たち! 鬱陶しいのよ! どっかに行って青い空とお日様に会わせて頂戴!」
するとどうでしょう! じわりじわりと雲が動き出し、うっすらと青空と太陽が姿を覗かせました。
「そうそうその調子よ」
少しばかり気分を良くしてソフィーは頷きました。その時です。プァプァプァ──ッと大きな音が背後で響きました。何事かと思って振り返ると馬のない馬車がじりじりと近づいてきます。ソフィーが道の端に移動すると馬車を黒煙を吐き散らしながら速度を上げて過ぎ去って行きました。
「ゲホッ! ゲホッ」
黒煙を思いっきり吸ってしまったソフィーは手で黒煙を払いのけながら大きく咳き込みました。
「ん、ゲホッ! んもう! 何なのよ!」
ソフィーは遙か向こう、坂を上っていく馬のない馬車に向かって思いっきり舌を出しました。
「本当にもうあたしがこんな目に遭うのも全部全部ハウルのせいなんだから!」
目に滲んだ涙をごしごし擦りながらソフィーはすっかり晴れてしまった空に向かって悪態を付きます。
「あたしがウェールズくんだりまで家出する羽目になったのは全部ハウルのせいなんだから!」
……そう、ソフィーはウェールズに家出してきたのです。
「
絶対に、絶対に、許してなんかやらないんだからねーー!」
擦れ違う人が訝しげにソフィーを見ていますが、ソフィーはそんなこと気付かずに大きく息を吸い込み声の限りに叫びました。
何故ソフィーがウェールズに居るのか……。そもそもどうして家でしてきたのか……。
事の発端は大掃除が終わった日の出来事でした。
掃除を始めて3日目のお昼を過ぎた頃、ハウルは漸くソフィーからの及第点を貰いました。そして「やったぞ!」と拳を振り上げるとそのままベッドに倒れ込んでしまいました。
「ハウル!」
いきなり倒れるんだからソフィーも相当に慌てました。ですが少し疲れた、それでいて暢気な寝顔に安心してほっと息をつくと「お疲れ様」と言ってハウルの秀でた額にキスをしました。そしてもう一度部屋を見回しました。
蜘蛛一匹、巣一つ、埃の欠片さえも見当たりません。窓はピカピカに磨かれており、そこから差し込む夏の日の光が真っ白なレースのカーテンに弱められて部屋の中をやんわりと明るくさせています。家具や天井も勿論ピカピカです。壁紙に至っては白地に小さな花をあしらったものに新調されています。ベッドも薄汚れたシーツにベッドカバーは清潔に洗濯されていて(洗濯したのはソフィーですが)良い匂いがしています。
ハウルの並々ならぬ努力にソフィーは苦笑しました。
あんなにも蜘蛛や豚小屋に住む権利とやらに拘っていたハウルなのにソフィーの為に三日三晩休むことなく掃除をしてくれたのです。嬉しくない筈がありません。
「願わくばこの状態がいつまでも続けば良いんだけどね」
持続させるのは自分の仕事だろうとソフィーは思いました。そしてガーガーいびきをかいているハウルを優しい眼差しで見つめました。
「この調子じゃ明日まで目は覚まさないわね。まあしょうがないわ。本当に頑張って掃除をしてくれたんだもの。お疲れ様、ハウル。目が覚めるのをハウルの好きな物を沢山作って待ってるわね」
もう一度額にキスをしてソフィーは居間へと下りていきました。そしてそのまま店に向かいます。
「あなたじゃ話にならないって言ってるでしょ!!!!」
店への扉を開けたようとした瞬間、誰かが叫びました。ソフィーはびっくりしてドアノブを握りしめたまま固まってしまいました。
「ちょ、ちょっと、お、おち、落ち着いて下さい!」
そう言うマイケルが一番落ち着かなければならないようです。ソフィーは少しだけ扉を開けて店の中をそーっと覗き込みました。
若く、可愛らしい女性がぼろぼろ涙を流しながらマイケルに詰め寄っています。
「
あたしは落ち着いてるわよ!」
ハンカチを握りしめながらまた金切り声で叫びました。一見して判るとおりただ事じゃありません。ソフィーは家に戻ってハウルを起こしに行こうかと思いましたが止めました。
「だってあんなにぐっすり眠っているんですもの。起こすなんて可哀想だわ」
自分の言葉に頷いてソフィーは扉を大きく開きました。途端に二人の視線がソフィーに注がれます。
「ソ、ソフィーさん!!」
マイケルはマズイ! と言う顔をしました。ソフィーは首を傾げてそんなマイケルに尋ねます。
「どうしたの? マイケル。お客様がどうか……」
「あなたがソフィーなのね!?」
ソフィーの言葉を遮って女性のお客はそう強い口調で聞きました。ソフィーは勢いに押されながらも頷きました。
「はい、私がソフィーですけど何か?」
「どうしてあたしじゃだめであなたなら良いのよ!」
「?」
「どうしてよ! あなたなんかよりあたしの方が綺麗じゃない!」
訳が分からずおたおたしていたソフィーですがお客のこの言葉に眉根をつり上げました。
「なんて失礼な人なんだろう! お客じゃないんなら帰って頂戴!」
言ってソフィーはつかつかと扉に向かい、大きく開け放ちました。
「さあ! 帰って!」
「いやよ! ハウルを出しなさいよ! あなたなんかに用は無いわ!」
お客の言葉にソフィーはまた眉根を寄せました。マイケルは額に手を当てて天を仰いでいます。恐らくマイケルは事の次第がソフィーより判っているのでしょう。そう思ったソフィーはマイケルを引っ張って奥に引っ込みました。
「どういう事なのよマイケル!」
「え……あ……う……」
「はっきり言いなさいよ! 言わなきゃ酷いわよ!」
ソフィーの脅しにブルッと身体を震わせたマイケルはボソボソと喋り出しました。
「実は……あの人は昔ハウルさんが手を出した女性の一人なんですよ」
「……」
「ほら、前に話した事があったでしょう? 復縁を迫ったり、保護者が乗り込んできたりとか……」
「そう言えば有ったわねぇ」
「え……と、だからあの人も……」
「レティーの前に口説いた女の子達はもう納得してハウルのことを諦めさせたんじゃなかったの?」
ソフィーは不機嫌に鼻を鳴らして尋ねました。マイケルがうっと詰まります。
「そ、その筈なんですが……」
「あんたにも判らないって事?」
「はあ、すみません。ただ、どこで聞いたのかあの人はソフィーさんがハウルさんの恋人で一緒に暮らしてるってのを知ってましたよ」
マイケルの言葉にソフィーの顔が真っ赤に茹で上がりました。
「い、一緒に暮らしてるって、そ、そんなのおばあちゃんになってた頃からじゃない!」
「それはそうですけど、二人は恋人な訳でしょう? 少なくともハウルさんはその気じゃないですか。そうでなきゃ三日三晩も掃除なんてしませんよ」
真っ赤になって俯いたままソフィーは「そ、それは……」と口ごもります。ですがマイケルは気付いた風もなく「どこで知ったんだろう?」としきりに首を傾げています。
突然、店への扉が開きました。驚いたソフィーとマイケルは手を握り合って飛び上がりました。「ハウルはこの奥に居るの?」
さっきの女性とは違う女性が顔を出しました。マイケルが慌てて女性を押し戻します。
「困ります! 勝手に奥に入ってこないでください!」
「ちょっと、質問に答えてくださる? ハウルは奥にいるんでしょう?」
「ハウルは居ません! どこかに行っちゃいました! いつ戻ってくるかなんてあたし達も知りませんよ」
女性を押し戻しながらソフィー達も店に戻りました。
「うわ!」
マイケルが叫びました。と言うのも店は僅かな間に若く可愛らしい女性で一杯になっていたからです。女性達はマイケルを見るなり、
「ハウルに会わせて!」
と言いました。どうやら彼女たちもハウルの犠牲者の様です。
「……ハウルは一体何人の女の子達を毒牙に掛けたの?」
「さあ、途中で数えるのを止めましたから判りませんよ。ただ、まだまだ居ると思いますよ」
マイケルの言葉にソフィーは盛大に顔を顰めました。
「あなたがソフィーさんね?」
一人がソフィーの前に立ちはだかりました。この中でも一際美しい女性です。
「そうですけど」
ソフィーは精一杯平静を装って答えると女性は「アンジー・レドモンド」と名乗りました。
「あなた、魔女なんでしょ?」
「……ええ。それが何か?」
ソフィーは頷くと他の女性達が「やっぱり!」とか「ずるいわ!」と口々に言い立てました。もう訳が分からないソフィーはじろりと全員を見回し、正面に立っているアンジーを一際きつい視線で睨み付けました。
「何がやっぱりで、何がずるいのよ!」
「あなた、魔法でハウルの心を手に入れたんでしょ? それがずるくなくてなんだと言うのよ」
「「はぁ?」」
ソフィーとマイケルは顔を見合わせました。
「ソフィーさんそんな魔法を使ったんですか?」
「な! 何言ってるのよ! そんな訳ないでしょ! 大体ハウルに私の魔法が通じる訳ないじゃない!」
「ですよねぇ。ソフィーさんと来たらハウルさんを怒らせることしか言わないし、しないし……」
ソフィーの言葉にマイケルは大きく頷きました。
「口では何とでも言えるわ」
「嘘じゃないわよ!」
アンジーの言葉にソフィーが言い返しました。でも、誰も信じる気はないようです。
「だったら今ここにハウルを呼んで頂戴。ハウルの口から聞かないことには納得できないわ」
「ハウルなら居ないわよ。いつ戻ってくるかも知らないわ」
アンジーがソフィーの目をじっと見つめて居ます。ソフィーも負けじとにらみ返します。
「大体、あんたたち、ハウルのことは諦めたんじゃなかったの? 今更何なのよ」
ソフィーの余計な言葉に女性達が色めき立ちました。慌ててマイケルがソフィーの口を塞ぎましたがそんなの後の祭りです。
「……そんなの悔しいからに決まってるでしょ」
「何ですって?」
「ハウルが何て言って私たちと別れるかご存じ?」
唐突なアンジーの言葉にソフィーもマイケル首を振りました。
「『ごめん、僕はもう君の事が好きじゃないんだ』よ。しかもとびっきりの笑顔でね!」
ソフィーもマイケルも唖然としました。
「最初は何の冗談かと思ったわ。でも冗談でも何でもなかった。それまで毎日毎日家に訪れては愛の言葉を囁いていたくせに次の日から梨の礫。こちらから出向いてみれば『あれ? 何か用? 僕は忙しいんだ。急ぎじゃないなら今度にしておくれよ』そう言って新しい女の子を口説きに行くのよ!」
「何て奴なの!」
アンジーの言葉が誇張されているとしても全てが全て嘘という訳ではないでしょう。心臓が無い頃……心がなかった頃の話とは言え余りの仕打ちにソフィーの目が怒りに燃え出しました。
「ハウルがそんな事を繰り返す度に一つだけ判った事があったわ。……それはハウルは本気で人を愛せないって事よ」
「「………………」」
「だから……どうしようもないと思ったわ。どうやってもハウルの心を手に入れる事は出来ないんだって。私だけでなく他の誰も出来ないことなんだって……」
アンジーの声がどんどん湿っぽくなってきます。でも、アンジーがキッとソフィーを睨み付けました。
「でも聞けばハウルはあなたと結婚するそうじゃない!」
「そうよそうよ!」
「誰もハウルの心を手に入れられないならって諦めたのに」
「どうしてあなたがハウルと結婚できるのよ!」
突然、女性達は一丸となってソフィーを責め立てました。そして口をそろえてこう言いました。
「あなたより私の方が綺麗じゃない!」
「失礼千万! そんな事ハウルに聞けばいいでしょう!」
「聞くわ、聞きますとも! でも今日はハウルは居ないんでしょ? だからまた明日来るわよ!」
「お客じゃないなら来ないで頂戴!」
「そんなこと言ってハウルを独り占めにする気なんでしょう」
「ハウルなんて大っ嫌いよ!」
ソフィーがそう叫んだとき、アンジーは微かに意地の悪い笑みを浮かべました。でも怒りに燃えているソフィーは気付いていません。
「ふん、まあ良いわ。私たちはまた明日来ますからね」
アンジーがそう言うと女性達は一斉に踵を返して店から出て行きます。アンジーも扉に向かって歩き出します。その時です。マイケルがアンジーを呼び止めました。
「あの! レイモンドさん」
「レドモンドよ。何かしら?」
「あの、ハウルさんがソフィーさんと結婚するって話は誰から聞いたんですか?」
マイケルの質問にアンジーは小さく笑うと何とマイケルを指さしました。
「え!?」
「マイケルが!?」
マイケルがびっくりして自分を指さしました。ソフィーが剣呑な目つきでマイケルを睨みます。
「ち、違いますよ! 僕はそんな事言いふらしてませんよ!」
マイケルは大慌てで否定しましたがソフィーはじと〜っと目を眇めたままです。
「レイモンドさん! いい加減な事言わないでくださいよ!」
「レドモンドだって言ってるでしょ! 大体何がいい加減なのよ。あなた、3日前に言ってたじゃない。チェザーリのお店で」
「え!?」
「ほら、チェザーリのお店の可愛い子と喋ってたでしょ?」
マイケルの顔色が真っ青になりました。どうやら思い当たる節があったようです。アンジーはそれを見届けるともう何も言わず、ツンと顎を上げて店から去っていって仕舞いました。
後に残されたのは今当に怒りの雄叫びを上げんとするソフィーと哀れに怯えているマイケルの二人だけ……。
「マ〜イ〜ケ〜ル〜」
「ソ、ソフィーさん」
「
あんたが言いふらしたのね!?」
「言いふらしてません! ただ、マーサがソフィーさんの事を心配して色々聞いてくるから前の日とかその日に有ったこととかを知らせてたんですよ!」
「なっ……」
「マーサは本当にハウルさんがソフィーさんを泣かせやしないか心配してましたよ。だから僕もマーサの心配を取り除いてあげようと……」
「べらべら喋ってた訳ねチェザーリのお店で!」
「……すみません」
マイケルはしゅーんと落ち込んで謝りました。ですがそれくらいでソフィーの怒りが収まるはずがありません。手荒く外したエプロンをマイケルに叩き付けます。
「今日はもう花なんか売ってられないわ! マイケル! あんた一人で店番してなさい!」
「ええ! そんなぁ!」
抗議するまもなくソフィーは奥へと引っ込み、バタン! と家が揺れるぐらいの勢いで扉を閉めてしまいました。
「………………はぁ──」
マイケルは深々とため息を吐きました。大本の原因はハウルで有ることに違いはありません。でも火種を生んだのがマイケルで有ることは確かです。
「ごめんマーサ。僕が二人の危機をつくっちゃったみたいだよ」
マイケルの懺悔はとても空しく誰に聞かれることもなく消えてしまったのでした。
つづく