けっして振り向いてはいけないよ
トンネルを出るまでわね 千尋はこの言葉についてどう思っただろう。
何かまじないが掛かっていると思ったのだろうか。それとも、深くは考えなかったのだろうか。
実際の所、千尋が元の世界に帰るために必要なまじないなど無かった。
何故なら彼女は自らの力で湯婆婆との契約を解消したからだ。
そう、私は……ただ、自分の顔を見られたくはなかっただけ。
きっと千尋を見送る自分の顔はやるせなさに満ちていたことだろう。情けないことに自分ではどうしようもないことだった。
でも優しい千尋の事だ、それに気づけばこちらに戻ってきてしまう。事情を聞き出し、そしてきっと自分を犠牲にして留まってしまうのだろう。
それだけは何としても避けたかった。千尋の重荷にはなりたくなかった。
果たして千尋は私の言葉に従って一度も振り返らなかった。
ほっと安堵の息を吐きつつ私は油屋への道を戻る。
往くは死出の途。
橋を渡り、油屋に入るとリンが待ちかまえていた。
「……千尋は無事に元の世界に戻った」
「そっかぁ! 良かった! 最後はじっくり話せなかったからなぁ、ちゃんと戻れるのか心配だったんだよ」
リンはうんうん頷いて仕事に戻っていった。その後ろ姿を見つめながら、リンにように素直に喜ぶべきなのに、悲しむ自分の心根に舌打ちを打った。
目を閉じ、心を落ち着けてから歩を進める。湯婆婆の所へ。
◇ ◇ ◇
「お入り」
ノックに応えて不機嫌な声が静かな廊下に響く。声と同時に扉は開く。
「なんだい、まだ何か用でもあるのかい?」
見るからに不機嫌そうにイスに腰掛けている湯婆婆はジロリと私を睨み付ける。
「気に入らない目だねぇ。まだ何か企んでいるのかい? この恩知らずが」
「今日を限りに弟子を辞めさせていただきます」
「はっ?」
予想外の用件だったのだろう、湯婆婆は大きな目を更に見開いて私を見た。
「弟子を……辞める?」
「はい、私はあちらの世界に戻ります」
「……馬鹿言ってんじゃないよ。元の世界に戻るだって?! 戻ってどうするって言うんだい。お前のか……あ〜えっと、そうじゃなくて……、か……、か……、そうだ! か、帰るべき場所は跡形もないじゃないか」
湯婆婆は「川」と言う言葉を発すれば私が名を取り戻すヒントになると考えたのか、無理やりに押し込め、苦しく言葉を繋げた。その様子に私は小さく笑ってはっきりと応える。
「ご心配は無用です。私の帰るべき場所は今も存在しています」
「何だって? ……まさか千がそれだって言うんじゃないだろうね」
「そのまさかです」
湯婆婆は目を眇めている。心の奥底まで覗き込むように。やがて視線を外すと心底馬鹿にしたように鼻で笑う。
「ヌケヌケと言ってくれるじゃないか。……でも、お前契約の事を忘れてないかい? お前はその口で言ったんだよ、弟子を辞める時は死ぬ時だってね。お前に死ぬ覚悟があるって言うのかい?」
「勿論、覚えています。……覚悟の上での申し出です」
「ふん、相変わらずかわいげのない子だよ。死んであちらに生まれ変わろうって魂胆かい? 出自がどうであれ、自分の名前も判らないヤツが願った通りに生まれ変われると思ってんのかい」
湯婆婆はせせら笑って椅子にふんぞり返った。
「名前なら思い出しました」
「なんだって?」
湯婆婆の大きな目が驚愕の為さらに大きく見開かれた。その様子に私は少し力を得た。
敢えて名は名乗らぬ方が良いだろう。言葉を選んで慎重に話を進める。
「私は川の主でした。堕ちたとは言え神籍に名を連ねた者です。私は……あらゆる手を使って千尋の元に参ります」
千尋の事を思い浮かべると不思議に力が湧いてくる。自然と声が大きくなる。腹に力を込めて私は更に言の葉を紡ぐ。
「湯婆婆様、私の決心は変わりません。どうか、弟子を辞めさせてください」
言って私は深々と頭を下げた。そのままの姿勢で湯婆婆の返答を待つ。
「判ったよ、弟子を辞めさせてやる。でも、それは帳場の仕事をすべて父役に引き継いでからだ。いいね、それが終わった後にお前、みんなの前で首を切り落としてやるよ」
「……ありがとうございます」
「ふん、このところ千のせいで何奴も此奴もたるんでいるからね。良い見せしめになるだろうよ。あ〜はっはっは!」
意地悪く大笑いした後湯婆婆は顎をしゃくって退出を促した。
「判ったらさっさと出ていきな。引継が終わったらここに来るといい。それまでお前の顔は見たくないよ」
「判りました。失礼します」
再び頭を下げて私は不必要に豪奢な部屋を後にした。
死を目前に控えているというのに不意に笑いが込み上げてくる。それは悲観の笑いではなく大仕事を成し終えた達成感に因るものだった。
死んだ後、私の首が晒されようが、体を切り刻まれて豚の餌になろうがどうでも良かった。千尋の元に転生するまでかなりの年月を要するが永遠にこの世界に留まり続けるよりはマシと言うものだろう。
千尋に会える。
その希望が死すら淡い甘みを帯びているように思わせた。
つづく