その後私はエレベータを下り、従業員宿舎に父役を探しに行った。が人影はなく皆働きに出ているようだった。仕方なく湯屋の中を見回りもかねて歩き回ることにした。
「ハク様〜〜。どうなされた? きょろきょろなさって。どなたかお探しか?」
後ろの方から青蛙がタタタと走りよった。
「ああ、父役を探しているのだ。そなたどこかで見かけなかったか?」
「父役殿なら確か番台蛙殿に用があると言うておったと……」
「そうか、礼を言う」
言って私は青蛙を残して歩き出したが、当の青蛙は暇なのか後を着いてくる。
実のところ青蛙の仕事は見張りであった。一人だけ蛙のままの姿で皆に侮られながらも、逆に彼は皆を見張っている。勿論それは本人の与り知らぬ所ではあった。表向きの彼の仕事は往々にして連絡係。ただ私が霊的に幼い彼を利用していただけ。
それももうすぐ終わる。
力を得る為に捨てねばならなかったもの。消してしまわねばならなかったものをもうすぐ取り戻せる。釜爺に以前から言われていた吊り上がった目も、尖った気配も、青白くなった顔色も少しは元に戻ればいい。
名前と共に取り戻せた昔の自分。今と比べれば自分でも滑稽なほどにかわいげがあった。人には判らないほどの微妙な笑みを浮かべて私は一階に着き、番台に向かった。
「おお、ハク様、如何なされましたか?」
番台蛙に色々耳打ちしていた父役が、番台蛙の会釈で私の存在に気づいて話しかけた。
「そなたに用があってな」
「なんと、わざわざお越しになられる程のご用とは?」
「すまぬが、ここでは話せぬ。手が空き次第私の部屋に来てほしい」
「……承知いたしました」
何かを感じ取ったのだろうか父役は神妙な面持ちで応えた。
「ハク様、父役殿に内々の話とはなんでございますか?」
「時期が来れば皆にも知らせる。それまで待て。さあ、お前もそろそろ仕事に励みなさい」
「はい! 承知」
自室に下がる時も周囲を見回りながら歩くと、大体の者は私と目が合うと慌てて視線を外す。昨日までは気づかなかったが私はかなり恐れられているのか? いや、疎ましがられているのだろうか。千尋から聞いた話では酷く冷たい時があるらしい。時々意識を無くしている時があった事は事実だ。
銭婆の家からの帰り道、湯婆婆と契約を交わした直後の冷酷な私の訳を訪ねられたが正直答えに詰まっていた。
正直に記憶にないと言ったら千尋は、
「もしかしたらあの変な虫に操られてたのかも知れないね。銭婆のおばあちゃんが言ってたもの、あれは湯婆婆のおばあちゃんがハクを操る為にお腹に仕込んだモノだって」
と教えてくれた。
恐らく記憶にない時の私が彼らにあの様な表情をさせているのだろう。申し訳ない思いが溢れてきてすれ違う者達に労いの言葉をかけると皆一様に目を丸めて 頭を下げ、走り去っていた。リンは失礼にも「熱でもあんのかよ。気味悪ぃったらありゃしないぜ」と顔を引きつらせて逃げ去った程だ。
ため息を吐きつつ私は見回りを終えて自室に戻った。表に出せない裏方の仕事をしている為か従業員の中で個室を与えられているのは私一人だった。質素であ る事に代わりはないが、扉には魔法による錠が付いており、侵入者の行く手を阻んでいた。部屋の中を見回せば別段これと言った物はない。湯婆婆の使い古され た魔導書や古い文献が本棚に押し込められている。
これらも全て処分しなければ……。
実のところこれらの知識は既に記憶済みだ。ただ貰った手前と、湯婆婆の機嫌を損ねそうだったので後生大事に取っておいたのだが……。流石にそんな気遣い も必要ないだろう。私は魔法でロープを出すと床に放り、その上に本を積み重ねてゆく。頃合いを見計らってロープは自ら荷を結び、千切れる。それを繰り返す まに書棚は綺麗さっぱり片づいた。戸口には括られた本が山積みになっていたが崩れ落ちる気配はない。
一息ついたところで控えめなノックと共に、「ハク様、わたくしです。父役にございます」と名乗りがあった。
「入れ」
言葉と共に鍵は開き、「失礼いたします」と父役が姿を現した。
「わざわざ呼びつけてすまなかったな」
「いえいえ、お気になさらず……。で、どのようなお話でしょうか」
「うむ。実はそなたに帳場の仕事を任せたいと思うのだ」
「は? わたくしがですか?」
「そうだ、私はじきに湯屋を去る」
「なんと!」
「湯婆婆様には既に話は付けてある。了承済みだ。だから、そなたには何が何でも帳場の仕事を引き継いで貰わねばならぬ」
父役はごくりと唾を飲み、恐る恐る私に問う。
「ハク様、もしや契約を破棄なされたので?!」
「……」
「なんと!」
無言で頷く私に父役の顔は真っ青になった。此処に努めて長い彼のこと「契約を破棄する」事がどのような結果をもたらすのか熟知しているのだ。
「引継と言ってもそなたは帳場の仕事も所用で留守にした折りには頼んでいたから、あまり無いのだが、問題はそなたの負担が増える事だ。帳場の仕事に父役の 仕事ではあまりに負担が多かろう。そこで兄役にそなたの仕事の何割かを任せてほしい。そして兄役には一人補佐をつけてやってくれ。表だって役職を授けるこ とは湯婆婆様の手前出来ぬ事だがその方向で話を進めて貰いたい。人選はそなたの一存に任せる」
「は、はあ、それ承知いたしましたが……。ハク様、お気持ちは変わりませぬか?」
「湯婆婆様にも同じ事を聞かれたが私の決心は変わらない。……そなたには苦労を掛ける事になるだろう。すまぬ」
言って私は手をつき頭を下げた。
「お、お止め下さいませ! ハク様!」
慌てふためく父役の言葉に顔を上げると父役はホッとした様子で少し笑みを作った。
「全てご覚悟の上ならば何も申しますまい。新たなる路に出立なさるハク様の心配の種にならぬよう全力を尽くす所存です」
「ありがとう」
「で、期日は何時のご予定で?」
「決まってはいないが出来るだけ早い方が良い。人選と兄役への教育が終わり次第私は立つ。他の従業員には敢えて知らせてくれるな。その時になってからでも十分だろう」
「……承知いたしました」
「うむ、それでは仕事に戻ってくれ」
「はい、失礼いたします」
父役はペコリと会釈すると足早に退出していった。
引継の作業はもう終わったも同然だ。
途端にする事を無くしてしまい、私はただただ死刑の執行を待つ身となった。
つづく