白々と夜が明けてゆく。今日ばかりは気が高ぶっているのか眠りは訪れなかった。ただ鬱々と部屋で過ごすことも有るまいと私は竜となって夜空を翔ていた。
こうして夜空を飛ぶと千尋の事を思い出す。
私が名前を思い出した時自分のことのように喜んでくれた。
綺麗な涙をポロポロと零しながら握られた手の温かさ。
そして船着き場で離された時の喪失感。
海の干上がった大地に影を落としながら風を切り、雲を貫く。夜明けの方角へ向けて。夜明けの向こうにいる千尋に向けて。
◇ ◇ ◇ 思う存分に風を受け、私は竜身のまま船着き場に舞い降りた。既に湯屋中の物が集められているようだ。着地するや否や人身に変化すると「おおーっ!」とか「ハク様だ!」とか「あの竜はハク様だったのか」と口々に話し合っていた。
従業員を背後に従えて湯婆婆が紙を、私の契約書を握りしめて腕組みしていた。
「ふん、臆病風に吹かれて逃げたと思ってたよ」
「まさか、私の路は既に決まっております。最早それを間違えることはありません」
「ああそうかい、勝手にしな。こっちだってせいせいするよ、穀潰しが一人減ってくれるんだからね」
ふんっと大きな鉤鼻をならして湯婆婆は目を背けた。
「湯婆婆様、今まで大変お世話になりました。言葉では言い尽くせないほど感謝しています」
「はんっ! 今更おべっかなんざ聞きたくないね! さっさといっちまいな!」
頭を下げる私に湯婆婆は更に機嫌悪くそう言い捨てた。私が堪えきれず苦笑すると湯婆婆は「ほら、いっちまえ」と手で追い払う。
私は湯婆婆の背後の従業員達にも頭を下げた。
「皆にも世話になった。そして迷惑も掛けた。ありがとう、すまなかった」
「おい、ハク! 水臭ーぞ! 前もって言ってりゃ送別会ぐらいやってやったのによー!」
リンが脹れてそう叫んだ。
「それはすまなかったな。次から頼むとしよう」
「ばかやろー! 次なんかねーじゃねーかぁ!」
「ああ、そうだな」
言って私は皆の顔をぐるりと見回した。一番奥の一番高くに釜爺がいる。どうやら釜爺には全てお見通しらしい。苦り切った表情で私を見つめていた。私は深々と頭を下げ、そしてもう一度湯屋の皆を視界に納める。
「では失礼します」
踵を返し、一歩また一歩と石段を下りる。まだ、何も起こらない。背後では「頑張れよー」とか「またのお越しを〜」とか色々な声が響いている。
草原に降り立った。爽やかに風が髪をなぶってゆく。
一歩踏み出した。風が強まり足を取られそうになる。
更に一歩踏み出した。風が怒りに満ちて、雲が集まってくる。
更にもう一歩。湯婆婆の手の中で契約書が暴れ狂う。
最後にもう一歩。契約書は湯婆婆の手を離れ天高く舞い上がり、そして巨大な牙を待つ蛇に変化した。
私は立ち止まり、暗雲乱れ飛ぶ空を見上げた。 毒々しい色をした蛇だ。頭は瘤だらけで異様に大きい。三股に割れた舌を覗かせて蛇はゆらゆらと鎌首を揺らしている。
風の音に負けないような叫び声がそんなに遠くない船着き場から聞こえてくる。振り向くことは出来ないが皆恐怖に戦いている事だろう。
私は目を閉じた。
シャーッ! っと風を切る音がし、私は知らず身を固くした。
音が目前までやって来たその時、巨大な雷が蛇を直撃した。
風の轟音を払い除ける雷の轟きが耳を打つ。驚いて目を開けてみれば蛇は真っ黒に焦げてのたうち回っている。苦し紛れに振り上げた尾が私に向かった振り下ろそうとした時、
「本当にもう、手間の掛かる子ねぇ」
と優しげな声が響き、
「!」
物凄い衝撃を受けて私は船着き場の石段に叩き付けられた。途端に風は止み、雲が切れ、青空が広がった。
「な、何が」
背中を強かに打ち付けてしまい、息が止まってしまった私はしばらく咳が止まらなかった。
「お、おい! 湯婆婆様が二人いるぞ!」
「ありゃあ、銭婆だ!」
釜爺の声が聞こえた。
「ハク様! 大丈夫ですか!?」
父役が駆け寄って私を抱き起こしてくれた。礼を言いたかったが咳は収まらず、ただ細められた視界の中に銭婆の姿を見た。
ようやく落ち着いて私は父役の手を借りて立ち上がった。
草原から銭婆がゆったりとした足取りでこちらへと向かってくる。そっと湯婆婆の顔を見れば従業員以上に驚いているようだった。
「竜って本当に愚かだね。それとも愛が生き物を愚かにするのかねぇ。なんて顔してるのかしら、この妹は」
「お、お、お、お前が何だってこんなところに!」
「あなたが最愛の息子をなくさない為にさ」
「はあ?」
「上をご覧よ」
銭婆は笑みを浮かべて空を見た。
青空に黒い点。段々と降りてきたそれは湯バードで、その背からはネズミに変化した坊が手を振っている。
「坊ぉぉぉぉぉ!」
湯婆婆の前に着地した湯バードの背から降りた坊はボワンッと煙を上げて元の巨大児に戻った。
「坊、何だってあなたこんなばい菌いっぱいの外に! それよりあの性悪女に何かされなかったのかい?!」
「おや、言ってくれるねぇ。坊やが自分から会いに来てくれたんだよ」
「なんだってぇ?!」
湯婆婆は訳が分からないといった様子で坊を見た。
「坊は昨日聞いたんだ。ハクがここ出るって。ここを出て千に会いに行くって。でもハクはケイヤクがあるから死んじゃうんだ」
周りは息をのんで私を見た。
「ハクが死んだら千が悲しむ。坊言ったよね、千泣かしたらバーバのこと嫌いになるって」
「あ、あ、あ、でも坊、これはハクが言いだした事なんだよ! ハクが! 弟子を辞める時は死ぬ時だって契約した時にそう誓ったんだよ」
「坊はケイヤクなんて知らない。ハクが死んだら坊はバーバのこと嫌いになっておばあちゃんのところにいくからね」
「そ、そんなぁ〜〜」
「あっはっは、まあまあお待ちよ。坊や。……さてと、ハク。どうしてあなたはこんな短絡的な方法を採ったの」
銭婆は私を見てそう言った。その目は以前と変わらず優しさに満ちていた。
「短絡的とはどういうことですか?]
訳が分からず眉根を寄せる私に銭婆はおやおやという風に目を見開いて、そして湯婆婆を見た。
「なんだい、あなた教えてやらなかったのかい?」
「はん、自分で出ていくって言ってんだ。わざわざ面倒くさい方法を教えてやらなくてもいいじゃないか」
「ったくもう素直じゃないねぇ」
「何をお言いだい?!」
「いいかいハク」
「あんたねぇっ!」
湯婆婆を無視して銭婆は私に笑顔を向けた。
「何でしょう」
「契約を破棄せず弟子を辞める方法が有ることをあなたは知らなかったのね?」
「え? まさかその様な方法が?」
まさか湯婆婆が契約を無効にするという方法だろうか? そう問いかけると湯婆婆は、
「甘えるんじゃないよ。だぁれがそんな事してやるもんか」
と鼻を鳴らして言い捨てた。
「違う違う、そうではなくて時間は多少掛かるだろうけど契約を無効にする方法があるんだよ」
銭婆は「よくお聞きよ」と人差し指を立てる。
「それはね、あなたが魔法使いとしてこの妹を越えれば良いのよ」
「あ……」
「ふん!」
「ね? 普通自分より強大なものを弟子とは言わないわ」
物も言えない私に銭婆はウインクして、
「ね、だから竜は愚かだと言うのよ。しかもあなたはまだ若い。死ぬのはもっともっと色々な事を学んでからでも遅くはない筈よ」
「はい……」
力無く頷いて私は湯婆婆を見た。
この強大な魔女を越える? 私が?
だが不思議と不可能には思えなかった。
死んで生まれ変わるとの大差ない年月が必要なのかも知れないが、もう既に私の頭からは死の文字は消え去っていた。
知らず死神に呪縛されていたのだろうか?
くっと笑みを浮かべた私に湯婆婆が不快気に鼻を鳴らす。
「はん、なんだい、その目は。まさかこのあたしを越えられるって本気で思っているんじゃ無いだろうね青二才が」
「勿論、思っております」
「……言ってくれるじゃないか。その鼻っ柱叩き折ってやろうか?」
「望むところです」
「ふん、契約はそのままなんだ。帳場の仕事、手を抜くんじゃないよ!」
言って湯婆婆は人垣を割って湯屋へと帰っていった。
「さてと、それじゃあ、あたしも帰るとするかね」
「銭婆様」
どこからか取り出したマントを羽織った銭婆が振り向いた。
「ありがとうございました」
「何、可愛い甥っ子の頼みとあればね? ハク、さっきも言った通りあなたはまだまだ若いわ。だから、自分一人で考えて決めてしまわず周りに相談なさい。見 当外れな答えが返ってくるかも知れないけど、あなたでは思いも寄らなかった答えが返ってくるかもしれないでしょう」
「はい。肝に銘じます」
深々と頭を下げ、そしてもう一度銭婆の顔を見る。うんうんと満足そうに頷いて脇に立っていた坊をみた。
「おばあちゃん、坊、また遊びに行くね」
「ええ、いつでもおいで」
「私も伺って良いでしょうか?」
「勿論、坊やと一緒においでな」
言って銭婆はマントを着込み、鳥に変化して飛び立った。坊が見えなくなるまで手を振り、そして、
「ハク帰ろう。坊お腹すいた!!」
「はい、帰りましょう」
差し出された手を取って歩き出す。
石段を登ると従業員達が声を揃えて、
「お帰りなさいませぇ〜!」
と言ってくれた。
「次はちゃんと送別会すっからな!」
リンが言う。
「グッドラック」
釜爺が言う。
「ああ。……さあ、皆湯屋に帰ろう!」
優しい風が私を包む。
不意に千尋の声が聞こえたような気がした。
良かったね……と。
良かったね、ハク……と。
「ああ、私は幸せ者だ」
言葉は風に乗って飛んでゆく。
千尋の元へ届くことを祈って……。
おわり