それから瞬く間に一月が経った。人選自体は滞り無く決まったのだが、推挙された蛙男が「自分にそんな器はない」だとか「今の仕事のままで十分だ」と
か……、難癖付けて断り続ける。大方の時間はその者の説得に費やされた。まあ、結局の所その者は了承してくれたのだが、そこからはトントン拍子に引継は進
んでゆく。やはり人選に間違いは無かったのだ。
そして勿論、私とて無為に過ごしていた訳では無い。帳場の仕事や引継は父役に任せているので専ら見回りが多かったが、お半下に紛れて掃除などもやったりした。だが、私の手際が余り良く無かったのか、次からは丁重に断られてしまった。
ちまちまと日が経つ内に、湯屋にある噂が飛び交い始めた。
────ハクは近い内に湯屋を出る。
口止めをした以上、父役が漏らしたとは思えなかた。
……どうやら私の行動が招いた噂らしかった。それほど私の行動は皆の目に奇異なものとして映ったのだろうか。父役に尋ねてみたが曖昧な相づちを返すばかりだった。だが明確に否と答えなかったところ見ると私の思ったとおりなのだろう。
それはともかくその噂が出てからは皆が探るような目で私を見る。その度に「仕事に戻れ!」と強い調子で諫めて回ることが多くなった。でも、噂はどんどん 膨らむばかり。押さえつけても意味が無いようなので終いには放っておくようになった。……事実なのだから。
そうしてひそひそ話と探るような視線の中、更に幾日か経った日の夜。父役が重々しい顔で部屋を訪れ、引継作業が終了したと告げた。
「そうか、ご苦労だった」
「……いえ。湯婆婆様には何時お話で?」
「まだ起きていらっしゃるだろう。今から伺って参る」
「そう、ですか」
「うむ。……これが最後かもしれないな」
父役が息をのむ声聞こえた。
「黙って聞いてくれ」
先に制して置いて話を続ける。
「私が死んだ後、恐らく皆、湯婆婆に恐れを抱くだろう。湯婆婆自身見せしめと言っていた。当然この事を持ち出しては従業員たちの統制を今以上に厳しくしよ うとするだろう。だが、これだけは皆に伝えて欲しい。理不尽な理由で私は死ぬのではない。己で誓った契約を破棄するが故だ。だからこそ今まで通り普通にし ていれば湯婆婆は何の手出しも出来ない。よいか? 何も、だ」
「はい……」
「皆にはそれをしっかりと伝えて欲しい」
「はい」
「話は以上だ。下がってよい」
「はい」
言うべき言葉が見つからなかったのか父役は深々と頭を下げると俯いたまま退出した。
その後、湯婆婆の元に行ったわけだが、以外にも憮然とした表情で湯婆婆は「判った」と言い、「明日、船着き場にみんなを集めな。判ったらさっさとお下がり!」とけんもほろろに一喝を下した。
船着き場という言葉を意外に思いながら私は最上階を後にした。湯婆婆は私の首を切ると行っていた。なのに指定した死に場所は船着き場だった。
八百万の霊々が着く場を血で汚すはずがない。
ならば私の処刑方法は契約違反による呪殺なのだろう。我々湯婆婆と契約したものはあの船着き場の向こうには行けない。行けば取り交わした契約が牙となって我らを食い破る。
とんだ見送りだ……。
皆の見ている前で私は肉塊と成り果てるのであろう。皆の重しにならなければ良いと心底思う。だが、最早決めた事だ。私は絡み付く念を振り切って自室に戻った。
その夜遅く、一つの影が湯屋から飛び立ったが、夜が明けても帰ることは無かった。
つづく